No.355903

遠きサチヨ

マスターさん

新年二発目は初のオリジナル作品となります。
十月に執筆して某コンテストに応募したのですが、見事に落選した作品ですので、面白くありません。駄作製造機が気紛れに書いたものですので、期待などはしないで下さい。二万五千字程度の短編です。それではどうぞ。

支援してくれた方、コメントしてくれた方、ありがとうございます!

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2012-01-01 01:07:20 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:12283   閲覧ユーザー数:3505

~遠きサチヨ~

 

(1)

 

 ――ここはどこだろう。

 

 何も見えない。

 

 視界に映るのは一面の白。

 

 どうして僕はこんなところにいるんだろう。

 

 感覚的にはどこかに立っている気がするのだけれど、如何せん辺りは何も見えないし、僕が立っているはずの地面すら分からないのだから、もしかしたら浮いているのかもしれない。空中に浮くって体感も、実際は地面にいるのと大して変わりはないのかもしれないな。

 

 こんな意味不明な環境においてですら、僕はふざけた戯言を思ってしまうのだから、僕ももはや図太いというよりも、恐怖感というか警戒心が人間的に欠如しているとしか思えない。

 

 普通の人だったら、どんなリアクションをするのだろうか。酷く狼狽して取り乱すのかな――なんて言ったら、まるで僕が普通ではないように思われてしまいそうだ。

 

 僕の名前は明日空(あすぞら)(みやこ)――高校二年生の平凡な男子だ。そう、どこにいても不思議ではない、何の取り柄もない普通の学生だ。

 

 自分が誰であるのか、そこまで忘れているわけではないことに安心感は覚えた。ここは誰、私はどこ――だなんて言葉、僕はそういう類の台詞が出てくる小説や漫画は好きではあるけれど、自分自身がそれを言おうとは思えない。

 

 ちなみに、本来の正しい台詞は、ここはどこ、私は誰、というものであるのは、もはや説明不要だとは思うのだけれど、実際のところ、自分が誰か分からないという状態は一体どういう心境なのだろうか。

 

 記憶喪失の主人公って設定の小説はよくあると思うのだけれど、往々にしてその主人公は、自分に記憶がないという状況を、とてつもなく冷静に受け止めていることが多い。

 

 ヒロインとなる美少女――まぁ、幼馴染に対して、僕のことを知っているのか――だなんてことを平然に尋ねたりするけれど、本当に自分が誰か分からないという状況で、あんな台詞を吐けるとは思えない。

 

 自己を確立していないというのは、何にも代え難い恐怖ではないかと、僕は思う。自分が何者であるか分からない――誰だか分からないけれど、それが自分だなんて、僕がもしもその状況下に置かれたら、恐怖心を人間的に欠落しているとしても、きっと発狂してしまうんじゃないだろうか。

 

 いや、小説――特にライトユーザー向けのものに対してリアルを求めるだなんて、捻くれたことをしたくはないのだけれど、実際のところ、僕はこうして記憶喪失なんて笑えない状態に陥ったわけではないから、そんな風にふと思っただけの話だ。

 

 そんな記憶喪失の主人公に対する議論なんて、この理解不能な空間に、目が覚めたら立っていたという、馬鹿げた状況に比べれば、何の意味もありはしない。

 

 自分が一体どうしてこうなってしまったのか、僕は微かに残る記憶を辿って思い出そうと頭を捻った。やっと、正しい方向に回転し始めた思考も、残念ながらすぐに効果を発揮するわけではないようだ。

 

 まるで霞がかかったかのような、曖昧な記憶を手繰り寄せて、僕が今まで何をしていたのか、何が原因でこんな場所に放り出されたのか、考えなければいけない事柄は山ほどあった。

 

 しかし、どれだけ考えても正解に導かれることはなかった。

 

 少なくとも、僕はこんな所に来たことも、こんな所に身に覚えもなかった――いや、逆にこんな白だけの世界を知っている人がいるというのなら、是非とも僕に教えて欲しいくらいだ。

 

 ――と、そのときだった。

 

 辺り一面に広がっていた白が、俄かに急激な光を放ったかと思うと、僕はごくありふれた街の中に茫然と立ち尽くしていた。

 

(2)

 

「……ふぇ?」

 

 思わぬ展開に素っ頓狂な声を上げてしまい、周囲の人間に聞かれてやしないかと、掌を口に当て、辺りを見回すも、運よく誰も周りにはいなかった。

 

「えーと、ここは……?」

 

 閑静な住宅街――どこ懐かしいような気分にさせる風景だった。

 

 ――そうだ。

 

 そこで、僕はようやく隠れていた記憶の一部を蘇らせることが出来た。

 

 ここは昔、僕が住んでいた場所だ。

 

 それを思い出すと、この場所に関する思い出が次々に溢れ出た。

 

 もうかれこれ十年くらい前になるだろうか、僕はここで生まれて、小学校低学年まではここで育ったのだった。

 

 父親の仕事の都合で、僕はここから別の場所に転校したのだけれど、ついこの間、父親が脱サラをして、自分で喫茶店を始めたいと言い出し、実家も近く、慣れ親しんだ場所の方が良いからって理由で、またここに戻ってきたのだった。

 

 もう十年近くここには来ていないから、すっかり街並みも変わっているのではないかと思っていたのだけれど、どうやら昔と大差ないみたいだ。

 

 自分が立っている場所が、知っている場所であることに胸を撫で下ろしたが、先ほどまでの光景は一体何だったのだろう。

 

 立ちながら夢でも見ていたのであろうか。

 

 もしそうであるのなら、僕も大概どうかしていたな。

 

 この年にして、そんな真似をしてしまったなんて、どこか身体が悪いのではないかと思うのだけれど、そんなこと恥ずかしくて誰にも相談なんか出来やしない。

 

 とりあえずは、ボクが精神的に何の問題も抱えていない、健常な男子であることを証明したいところだけど、それより先に解決しなくてはいけない問題が発生した。

 

 ――僕はここで何をしていたんだ。

 

 僕がこの街に戻ってきたことは憶えている。

 

 両親からこの街に戻ることを告げられても、既に十年前の記憶なんてないし――何よりもここ一時間くらいの記憶すらあやふやなのだから、十年前なんて、僕にとっては大昔と言っても良いだろう。

 

 両親曰く、僕がこの街を離れると聞かされたとき、それはもう随分愚図ったようで、それを宥めるのに、両親が相当苦労したそうなのだが、それも今になっては憶えていない。

 

 寧ろ、僕の十年間――小学生高学年から今までという、青春真っ只中を過ごしたのは、ここではなかったのだから、こちらへ戻って来るという方が、抵抗があった。

 

 ふむ、僕はどうやら我儘ばかり言っていたようだな。これを機に、きちんと我慢するということを覚えなくてはなるまい。

 

 それはさて置き、どうやら本当に、僕はここで何をしていたのか憶えていないようだ。

 

 若年性アルツハイマーでもあるまいし、引っ越しの準備やら何やらで疲れていたのだろうか。私物はあまり多い方ではないし、学校で使っていた教科書なども新調するそうだから、そこまで荷造りで苦労した覚えもないのだけれどな。

 

「あーっ! みっちゃんだーっ!」

 

 そんなことを考えているときに、急に大きな声で後ろから呼びかけられた。

 

 みっちゃん――それは僕が小学生のときに呼ばれていたあだ名で、もう長い間呼ばれていなかったが、この街に来たことで、多少は昔の感覚を取り戻したのか、その名前に反応してしまった。

 

 後ろを振り向いて、僕の昔のあだ名を呼んだ人物を見てみると、そこには一人の女の子が立っていた。

 

 白いワンピースに麦わら帽子を被り、髪の毛を三つ編みにしている少女――僕のことを知っているということは、僕の昔の知り合いなのだろうか。

 

 僕と目が合うと、ぱぁと表情を輝かせて、小走りで僕の方へ近寄ってきた。

 

「え、えーと……?」

 

 だけど、さっき言ったように、僕は一時間前の記憶すら曖昧な人間であり、この街のことも今まですっかり忘れていたのだから、昔の知人のことなど憶えているはずがない。

 

 対応に困って、気不味い対応していると、きっと僕が相手のことを憶えていないということに気付いたのだろう、頬をぷくーっと膨らませて不機嫌な表情を見せた。

 

「もうっ! 私のことを忘れているなっ! 私だよ、さっちゃんだよっ!」

 

 ――さっちゃん?

 

 きっとその娘のあだ名なのだろう。そして、きっと物覚えの良い人間――いや、平常な記憶力の持ち主ならば、そこまで言われたら、多少は思い出せるのかもしれないが、僕は全くその名前を憶えていなかった。

 

 それにしても、僕の知り合いということは、きっと年齢も近い――というか、あまり年上や年下に知り合いが多くいるわけじゃないから、同年齢だと思うのだけれど、随分と古めかしい娘だ。

 

 今時、白いワンピースはまだしも、麦わら帽子に三つ編みなんて、この街が都会ではないとはいえ、いくらなんでもファッションが古過ぎるのではないか。

 

 女子高生ならば、お洒落なファッション雑誌の一冊や二冊は見ていてもおかしくはないと思うんだけどな。

 

 まぁ、僕も別段ファッションに詳しいわけではないし、もっぱら着ている服と言えば、セールスで安かったシャツやジーンズだから、他人のことをどうこう言える義理はないのだけれど、それでも、その娘が放つ独特の古臭さというか、若者らしからぬ雰囲気は目立っていた。

 

「ねぇ、みっちゃんっ! 本当に私のこと覚えてないの……?」

 

「え、いや、覚えてるよ。さっちゃんだろ?」

 

 今にも泣きそうな声で言われてしまうと、いや、君のことなんかこれっぽっちも憶えていない、一体全体君は誰なんだ――なんて、言えるはずもなく、僕は思わず調子を合わせてしまった。

 

「本当っ?」

 

「うん。本当だ。僕がさっちゃんのことを忘れるわけがないだろう」

 

「やったねっ! さすがはみっちゃんだねっ!」

 

 とびきりの笑顔を見せられてしまい、こんな可愛い娘に嘘を吐いたことに非常に罪悪感を覚えてしまうのだけれど、これは善良な嘘であって、女の子を泣かせてしまうことよりもずっと良いだろうと自分に言い聞かせた。

 

 僕は嘘を全否定するつもりはない。この世の中には、吐いた方が良い嘘だって少なからず存在していることは知っているし、それが他人を傷つけずに済むことも分かっている。

 

「でもでも、ホント久しぶりだねっ! 私もみっちゃんに会えて嬉しかったよっ!」

 

 嬉しかった?

 

 どうしてそんな表現を使うのか疑問ではあったのだけれど、僕にとって最優先事項は、僕が夢遊病の類の病気を患っていないことを証明するためにも、この場所で何をやっていたのかを思い出すことだった。

 

「あれ……? でも、みっちゃんがいるってことは?」

 

 僕が全く別のことを考えているというのに、この娘はずっと僕のことを考えてくれているようで――だけど、僕がこの場所にいることを不思議に思っているのか、小首を傾げて考え込んだ。

 

「うん。父親がここで喫茶店を開くみたいだから、また戻ってきたんだよ」

 

 さすがに、相手が僕とコミュニケーションを取ろうとしてくれているのに、それをぞんざいにしてしまう程、僕も人が悪いわけではない。

 

 ここで何かをしていたのだろうが、いずれきっと思い出すだろうと、そのことを脇に置いておいて、久しぶりに会ったかつての友人らしき女の子と、昔話に花を咲かせるのも悪くない。

 

「あっ、そうか。そうだね。……うん」

 

 僕がここに戻ってきた理由を述べたというのに、その娘は何やら焦ったような仕草を見せた。まるで何かを隠すかのように――なんて、このちょっとファッションセンスの古いだけの、実に可愛らしい少女が、何か重大な秘密を持っているようなことはないんだろうけどね。

 

 何でもかんでも、身の回りに起こったことを伏線のように思ってしまうなんて、僕が患っている病気は、単なる厨二病なのだろうか。

 

 まぁ、せっかくの機会なのだから、このさっちゃんと――誰であるかも、その内思い出すだろうし、いろいろと話してみるのも楽しそうだな。

 

「ねぇ、さっちゃん。久しぶりに会えたんだから、どこかに行かないかい? こんなところで立ち話も何だろう?」

 

「えっ! それってデートのお誘いなのかなっ? そんな昼間から堂々と誘われちゃうなんて、さっちゃんは断れないよっ!」

 

 顔を赤くして、はしゃぎながら答えるさっちゃん。

 

 勿論、僕にはこれがデートの認識はないし、一般的に考えても、ただどこかでお話しましょうというお誘いがデートであるとも考えづらい。

 

 だけど、その仕草やころころと変わる表情は、実に微笑ましく、普段の僕ならきっと自意識過剰だなと不快に思えるようなことが、不思議と彼女にはそのような印象を持たなかった。

 

「よし、じゃあ決まりだね。どこか話せるような場所はあるかな? 僕も久しぶりに戻ってきたから、土地勘はすっかりなくなっていてね。どこに何があるかなんて、全然憶えていないんだよ」

 

「そうなんだっ。じゃあ、家においでよっ。ここから近いしさっ」

 

「え?」

 

 家だと。

 

 いやいや待ってくれ。いくら僕でも、いきなり彼女の家に上がるだなんて――仮に彼女のご家族がいたとして、あまり誉められた行為でないことは出来ない。

 

 そもそも、お互いがもう高校生なのだから、異性が自分の部屋に入ることを嫌がるのが普通というものじゃないのか。僕も警戒心が薄い方ではあるけれど、この娘はもっと酷いな。この先、悪い男に引っ掛からないか非常に心配だ。

 

「どうしたの、みっちゃん? 前はよく来てたじゃないっ?」

 

 そうなのか。十年前の僕が、こんな可愛い娘の家に頻繁に行くほど、充実した毎日を送っていたなんて、何とも羨ましい――いや、何とも怪しからん男だ。

 

「でも、ご両親は僕のことを憶えているのかい? いきなり得体の知れない男を、愛娘が連れてきたりしたら、きっと驚くんじゃないのかな」

 

「えっ? みっちゃん何言ってるのっ? お父さんもお母さんも、みっちゃんのことを知ってるはずないよっ?」

 

「やっぱり却下だね」

 

 いやいやいや、尚更じゃあ行けないよ。

 

 この年にして、お父さんから、君は一体娘の何なのかね――なんて言われる修羅場を経験したくないし、何よりも僕はこの娘と何かいかがわしい関係にあるわけではないのだから、わざわざテレビでお馴染の恐怖体験なんか味わいたくない。

 

「えーっ? どうしてどうしてっ? さっちゃんは久しぶりにみっちゃんのことを膝枕してあげたいのになっ」

 

 いや、十年前の僕はどこまでこの娘と仲良かったんだ。

 

 中学、高校では大して女の子と仲良く出来ずに、中学の卒業式では僕の第二ボタンの貰い手が現れるまで、式が終わってからもずっと学校に残り、挙句の果てに、担任の先生――四十歳独身(♂)に慰められたというのに――しかも、何故かその教師にボタンを渡す羽目になった。勿論、黒歴史として封印している。

 

 そんな僕がこんな可愛い娘に――何度も言っているからしつこいと思うが、大事なことだから何度でも言う――こんな可愛い娘に膝枕をされていただと。世の中のモテ男子に自慢したいくらいだ。

 

「いや、勿論、僕も膝枕をされたい――いや、そうじゃなくて、お互いもう年齢が年齢だしね。そういうことは、あまりしない方がいいよ。下手に勘違いでもされたら大変だ」

 

 僕はそんな勘違いするような男ではないから、その発言で、まさか、さっちゃんは昔から僕のことを好きだったのか――なんてことを思いはしないけれど、他の男がどう感じるかは分からないからな。

 

「ふーん。前みたいに甘えてくれもいいのになっ」

 

「僕はそこまで甘えん坊ではないよ」

 

「いーっだっ。いいもんっ。ふん、だっ。もうみっちゃんには膝枕してあげないもんっ」

 

 リアクションは相変わらず古いけれど、妙に可愛らしいさっちゃん。

 

 もう膝枕してくれないのは非常に惜しい。

 

「それでどうしようか。さっちゃんの家という案はなしとして、他にどこかゆっくり出来る場所はないかな?」

 

「ぬー、公園とかはどうかなっ?」

 

「公園か。うん、いいんじゃないかな」

 

「でしょっ? さっちゃん頼りになるっ?」

 

「うん。これからは何かあったら、全部さっちゃんに頼ることにしよう」

 

「えっへっへっ。うんうん、さっちゃんにどんと任せなさい」

 

 とてもノリが良いさっちゃんに案内されて、近くの公園に行った。

 

(3)

 

 ――あ。

 

 その風景を見た瞬間、まるでフラッシュバックのように、十年前の僕がここで遊んでいたときの記憶が蘇った。

 

 既に遊具もほとんど撤去されていたが――遊具がない昨今の公園なんて、僕は公園なんて認めないのだけれど、ジャングルジムがあった場所、ぶらんこがあった場所、当時、それらで遊んだことを思い出したのだ。

 

 幼少期の僕は、今とは異なり、結構アクティブな部分が多かった。学校終わりや休日には、よくこの公園に遊びに来て、夕方まで泥まみれになりながら遊んだものだ。

 

「……懐かしいなぁ」

 

 ノスタルジックな気持ちというのか、まだ高校生でありながら、こんな感情を抱くだなんて思いもしなかった。この街を故郷だなんてこれまで思ってもいなかったが、やはりここは僕が幼少時を過ごした場所だ。

 

「ほらぁ、行こうよっ」

 

 ぐいっと僕の手を引っ張って公園の中まで歩くさっちゃん。

 

 そして、その手から伝わる温もりは、確かに僕の知っているものだった。

 

 僕の心を穏やかにするような、きっと僕の幼少期という時期の中では、大切な思い出であるこの温かさを、どうして僕は思い出すことが出来ないのだろうか。もはや、物覚えが悪いとかの問題ではなく、記憶障害を持っているとしか思えない。

 

 二人で公園の隅っこにあるベンチまで進んだ。

 

 きっと僕がいた頃から変わらないベンチなんだろう。座るところには、埃が積もっていて、座ったら壊れてしまうんじゃないかって思うくらい、ボロボロになっていた。

 

「あーあっ。もうきっと公園で遊ぶ子供もあまりいないんだろうねっ」

 

「そうだね。今の子供は、ゲームを使っても身体を動かすことが出来るから、外で遊ぶだなんてことも、少なくなったんだろうね」

 

 僕も男子高校生だから普通にテレビゲームは好きなのだけれど、やっぱりゲームを使って運動めいたことをするというのには慣れない。

 

 ゲームをしているのか、運動をしているのか曖昧だし、友達や家族と遊ぶ分にはそれなりに楽しめるのかもしれないが、一人で遊ぶのは何だか寂しい気がする。

 

 まぁ、基本的にはゲームをするなら、一人でRPGをやるのが好きだから、オンラインやら、所謂すれ違うことで他人と繋がるというシステムもあまり好きではない。

 

 そもそもRPGは、一人で深夜から明け方まで引き籠ってやるのが楽しいと思っているのは僕だけだろうか。あの、朝日を見ながら、数時間みっちりゲームを楽しんだ後の、何とも言えない疲労感を満喫するのが醍醐味ではないか。

 

 いや、寧ろゲーム自体の内容なんてどうでもいい。どんなクソゲーであろうと、ひたすらコントローラーを握り締めてテレビと向かい合うことが、僕にとっては本当の楽しみになっているのだ。

 

 おや、おかしいな。ゲームで運動することが公園やグラウンドなどの使用を妨げていて、子供たちにとってはあまり良いことではないと言うつもりが、どうして僕の特殊な性癖を披露することになっているのだろう。

 

「本当に、子供は外で遊ぶのが一番なのにねっ」

 

「さっちゃんの言う通りだ。僕はさっちゃんの意見に全面的に賛同の意を示すよ」

 

「子供は風の子、大人は火の子だよねっ」

 

「そうだそうだ」

 

「子供は数の子、大人はニシンだよねっ」

 

「いや、待ってくれ。今、それは全くの無関係だよね。それに厳密に言えば、数の子は子供ではなく卵だろう」

 

「数の子って、かどの子が訛ったのが由来だって知ってかなっ?」

 

「おい、どんどん関係なくなっているぞ。僕はさっちゃんの食材雑学にそこまで興味はないのだけど」

 

「かどの子ってなんだか角の子って書けば、隅にいるぼっちの子供みたいで、可哀想だよねっ? まるでみっちゃんみたい」

 

「待て待て。僕の幼少期は意外とアクティブだってさっき触れたのに――と言うか、どうして久しぶりに会ったさっちゃんが僕の中高時代のことを知っているんだ」

 

 いや、それよりも僕はぼっちだったわけではない。

 

 友達だってたくさんいたぞ。

 

 犬とか猫とか案外動物には好かれる方だったのだ。住んでいた場所がマンションだったから、自宅で動物は飼えなかったけれど、近所の野良犬や野良猫は、僕にとっては掛け替えのない友人だった。

 

「……みっちゃん、友人は、人の字が付くんだから、人間じゃなきゃダメだよっ」

 

「いや、ポチ子やミケ男だって僕の立派な友だ。それだけは譲れないぞ」

 

「みっちゃんってネーミングセンスないね。うん。もう友達でいいよ」

 

 と言うか、人の心を普通に読むのはおかしいだろう。さっちゃんはエスパーだったのか。

 

 それにしても、どうしてさっちゃんは、こんなにも憐れむような目で僕のことを見ているのだろう。僕にはたくさんの友がいるのだから、この件に関しては一切心配してもらう必要なんてないというのに。

 

 でもまぁ、良かった。何とか僕がぼっちでないということを、分かってもらえたみたいだな。ポチ子やミケ男とはもう会えないのが、実は僕がこの街に戻って来ることに抵抗を感じた理由だったのだ。

 

 これから寒い季節が来たときに、あいつらは僕が守ってあげなくても立派に暮らしていけるのだろうか。僕は冬が訪れる度に、あいつらのことを想って、悲しみに暮れるのだ。

 

「ほら、みっちゃんっ。そんなところに立っていないで、早く座ってよっ」

 

 さっちゃんはいつの間にか、ベンチに腰を降ろしていたので、僕も手で埃を払ってから、その横に座った。ぎしっと嫌な音が鳴ったものの、どうやら僕とさっちゃんの体重くらいでは壊れることはないようだ。

 

「うーんっ。気持ちいいねっ」

 

 季節は、もうそろそろ夏に入ろうとしている時期だから、これだけ日差しが強いと、何をしていなくても、多少は汗ばんでしまいそうだ。

 

 雲一つない綺麗な晴れ空は、見ているだけで心が癒されるような気持ちがして、僕たちは話すためにここに来たというのに、そんなことはすっかり忘れたように、その空を見つめていた。

 

「……ねぇ、さっちゃん」

 

「うんっ? どうしたのかなっ?」

 

「いや、こうやって静かな場所でゆっくりするのも良いものだなって」

 

 僕が引っ越した場所は結構都会だったから、こんな公園なんてほとんどなかったし、どこにいても人に溢れ、喧騒に包まれていた。そんな場所では、こうやって何もせずに呆けていることなんてなかった。

 

 公園には人っ子一人いなかったし、そういえば、ここに来るまでも誰にも会ってない――普通に道路を歩いていたのに、車一台すら見ていないのだ。

 

 さすがにここも過疎化の影響を受けているのかな。

 

「ふふふ、みっちゃんってばお爺さんに似てるねっ」

 

「お爺さんって。失礼だな。僕はまだまだ前途明るい、希望に満ちた年齢だぞ。みっちゃんのお爺さんのことは、僕は知らないけれど、ご高齢の方に例えられる程、爺臭い趣味はしていない」

 

「うんっ、そういう意味じゃないんだけどねっ」

 

「え? じゃあ一体どういう意味――」

 

「あっ。ほら、見て、みっちゃん。ボールが落ちてるよっ」

 

 僕の言葉を遮って、前を指すさっちゃんの視線の先を見てみると、確かにバスケットボールが一つ転がっていた。

 

「誰かが忘れていったのかな?」

 

 ずっとここに放置されていたわけではないようだが、寂しそうに風に転がされていた。

 

「ねえっ。せっかく公園に来たんだから、あれで遊ぼうよっ」

 

「うん。それは良いアイディアだね」

 

 たださっちゃんとベンチで話しているだけでも、それは楽しいのだろうが、公園に来るのだって久しぶりだし、たまには童心に帰ってはしゃぐのも悪くないかもしれない。

 

 でも、既に遊具類はほとんど撤去されているから――確か、僕の記憶だと、この公園にはバスケットゴールもあったはずなのだが、残念ながらそれを使うことはもう出来ない。

 

「さっちゃんねっ、一回バスケットってやってみたかったんだっ」

 

 素早くボールまで近付くと、さっちゃんはそれを拾い上げて、満足そうな様子でバウンドさせた。幸い、空気は抜けていないようで、ボールが地面にぶつかると、小気味の良い音と共に、さっちゃんの手元まで戻ってきた。

 

 でも、バスケもしたこともないのか。体育かなんかでバスケくらいやらなかっただろうか。小学生の体育でどんな種目をやっていたかなんて記憶にはなかったけれど、中高のときはやった。

 

 地方によって違うものなのかな。ここら辺は田舎と言っても過言ではないから、もしかしたら、そういうものではなくて、マラソンとかやっているのかもしれないな。

 

 さっちゃんは不器用そうにドリブルしながらこっちに歩いてきた。本当にバスケをしたことがないみたいで、見ているだけで危なっかしかった。

 

「でも、どうしようか? もうゴールも撤去されているみたいだから、バスケ自体は出来ないよね?」

 

「大丈夫だよっ」

 

 さっちゃんはボールを僕に投げて寄こすと、悪戯そうな笑みを浮かべながら、別の方を指し示した。

 

「あぁ。なるほどね」

 

 さっちゃんが目を付けたのはゴミ箱だった。

 

 これもベンチ同様にほとんど使われた形跡がなく、中身に関しても空だった。さっきまでこの公園も、もっと多くの人に使われるべきだとだと思っていたが、これに関してはありがたかった。

 

 僕はゴミ箱の場所を少し移動させて、即席のゴールとした。勿論、バスケのように高い位置にあるわけではないけれど、バスケ初心者のさっちゃんがするのだから、これくらいで丁度良いだろう。

 

「ほら、さっちゃん、シュートを打ってごらん」

 

 僕は再びボールをさっちゃんの方へ放った。軽く投げたつもりだったけれど、さっちゃんの不意をついてしまったようで、慌てた様子でボールをしっかり受け止めるさっちゃんの姿がとても可愛らしかった。

 

「よーしっ! 見ててねっ!」

 

 さっちゃんは麦わら帽子を外して、ぐっと拳に力を込めてボールを握ると、鋭い眼差しでゴール代わりになっているゴミ箱を凝視した。

 

「それっ!」

 

 さっちゃんはボールを気合と共に投げた。

 

 片手のオーバースローで。

 

 勿論、そんな投げ方をしてしまい、かつ力を入れ過ぎてしまったようなので、ボールはゴミ箱を余裕で通り越してしまった。

 

「ああんっ! 惜しいねっ!」

 

「いや、全然惜しくなかったぞ。それに投げ方も酷過ぎるだろう」

 

 ボールの軌道は完全に直線だった。

そう思わず突っ込んでしまったら、さっちゃんは機嫌を損ねてしまったようだ。

 

「なんだよっ、みっちゃんの癖に生意気だぞっ。だったら、さっちゃんにお手本を見せてよっ」

 

 そう言われてしまったら、僕も何としてでも華麗にゴールを決めなくてはいけないだろう。こういう場面で格好良いところを見せるのが、僕がしなくてはいけないことだ。

 

「よし。じゃあ、僕が見事にシュートを打つところを刮目して見ているんだよ」

 

「うんっ。わくわく……わくわく……」

 

 さっちゃんが明らかに期待の目で見ているのだから、絶対に外すことは許されないな。

 

 よし、ここは僕の好きな漫画の名台詞を言って、綺麗にゴールを決めてやる。

 

「左手は、添えるだけ……」

 

 その言葉通りに、左手はボールに触れるぐらい脱力した状態で放ったシュート。

 

 それは綺麗な放物線を――描くことはなく、ゴミ箱に掠ることもなく地面に落ちた。

 

 しかも、所謂女の子投げであった。

 

「………………」

 

「……みっちゃん?」

 

 すっかり忘れて、名バスケットボールプレイヤーのように振舞ったが、僕はそもそもスポーツが得意ではない。陸上競技や水泳のように、何も使わないものなら決して出来ないことはないが、バスケや野球といった球技は特に苦手だった。

 

「あははー、みっちゃんってば下手くそだねっ」

 

 僕を指さしながら笑うさっちゃん。

 

「ぐぬぬ……こんなはずでは」

 

 そう言ったものの、僕みたいなやつがここで鮮やかにゴールを決められる程、世の中というものは甘くは出来ていないだろう。

 

 でも、さっちゃんに笑われたのは少々悔しかった。

 

「見てろよ。次こそは決めてやる」

 

 僕はすぐにボールを拾いに向かって、再びシュートを打とうとした。

 

「あーっ、ダメダメっ。次はさっちゃんの番だよっ」

 

 すると、さっちゃんが僕からボールを奪おうとしたので、反射的にそれを遮ってしまった。ボールを上に掲げて、背が僕よりも低いさっちゃんの手には届かない位置にした。

 

「あうっ。もうっ、みっちゃん、意地悪だよっ」

 

 ぴょんと跳ねてボールを取ろうとするが、それでも残念ながら、さっちゃんの手はボールに触れることはなかった。

 

「ふっふっふ、シュートを打ちたくば、僕からボールを奪うんだな。これからはワンオンワンでの勝負だ」

 

 悪役っぽい台詞を言い放つと、さっちゃんから距離を置いて、ドリブルをする。

 

「よーしっ。すぐに奪ってみせるんだからねっ」

 

 それからというもの、さっちゃんとのボールの奪い合いが始まってしまった。

 

 さっちゃんはバスケのルールをあまり知らないみたいだし、僕も僕で、運動音痴だったから、きっとダブルドリブルとかトラベリングとかの違反を何度かしてしまっただろうけど、そんなのは関係なかった。

 

 さっちゃんが僕からボールを奪い取って、したり顔をすると、僕も負けずにボールを奪い返そうと必死になり、広い公園の中を縦横無尽に駆け回った。

 

 当初はゴールの代わりに使用しようとしたゴミ箱も、そうなってしまってはもう使われることもなく、僕たちは高校生でありながら、本当に小学生のようにじゃれ合っていた。

 

 きっと、他人がこんなことをしている場面を目撃してしまったら、捻くれた性格をしている僕は、嫉妬心に駆られて不快感を露わにしたのかもしれないが、いざ自分たちがそうすると、周りの目など一切気にすることなく、ただひたすら遊びに興じた。

 

 結構な時間をそうしてさっちゃんと遊んでいたが、さっちゃんよりも先に僕が疲れ果ててしまって、挙句の果てには、肩で呼吸をしながら、ベンチに座り込んでしまった。

 

 身体中が汗まみれで、べたべたするのが非常に不快ではあったけれど、久しぶりに――友達と公園でこうして遊ぶなんて、きっと小学生以来だろうが、運動後の爽やかな気持ちの方が上回っていた。

 

「えーっ、みっちゃん、もっと遊ぼうよっ」

 

「待ってくれよ。僕もう疲れちゃって動けないよ」

 

「だらしないなっ。男の子でしょっ」

 

「何も言い返せないな」

 

 さっちゃんはとても元気だな。僕がもうこんなにへとへとだというのに、息一つ乱れていないなんて。

 

「もうっ、仕方ないなっ。ちょっと休憩ねっ」

 

 そう言って僕の横にちょこんと座るさっちゃんは、そこで何かを思いついたのか、僕の服をちょいちょいと引っ張った。

 

「うん? どうしたの?」

 

「みっちゃん……、ほらっ」

 

 そう言って、みっちゃんは自分の太股をポンと叩いた。

 

「え? なに?」

 

「膝枕だよっ。さっきも言ったでしょ? 久しぶりに、さっちゃんはみっちゃんを膝枕してあげたいのですっ」

 

「い、いや、汗かいてるし、汚いよ」

 

「いいのっ。ほらっ、おいでっ」

 

 何度も太股を叩くさっちゃんだったが、そこまで言われると何だかやらない方が悪いというか、誤解されたくないから言っておくが、僕は決して下心があるとかそういうんじゃなくて、今はさっちゃんの好意に素直に甘えるというのが、旧友に会った僕の務めというものだろう。

 

 そういう訳で、僕は躊躇しながらも、さっちゃんの膝の上に頭を乗せた。

 

「うんっ。それでよろしいっ」

 

 さっちゃんは満面の笑みで僕の頭を撫で始めた。

 

「や、やめてくれよ。恥ずかしいじゃないか」

 

「何言ってるのっ。みっちゃんはこうやってされるの、好きだったでしょっ?」

 

 そうだったのか。幼少期の僕はこうやってさっちゃんの膝の上で頭を撫でられるのが好きだったのか。

 

 いや、待てよ。僕とさっちゃんが同い年だとすると、僕が幼い頃は、当然さっちゃんにとっても幼い頃であって、あどけない少女の膝の上でこうやって悦に浸っていたなんて、当時の僕はどれだけ変態だったというのだ。

 

 どちらも幼かったのだから、きっとそんな卑猥なことは頭にも過らなかったのだろうが、今になって思うと、これだけ恥ずかしいことはない。

 

 そんなことを考えていると、きっと僕は赤面してしまっているだろうから、さっちゃんに顔を見られまいと顔を背けてしまうのだけれど、内心懐かしい気がした。

 

 この年になって、同年代の女の子の膝の上という何とも羞恥に耐え難いシチュエーションにありながら、僕はこうやってされるのが好きだったことを何となく思い出した。

 

 さっちゃんにしてもらった記憶が完全に蘇ったわけではないのだけれど、そっと瞳を閉じて、さっちゃんの柔らかな肌の感触や、頭を撫でられる心地良さを感じると、確かにそれを憶えていた。

 

「気持ちぃっ? みっちゃん」

 

「べ、別に……」

 

「嘘だっ。気持ちぃって顔に書いてあるよっ」

 

 いや、確かにさっちゃんの言う通り、とても気持ち良いのだけれど、そんな直接的に訊かれると、僕だって素直に答えることなんて出来ない。

 

 だけど、僕がとぼけたところで、さっちゃんにはお見通しだった。

 

 どうやら、僕はさっちゃんには敵わないみたいだな。

 

「こうやってみっちゃんを撫でていると、昔のことを思い出すねっ」

 

「う、うん」

 

 残念ながら、相変わらず僕はさっちゃんとの思い出を取り戻すことは出来ずにいるのだけれど、何とか誤魔化しながらさっちゃんに話を合わせた。

 

 そうやってしばらくの間、さっちゃんの膝の上を満喫した後、さすがに誰かに見られたら――さっちゃんみたいに僕のことを憶えているかつての友達がここに偶然来るとも限らないから、僕は普通にベンチに座り直すことにした。

 

「もういいのっ?」

 

「うん。ありがとうね」

 

「どういたしましてっ」

 

 そんな微笑むさっちゃんの笑顔と、久しぶりに公園で子供のように遊んだことも相まって、自然と僕の頬は緩んでしまった。

 

「どうしたのっ?」

 

「え? いや、こうやって公園で過ごすのも久しぶりだからね。さっちゃんともよく遊んだのかなって思ってさ」

 

「うん……」

 

「ん?」

 

 それまでテンションが高かったさっちゃんが、急に落ち込んだというか、曖昧な回答をしたのに、軽く驚いた。

 

「さっちゃんは、みっちゃんとここに来たことないんだよ」

 

「あれ? そうだっけ?」

 

 彼女の家に遊びに行ったことがあるくらいだから、それなりに良い関係を築いていたと思っていたのだけど、公園には一緒に来たことなかったのか。

 

「さっちゃん、身体が弱かったから。お外に出ることもあまり出来なかったの」

 

「あ、そうだったのか。……ごめん」

 

「いいの……。それに今はこうやってみっちゃんと一緒に来れたもんねっ」

 

 気丈に笑顔を作るさっちゃん。

 

 きっと僕の不用意な発言で、僕がさっちゃんに気を遣うことを見越して、でもそれを嫌がって、そんな風に振舞っているのだろう。僕と今まで元気に駆け回っていたから、きっと昔のさっちゃんも活発な娘だったのだろうと思い込んでいたのだけれど。

 

 そうか。だからさっちゃんはバスケをしたことがなかったんだ。きっと体育の時間もずっと見学していて、もしかしたら、こうやって普通に遊ぶことが出来るようになったのも、案外最近のことなのかもしれないな。

 

 本当に僕は馬鹿だ。こんな優しい心を持つみっちゃんのことを未だに思い出すことが出来ないなんて――幼い頃、身体が弱かったなんて、とても印象的だというのに、僕の腐った脳は全く機能してくれない。

 

「さっちゃん……」

 

「ん? どうしたのかなっ?」

 

 本当のことを言いたい。

 

 僕は君のことをこれっぽっちも覚えていない糞野郎であると、これまでずっと嘘を吐いていたのだと、謝りたい。そして、そんな僕を叱り飛ばして欲しい。

 

「僕は――」

 

「いいよっ。さっきも言ったでしょっ? 気にしないで、いつもの元気なみっちゃんに戻って欲しいなっ」

 

 よく比喩で輝くような笑顔と使うことがあるが、今のさっちゃんの笑顔は正しくそれだろう。

 

 そんな笑顔を見せられて、僕はとうとう本当のことを言い出すことが出来なくなってしまった。いや、言い訳をさせてもらえば、これは保身ではなく、単純にさっちゃんの笑顔を壊したくなかったからだ。

 

 こんな素敵に笑うことが出来るさっちゃんを――きっと僕が彼女を忘れているだなんて言えば、その繊細な心を酷く傷つけてしまうだろう。

 

 僕はさっちゃんが泣いている姿なんて見たくなかった。

 

「うん。ありがとう」

 

 僕はそう言って無理矢理微笑むことにした。

 

 さっちゃんは優しいな。こんな彼女を騙しているなんて、僕は本当に最低な人間だ。だから、せめて今だけでも彼女に好かれるように振舞おう。どれだけ偽善的であろうと、自分本意なことであろうと言われても、僕は、さっちゃんだけは悲しませたくない。

 

(4)

 

 そんなこんなで、空を見上げると、既に日が傾いていて、結構な時間が経過していたことに気付いた。

 

 今日は腕時計もしていないし、携帯も家に忘れてしまったのか、所持していなかった。公園に設置してあった時計も、この公園が久しく使われていないことを意味するように、朽ちてもう針が動いていなかった。

 

 だから、僕が一体何時からこの場所にいて、どれくらいの時間を過ごしたのかは分からない――普通に数時間はいたのだろうが、随分いたような気もするし、ほんの一時だったような気もした。

 

 それだけ、さっちゃんと過ごした時間が楽しかったのだろう。

 

 僕は人と触れ合うのが得意な方ではないから――もう暴露してしまうけど、人間の友人はあまりいない。だから、いくら旧友であったとしても、大分久しぶりに会ったさっちゃんとすぐに打ち解け合えたのは驚きだ。

 

 そもそも、僕がさっちゃんと出会ってから、すぐに彼女と話すのも悪くないって思った時点でおかしいのだ。普段であれば、気不味い会話をしたくないという理由で、そんなことはしていなかっただろう。

 

 何故かさっちゃんとはそうならないことが分かっていたのだ。さっちゃんとなら、楽しくおしゃべりが出来ると無意識の内に確信していたようだ。

 

 どうやらさっちゃんとは気が合うらしい――いや、単純に気が合うだけじゃないのかもしれない。

 

 もしかしたら――

 

「ごめんね、みっちゃん」

 

 さっちゃんは急に寂しそうな顔をすると、僕にそう告げた。

 

「どうしたんだ? いきなり謝って。別にさっちゃんは何も悪いことをしていないじゃないか」

 

「んーん、さっちゃんはね、みっちゃんに嘘を吐いていたのです」

 

「え?」

 

「実はね、みっちゃんがさっちゃんのことを憶えてないって知ってだんだ」

 

 僕は言葉を失ってしまった。

 

 まさか、僕の嘘に気付いていたなんて。

 

 確かに、今思えば、さっちゃんと交わした言葉を振り返ると、僕がさっちゃんのことを憶えていないって、察することが出来たのかもしれないけれど、さっちゃんはこんな性格をしているから、分からないと思っていた。

 

「で、でも……、だったら、謝るのは僕の方だよ。さっちゃんのことを傷つけてしまったんだもの」

 

「違うの……。違うんだよ、みっちゃん」

 

「何が違うって言うんだい?」

 

「みっちゃんは、さっちゃんのことを憶えているはずがないんだよ」

 

「……何を言っているんだ?」

 

 ――覚えているはずがないだって。

 

 でも、さっちゃんは僕のことを憶えているじゃないか。

 

 僕のことに気付いてくれたじゃないか。

 

 よく家に遊びに行って、膝枕してくれたんだろう。

 

 それに僕だって、さっちゃんの手の温もり、膝枕されたときの心地良さを憶えているのだ。そりゃ、確かに今だって、さっちゃんとどんな風に過ごしたのかをはっきり憶えているわけではないのだけれど、さっちゃんとの思い出は確かにある。

 

 憶えていないのは、僕が記憶障害にも等しい程に物覚えが悪くて、これだけさっちゃんと楽しく過ごしたというのに、思い出すことが出来ない最低な人間だからだ。

 

 さっちゃんは悪くない。

 

 これっぽっちも悪くない。

 

「ごめんね……、みっちゃん」

 

「謝らないでよ」

 

「さっちゃんが悪いの」

 

「止めてくれよ」

 

「ごめんね」

 

「謝るなよっ! そんな悲しそうな顔するなよっ!」

 

 僕は怒鳴ってしまった。

 

 普段、怒りなんて感情が表面に出てくることなんて、滅多にないというのに、何故か――自分でも分からないのだけれど、僕はさっちゃんに向かって大声を発していた。

 

 ――どうして、ごめんだなんて言うんだよ。

 

 ――どうして、そんな表情をするんだよ。

 

 ――どうして、どうしてだよ……。

 

 怒鳴られなくちゃいけないのは僕なのに。謝らなくてはいけないのは僕なのに。

 

 どうして、さっちゃんがそんなことを言うんだよ。

 

 そのさっちゃんの儚い笑みを見ているだけで、僕の心は張り裂けそうな程に痛くなった。痛くて痛くて、その痛みを誤魔化すかのように、怒りが沸々と湧きあがった。

 

 彼女に向けられた怒りでもなく、僕自身に向けられた怒りでもなく、どこにも向けられない空虚な怒気――これ程理不尽で、無意味なものはない。

 

 どうして、さっちゃんがそんなことを言うのか――僕にはその理由がさっぱり分からない。だけど、こうしてさっちゃんの悲しそうな表情を見るだけでも、僕は無性に苦しくなった。

 

「ごめん、怒鳴ったりして」

 

「んーん、いいんだよ。だって、さっちゃんが悪いんだもん。さっちゃんが、最初からきちんとみっちゃんに説明してあげれば良かったんだよ」

 

「もう一度訊くけど、どういうことか説明してくれないか? 僕も怒鳴ったりしないし、きちんとさっちゃんの言うことを聞くからさ」

 

「……ごめんね、もう時間がないんだよ」

 

「え?」

 

 さっちゃんはそう言って僕に走り寄ると、僕の身体を突然抱き締めてきた。

 

 さっちゃんの綺麗な黒髪からは、シャンプーのものなのか、それともさっちゃん自身のものなのか、とても良い香りがした。

 

「……さっちゃん?」

 

 僕の胸に顔を埋めるさっちゃん。

 

 小さくてよく聞き取れないが、どうやら泣いているようで、彼女の嗚咽が聞こえた。

 

「ごめんねぇ……、ごめんねぇ……みっちゃん」

 

「…………」

 

 どうすれば良いのか分からなかった。

 

 彼女が泣かなくてはいけない理由が分かれば、僕にだって慰めることは出来るのかもしれないのだけれど、その理由に見当がつかない僕は、ただただ彼女が泣き止むまで、彼女の背中を撫でてあげることしか出来なかった。

 

 しばらくすると、さっちゃんも落ち着いたのか、小刻みに震えていた身体も止まり、そして、潤んだ瞳で僕を見上げると、少し晴れやかな顔で微笑んだ。

 

「もう大丈夫。ごめんね、みっちゃん」

 

「そう何度も謝らないでよ。さっきも言ったけど、謝るのは僕の方だ」

 

「うん。ありがとう。やっぱりみっちゃんは優しいね。昔と変わらないよ」

 

「さっきも言っていたけど、僕がさっちゃんのことを憶えているはずがないってどういう意味なんだい? さっちゃんは僕のことをよく憶えているみたいだし、僕だって、さっちゃんの思い出はある」

 

「それはその内わかると思うよ。残念だけど、もうみっちゃんには時間がないんだよ。日が暮れればもう手遅れになっちゃうから。だから、早くみっちゃんはお家に帰って、ね?」

 

「時間がないって?」

 

「みっちゃんはここにいちゃいけないんだよ。もうさっちゃんとはお別れなの」

 

「お別れ……?」

 

 確かにもう日も傾いているから、間もなく暗くなってしまうだろう。こんな街では、街灯の数もそれ程あるわけではないだろうから、さっちゃんのような女の子が、歩くには危険だとは思うのだけれど、そういう意味ではないと思う。

 

 夜になってしまえば、僕がさっちゃんを家まで送り届けるのは当然であるし、何よりも、ここにいちゃいけないという言葉が意味を為さない。

 

「さっちゃんの我儘に付き合ってくれてありがとう。最後にみっちゃんに会えて本当に嬉しかったよ」

 

「最後って……? どういう意味なんだ? さっちゃんにはもう会えないのか?」

 

 ――そんなのは嫌だ。

 

 せっかく会えたというのに、せっかく仲良くなれたというのに、もう会えないなんて言わないでくれ。僕はさっちゃんにだったら、何度だって会いたいよ。

 

 さっちゃんは悲しそうに微笑んでいる。

 

 どうしてだろう。その表情を見ていると、彼女は確かにそこに存在して、僕の目の前で笑っているというのに、何故か彼女の存在が希薄に感じられた。

 

 まるで最初からそこにいなかったのように。

 

 僕は今までずっと一人でこの公園にいたかのように。

 

 周囲の人間から見れば、僕が独り言を呟きながら、一人でバスケに耽っていた。

 

 そんな馬鹿なことが起こるはずがない。大体、もしもそうたとしたら――さっちゃんが僕にしか見えない存在なのだとしたら、どうやって僕はさっちゃんからボールを奪ったり、膝枕されたりしたんだ。

 

 そんな非現実なことを易々と受け入れられる程、僕はオカルトチックなものを心から信じているわけではない。

 

「ありがとう、みっちゃん。大好きだよ」

 

 さっちゃんは再び僕を抱き締めた。さっきのように僕の背中に手を回すのではなく、僕の首に手を回して、よしよしと言いながら僕の頭を撫でた。

 

 さっちゃんの背丈では僕の頭に触れるのも一苦労だろうに、一生懸命背伸びをして――だけど、とても嬉しそうに僕の頭を撫でる。

 

「えへへっ」

 

 はにかむさっちゃん。

 

 幼さが際立つあどけない表情の中に、母親のような慈愛に満ちた優しさが溢れた。

 

 同い年の女の子に頭を撫でられるなんて、正直に言えば僕の趣味じゃない。他人に身体を触れられるという行為は、本来不快感を得るものであったが、さっちゃんに撫でられたとき、それはなかった。

 

「ばいばい……みっちゃん」

 

 そう言って、さっちゃんは手を振った。その瞳には再び涙が一筋流れていたが、さっちゃんの表情に悲しさはなく、どこか清々しさのようなものが感じられた。

 

「待ってくれっ! 僕は――」

 

 さっちゃんに歩み寄ろうとした。しかし、どういう訳か、僕の足は動くことはなく、そして、どちらも動いていないというのに、さっちゃんが遠くに行ってしまうのが分かった。

 

 まるで、テレビの画面が遠ざかるように、僕の視界からさっちゃんの姿が消えようとしていった。さっちゃんだけではない。これまで僕が立っていた公園の風景が、そのままどこかへと消えてしまおうとしていた。

 

 ――嫌だっ! 待ってくれっ!

 

 僕の言葉にならない叫びは何の効果もなく、さっちゃんの笑顔は遠退いていった。それを防ごうにも、依然として身体はぴくりとも動くことはなく、声も発することも出来なくなった。

 

 さっちゃんに謝ることも出来ない。

 

 さっちゃんに僕の正直な気持ちを言うことも出来ない。

 

 さっちゃんの華奢な身体を抱きしめることも出来ない。

 

 もう何も出来ないのだ。

 

 ――ありがとう、大好きだよ。みっちゃん。

 

 最後のさっちゃんの言葉が、僕の耳に何度も繰り返される。

 

 彼女の輝く笑顔が何度も目に浮かぶ。

 

 彼女の手の温もりが蘇る。

 

 もう彼女に会えないのかもしれない――その恐怖が絶望となって、僕の心を黒く染め上げていく。

 

 僕は彼女に謝られることも、況してや感謝されるようなことをした記憶なんてない。

 

 逆にこの街に久しぶりに戻ってきて、多少の戸惑いを抱えていた僕を――当時の記憶なんてほとんどなくしてしまった僕の心を安堵させ、久しぶりに楽しい時間を過ごすことが出来て、彼女に感謝しなくてはいけないのは、僕の方なのだ。

 

 ――ありがとう。今日は本当に楽しかった。

 

 そんな簡単な言葉すら、僕は言っていないのだ。

 

 彼女のことなんてこれっぽっちも憶えていない――だけど、僕は彼女の温もりだけは憶えていた。包まれるような、心地良さだけは僕の記憶から消えてはいなかった。

 

 ――僕だって、さっちゃんのことが大好きだ。

 

 もう、そう言うことだって出来ないのだ。

 

 よくよく考えれば、本当に今日は訳の分からないこと続きだ。

 

 いつの間にか、家から外出して、身に覚えのない白い世界に佇んでいたと思えば、ここに立っていて、旧友のさっちゃんに出会って、楽しいひと時を過ごしていたというのに、こんな理不尽な形で別れなくてはいけないだなんて。

 

 本当にあんまりだ。

 

 誰でもいい。もう彼女に会えないなんて嘘だって言ってくれ。

 

 また、彼女に会えると――彼女に今度こそ感謝と自分の気持ちを言う機会があると言ってくれ。

 

 そんな僕の望みは叶えられることはなく、ついにさっちゃんの姿は彼方へと消えてしまった。彼女の微笑みが永遠に消失してしまったような、僕の心の大事な部分に、ぽっかりと穴が開いてしまったような喪失感と共に、僕の意識もそこで途切れてしまった。

 

(5)

 

「……こ、……やこ」

 

 ――誰だ。

 

「……都っ!」

 

「……母……さん?」

 

 徐々に僕の意識がはっきりとしてきた。

 

 僕の目の前には母親の顔がアップで映っていた。

 

 ――どうしたんだ、母さん。そんな顔して。

 

 ――さっちゃんはどこにいるんだ。

 

 ――ここはどこなんだ。

 

 母さんは大泣きしていた。僕の名前をしきりに呼び、それに応えると、僕を抱き締めながらまた泣いた。

 

 だけど、勿論、母さんはさっちゃんの居場所など知っているわけもないし、僕がまたさっちゃんに会えると言ってくれることもなかった。

 

 そんな母さんの後ろには白衣を着た男性――そう医者が立っていたのだ。

 

 ――ここは病院なのか?

 

 ――どうして、僕はこんなところにいるんだろう。

 

 僕の知らない場所、仄かに香る消毒液の匂い、そして医者――ちょっと考えればそこが病院であることはすぐに分かった。

 

 だけど、どうして僕が今度は病院にいるのかは分からなかった。

 

 僕は今までさっちゃんと公園にいたはずなのに。

 

 彼女にありがとうと伝えなくてはいけないのに。

 

 彼女に僕の気持ちを打ち明けないといけないのに。

 

 一体何が起こったというのだろうか。

 

 あのとき、さっちゃんが僕に手を振って、そして、僕は動けないまま、消えていくさっちゃんの姿を茫然と見ていることしか出来なかった。

 

 無力な自分に失望して、何もさせてくれなかった冷酷な現実に絶望した。

 

 さっちゃんが見えなくなった後のことは、一切憶えていなかった。

 

 そこから、どうやって病院に来たのかも、どうして母親が泣いているのかも。

 

 何も分からなかった。また、訳の分からない状況に陥ってしまったようだ。そして、また誰かと別れなければならないのだろうか。

 

 また理不尽な悲しみに――絶望のどん底に突き落とされるのだろうか。

 

 もう嫌だ。

 

 僕が一体何をしたというのだろうか。

 

 何もかも投げ出したい気分だった。

 

 もうどうでも良くなった。

 

 ただ、僕はさっちゃんに会いたかった。

 

 さっちゃんに会って、自分の口で気持ちを伝えたかった。

 

 それ以外のものなんて、僕にとっては些細なことに過ぎないのだ。

 

 もう止めよう。

 

 こうして考えるのも疲れた。

 

 つまりは、僕は何も出来ないまま、さっちゃんと別れてしまったんだ。

 

 目が覚めたら、今度こそさっちゃんと会えるだろうか。

 

 そんなことを考えながら、僕は再び闇に意識を委ねたのだった。

 

(6)

 

 結局のところ、僕が見ていたのは夢だったようだ。

 

 あのとき――僕がこの街に戻ってきたとき、僕は久しぶりにこの街を散策したくなって、一人でふらりと家を出たらしい。

 

 そして、交通事故に遭った。

 

 どこで、どんな状況で事故に遭遇したのかは、聞いていないから分からない――どうせ僕が不注意で飛び出したか何かしたのだろうし、場所に関しても、聞いてしまえば、二度とそこに近寄りたくなくなって、これからこの街に住む以上、それは何かと不都合だろう。

 

 とにかく、僕はこの街に来てから、いきなり事故に遭い、今まで意識不明だったらしい。

 

 特に骨を折ったとか、身的外傷はなかったようなのだが、頭を強く打ってしまったようなのだ。

 

 そう。僕はさっちゃんなんて女の子に会ってもいないし、勿論、公園なんかには行っていない。ずっと、この病院の、このベッドの上で眠っていたのだ。

 

 別に、何も理不尽なことなんかなかった。

 

 僕は、夢の中の女の子に恋をして、そして、失恋してしまったのだ。

 

 実に僕らしい、馬鹿げたことだった。

 

 誰を恨むことも出来ない、単に僕の幼稚な夢の中の出来事だったわけだ。

 

 意識を取り戻してから、精密検査を行ったのだが、頭を打った後遺症もなく、程なく退院出来るとのことだった。医者の話を聞く限りだと、僕の容体は相当危険な状態だったそうで、何の後遺症もなかったのは奇跡的だとのこと。

 

 まぁ、僕にとってはもうどうでも良いことだった。

 

 そして、退院の日に、家族の制止を無視して、僕は一人で再び街へと赴いた。

 

 足は自然と、あの場所に――さっちゃんと出会ったあの道路へ向かい、そのまま公園へと辿りついた。

 

 あれは僕の夢の中の話だったのだが、その公園の様子は夢とほぼ同一だった。

 

 ボロボロで、座る部分には埃が積もったベンチ、朽ち果てて針の止まった時計、そして、存在を忘れられ、寂しそうに風に転がされるバスケットボール。

 

 何もかもが夢と一緒だった。

 

 だけど、勿論、僕はずっと病院の中にいたのだから、ベンチの埃は払われた形跡はなく、僕が移動したゴミ箱も元あった場所に存在していた。

 

 あれは紛れもなく夢――僕の妄想の中の出来事だったのだ。

 

 だけど、僕の心は依然としてぽっかりと穴が開いていて、その光景を見ているだけで、胸が鈍い痛みを発していた。

 

 事故による怪我は大したものではないから、この痛みは事故と何の関係もない。

 

 僕はゆっくりと公園の中を彷徨うと、バスケットボールを拾った。

 

 地面にぶつけると、軽快な音を立てながら僕の手元に戻ってきた。

 

 退院するとき、僕はお世話になったナースさんに挨拶をした。そのとき、ナースさんから一つのことを教えてもらったのだ。

 

 僕が目覚めたあの日、僕が意識を取り戻す前に、一人の患者さんが亡くなったそうだ。長い間入院生活を送っていたらしく、ご高齢のために亡くなった――老衰だったそうだ。

 

 その人の名前は、岬峠(みさきとうげ)(さち)さん。

 

 面倒見の良い優しいお婆ちゃんとして、有名だった。旦那さんを亡くしてから、近所の多くの子供を昔から世話していて、とても慕われていたのだが、少し具合を悪くしてからは、ご家族の要望もあり病院暮らしをしていたらしい。

 

 しかも、ここ数年は、お婆ちゃんの家を訪れる子供もほとんどいなくなっていたそうだ。

 

 病院で、お婆ちゃんは外の風景を眺めては、ナースさんにそのことがとても寂しいと漏らし、自分がいなくても子供たちが幸せに過ごせるような世の中になって欲しいと言っていたそうだ。

 

 そして、僕も幼少期、このお婆ちゃんの家に何度も訪れていた。

 

 両親が共働きだったため、学校に帰っても、両親は不在で、夕食も一人で取ることが多々あったため、それを不憫に思ったお婆ちゃんが、両親が帰る時間帯まで、僕の面倒を見てくれていたのだ。

 

 毎日、学校を終えると、友達と日が暮れるまで遊び、そして彼らと別れた後、僕が帰ったのは、自宅ではなくお婆ちゃんの家だった。

 

 いつも柔和な微笑みを浮かべながら、僕に向かっておかえりと言ってくれることが、自宅に帰ってもそう言ってもらえない僕にとっては、何よりもありがたいものだった。

 

 僕が学校で何をしたか、今日の給食は何だったか、そんな他愛の話を、いつもニコニコしながら聞いてくれるお婆ちゃんのことが、まるで本当の祖母のように思えて、僕はお婆ちゃんのことが大好きだった。

 

 きっと、僕がこの街に戻って来るのが嫌だった理由が、僕を慕ってくれていた動物たちと別れることだったように、この街から引っ越すのを愚図った理由は、僕が慕っていたお婆ちゃんと別れることだったのだろう。

 

 お婆ちゃんは、息を引き取るとき、特に苦しむこともなく、ご家族に見守られながら、静かに眠るように亡くなったそうだ。

 

 その顔はまるで微笑んでいるようだったとナースさんは言っていた。

 

 どうして、僕にそんな話をしてくれたのか尋ねると、ナースさんも苦笑しながら、自分にも理由は分からないけど、何故か僕に教えたくなった、と言った。

 

 だから何だというわけではない。

 

 世界中で一日に数十万人もの人が毎日亡くなっていると、どこかで聞いたことがある。お婆ちゃんもその一人に過ぎない。むしろ、不治の病や戦争などで亡くなってしまった人に比べると、穏やかな最期だったと言えるだろう。

 

 長寿大国の日本だから、ご高齢まで元気に過ごす老人の数も少なくないだろうが、息を引き取る間際まで幸せでいられる人間は、どれくらいいるのだろうか。

 

 孤独に亡くなる人だって多くいるのだろうから、お婆ちゃんは本当に幸せな人生を送ったのだと、僕は思う。だから、別に何の理不尽も、悲劇もあるわけではない。

 

 僕の臨死体験に何か特別な落ちがあるわけではない。

 

 僕は普通に事故に遭い、そして普通に意識を取り戻しただけで、夢の中で恋に落ちて、そのまま失恋しただけだ。

 

 落ちがあったとしたのなら、僕が妄想上の女の子に恋に落ちたという夢落ち、何とも下らない駄洒落だったという訳だ。

 

 僕は拾ったバスケットボールをドリブルしながら、ゴミ箱の方へと近寄った。

 

 夢の中では、僕はさっちゃんの前で、結局最後まで綺麗にゴールを決めるところを見せることが出来なかった。

 

 僕はゴミ箱に向かってボールを放った。

 

 ボールは綺麗な放物線を――今度は本当に描きながら、そのままゴミ箱の中へと吸い込まれていった。

 

 ――ナイッシューだねっ! みっちゃんっ!

 

 さっちゃんはそう言ってくれるだろうか。

 

 見事にゴールを決めた僕の頭を撫でながら、そう誉めてくれるだろうか。

 

 そうしてもらったら、きっととても嬉しいのだろう。

 

 頬が不様に緩んでしまう程、僕は喜びを表現してしまうだろう。

 

 だけど、僕にそう言ってくれる人はいない。

 

 それが無性に寂しかった。

 

 とても寂しくて、胸がとても痛くて、僕はぽろぽろと涙を流した。

 

 道行く人々――夢とは違って、現実は意外と人が多かったのだが、彼らが今の僕を見れば、きっと頭がおかしな子だと思うのかもしれない。だけど、僕はそんな事を気にすることなく、涙が頬を伝い続けた。

 

 さっちゃんに誉めてもらいたい。

 

 さっちゃんにありがとうと言いたい。

 

 さっちゃんい好きだった伝えたい。

 

「さっちゃん、ありがとう。僕は君のことが大好きだ」

 

 さっちゃんが聞いてくれているわけではないのに、僕は一人でそう呟いた。

 

「ありがとう……ありがとう……」

 

 何度も、何度も、僕は言った。

 

 顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったが、それを拭うこともせずに、ずっとそうしていた。

 

 高校二年生の初夏、僕の初恋は、実ることなく、僕は失恋したのだった。

 

(7)

 

 さっきも言ったように、この話に落ちがあるわけではない。

 

 その後、まさかの展開が起こり、僕はさっちゃんと再会し、付き合うことになったなんてことは起こるはずもない。さっちゃんは僕の妄想上の存在で、実在しているわけではないのだから。

 

 あの後、僕はお婆ちゃんの家を訪ねた。ご家族の人に、僕が昔、お婆ちゃんにとてもお世話になったことを伝えると、是非ともお線香を上げて欲しいと、中へ入れてくれた。

 

 お線香を上げるとき、僕は仏壇の中に飾られたお婆ちゃんの写真を見たが、写真の中のお婆ちゃんは優しそうに微笑んでいた。

 

 僕が見た、あの輝く笑顔を浮かべていたのだ。

 

 入院中、お婆ちゃんが病院暮らしをしているという話を聞いた、かつてお婆ちゃんの世話になった人が多く来たらしい。

 

 お婆ちゃんが大変な目になっているからと、お見舞いの品を持参したり、何か自分に出来ることはないかと尋ねる人が多かったようなのだが、お婆ちゃんは別に何かをお願いすることはなかったそうだ。

 

 逆に大人や青年になった彼らが、どんな暮らしをしているのか、幸せに暮らしているのか、彼らの心配ばかりしていたらしい。

 

 彼らにとっての幸せな世の中を、お婆ちゃんは最後まで望んでいたようだ。

 

 そして、自分のことなんて全く構わず、常に同室の患者さんの世話を焼いていたらしい。

 

 お婆ちゃんの娘さんが、お婆ちゃんが息を引き取る間際に、朦朧とする意識の中で、しきりに誰かを心配する声を上げていたと教えてくれた。

 

 ――きっと、こんな状態でも、お母さんは子供たちの心配をしているのね。

 

 お婆ちゃんの娘さんは涙を浮かべながら、そう言った。

 

 果たして、お婆ちゃんが誰の心配をしていたのか、それは誰にも分からない。

 

 現在、僕は地元の高校に普通に通っている。

 

 これまで通り――人見知りの激しい性格で、すぐに溶け込むことなんて出来なったけれど、少しずつ友達づくりもしようと思っている。

 

 そして、唯一変わったことと言えば、僕は街のボランティア活動をするようになった。

 

 地域の子供と触れ合う機会を作ったり、使われなくなったあの公園を綺麗にしたりと、最初は僕一人で黙々とやっていたのだが、今は少しずつ参加してくれる人も現れた。

 

 それは高校でも噂になり、近く僕は全体朝礼で表彰されると聞かされている。

 

 別に表彰なんてしてくれなくても構わない。そんなこと、僕が目立つだけで、何も得なんかしないのだから。ひっそりと活動出来れば良かったのだ。

 

 ただ一つだけ僕にも嬉しいことがあった。

 

 そのボランティアが正式に街全体で行われることになり、僕がその団体の名前を付けて良いということになったのだ。

 

 団体の名前は既に決まっている。

 

 幸せな世の中を作る会――幸世の会と決めたのだ。

 

 どうして、そんな名前にしようとしたのかは、誰にも言うつもりはない。

 

 僕だけの秘密だ。

 

 あの公園が綺麗になって、またバスケットゴールが設置されたら、僕が一番にシュートを打つことも決めている。

 

 そのシュートが綺麗にネットを通過するかどうかは分からないけれど、もし、ゴールが決まったら、今度こそ誰かに誉めてもらえるだろうか。

 

 そんな淡い期待をしつつ、僕は今日も公園の掃除へと向かうのだった。

 

(終)

 

あとがき

 

 初めましての方は初めまして。いつも拙作を御覧になって頂いている方は、わざわざこちらの方まで足を運んで頂いてありがとうございます。

 

 そんなわけで今回は気紛れに書いてしまったオリジナル作品を投稿しました。

 

 まぁ特に落ちのない話でありますが、書き切った後はかなり満足感に浸ってしまい、今頃読み返してみると、我ながら何を書きたかったのか分からないと思うばかりです。

 

 王道的な話を書きたいなと思いつつ、二週間もかかって書いた作品です。完全に黒歴史として封印したいところですが、自戒の意味も込めまして、こちらに投稿させて頂きました。

 

 オリジナルを書くのはやはり難しいですね。それを実感しました。それが分かっただけでも、これを書いた甲斐はあったかなと思います。

 

 まぁつまらないと思っても、何も言わずに去って下さい。

 

 それでは今回はこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。

 

 相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。

 

 誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。

 


 
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