No.357067

Quintetto!~後編

羆本舗 さん

結構あとの時代の崩壊しかけたドーム都市ロスベガスを舞台にした物語の実は序章。SFとスペースオペラの間くらい。
【Attention!】
温いながら暴力、殺人描写あり。要注意!

2012-01-02 22:01:48 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:378   閲覧ユーザー数:376

 紫煙がゆらゆらと天井に漂っては消えていく。一応。空気が白っぽいのは気のせいという事にしておこう。

 部屋には不釣合いなランクの、元は高そうだった大きなベッドに寝転がって天井を見詰める。

 古臭い光景だ。聞いた話では昔は、建築当時はここも立派なものだったらしい。それなりのランクのホテルで、一番最初、つまり緑の先代はそれを丸ごと買い取って改造したとか。つまり、今では高層ホテル一件を丸ごとお手軽に買えるくらい安くなってしまったという話になる。もしくは緑の関係者がとんでもない金持ちなのか。

 どちらにせよ、今ではこの辺りで商売をやる奴もほとんどいなくなって、七五階建てのホテルもただの「ちょっと変わったところに立つ、やたら背の高い、住む場所と仕事に不自由している人を収容するシェルター」。眺めが抜群に素晴らしい、常態的に人間が暮らせる「おうち」で本気のかくれんぼが出来る奴なんてそうそういるまい。こんなところは気前のいいボランティア様に感謝せねばなるまい。

 玲が勝手に自室に使わせてもらっているのは十階部分の二部屋。この辺りがエレベータを使わずに脚で、日常的に昇降できる限界だ。ここをお言葉に甘えて占拠させて頂き、沢山はない荷物を持ち込んで住み着いている。エレベーターに慣れると生きていけなくなりそうなので、個人的に滅多に使わない。他の奴が使うのは自由だが。

 今ではどこぞのオカマはわざわざ訪ねて来ては「ごみ溜め」「煙草臭い」なぞと失敬な事を言うが、ここは少々古めかしくって、少々の煙草の灰が床に落ちているだけで、他に後付けで持ち込んだのはフィットネス器具くらい。何せ《首輪》付きでそういったところに行くと追い出されてしまう。仮に作動しても他人は巻き込まない、この頭と首がなくなるだけで済むのに。全く失敬な話だ。

 半分ばかり喫った煙草を、ここでの灰皿に使う陶器の器に突っ込む。今日辺り捨てた方がいいかもしれない。二十リットルは入る花瓶だが限界はあるだろう。躰を起こし、髪を結ぶ。こいつは癖が宜しくないので始末してやらないと非常にだらしなく見えてしまう。まあ始末しても実はたかが知れているのだが。もう臭いも染みついているし。

 健康病と言われても今更困るが躰は動かさないと怠ける生活に慣れ、いざという時に機敏に動けない。それにバイオアーマーは動かない状態だと劣化する。だから四時に起床するとまず水分とビタミンの補給、それに加えて朝の一服。然る後に隣の部屋で二時間近く汗を流し、シャワーを使ってから一日がはじまる。

 部屋に見合って小さい冷蔵庫にはミネラルウォーターが半ダース。それにビタミンの錠剤が少々。薬剤は本当は冷蔵庫に入れてはいけないそうだが、その辺に置き忘れるよりいいのでそうしている。それに「ここにある」と決まれば、結局は緑が足りなくなったら補充してくれる。あれで気の付くオカマだ。いい奴とは思わないが。

 日課の「運動」を終え、別の巨大な冷蔵庫を開ける。

 こちらの中身はコンビーフが山盛りと全粒粉クラッカー、アミノ酸の錠剤。これが玲の基本的な「食事」。

 このバイオアーマーというやつは厄介で、維持には結構なカロリーを必要としてくれる。造りもののくせに蛋白質だから判らない訳ではないが、新陳代謝速度が尋常ではないので文字通り「座っているだけで腹が減る」。だが人間の胃袋には限界というものがあるので、量を増やせないなら必然的に「熱量の質」を上げるしかない。本当はもっと高カロリーを摂取しても問題はないのだがこれが限界だ。色々な意味で。

 だから今日も蓋部分を捻り切り、茶色い塊をそのまま齧って食う。最初は腹を壊したが今では脂の味に慣れてしまった。腹も下さなくなった。人間とは「慣れ」の生き物だとつくづく痛感する。

 簡単に食い終え、ついでにクラッカーも幾らか齧り、ゴミををゴミ箱に放り入れて背伸びする。

 今日はネモに顔を見せねばなるまい。片付けが終わらない間は泊まっていたからあの娘(たぶん。まだ少々自信がない)はそれなりに元気に見えたが、ここに戻ってそれなりの「仕事」をして顔を見せない日々、ネモはかなり精神の状態が宜しくないらしい。

 緑に言わせれば玲はネモの「救世主」で、彼女の精神衛生は玲の存在に依存する部分があるらしい。

 意味不明だ。確かにネモは玲が拾ったが、それは単にチンピラがちょっかいを出していたところを助けた程度に過ぎない。それでなぜ「依存」するほどに懐かれるのか、判らない。

 だが。

「めんどくせー……」

 呟きに悪意は少々。

 悪意? いや違う。それほど「強い」ものではない。

 だが「いい」感情ではない。旨く表現できないが。

 だからもう一度呟き、煙草をくわえる。何となく点火せず、窓から見える風景をぼんやり見詰める。

 今日も空は青い。生き物を焼き殺す光に焼かれた空気は皮肉にも汚染を乗り越え、透明だ。

「めんどくせー……」

 呟きに他意はない。きっと。

 建物を出る。ここから緑の店まで歩いて二〇分ばかりで、まだ暑くなる時間じゃないから散歩と思えば快適だ。上着の前を開け、《首輪》が見えてしまうのは自分の罪ではない、と開き直って思える様になるまで一年はかかった。首回りの「重さ」にはすぐ慣れたのに、こんなところは慣れないなんて厄介だ。その差はどこにあるのやら。

「姐さん、姐さん」

 横合いからきいきい声をかけられた。知っているのでそちらを振り向く。

「お前らがこっちに来るなんて珍しいな」

 物陰で手招きする男は黄色い歯を剥き出して「にやっ」と笑った。

 名前は知らない。知っているのはスライムイーターの手下で、王風の連中とも繋がりがあるという程度……小男は体躯に相応しい貧相な、恐らくは笑顔を見せた。

「おはようございます。お早いですねぇ。うっかり会えないとこでしたや」

「まあ普通の人間ならこれから起きてもおかしくないくらいだからな。どうした、何の用だ」

「ウチの旦那からの伝言でさ。『こないだの連中の仲間が街に来た』そうで」

「へー。だから注意しろと?」

「いえいえ。始末した時は是非ウチを通してくれるとありがたい、とお伝えしろと」

「王風に持っていかせようとは思ってるが」

「ええ、是非ウチを通して下さいや。悪くはしませんさね」

 揉み手気味に、けひひ、と笑われた。ネズミの鳴き声みたいだ、と思う声だ。

「判った。覚えておく」

「是非お願いしやすぜ」

 頭を下げ、行ってしまう。人通りがまだ少ない時間なのだから普通に道を歩けばいいのに、あいつらはどうして建物の陰を意図的に選んで行くのだろう。もしくは明るくない時間を選んで行動する節があるし、では噂通り、連中は実は吸血鬼か悪魔のたぐいなので日光に弱いのだろか。と、いう事は連中は実は風変わりなサイオニクスか、もしくはバイオの力で造り出された新種の植物兵器のなれの果てで……と無意味な事をぐだぐだ考えながら歩く。思考は時に有益な暇潰しを誘導してくれるものだ。

 ぐだぐだ思考と共にもうしばらく歩行し、店に着いた。ようやく片付けと修理が終わった店の構えは相変わらず古く、入り口だけは綺麗になったのが皮肉だ。『古い革袋に新しいワインを入れる奴はいない』とは何の喩えだったろう、と玲は的外れに考えながら手をかける。ドアは簡単に開いた。

「よう。おはようさん」

 街はそろそろ活動を開始する時間だろう。起き出す者、動き出す者、早くに出勤する者、帰ってくる者……その全てに当て嵌まらぬ玲はいつものドアを押し開く。昨日、業者が交換していったので不自然なてかりはない。いい事だ。

 店主が働き者なので鍵が開けられるのは、こういった類の店にしては箆棒に早いと思う。玲はくわえ煙草を捨て、踏み殺しながら「おはようさん」と言った。例の寒々しいガラスの音が頭上を通る。

「よっす。コーヒー飲ませて」

「その前に『おはようございます』は?」

 緑の第一声は不機嫌気味だ。珍しい。

「言っただろーが。また言えと?」

「『おはようさん』は挨拶じゃないわよ。きちんと言いなさい、子供の前よ」

 ほら、と緑の指(不気味な事に爪はスクウェアカットで、色も鮮やかなショッキングブルー)が横手を指し示す。

 アリスが「おはよう!」と元気に挨拶する。

 ネモは少し大きい会釈くらいに頭を下げる。

 玲は「あー」と言い、頭をがりっと掻いた。

「おはよーございます。相変わらずお前らも早いな」

「いっつもこんくらいには起きてるよ? レイが知らなかっただけ」

 アリスのこんな笑顔はチェシャー猫に見える時がある。笑っているのか、怒っているのか、よく判らない「笑顔」。まるで怪物の様な感じの。

 実際、この娘だって十分怪物だ。ただ本人が「ひとであろうとすること」を選んだ程度で。

「……そうか。ネモも付き合わされて大変だな」

「慣れれば、平気」

 笑みは非常に薄い。そういえばこの娘は感情表現というものは苦手なのかもしれない。何というか、こう会話の成立が難しい気がする。

「そうか。ところで、コーヒーくれ」

「まだ豆、挽いてないからインスタントだよー」

 ほら、とアリスの手が袋を振る。振れるなら口を切っていないだろう。ブルーマウンテン、たぶん質のいいやつ。旨そうだ。

「インスタントでいい。客じゃないしな」

「え、またツケの予定だったの?」

 返される一言は「また」の部分も強烈で、玲はつい笑って答えてしまう。

「とんでもない、ツケだってゴメンだ。金ないし」

「うっわ最低」

 アリスは慣れた手つきで薬缶を、今時では骨董品も同然というコンロにかける。緑に言わせれば「IHヒーターで暖めた水なんて湯じゃないの。火で沸かすお湯こそが正しいお湯なのよ」だそうだ。そのこだわりの原点は謎だが。

 硬いスイッチを入れ、適温になれば薬缶が騒々しく騒ぎ立てる。それはそれで便利なものだ。やかましいが。玲は勝手にバーチェアを引いて腰掛け、手元に灰皿が出現する。

「さんきゅ。気を使ってもらって悪いな」

「床に灰を落とされるよりマシよ。マナーのなっていない喫煙者なんてホント、サイッテー」

 緑は今日は妙に怒っている。普段はもう少し穏やかなのだが何かあったのだろうか。これが女ならバイオリズムがどうこうと思い当たる節がなくもないのだが。

「すんませんね。何せ育ちが悪いもんで」

 いや、もしかしたらこいつは実は内臓くらいは女かも……考え至り、気味が悪くなったのでやめた。そんな、性別的に自分と近似値な内臓があるなんて、考えるだけで気持ち悪すぎる。近くに積まれただけの新聞を取った。

「火を点けながら言わない! くわえ煙草のまんまで水を飲まないで、器用すぎて恐いわ! 新聞はもっと丁寧に広げなさい、灰が飛び散るでしょう!」

「今日はまた一段とうっせーな」とは心の中でのみ呟き、口先だけで謝罪しつつ記事を読む。

 いつも通りの新聞だ。この星の政治の記事、別の星の社会の記事、シティだけの記事、それから……いつも通りの新聞に眼を通し、一箇所で止まってしまった。

「おい緑、ちょい」

 招き、新しく喫おうとした一本で指し示す。

 招かれた緑は仕込みを中断させられて不愉快そうだったが、「そこ」を見てああ、と言った。

「アンタも判った?」

「判らいでか」

 席を立つ。

「レイさん、おトイレですか?」

 ネモの一言につい笑ってしまった。

「うん。連れションしてくら」

「ちょっと女同士のオハナシしてくるから~」

「誰が女だ、カマのぶんざ、いてっ!」

 鈍い音を立てたのは私じゃありません、とでも言う風に緑が「おほほ」と、口元に手まで当てて笑う。アリスの眼が丸くなるのは彼女の罪ではないだろう。きっと。

「レイさん、痛くない?」

「いってーよ! 畜生、足りない脳細胞が更に減ったらどうしてくれる」

 玲は頭のてっぺんを撫でつつぶつくさ文句を言いながら、緑は妙に軽快に向こうに行く。

 ネモは不安げな表情で見送ってしまった。

 

 頭を撫でつつドアを開け、玲は毒づく。

「まったく。お前の言動は子供に悪影響だ」

「ヘビースモーカーの存在は身体的に悪影響ね」

「違う。あたしはチェーンスモーカーだ。煙が切れると心の平穏が保てない」

「開き直らない!」

 今度は後ろ頭をはたかれ、玲は「いてっ」と言った。

 本当、痛い。これはよくない感じだ。幾ら衝撃は通すアーマーとはいえ本来はここまでの痛みは感じないはずだ。

 二人は倉庫代わりの部屋に入る。窓を潰したから空調は入っていても空気が幾らか重く、ライトはあっても薄暗い。緑は焼印の押された木箱に腰を降ろし、玲は色の変わったポスターを貼りっぱなしの壁によりかかる。

「で、マースのお偉いさんが『矯正施設』の視察か。マース本星にはもっと立派な施設があるってのに、なんでレベルの劣るアースなんかの視察に来るんだか。ましてや、その程度なら普通は写真を入れる様な記事にはしない。せいぜい数行だろう。それが今回は写真入りで、やたらスペースを割いてご紹介、何かのデモンストレーションのつもりか?」

「アンタらがこないだ始末したマルティリアン連中ね」

 こんな時、緑はなぜか訛る言い方をする。もともとマース人(マーティリアン)が嫌いなのかもしれない。火星人のくせに、なんて普通に言うし。

 という事は、実は玲も嫌われているのだろうか。マース出身だし。なるほど、ならば風当たりが冷たい理由が一つ判る。

「あのマルティリアンども、冗談でなく軍の連中だったの。で、ネモを奪いに入国してたわ。間違いない。

 ところが連中はアンタらに始末され、ネモはここで普通に暮らしている。面白くないでしょうね。だから大仰に出て奪おうとしてる。シティ警察にも要請が来てたわ。マルティリアン殺害犯人を探して引き渡せ、って。そっちはレディがやってくれたけど、軍までは無理」

「バレてるのか?」

「誰かが売ったみたいね」

「くそ、地獄に堕ちろ! 自力で何とかしろってか?」

「視察は明日一杯よ。それを凌げばあとはレディが何とか出来る。だから明日まで何とかしてほしいの。出来ればここで隠れていてほしいんだけど」

「ネモの近くはやめとく。何かあったら可哀想だ……つか明日は出頭日なんだよ。行かなきゃその時点で」

「そうなのよねー。それが問題なのよねー」

 はふ、と緑は嘆息する。

 ある程度の自由があるとはいえ玲は死刑未決囚だ。週に一度、管理局に出頭してナビ記録と《首輪》のログを整合させねばならない。それをせねばその時点で爆破される。なんという飴と鞭か。

「アンタは出頭何時まで?」

「午前中。とりあえず十一時までに建物に入ればいい」

「朝八時に開くんでしょ? イチで入って中で時間潰せる?」

「無理。終わればすぐ出される。まあ何とか、他人に迷惑をかけない様に逃げ切るよ」

「イザとなったらどこかに隠れなさいよ」

「そうする」

 話も潮とポケットに手を突っ込む。

 緑はやめろ、と言った。

「アンタ、冗談でなく依存症外来に行った方がいいわよ。アンタのその煙草の喫いっぷりは本当におかしいわ。身体依存じゃなく精神依存だと思うけど、身体に移行する前なら治るわよ。状況によっては喫わなくっても耐えられるんでしょ?」

 玲は答えず、新しい一本を口に運ぼうとした。緑の手に奪われて出来なかったが。

「アタシ真剣に訊いてるのよ。答えなさい!」

「……どっちでもいーじゃん」

 緑の手は今度は箱を奪った。握り潰し、更に床に落として踏み躙る。

「もったいない事すんなよ。あたしには結構な出費なんだ」

「喫わなきゃいいだけの話よ。躰より先に心を壊したいの?」

「……そうだよ」

 玲は眼鏡を外す。度のない眼鏡は「かけている」だけで何の意味もない。

「こいつは形見だ。あいつはあたしの動きが悪かったばっかりに殺すしか考えられなくなっちまった。ムィムーもシーヤも、あたしがもっと早く動いていれば死なせずに済んだはずだ。生き残った奴らも軍を追い出された……隊を、部下を守れなかったのはあたしの責任だ。あたしは……隊長として役立たずだった」

「だからって償いはしたでしょ! 死刑判決を食らってまだ足りないっての? 軍事法廷で死刑だって、世間は十分アンタらに同情的だったじゃない。一般裁判に持ち込めば無罪とは行かなくっても」

「面倒になったんだよ」

 潰された箱を拾う。

 青い箱は見事にぺしゃんこで、まともに残ったものは一本もない。玲は改めて投棄した。

「面倒なんだよ。死にたくないのは事実だ、けどそこまで争ってまで生きたくない。あたしは……部下も守れなかったし、恋人もこの手で殺した。あたしは人間の屑で十分だ」

 そういう事だよ、と言って薄く笑う。

 緑は深々と嘆息する。

 そう、紫煙は「結界」だ。これで嫌いな奴は近付かない。好きな奴も、のべつ幕なしに吹かす奴には呆れて離れていく。残るのは緑の様な「物好きなお節介」や、更に物好きなごく一部の奴だけ。

 それも面倒だ。もう誰とも関わり合いにならず、いっそひっそりと死を待っていたかったのだが。

 だが、今ではこんなに「死にたくない」と思っている。面倒で、しかも厄介だ。玲は苦い唾を飲み込んだ。

「あの子たちに迷惑が及ばん様にはする。それで……勘弁しろ」

 玲は静かに言い、床に腰を落とす。

 ひんやりする堅い床が心地いい、と思えた。

「うん……まあこっちは何とかする。だからマリアはネモを頼む。アリスはいざとなれば何とか出来るだろうけど一応学校も休ませてやって。カマは……気が向いたら、でいい。ネモの事、頼むよ」

 判った、と言って電話は切れた。玲はポケットに押し込む。

 昨日一日は何もなかった。多少の気配は感じたが、それだけだった。

 玲も、同じ立場なら今日を狙う。帰る直前、シャトルの搭乗手続き終了間際にステーションに入るのが一番楽だ。もし下手を打って官憲に追われても搭乗手続きを終えてしまえばいい。そしてテラ圏を抜ければホームの法が守るだろう。

 ならば、あとは隙を作らずに逃げ切るしかない。何せこちらは法に守ってもらえない立場だ。助けて下さい、とポリスに駆け込んだところで断られ、追い出されるのがおちだ。殺された後で犯人が捕まっても何に意味もない。

 The Dayは雨だった。とは言ってもドームに遮られるから直接関係はないのだが。ただいつもより陽光が届かず、どんより暗い街にライトが点灯する程度。

 本当に雨の風景を楽しみたい物好きは街で一番高いランドタワービルの展望台に行くか、もしくは入国管理局のターミナルで働けばいい。展望台の一番上ならドームの上に突き出ているから雨が特殊ガラスを叩くところを見られるし、ターミナルならドーム内でも吹きっ晒しで雨に打たれる事も出来る。この時期特有の、砂っぽい雨に打たれて泥だらけになりたい奴も滅多いないだろうが。

 この辺りは昔はひどい乾燥地帯で、大袈裟に言えば断崖絶壁の中に砂漠寸前の光景が延々と続き、その中に切り取られる様に無理やり街があった。人を集める為に各種の賭け事と、それにおまけの遊興が揃っていた。

 今では切り取られた街は世界最初の都市ドームに覆われ、古ぼけ、大した連中も残っていない。せいぜいが玲の様な……また胡乱な視線を感じたが殊更無視してビルに入る。

 法務管理局のビルはさほど大きくないが常に清潔だ。いつでも空調で温度と湿度が一定に保たれているし、ここで「清掃奉仕」専門に働かされる囚人もいる。本当に年季の入った奴は刑期が追えた後もここに残り、「後輩」の更正と指導に命をかけているらしい。そいつは確か七二歳、なんという物好きか。

 玲は係官がしゃくる顎に命じられ、いつもと同じくタッチパネルディスプレイに利き手を押し当てる。

 バイオアーマーの識別パターンを読まれる。本人確認完了、ただちに両手の手首に「手錠」がかけられ軽いパルスが流される。これでバイオアーマーが一時的に無効化され、玲はただでかいだけの女になる。一応。

 続いて別の係官が現れ、指定の椅子に座らされ、《首輪》のコネクト口に端子を突っ込まれる。

 リーダー側から低く小さい、ジージーという音が聞こえる。内臓GPSの記録から何からを一切合切読み取られる。いつ、どこに行って、どのくらいの時間そこに留まっているか。それから……だいたい三十分は拘束される。

 この情報は大義名分としては管理局に管理され、外部には出されない。だがそれは「あくまで」程度の話だ。必要性があれば外部「団体」に渡され、分析されるだろう。

 警察にマーティリアン関係で通報があったのなら必然的に管理局にも確認は入るだろう。ここで管理される犯罪者は玲が知る範囲で三十一人はいる。いや、ラットイーターが一人減ったと言っていた。「新入り」は確認していないから暫定的に三十人か。その中で玲と非常によく似た行動を取る者がいれば別だが、いなければ早晩知られるだろう。こればかりはレディに何とかしてもらわねばなるまい。

「今日はおとなしいですね」

 若い役人が大儀そうに声をかける。

「……そういう時は『物静か』とでも言え」

「なんで、よりによって貴女なんかに気を遣わなきゃいけないんですか?」

「なんか」と言われ、むっと来たのでからかってみた。

「礼儀のない奴は女に嫌われるぞ。そんなんだから恋人にアイスティぶっかけられて逃げられるんだ」

 役人は頬を真っ赤にし、怒り肩気味に向こうを向いた。冗談のつもりだったのだが図星らしい。嫌な偶然だ。だから慰めようか、とちょっと考えた。

「まぁ気にすんな。この世の中、女は他に幾らもいる。何なら男に走ったらどうだ? 新しい世界が広がると思うぞ」

 今度は睨んできた。男のくせに気難しい奴だ。

 まあこれ以上何かを言ったら、自由に身動きが出来ない間に一度や二度は殴られそうだ。面倒だが謝罪しておいた。

 ただ殴られるくらいならわりとどうでもいいが、バイオアーマーが死んでいる時に下手に殴られれば玲だって普通に怪我をする。普通の怪我よりは軽いだろうが、大きいナイフで刺されればさすがに刺さるし、銃で撃たれれば威力と場所によってはあの世行きだ。「あの世」とやらが本当にあるかどうかは知らないが。行った事もないし。

 ああくそ、退屈だから思考が空回りする。さすがに一服したい。ここを出たら一箱買おう。だが近くに販売機はない。あるにはあるのだが旧式ではないからカードが要る。生憎と玲は持っていない。

 そういえば喉も渇いた気がする。この後に何もなければ冷えたハイネケンの一本も欲しいのだが。

 ところで、この椅子の座り心地はすこぶる悪い。いつもの事だが尻の座りが実に悪い。受刑者の財産を一定割合で没収しているのだから少しは還元してはどうだ。玲は保険の残金を払った以外は全て没収されたというのに。

 没収といえば、ハーモニカとウィスキーのミニボトルのコレクションはどうなっただろう。売り払われたのだろうか。急に気になってきた。

 ハーモニカはほとんどは廉価品でも一個だけ、本物のアンティークの綺麗なやつがあったのだが。ラデンを施したマキエという謎の技術で美しく飾られたあれは最初のボーナスをはたいて、足りなかったから借金してまで競り落としたのに。ちゃんと音の出る本当の本物だったのに。

 ミニボトルは中身だって飲める本物なのに。ガイアクエイク以前の製造の、中身はさすがに飲めないだろうが芸術的なプロポーションが美しい骨董品も二本あったのに。もったいない。飲めるやつは飲んでおけばよかった。

 そうだ、隊舎に棲み付いていた老犬のケインは食堂係のボブが餌をやってくれているはずだが、まだ元気だろうか。あいつはカーム社のスパムを薄く切って、ちょっと粉をはたいてカリカリに焼いたやつが大好きだった。ここに送られる時にはもう十三歳だったから、もしかしたら死んだかもしれない。そうだったら花くらい出してやりたいが、無理だ。連絡も取れない。

「……くそ」

 軍にいた頃の事しか思い出せないのが腹立たしい。

 かといって、施設にいた頃の事なんて思い出したくもない。

 金勘定と世間体だけが大好きな、厭らしく笑う太っちょ寮長。寮長におべっかばかり使って、収容された子供たちが何かトラブルを起こしても知らん顔の「先生」たち。補助金を横領したの、虐待してるのだのと無責任な噂を立てるだけ立て、行政から施設閉鎖の話が出た途端に逃げ出したボランティアの「やさしいおじさん・おばさん」たち。

 糞食らえ。まだ生きているなら死んでしまうがいい。いや、この手で縊り殺してやろう。

 あの施設時代よりは、政府の「おうち」の方がまだましだった。頭のいい奴はちゃんと上の学校にも行かせてもらえたし、頭の悪い玲は軍に入るくらいしか道はなかったけれど。それでも少なくとも「先生たち」は公平だったし、色々な規律は徹底されたし、何より三食きちんと食べられた。何人か一緒でも部屋を与えられ、個人のベッドもあった。

 軍だって外から言われるほど悪いところじゃなかった。

 確かに訓練では何度も死にそうになった。負う怪我も結構ひどかった。けれどちゃんと食事があって、自分だけのベッドとハンガーが幾つかあって、ただで資格も結構取れた。軍曹に昇進したらシャワーとクローゼット付きの個室ももらえたし、自分だって人の上に立てる立場になれた。

 恋人だって出来た。恋なんてはじめてだった。

「地獄に堕ちろ、クソ野郎どもが!」

 誰かが怒鳴るのが聞こえた。

 玲だった。しかも眼鏡が熱く濡れていた。みっともない、昔を思い出して涙するなんて!

「……カン受刑囚?」

 役人が恐る恐る覗き込む。放っておいて欲しいが、無理だろう。

「……悪かった」

 短く言い、眼鏡と顔を拭う。本当にみっともない。自分はこんなに女々しいなんて。

 自分なんて死んでしまえ、とこんな時にはよく思う。

 死にたくないのに、死にたくなる。何という矛盾。玲は見苦しい自分に絶望しつつ、俯いたままに座っている。

 空気の湿り気が何となく判る。それに上の風景が暗い。ライトが点いてもどんよりと風景が濁り、どうやら外は豪雨だ。

 いや、いなびかりが青白く見えた。雷雨だ。鋭い輝きが見えた。間隔は広そうだが。

「ちっ、嫌な感じだ」

 首元の息苦しさがあるから閉めたくないが仕方がない、ジャケットの前を併せる。久し振りに上げたジッパーが幾らか軋み、空気は温いのに湿気が多いなんて最悪だ。濡れないだけましだが。

 前を閉めると首が苦しい気がする。《首輪》のサイズは余裕があるから締められている訳ではない、だが不快だ。慣れたはずなのに、こんな事があると重さを思い出してしまう。糞食らえだ。玲は文句を奥歯で噛み殺しながらストリートを南に下りる。

 背後が気持ち悪い。へばりつく気がする。思わず喉元、《首輪》に触れてしまう。

 冷たい。聞こえないはずの「音」が聞こえる気がしてしまう。刻一刻と近付く「処刑」、この頭が吹き飛ばされるその瞬間を報せる「音」が。そんな事はないのだが。

 今回のログ照合も問題はなかった。ならばそれでいいじゃないか。

 そのはずなのに。玲は口に溜まった唾を吐き出し、歩く。

 空気が重く、そして湿って冷たい。

 

 過去「ザ・クラウド」と呼ばれていた巨大天蓋通りは今もそれなりの店が並ぶ。

 ただ、昔の様な大々的にイベントホールを兼ねる世界屈指の無料アミューズ施設ではない。単なる「屋根のかかった、大きい店が沢山並ぶ、観光客より地元民の利用が多いくらいの大通り」に過ぎない。その辺で小さな子が道路に落書きをしたり、その子供が邪魔な大人が怒鳴り散らしていたりもする。たまたま訪れる、決して多くない観光客は往時のテラの盛況に思いを馳せているのか、別の理由があるのか、古ぼけた看板の前で散発的に写真撮影をするくらい。

 足取りは問題ない。分厚い紙を踏む様な違和感はもうない。足音もちゃんと聞こえる。玲はファッション関係の店のショーウィンドウを覗き、グローブを外して冷たいガラスに触れる。

 ガラスを「冷たい」と認識できる。微細な、眼に見えない程度の凹凸は判らないが歪みは感じられる。

 ガラスの下の桟にも触れてみる。掃除が雑なのか砂粒がある。珪素かもしれない、やや透明だ。あとは干乾びた蚊の屍体と、少しの繊維っぽい何か。触れると「それ」と判る。

 オーケー。バイオアーマーの機能は回復している、身体機能に問題はない。ガラスの風景を見ながらグローブを戻す。

 ナントカ言うこのブランドは暗色が多いので、旨く「使う」と背後の風景が丁度よく見える。玲はサングラスはかけないので視線を悟られやすい。

 本当は透かしガラスに少しの色があるほうが便利なのは判っている。だがこれは眼鏡であってサングラスではない。

 あくまで「この眼鏡」である事に意味と価値がある。もう捨てたはずだが、その一点は譲れないときた。皮肉なものだ。

(さて、どうするかな)

 背中がざわつくと思ったら案の定だ、斜め背後で玲を伺う奴がいる。女の二人組。服装のセンスが若いのと、少々歳を食ったらしいの。本当のところは判らないが。

 素人を装いたいなら肩の動きを抑える訓練をするべきだ。それとも意図的に抑えないだけか。どちらにしても怪しい事この上ない微細な動きが気持ち悪い。腹の底がむかむかするが電話を取り出す。決まったボタンを決まった回数押し、二度のコールで出た。暇な様だ。

「よう。何してた?」

『アリスの宿題の手伝い。微分積分なんて忘れちゃったわよ』

 飽き飽きしました、と大声で叫ぶ様な声だ。緑は本当に飽きているらしい。ご愁傷様。

「あたしはそんなもん元から覚えてないな。座学は壊滅してた……誰が来てるか、判ったか?」

『《泥》ですって』

 玲は「げー」と舌を吐いた。

『何よ、知り合い?』

「じゃ、ないけど有名だ、ある意味。やりにくい連中だ」

『それはご愁傷様。教会の手配は要る?』

「要らねーよ! 判ったよ、判った。何とかする」

『頼むわよー。アンタの葬式出すなんてイヤだからね』

 嘘こけ、と言って電話を切り、深々と嘆息する。

 よりによってそいつらか、と反吐が出そうだ。

 こう言ったら何だが、向こうが真正面から殴ってくるタイプなら対処は簡単だ。殴り返し、然る後、ポリスが来る前に逃げる。ログの照合の時に何か言われたら、売られた喧嘩ならしらばっくれればいい。後ろ暗い事がなければ開き直ればいい。

 だが《泥》にそれは効かない。

 聞いた記憶はあるが《泥》の制式隊名は忘れた。覚えているのは、連中は「諜報部隊」とは名ばかりの集団だという事。メンバーは女ばかりで、ころころ顔が変わる事。搦め手が得意で、真正面から襲ってくる事はほとんどない事。

 それはそうだ。連中の敵地潜入はイコール男と寝る程度だ。諜報の中でも一番の下っ端。躰で情報を掴み、その為に顔と躰をさんざいじくられて、産みの親が見ても判らない連中ばかりと聞く。いや、そも親がいるのか、さえが怪しい。

 玲と同じ親無しかもしれない。ただ顔がちょっと綺麗だったから、身体つきが厭らしかったから、とか。なんという下種の勘繰りだ。玲は自分の頭を軽く叩いておく。ここだけは反省しよう。

(それにしても面倒くせーな。《泥》はあんまし自分の手は汚さんからなー)

 面倒だ。どう逃げればいいか考えつかない。というか、どこに逃げ込めばいいのか見当がつかない。

 カマの店は駄目だ。カマはどうでもいいとして、アリスもいざとなれば自分で解決できるとして、マリアがついているとはいえネモに恐かったり危なかったりする思いをさせたくない。

 塒も駄目だ。全てが玲の様な荒事に慣れた連中じゃない。あそこにはジャックみたいな、躰を壊した挙句に酒に溺れた半病人もいる。そんな奴に変なものを見せたらショック死でもしそうだ。自分のせいでこれ以上誰かが死んだら、そんなの想像するだけで胸糞が悪くなる。

 では? 街には人もいる。街外れにはスライムイーターの一群がいる。

(あー、めんどくせえ!)

 溜息が漏れる。煙草が喫いたい。頭をしゃんとさせなければ……考えを整理してみよう。

 連中が自分を始末しようとする動機は何だ。意趣返し? 見せしめ? それで出方と対応は変わる気がする。

 ただ始末したいなら「静かに」来るだろう。自然死と見られる、衆人に何ら違和感を抱かせない静寂なる死。使う手段と道具は厳選され、それは暗殺の基本だ。

 見せしめなら出来るだけ派手に来る。手段は問わない。もちろん巻き添えを食う者も出るだろう。

 テラと、マースはじめとする外部植民星の政治的力関係は厄介で面倒だ。

 全般的に見て政治力はマースが明らかに上だ。だがテラは人類発祥の地であり、形骸化しているとはいえ宗教的求心力が大きな土地だ。最近ではテラそのものを御神体と仰ぐ珍狂な連中も発生している。

 だが、これはあくまで表面の話だ。裏に回ればマースは新興ながら力のある一流国。テラは結局、プライドは高いものの結局は他の星にぶら下がる貧乏な田舎の僻地。いわば寄生虫。威圧して植民星を従わせたところで腹の中では舌を出され、嘲笑される。祝儀満面の万歳の掌に「帰れ」「死ね」と書いて見せつける様なものだ。

 ならば。

(とりあえずは暗殺、面倒になったら一気に、かな。だが《泥》だからなー)

 雌豚どもめ、と心の中で罵りつつ歩き出す。ここで突っ立っていても仕方がない。いつ掃除のバケツ水を引っ掛けられるとも限らないし。ゆっくり通りを歩き、古びているとはいえこの辺りはまだ圧巻だ。

 飾られる季節ごとのディスプレイ。今の時期はサマーバーゲン間近で、肌を大きく露出するファッションのマネキンはサングラスや水着、浮き輪で派手に飾られている。安っぽいが派手なアクセサリーは照明を乱反射して派手しく煌めき、下品なら下品なほどに人目を引き、目立つ。

 四箇所ほどに植えられる樅は今の時期はただの大木で、クリスマスが近付くと気が狂った様な赤と緑、金色の輝きに覆われるものだが、今は単なる樅の木だ。ただ、書類では確かA街区二番「ボブ・セッター」とかいう通称を持つ樹。樹齢百二十年ほどの古樹の前に男が一人、所在なく立っているだけ。

 ちょっと脇の道の手前では、少し大きいめの屋根つきの赤いカートを引いたチューン老人がアイスクリームと缶ジュースを売っている。見た目は普通の老人だがあれも受刑者だ。首筋にチップの注入跡があるのを知っている。確か、ヴェヌスで娼婦三人を殺して食っただか、娼夫を殺して食っただか。その味に関して詳細に述べた「評論」は今でもどこぞの大学で異常心理の教本として扱われ、その「印税」で老人は少し裕福に暮らせているらしい。

 なぜ知っているかというと、玲は持病持ちのチューンを病院に運んだ事があり、その礼に一度、一杯奢ってもらったからだ。その時のジンは安物だったらしいが旨かった。

 街角に更正への研修中と称する受刑中の奴が立つ。これだけで街の治安のレベルは計れる、と以前の玲は思っていた。はっきり言って三流の街、その治安は呆れるほどに悪い、と。

 いざ自分がその立場に立つと、これでこの街は結構「普通」と思ってしまう。確かに自分の様な死刑未決囚もいるし、それ以外の囚人も歩いているが。

 小路で半分立ちん坊をしながら清掃奉仕にだらしなく勤しみ、住まいと少しの報酬を与えられるアル中のリリィも重囚人だ。確か終身刑。アルコールで脳が半分ほどやられ、男と見れば股を開こうとするから「監視」の奴が苦労しているらしいが。

 だが結構「普通」だ。チンピラも幅を利かせようとして細かくケチな事をやらかしてはいるが、眼に余る事はそれなりに誰かが適宜「処置」するから結局大きい事にはならない。玲も虫の居所次第で手出しをする。

 人間とは勝手な生き物だ。あくまで自分が基準。自分がよければそれでよく、あとは全てがおまけ。身勝手にも程がある。

 だが玲の歩みは一瞬止まった。「見る」者でなければ判らないレベルで。

 来た、と思った。背後にいる。たぶん三人で、それも男。《泥》とは思えない。

 普通の足取りだ。「普通を装った」ものではなく本当に普通。それが玲の背後に近寄るのが判った。

 さっきの女は消えた。どうしたものかは判らない。

 街頭の時計を見る。十二時を少し回った辺り、頃合いだろうか。ち、と舌打ちし、この辺りならいい場所がある。走る寸前の足早に進み、玲が本当に目的なら追いかけてくるだろう。まして「普通」なら焦って。

 追いかけてきた。本当に普通の、それも素人だ。

 今度は走る。

 ショーウィンドウで確認すると走る足が追いかけるのが判った。予定通りに走り、建物同士の間に出来て「しまった」道に入る。恐らくは都市設計当時のミスのままに存在する小路に入り、三度ばかり曲がると奥は行き止まり。高さ二メートル近い、くすんで汚れたダストコンテナが三つ並ぶ道は薄暗く、手前にはいつも通りに放置された木のワイン箱。そいつを踏み台代わりにダストコンテナに駆け上り、縁の丈夫な金属部分を蹴って三メートルのフェンスを飛び越える。

 背後から聞こえる静止の声を無視して飛び降り、左手に折れる。

 こちらは設計通りの細い道。フェンスのがちゃがちゃ言う音を聞かず、建物から六〇センチほど離れて設置されたフェンスとの間に出来た道を走る。壊れた煉瓦を積んだ「椅子」に腰を落として安いラムの壜、たぶん中身は彼の「スペシャルなやつ」を片手、今日も老ダニエルが管を巻いていた。

「よーお、落ちぶれ軍人。借金取りに追われてんのかい」

 ひくっ、と喉の鳴る音が聞こえた。

「まあな。悪いが黙っててくれ」

 銀色のコインを一枚投げ与える。

 老ダニエルはいつもは右手で受け取る。

 今日は左手で受け取り、動く右手が「銃」を抜くのが判った。咄嗟に身を捻り、直前まで玲の左側だった壁がぼろぼろと崩れる。

「何しやがる!」

「ボーナスくれる奴がいたんでね。悪く思うな」

 地べたが掘られた。

 背後から続く音はない。畜生、読まれて追われたらしい。

 老ダニエルの喉がひくっ、とまた鳴った。こんな時には酒は罪悪だ。

 玲はタイミングを悟り、接近する。

 引き金を引こうとする老ダニエルの右手首にチョップを入れ、叩き落した。老人は酒にやられた赤ら顔を顰め、玲は両手首をまとめて掴み上げる。

 太る割に細い腕だ。脂肪はついても筋肉は完全に落ちている。老いただけではないのが判る腕だ。

「アンタももと軍人かい? 狙うのがなかなか旨いな」

「ありがとうよ。オレぁこれでもイオでポリスだったんだや」

「仕事に熱心すぎて嫁と息子に逃げられたんだったか。可哀想にな」

 腹にほとんど容赦のないキックを入れる。壁に叩きつけられ、一応加減したが老人は胃の中身(無数の酒壜から集めた雫のダニエルスペシャル)を吐いて昏倒した。もう長くはないのは短くない付き合いで知っているが、これで更に短くなったに違いない。お気の毒様。

 老人が落とした「銃」を拾う。ニードルガンだ、鉄も引きちぎる威力がある、こんなもので撃たれたらバイオアーマーも危ない。幾らか出力を調整し、微かな呻き声を聞いたが無視して失敬するとしよう。セラミックナイフよりいい「お守りに」なる。少し考え、もと来た道を戻る。

 連中が素人なら金額分の仕事しかしない。そして玲なら金を掴ませた連中は生かしてはおかない。危険すぎる。

 果たしてフェンスの隙間から伺うと、コンテナの陰に茶色い髪が見えた。地面から生える様に見え、つまり倒れている。脱いだジャケットを左手に持ってフェンスをよじ登り、少し覗く程度に差し上げる。

 ノーリアクション。玲はフェンスに足をかける。

 

 シャーナは緊張で吐きそうな自分を抑えるのに懸命だった。だから密かに自慢している、こればかりは生まれついての、小さな頃から褒められ続けた金色の長い髪を撫ぜる。今日もさらさらで、手入れを怠らないので傷みはない。素晴らしい。

 こんな事ははじめてだ。

 いつもはもっと楽に出来る任務が多い。せいぜい一服盛った男と寝て、少しいい思いをさせて、あとは自分がコントロールしてお終い。欲しいものを素早く頂き、然る後にサヨウナラ。たったそれだけ。

 あの連中も簡単だった。簡単に落とせて、言う通りにさせて、用は済んだ。「片付け」も簡単だった。

 それなのにあの女は無事だ。しかも表示を信じればこちらに戻ってくる。どういう事? あの浮浪者は役に立たなかった? わざわざ「元気になれる」薬もくれてやったのに?

 怖い。もっと楽に片付けられる奴しか知らない。

 足音が近づいてくる。なんて靴だ、こんなにしっかり聞こえるなんて。隠密行動に向かない靴、万歳。

 がしゃっ、と金属の音が聞こえた。フェンスに足がかかったのかもしれない。

 コンテナの上の方、フェンスの網目に紛れて黒い何かが動いた。

 マニュアル通りに銃だけ構えておく。

 合成レザーのてかりが判った。ダミーだ。次が本命だ、マニュアルを信じれば。

 大丈夫。今までだって巧くやってきた。旨くやり過ごして、そうすればジョアンは「ご褒美」をくれる。美味しいキャンディと、優しい男との甘い時間。その為にシャーナは好きでもない男に躰を与えるのだから。

 グリップを握る手に力が入ってしまう。落ち着いてシャーナ、マニュアルは絶対よ。大丈夫、向こうだってマニュアルで動いているわ。もと軍人だもの。

 合成レザーが引っ込んだ。

 がしゃっ、と金属の音が聞こえた。

 黒い影が動いた。あの女の髪は赤いが黒い、迷わずトリガーを引いた。シャーナ用にチューンされた銃はトリガーを一度引けば三発の弾を吐き出す。非力さを補う為だ。ただし連続射撃が出来ない。

 黒い動きにきちんと三つの穴が開いた。

 ジャケットが投げ上げられただけだと判ったのはその瞬間だった。

 

 銃撃の音が一度。お疲れ様。腕と脚の力で一気に飛び上がり、金色の長い髪が見えた。

 玲はニードル銃の引き金を引く。ガスと針が吐き出され、ぎゃっ、と短い悲鳴も聞こえた。

 ダストコンテナに飛び降り、少し歪んだのか脚が不自然に沈むのを無視して着地する。

 流行りなのだろうひらひらしたワンピースの金髪女は右肩と胸の辺りを失っていた。あまり当らない様に狙ったから長くはないが、すぐには死なない、髪を鷲掴みにして上を向かせる。

 造り物みたいに綺麗な顔だ。破れた服から見える右胸は石榴みたいに綺麗に真っ赤で、残る左の乳房はやたらと大きい。もとはぴんく色だった、ラインストーンが配置されるレースが豪勢なブラジャーは特製と見た。メーカーは判らないが。

「《泥》か」

 質問の口調は単なる確認に過ぎず、金髪女はやたら綺麗な顔を脂汗と苦痛で汚して呻く。

 二度咳き込んだ。吐き出した唾が赤い。

「正直に答えりゃあ病院に突っ込んでやる。お前は《泥》か」

「……たすけて」

 消え入りそうな声だ。最後の一発分をくれてやろうかと思ったが耐えた。その代わり強化された親指と人差し指で、爆ぜて針の残る肉をごく軽くつねる。

 悲鳴を上げる女の口に空の銃の銃口を突っ込む。女は悲鳴の継続をやめた。

 脂汗はそのままだが女の目つきは変わった。眉は幾らか歪んでいるがひどくきつく睨み上げられ、マニュアルが変わっていないなら《泥》は整形がてら軽くアーマーを移植された上に神経を弄くられ、苦痛に対してはかなり鈍感になっているはずだ。

「これが最後だ。《泥》だな」

 一瞬動きが止まった。

 玲を突き飛ばそうとしたのだと思う。躰のバランスは悪くなったろうが《泥》なら走って逃げるだけの力は何とかあるだろう。然る後に苦痛を装うなり、待ち構える「仲間」に救出を頼むはず。常に少人数のチームで動く連中だ。

 だが、出来なかった。

 玲は金髪女の逃亡を悟った瞬間、銃を思い切り口に突き入れた。子供のこぶし大の「銃口」は頭を大きく背後に押し込み、反対の手が逆に頭を前方に押す。

 女は延髄を潰され、びくびく痙攣しつつ地べたに横倒しになった。口とうなじの辺りから血と、神経の束と、それに骨のかけらを吐き出してもうしばらく痙攣し、静かになる頃には玲はとっくに穴の開けられたジャケットを拾い上げて再びダストコンテナを飛び上がっていた。畜生、結構いい値段のした一着なのに。

 ぱた、と携帯電話を閉じる。

 なんて奴。可愛い妹を殺すなんて。

 同じ軍属の連中は自分たちを薄汚い雌犬だの《泥》だのと悪く言うが、その何が悪いのだろう。軍人が残酷に銃を撃って人を守る様に、自分たちは躰一つで情報を探り、平和に貢献しているだけだというのに。銃を撃つより、人を殺すより、ずっと綺麗でスマートだ。綺麗な服も着られるし、気持ちもいいし。

 綺麗な顔。綺麗な躰。「おかしな手術」を与えられるにしても自分は綺麗に生まれ変わって、その上傍には綺麗で優しい恋人。姉妹を平等に愛し、大事にしてくれる優しい男。醜いと、汚いと罵らずに、請わずとも代価を払わずとも優しいキスを与えてくれる素敵な男。幾らでも愛をくれる者がいて自分たちは幸せなのに。

 あんな汚い女と一緒にされたくない。女のくせに平然と銃を撃って、平然と人を殺して、人殺しを悔いたり躊躇したりしないどころか快楽にさえ変換する異常者。あんな怪物と自分が同じ「おんな」だなんて気持ち悪い。任務がなければ近寄りたくない。

「でもジャックのお願いだもの」

 聞いてあげなくっちゃ。そっと呟き、歩きはじめる。

《首輪》の情報は盗んでおいた。あとはトレスの通りに歩けばいい。自分も、姉妹も。

 どうせ、あの女は「籠の鳥」だ。

 

 人を殺して何とも思わない怪物なんか握り潰してやる。

 困った。玲は困惑して小路の物陰、汚れた壁にもたれかかる。やや肥えたドブネズミが忙しく足元を走り抜け、嘆息しつつ天を仰げばいなびかりの青白い銀の光が見えた。

 空気のお陰で肌が湿っぽい。べとべとする気がする。

 腹が減った。まだ耐えられない事もないが辛い。充電が切れそうだ。ただでさえ今日はパルスの影響がある、水分だけで耐える自身はない。

 携帯の時計で時刻を確認する。一時と六分、まだ感覚的に昼だ。

 確か連中の便が離陸するのは予定で二一時ジャスト。専用便だから電波シャットはギリギリまで行わないはず。人の死を願っておいて自分たちは優雅なナイトフライトか。エリートなんて嫌いだ、とっとと地獄に堕ちろ。

「最低限その辺まで逃げ回った方がいいよなー……その前に全員始末できりゃーいいんだが」

 ところで「全員」とは何人だ? ましてや《泥》が何人を使って襲ってくる? そも《泥》はどれだけ来た? 見当もつかない。どうせ少人数とは判っているが、その基準は何とも曖昧だ。

 せめてマリアがいれば休めるが、「護衛」のいないアリスやネモを狙われでもしたら洒落にもならない。

 カマ野郎? アレなら構わない。とっとと死ね。

 アレ以外だったら、誰だろうと嫌だ。自分のせいで誰かが不幸になったら。

「それくらいなら」

 自分が不幸に陥る方が幾らもましだ。どうせ係累もしがらみもないロクデナシだ、死んだところで泣いてくれる者は限られている。汚い髪を撫ぜ、反射的に刈り上げたくなるが耐えた。《首輪》をかけられる時にひどく切られたのがやっとここまで伸びたのだ、さすがにもったいない。

「……さすがに何か食っとくかな……」

 どこなら安全だろう。だが何かを食っているとこに背中から業突くな銃ででも撃たれたら……がらがらと重いめの音が聞こえる。

 がらがら音はゆっくり、徐々に近付いてくる。あと、かちゃかちゃする軽い音も一緒に。軽い何かを載せた重い台車、玲の耳はそう聞いた。

「がらがら」と「かちゃかちゃ」のハーモニーに「ぽちゃぽちゃ」が加わって。ここからだとひどく明るく見える通りを、幾らか汚れた赤白ストライプの傘をかけたカートが引かれて行く。

 何だあいつか。そうか場所替えの時間か。場所代も馬鹿にならないというし、大変な話だ。だが、実際に大変なのは玲の方だと一瞬後に確定した。

 いきなりカートがこちらを、玲の方向を見る。

 よお、と声をかけられた。いつ聞いても新聞紙を畳んで捻る様な、古ぼけてがさがさした声だ。

「何だ、また借金取りから逃げてやがんのか?」

「……まあな」

「難儀な奴だな。疲れてんなら1本くらい奢ってやろうか?」

 道の関係でカートを引っ張りきれないのか、向こうの視界を遮る格好で横付けする。日傘も関係して向こうからは見渡しにくそうだ。ありがたい、少し休める。

「悪いな、チューン」

「一ドルな」

「金取るのかよ!」

「五十セントも負けてやってるじゃねえか」

「それ負けたうちに入るのか?」

 確かに通常よりは安いが。玲は嘆息しつつポケットから硬貨を探り出す事に成功した。くすんだ銀色のニッケル硬貨を投げ渡してやり、老人はポップかつ毒々しい色でロゴの印刷された、極めて甘ったるいミックスフルーツのジュースの缶を投げてよこす。

 片手で受け取り、老人は「冷たいうちに飲みな」と言う。

 幾らか温く感じるのは気のせいという事にしておこう。プルタブを引き、一気に半分ほど飲み干す。甘くって結構冷たい、後味は薬臭いが気分がさっぱりする。「茶腹もいっとき」とか言うそうだが、それなりに腹も膨れてくれるだろう。そう願う。何より糖は玲の躰では長続きしないが行動のエネルギーに変わる。

「で、今日は何に追われてんだ?」

「……お前が言ったろ。借金取りだ、ボッタクリバーにやられた」

「嘘こけ。お前は借金取りは蹴飛ばして開き直る奴だ、んなー訳があるか」

 老人の緑色の眼が射付ける様に見る。

「助けてやろうか?」

「お前みてーなジジイに何が出来るよ。却って邪魔だ」

「おめぇはぁ張り切りすぎなんだよ」

 チューン老人はひくっ、としゃっくりをした。息に酒臭さがないのは彼の唯一の美徳だ。

「なに頑張りたいのか知んねぇけどよ。おめぇ一人で何が出来るよ。クニにいる時ぁ五人も部下連れて、今だってあんな美人なねーちゃんのツレがいるじゃねーか。そいつらに『お願い』してみたらどうよ。ちったぁ他人を頼れや。気楽になんぞ」

 また、ひくっとしゃっくりをした。止まらないらしい、ハンドルにぶら下げてあるボトルを取って一口飲む。色はコーヒーの様だが香りは違った。

 そして玲はぎょっとした。チューン老人ならマリアの存在は知っているだろう、だが部隊の事は話した記憶がない。「玲はもとマース陸軍」で、「死刑判決を食らって」、「テラ送りにされて死ぬのを待ってる」くらいは喋った記憶があるが……心持ちの不気味さを感じつつジュースの残りを一気に飲み干す。苦みが増した気がする。

 老人はいつもと変わらず、新聞紙を畳んで丸めた様に笑う。

「まあ年寄りの戯言だ。ぜーんぶ聞き流していいぞ」

 言い、ボトルを提げるのと反対側のハンドル側に括ってあった箱を開ける。ランチボックスだったらしい、マヨネーズっぽい油の匂いがぷんと届く。空気が湿っている証拠だ、と玲はぼんやり考えてしまった。

 老人は箱からタブロイド紙で包んだ包みを二つ取り出し、見比べる。どちらが大きいか真剣に考えているのだろうか。少なくとも玲の眼には同じ大きさに見えるのだが。ただ、片方の包み紙の記事はナントカ言う芸能人のゴシップで、もう片方はどこかの公園のイベントの記事の様だった。

「まーこっちか。ほれ、おまけのプレゼントだ。俺の昼飯だが半分くれてやる、これ食って元気出せ」

 保温性がよかったのか渡された包みはほんのり暖かい。それにマヨネーズと、たぶんチーズの匂い。カロリーはたんまりありそうだ。

「……お前さん、年寄りなんだから食う量は考えれや。こんなの両方食ったら食いすぎだったろ」

「要らんなら返せ」

「ありがたく頂きます」

 へへー、と平伏しつつ大袈裟に礼を言う。グローブをポケットに押し込んだ。

 チューン老人はふんっと鼻を鳴らした。

「まあ達者でな」

「ああ。頑張って逃げ切るよ」

 老人はおう、と言い、またカートを引っ張って道に戻る。いつも夜中近くまで働いている、あの歳では大変だろうに。

「……無事だったら何か買ってやるか」

 実はあまりジュースは好きではないのだが。甘すぎるので。そんな事を駄々と考えながら角の陰に入ってタブロイド紙を剥がす。

 中身は黒っぽいライ麦パンに無造作に厚いめのハムとチーズ、薄く切ったトマトを挟んだサンドイッチだった。少し笑みながら齧りつく。

 バターの代わりにクリームチーズを塗ってあるらしい、これはこれで美味い。温くなったトマトが少々気持ち悪いがマヨネーズソースのお陰で結構食える。

「これはこれで結構美味いな。うん、かなり美味い」

 出来ればどこかの公園で、日向ぼっこでもしながら、更に熱いコーヒーでも啜りながら食えばかなり美味い気がする。これが無事に終わったらカマに作らせて実現させよう。ついでにそう、マリアたちも誘って。カマはどーでもいいが……なぞと、何だか柄でもない決意をしてしまう。それくらいこれは美味い。

 ならば、その為にも無事に逃げ切らねば。幸いエネルギーを補給できた事だし。バイオアーマーはアーマーのくせに異様に体力を食うのが困りものだ。

「……くそ」

 生きる為に逃げる、なんてみっともない行動。

 だが仕方がない。こちらは法に守ってもらえない犯罪者だ、生きたいなら逃げねばならない。守ってくれる者はいないから。

 ああ「守ってくれる者」はいないとも。

 

 では「守りたい人」は?

 その前に、本当に生きたいのか?

 

「あー……」

 ぼり、と頭を掻く。マヨネーズソースがついたかもしれないが、いい。

 判った。ネモに対する感情の「意味」が。そしてチューン老人がたぶん言いたかった事が。

 自分は結局、孤独が大嫌いなのだ。そのくせ誰かが傍にいると煩わしく思ってしまう。

 なぜなら。玲は残りを素早く口に押し込み、指をタブロイド紙で拭いつつ立ち上がる。

 先ほどと同じ気配が近づくのが判った。紙を捨て、グローブを戻す。ごくん、と口の中の最後のひとかけを飲み込んだ。

「おい、そこの《首輪付き》!」

 誰だろう。恐ろしく時代遅れの、ナントカ言う三流映画の悪役として出てきそうな、じゃらじゃらする鎖や鋲をたんまり打ち込んだ革のファッションのひと群れ。これで顔に信号機まがいのメイクでもしていたら売れないパンクロッカーだ。ファン? そんなものがつくはずがない。

 一人がいきなり手を伸ばす。

 避けてしまうのは条件反射だ。そして玲は反射行動にひどく感謝した。

 青白く小さな光と共に、ばちっ、と火花の音が鳴った。

 だからこれも条件反射だ。伸ばしてきた手を蹴り上げ、握られていた黒い塊が地面に転がる。また、ばちっと音が聞こえた。

 ち、と別の一人が舌打ちしつつ殴りかかる。その手を二人分まとめて捻り上げ、二人分の肘を逆に曲げてやる。悲鳴を上げたかったろうが、続けざまに腹をしたたか蹴り上げられては、フックに掬われては無理だったろう。揃って色付く反吐を戻して倒れた。

 青白い火花が見えた。

 玲は舌打ちする。こいつら全員スタンガンを持つか、グローブに仕込んでいる。

 普通の人間だってスタンガンの電圧を食らえば痺れて動けなくなるし、当てられる場所と強度では死ぬかもしれない。

 玲はバイオアーマーで覆われている分、よけい電圧に弱い。ましてやメンテをしていないに等しい今、下手に当てられたらそれだけで死ねそうだ。

 だから言った。

「おいおい、か弱い女相手にこんなに雁首並べて随分と物騒だな。あたしそんなに借金してたっけ?」

「ふざけんな! この間、思いっきり殴ってくれたじゃねーか。もう忘れたのかよ!」

 いつの話だろう。心当たりが多すぎて判らない。だがこの状況でそれを言うのは不適切に思えた。

 それにしても厄介だ。数が少々面倒に過ぎる。

「殴った……とは、あたしがお前らをか? 何だ、女一人に野郎の集団が殴られて、悔し紛れにお礼参りか。みっともないなー。それでもキ○タマついてんのか?」

 この状況ではなくとも一言多い気はした。だが「怒らせる」のは相手によっては有効だ。冷静さを失ってくれるから。

 その通り、あったらしい「統率」は一気に崩れた。勢い任せにどっと襲いかかり、後ろの何人かは勝手に崩れ、互いに「武器」スタンガンを当て合って自滅してくれた。

 前の数人は一人の脚を払うだけで勝手にもつれた。

 吐く口は一つでいい。一番前の一人の腕を強引に引いて後ろに放り、続く一人は勢いを使って背後に向ける。え、とか何とか言った時には接近した「仲間」の胸元にスタンガンを当ててしまい、音と、青白い光がばっと散る。

 それに怯む奴の扱いなぞ簡単だ。頭か腹を殴って「おとなしく」させるだけ。多少骨が砕ける音がした様だが気にするまい。正当防衛というやつだ。

 打ち倒した連中が動かないのを確認しながら「武器」を全て踏み潰しておく。殴られるだけなら痛いだけで済むからだ。幸い刃物は自分には効かない。たぶん。

 放り出された、鶏の鶏冠みたいなふざけた色と形をした頭の男は頭を撫ぜ撫ぜ、ようやく立ち上がる事に成功する。だがほんの数秒で仲間が全て、恐らくは自分以外の全員が血の混じった反吐を戻して倒れるのを知り、喉の奥から引きつった声を出した。

 逃げたいのかもしれない。腰が抜けた様で地べたにへばり、だが萎えた脚が必死に蹴って移動しようとはしている。あまりにも弱々しく滑稽な男を玲はまず蹴ってスタンガンを殺し、胸倉を腕一本で掴み上げ、立たせる。爪先が浮いてしまうのは身長差だ。仕方がない。多少呼吸も詰まってしまうだろうがこれはあくまで力と身長の差のゆえだ。ご愁傷様。

「さて、じゃあ吐いてもらおうか。お前らに武器をくれたのは美人か? 偉そうなマーティリアンか?」

 青ざめる唇からかちかちと音が聞こえる。歯の根が合わなくなったらしい。可哀想に。

「もう一度訊く。お前らに」

 玲は「うわー」と嫌そうに言ってしまった。

 地べたにぽとぽとと黄色い汚水が漏れる。

 だから思わず叩き落としてしまった。腰の強打でしばらく立てないかもしれないが知るものか。

 相当痛いらしい。涙がぼろぼろ零れている。濡れた半分は汚水が原因かもしれない。汚い。

「なあ、病院に連れて行ってほしいか?」

 ぶんぶん頷く。本気で痛い様だ、脂汗が滲んできた。声もひゅーひゅー言う音が混じって、切実らしい。

「じゃあ答えろ。ただの美人か? マーティリアンか?」

「……し、らない! 本当だよ、知らねえよ! ただ、お前を殺せば金をくれるって! どんな死に方でも始末してくれるからって!」

「どんな奴だ。男か、それとも若い美人か?」

「美人だよ! 女二人!」

「金は先払いか後払いか」

「前金をくれたよ! 後で半分くれるって、だから早く……!」

《泥》と見ていいかもしれない。やや「撫でて」金の受け渡し場所を聞き出す。多少赤みが増えたが仕方ない。

「ふーん。じゃああたしがお前らを殴ったのはいつだ?」

「頼むよ、早く病院に」

 連れて行ってくれ、かもしれない。続きは。だがそれは玲の欲しい言葉ではない。

 だから会話終了。重鈍い音に続いて突っ伏した奴の顔は変形した上に紅く汚れたがそれは玲の関知するところではない。

「行くか」

 歩き出す。足元で砂利の踏み殺される音が鳴った。

 

 赤くって、オレンジ色で、何とも埃っぽい路地を、それ以上に埃っぽい姿の子供の群れが駆けていく。引ったくりが混じっていた様で手を伸ばされたが強いめに払ってやった。悪態を吐かれた分には中指を立てるだけで堪えた。大人げない? 何とでも言え。

 かつて、アースには「華僑」という言葉があったそうだ。何でもチャイナという大きな国の人間が海外に進出する時には国の誇りを保持したコミュニティを作り、それを一つの単位として互助しつつ海外に版図を広げていたらしい。その名残がチャイナタウンだそうだ。何でも。

 だかそれはアースでの話だ。しかもテラフォーミング時代の以前、遥かな過去。

 マースでは玲の様な、何より親に見捨てられた特にエイジャンは「ノンファミーリア」とひと括りに呼ばれ、認可があるのかどうか怪しい施設で悪く言えば飼われていた。

 玲のいた施設には殊更エイジャンが多かった気がする。職員もそうだ。ではあの施設こそが華僑だったのかもしれない。知らないし、誇りなんて何もなかったが。まだ政府の「おうち」のほうがましだ。

 この辺りの、普段から赤い壁は時刻の陽を受けて一段と紅い。燃える様にも見える。

 ここは掛け値なしにチャイナタウンだったらしい。それっぽい看板は全てが色褪せ、やたらかくかくした、模様の様なたぶん文字が金色を失って呆然と転がっているが。かつては変な土産物を売る店と美味いものを食わせる店が多かったらしいが、今ではうっそりとした建物が、ひどくくすんだ赤やオレンジの軒を並べているばかり。時刻が悪ければただの薄汚い箱だ。

 今はここは阿片窟って言うんだよ、とアリスが言っていた。恐らくは粗悪な麻薬やラブドラッグを多用する店が隠れもせずに看板を掲げ、招くのは肌を隠す範囲が異様に少ない女や男。噂では、見栄えにもよるが八歳を過ぎれば「商品」として通るらしい。では器量の悪い奴はどうなる?

 恐ろしい事だ。玲たちは器量や頭がよかろうが悪かろうが、少なくとも売春はせずに生きていられた。

 だがここは、それだけに女が紛れ込むには何の問題もなさそうだ。却って安全かもしれない、客さえ取らなければ。それに……玲は進む。辺りに流れる調子っぱずれの音楽(少し古い流行歌らしいがよくは判らない)に紛れ、時々足元から踏みつけられる砂利の音が聞こえる。確かに昔っから「木を隠すには森の中」とは言うが、あの女たちも気の毒に。よりによってこんな場所で半金受け渡しとは。

 そろそろ「約束」の時刻。自分が《泥》なら半金の受け渡しはイコール「報酬」をくれてやる程度。それが鉛玉か、ナイフかは単に趣味が分かれる程度だろう。「その場所」がさりげなく見える位置にそっと隠れ、時間通りに来るのは間違いないと思う。それが軍のマニュアルだから。あとは「来る」の意味。

 そう待つ事はなく、《泥》と知れる女は来た。玲でさえうっかり見惚れるくらいに物凄い美人が四人。これは随分と多い。全員がこれ見よがしに薄着で、ちらと覗いてなんて事だ、下着型のタキシード着用とは。動きで判る。《泥》は一応顔と上半身の急所は整形を兼ねて厚みはともかくバイオアーマーを移植されているはずなのに、更にタキシードを着用してはナイフや銃弾はまず通らない。ニードルガンも恐らく無駄だ、タキシードとバイオアーマーの両方を通れば本体へのダメージは衝撃くらいだろう。「仲間」が始末されたと知って対策したに違いない、さっきの女どもはタキシードなんて着けてなかった。

(あー、くそ。めんどくせぇ!)

 声に出すのは耐えた。唇は動いたかもしれないが仕方ない。

《泥》は何やら会話し、辺りを見渡して二人ずつに分かれる。手駒の不在に異変を察したのだろう、自分だって理解する。ならば。

 ロングのブルネットとショートのストロベリーレッドの組がこちらに来る。

 玲はふ、と息を吐いて一歩を蹴り出す。

 ブルネットが気付いた。

 アクションを起こそうとしたのだと思う。だが何かをされる前に接近、ニードルガンの銃口を右目に押し当てる。最後の一発分。

 どつっ、と音と共に銃口の周りに紅いしぶきが散る。後頭部は少し膨れた。

 ストロベリーレッドが左腕を動かすので左手で捻り上げる。何かを言おうとしたらしいが聞く気もない、だから右手を突き出す。

 ぷつっ、という音は本当に小さく鳴る。

 突っ込んだ指で抉って一気に引き抜き、神経の白っぽい糸がぬるりと出てくるのは判ったが気にせず握り潰す。悲鳴は上げさせない、口に膝を叩き込んだから。

 バイオアーマーは衝撃は通す。そしてこの女は衝撃に対する耐性は高くないらしい。簡単に抵抗の意思を失ったのが判った。同情なんてしないが。勢いに任せて地面に叩きつけ、体重込みで全力で踏み躙る。約0.1トンの重さと衝撃で頭は踏み潰された。

 言ったろう? 喋る口は一つで構わないと。顔を上げ、反対方向に進む。そうそう、終わったら王風に伝えてやって小遣いを回してもらわねば。

 この街の昼の姿は見るものじゃない。古びて汚いから。

 夕方を過ぎ、藍が空気に深みを与える頃にようやくそれなりの表情を見せる。これで街灯が色々な色に幾らか煌めき、日常灯が消され始めてようやく「見られる」ものになる。

 沈み終えた夕陽の赤が消え、藍と黒に星の煌めきが深みを与える頃、男は煙草を吹かしてそこにいた。給水タンクの影がコンクリートの足元に完全に同化し、男の影を食い尽くす様に。何と言う煙草だろう、嗅いだ事のない、恐らく高そうな臭いが鼻に届く。一瞬羨ましいと思ってしまうのは悪い癖だ。

 がしゃっ、と金属に似た音が捨てられる。足元に投げつけられた赤く汚れたタキシード、下着型アーマーを何着も放り出されても、そんな男は顔色一つ変えない。その意味を察しただろうに、だ。薄情な、と思う玲に罪はない。

「お待ちしていました。今ならエアポートのチェックに間に合います……やはり来たのは貴女でしたか」

「やはりってなどういう意味だ?」

 こちらの得物はセラミックナイフ一本。あとは幾らかガタの来たこの躰一つ。刃物と小口径の銃弾くらいは防げるだろう。たぶん。是非そうあってくれ。

「あの娘たちは何と言っていましたか?」

「アンタは最高の恋人だってよ。すげーな色男サンよ」

 この男はどうだろう? 《泥》から吐き出せたのはこの男の名前と階級だけ。本当かどうかも判らないが。何だかんだ言って見栄えがいいだけの消耗品部隊《泥》。その統率者が「道具」にほいほいと本当の名前や階級を教えるだろうか?

「お誉めに与り光栄です、甘玲花曹長」

 いい笑顔なのだと思う。たぶん。これが映画俳優だったら物凄い称賛を受けるのだろう。玲は興味がないので判らないが。

 そもそも顔がいいだけの男になんて用も興味もない。そうとも、あいつはご面相はお世辞にもいい方じゃなかった。こんな、今は玲がかけている丸眼鏡がよく似合った、いわゆる愛嬌のある癒される男。もう男の顔なんて信じないが。

「昔の階級で呼ばなくっていい。そも曹長なんて下っ端もいいとこだろ? グレイプニル少佐殿」

「階級は曹長であっても尉官待遇を受けていたではありませんか。そうでなければ部隊を任される事はありませんよ、《死神》殿」

「……そう呼ばれるのは久し振りだし、その名前はアーマーがあったればこそ、だ。でなきゃあたしもとうに墓の下だった」

「ご謙遜を。貴女と同じく全身移植を受けたもう一人の男はあの時、簡単に死んだではありませんか。あの過酷な状況下に残った四人の兵士のうち一人はショック死、二人は余りの苦痛に発狂。貴女だけがあの環境で正気のまま生き延び、全ての敵を殲滅した。任務が完遂したのは貴女の功績です、《死神》殿。しかも想定された環境には計算上、貴女たちのアーマーは耐えられるはずがなかった。貴女の精神力は苦痛すら、定められた性能すらを凌駕する……素晴らしい事です」

 男は一歩を進む。

「貴女の存在は実に素晴らしいのですよ、甘曹長……だのに貴女は《テリューススキャンダル》を引き起こした。軍を結果的に裏切った」

 男の青い視線に一瞬の険が走る。

「仕方ない。全ては成り行きだ。だからあたしは死刑判決を受け入れた」

「ですから貴女を引き取りに来たのです。あの娘もですが貴女も必要です」

 男の腕が動いた。懐の辺りを探る動き、反射的に身をかわして物陰に飛び込む。

 立っていた位置の路面が白煙を上げて弾け上がった。がらがらと瓦礫が散らばる。

 もう一度の瓦礫と音。

「おいおい、引き取りに来て発砲たぁどーいう了見だ? あの娘ってなネモか? あたしの命はどーでもいいのか?」

「その通りです」

 じゃきっ、と金属の音が鳴った。中口径銃の弾倉から弾を送る音、聞き覚えがある。そしてそれを意図的に聴かせるのはどういう状況なのかも。

 少佐と聞いた。最初ははったりだと思った。

 違う、奴は殺し慣れている。音一つがどんな効果を齎すかを熟知している。ち、と舌打ちする玲に罪はない。きっと。

「ああ訂正しましょう。貴女に死なれては困ります、生きていればいいんです。そう簡単に死なない事を期待していますよ」

 ざりっ、と音が聞こえた。その意味を知り飛び出した。

 ごく至近距離からの発砲の音が左の脇腹を文字通り抉った。

 口の中に鉄の味が広がるなんて何年ぶりだろう。無視して勢いを継続、ナイフを下方から掬って払う。男は一歩下がり銃を構え直す。

 脇腹が熱い。目眩と吐き気がする。幾らか動きが鈍るのは仕方がない、まだましな方だ。アーマーはほんの少しとはいえ苦痛を軽減してくれている。足を踏ん張ってもう一度払う。

 手応えあり。やや光沢のある紺のスーツの胸元が大きく裂ける。本当なら鮮血がしぶくだろう、だがそれはない。アーマー移植者だ、この男も。

「ああ申し訳ない、私も一部強化しているのですよ。貴女の様に全身ではないですが」

 腕を掴まれ、引き上げられる。がら空きの、しかも幾らか肉の裂ける腹に膝。ひどく重い、玲は思わず唾を吐く。

 腕の拘束を解き、握り直すこぶしが肩甲骨の辺りに落ちる。これは案外軽かったが位置が悪い、息が詰まる。

 地面に落ちた方が楽だったと思う。だが膝に掬われた。胃液が上がる。苦い。

 とどめと言わんばかりに横っ面に裏拳。叩きつけられて全身が痛い。びちゃっと紅いものも飛び散る。

「つ……っ!」

「言ったでしょう? 生きていればいいんです。むしろ死ななければいいんです。貴女というサンプルが欲しいだけですから。ODC計画の為に」

 何の事か判らない。訊く気もない。だが掴み上げられそうなのは判った、だから必死に立ち上がる。足が震えてみっともないが構うものか!

「本当にしぶといですね。だからこそ貴女が必要なんです……ある意味であの娘以上に」

「あたしを……切り刻んでシャーレにでも閉じ込める気か?」

「まさか。清潔なベッド、計算された食事、整えられた環境……全てを差し上げましょう。もちろんその《首輪》も外して差し上げます。何が不服ですか?」

「あたしは……モルモットになるのは、軍の言いなりになるのはもう御免だ……!」

「見識の狭い女性は嫌われますよ」

 腕が迫るから払う。そして腹を蹴り上げられる。湿っぽい音と共に傷が広げられた気がする。畜生。

「まさかね、貴女がいまだに生きているなんて思っていなかったんですよ甘曹長。そちらのデータには興味がありませんでしたもので」

 背を蹴り付けられる。

「確かにネモは大切だ。まさか奪われるとは思っていなかった。しかも奪った先に貴女がいるなんて夢にも思わなかった。我々は死者には興味がないんです」

 落ちた手を踏み躙られる。痛い。

 痛い。アーマーがほとんど役に立っていない? 寒気がするのは出血のせいだ、そうに違いない。

「我々の行動は生きる者の為のもの。死者には興味がない……だが貴女は生きていた。甘玲花、貴重なサンプル。バイオアーマー被験者が定期的に検査を受けねばならなかったのもその為です。まだアーマーは不完全だ、一例でも多く資料が欲しい。

 ネモも貴女も必要な存在です。だから貴女を抵抗の意思を奪った上で回収し、ネモも回収する。子供はともかく貴女は生きているだけでいい、おとなしくなさい」

 銃口を向けられるのは判った。けれど回避の体力が惜しい。どうしたらいい?

 ナイフを持つ側の肩を撃たれた。肩を片方でよかった。もう片方の腕は動く。動く腕を男の首を目掛けて伸ばし、払おうとしたのは判った。その動作の勢いでナイフを持っているだけの腕を強引に突き動かす。

 セラミックの刃が歯を突破して口腔に入る。上出来。

「申し訳ありません少佐殿。私は上官命令に服する気はございません」

 捻る気はなかった。腕がしんどいから。

 だからこれは不可抗力。奥に突っ込んで延髄を破壊するのが理想だったが、下顎を結果的に破壊してしまった。悲鳴を上げられたが仕方がない。何せ口の中にはアーマーはないので。

 男は顎を押さえて後じさり、もしかしたら逃げようとしているのかもしれない。だが逃がさない。こんな奴に殺されるのも、ネモをどうこうされるのも御免だ。最後の体力、むしろ意地で襟首を掴んで引き寄せ、ぐるっと向く顔にパンチを一発。大した力は入れられなかったが。

 がくっと崩れる顎を今度は爪先で掬い上げる。もんどり打つ股間に手を差し伸べ、握り潰す。

 悲鳴を上げてのけ反る後頭部を髪を鷲掴みにして引き下げる。腰の辺りに膝を当てる様に、一気に。

 一部強化は骨格の強化を含まない。玲と違って。だったらあとは梃子の理屈。これで終わり。

 太い丸太を折る様な、何とも重鈍い音。それと泡を噛み殺す様な声。

 それで終わった。玲は深い息を吐き、紅い粘りが混じるのは仕方がない。目眩がするのも。

 

 

 

 願わくば。

 久し振りに会った弟は正しい身形をしている事に大変な満足を覚えつつ、姉は椅子と茶を勧めるが弟は固辞する。相変わらずの男、実に安心する。

「あのお嬢ちゃんを助けてくれた事に感謝するわ、リュオン」

「『あのお嬢ちゃん』とはどちらですか姉様?」

 姉は応えずただ微笑む。相変わらずだな、この女狐め! なんて言わない。言って堪える女じゃないし労力分だけ無駄手間だ。

「姉様、教えて下さい。あの娘は、あの女は姉様たちの【計画】にそれほど必要なんですか? アーマー被験者なんて、掃いて捨てるほどとは言わないがそれなりの数がいるでしょう。確かに移植制限よりはネモは幼いけれど」

「調べたのではなくって? アクセスデータがあったわよ?」

 舌打ちを堪えるのは実は得意だ。特にこの女の前では。

「……はい。あの娘は異常です。生まれた時からバイオアーマーと異常免疫を持っているとしか……あれは人間じゃない、医学で説明が出来ない! あれが姉様たちの求める新人類なんですか!」

「新人類をサポートする為の奴隷よ」

 この女はいつもこうだ。優雅な笑みは金の画鋲を含んだ高級な砂糖菓子、うっかり騙される奴が多すぎる。

「あの娘は《誰でもない者》。どんな役割にも耐えられる便利な器具、その為だけに産み出される生きた器物。それが必要だから造る者がいて、わたくしたちはそれを横から攫った。仕方ないでしょう? わたくしたちが造ろうとしていた者より優秀だったのですもの」

「……姉様は人間を何だと思っているんですか! 動物以下の人体実験、遺伝子操作、それで創り出された者は人間と言えるのですか! 貴女は」

「貴方だって戦争をコントロールする為に何をしてきたか、忘れた訳ではないでしょう? どちらが高邁だの下劣だのと言える身ではなくってよ。

 リュオン、貴方は貴方の方法で人類の未来を思い描いたのではなくって? この大地を御覧なさい。大気は腐乱し、地は紫外線に焼かれ、海を泳ぐ魚は奇形ばかり。やっと延命しているはずのアースの出生率、平均寿命は下がる一方。かといってこの星を捨て、植民星に移住した者も多くはまだ苦難を甘受しなければならない。どうしたら人類は幸福に生きられると思う? 星を変えるか、自分を変えるか、そのどちらかを選ばねば人類の未来はないわ。貴方はその為に戦争のコントロールを計画し、わたくしは人類を変える方法を選んだ。それだけです」

「その為なら貴女は!」

「神は一匹の彷徨える子羊をお探しになる為に九九匹の子羊を野に留め置かれた。私たちはそれぞれの方法で九九匹を危機なく生き永らえさせる為に一匹を犠牲にする事を選んだ。ただそれだけですよ、リュオン」

 ああ実際にそうだとも。この女はそういう奴だ。ただ強く人を愛し、愛の為に目的を定めれば迷う事はなく突き進む。その結果として罪を背負うのなら罰を受ける覚悟がある。

 その為なら誰でも手駒に使う。手駒という言葉が悪ければ道具か。愛の選別が出来て、その為なら何と謗られても平然と胸を張る。罪も罰も己のが身一つに引き受ける者たち。

 自分にその覚悟はなかった。

 ひとへの愛はある。星の未来を憂いている。だが罪を厭う、愛の為に裁かれる覚悟はない。そこが決定的な違い。

 だから逃げた。義務と、責任と、自分の「世界」から。

 成し遂げられなかった自分は半端な失敗作だ。どうせ。

 だったらせめて。

「リュオン、あの軍人さんはどうなっているの?」

「……治療中です。腹部を中心にバイオアーマーを半分ほど移植し直して、幸い内臓の損傷はわずかだったので移植は要りません。輸血だけで済みました、希望があったのでネモの血を……今は鎮静しています」

「ネモ」の部分で声に険が入ってしまう。察した姉は殊更笑み、弟は口の中でのみ苦虫を五〇〇匹ほど噛み殺す。表情にも出たかもしれないが不可抗力だ。

「今度、時間を作ってお見舞いに行かねばならないわね。お見舞いの品は何がいいかしら?」

「酒でも持っていけば喜びますよ、あのアル中……今は昔の部下という人がベッドサイドで泣いています」

「その方が軍人さんが怪我をしたと教えてくれたのでしょう? きちんとご挨拶はしたの?」

「挨拶も礼もしました。その男がもっと早く駆けつけていれば加勢か囮になったでしょうに」

「却って足手まといになったのではなくって?」

「……はっきり言いますね、姉様……」

「だってその方々がもっとしっかりなさっていたら軍人さんはあんな事件を起こさずに済んだのでしょう? そんな方が駆けつけたところで何が出来るのです?」

「……御尤も」

 あまりにも正論すぎて、この女には本当に反吐が出る。

「私はそろそろ帰って宜しいでしょうか姉様?」

「あら、折角なのですもの夕食を一緒にいかが? 貴方の好きなポタージュもありますよ?」

「夕食は家族と一緒にする主義なんです。貴女が不要と捨てた娘は私の大切な家族ですので」

「そう? 残念だわ」

「私はこれだけは貴女に感謝していますよ姉様……母からも棄てられた私に家族を下さいましたので」

「ええ、リサイクルは大事なのよ」

 極上の笑顔で言っているに違いない。もう背を向けてしまったので見えない事に感謝しよう。真正面から見ていたら唾を吐きかけたくなったに違いないから。女狐め地獄に堕ちろ、その女と半分でも血が繋がっている自分もだ! やや乱暴な足取りで高い歩き、姉の秘書に会釈されたが知るものか。

 返されたコートを毟る様に丸め、眼についたゴミ箱に叩き込む。どうせこの女から与えられたものだ、一度袖を通したのだから十分だろう。これで。そのゴミ箱には真っ赤なカトレアが飾られ、本当は「花瓶」という名前の様だが関係ない。

 捨てられた自分。

 捨てられたマリアとアリスの「姉妹」。

 一緒にいたって似合いじゃないか。半端者が肩を寄せ合って何が悪い?

 科学と医学に創り出された怪物だ? 殺人の罪を犯した異能の存在だ? だからどうした、雲の下に生きていれば大概埃にまみれているものだ。人間は確かに他人の不幸を見て自分の幸福を確認する生き物だが、幸福なんて不幸に沈む者にしか見えないものだ。眩いさの余りに眼を焼き、だが焦がれずにいられない。

 豪華に過ぎて息苦しい「家」を出る。送ってくれると言われても結構だ、夕食の買い物が出来ないじゃないか。あんな、条例無視で無駄に大きい車なんて何がいいものか。自分には二本の脚がある、ちょっと遠いならサイクルで十分。それでいい。自分に持てるだけの荷物で十分だ。

 それ以上は正直もう持てないし、持ちたくない。

「……あら」

 声が出た。

 何と言ったか、わりと流行に乗っていてそれなりの値段のする服。それが良く似合うマリアが街路樹の横に立っている。彼女は顔を上げ、少しだけ笑む。

 恐らく彼女の精一杯の笑顔。これでマリアは笑む事は存外少ない。

「なあに、待っててくれたの? 悪いわね」

「アリスがお腹空いたって騒ぎそうだから買い物くらい手伝おうと思って。ネモも真っ青になって待ってんのよ……よっぽど不安なのね」

「あら~。もう、ママがいなきゃみんな寂しいの? 困った子たちね~」

 頬に手を当てる女の仕草で、実に大仰に嘆息する。これはこれで楽しい。

「本当ね。手のかかる大きな娘を抱えて大変よね『お父さん』」

「……アタシ、ママの方がいいんだけど」

「ち○こ切ってから言ったら?」

「何よそれ、もったいないじゃない! アンタだって昔は持ってたんでしょ?」

「ナイわよ。内臓までは変わらなかったんだから」

 マリアは実に酸っぱい顔をした。何とも愉快だ。

「……あのさ緑」

「アンタはアタシの家族よ、マリア」

「……急に何よ気持ち悪い」

「言いたくなる時があんのよ。アンタたちはアタシの家族で、仲間で、共犯者。それじゃダメ?」

「……特に不満はないわ。あそこは居心地悪くないし、アンタのご飯は美味しいし、アリスも今はいい子だし。それなりに不平はあるけど悪くはないわ。何より引き渡されなくって済んでるし」

「引き渡したらアンタも死刑食らうんじゃない?」

「死刑どころかその場で闇から闇よ……リーダーはそうやって殺されたわ。他の奴は知らない。生き延びていればいいけどね」

「アンタんとこも大変ね~」

「まあね」

 二人で並んで歩く。これは他人が見たらどんな風に見えるのだろう。親子? 恋人? 借金取りとその愛人?

 何でもいい、言葉の「定義」なんて。自分は自分で、この女と同じ半端者。それで十分。

「ところで緑はレイの見舞いは行ったの?」

「見舞いどころかメンテの手伝いよ。もーちょっとで生着しそうだから今が一番注意どころ。一度過去タイプで生着してるからアレルギーを抑えなきゃないかもなのよ。そうなったらかなり強い薬が要るわ……死刑にならなくってもあの子の命はそう長くない。強化兵の宿命なんだけどね」

「あたしだって、アリスもあと何年生きられるか判らないわよ。『自然物には無限の大宇宙さえ狭すぎるが、人工物は限定された空間でしか生きられない』って言うじゃない、造り物だからしょうがないわ」

 その意味ではあの女どもの「研究」も必要かもしれない。この娘たちが一日でも確実に、苦痛に塗れる事なく長らえる事が出来るのならば。

「それでもアンタらは人間よ」

 緑は迷わずに言う。そうとも、この「怪物」を産んだのはある意味で自分たちなのだから。ならばせめて、「親」である自分が「子供」の幸福を願って何が悪い? 我が子が幸せを掴む為ならば、神が悪魔だろうと喜んで爪先を舐めてやろう。

「さー湿っぽい話はこれでお終い! 今日も美味しいゴハン作っちゃう、あとであの子の看護! いいわね、アンタも手伝いなさいよ!」

 マリアは極めて面倒そうに、だが少し微笑んで「はあい」と答えた。


 
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