バタバタと廊下を走る音が微かに聞こえて、土井半助は採点をしていた筆を止めた。
明らかにこちらに近づいて来ている。姿は見えないが、誰なのか大体の予想はついた。
筆を置いて振り返ると、同時に襖が小気味よく開く。
「失礼しまーす、土井先生、宿題だった読書感想文終わりましたー!」
予想通りの人物が、片手に数枚の紙を掴んで部屋に飛び込んできた。襖の隙間から、もういい加減ふけてきた夜の暗い空がちらりと顔を出す。
「はいはいきり丸お疲れ様。全く・・・感想文一つ書き上げるのにどんだけ時間かかってるんだお前はー?」
「だぁーってまだ一枚も読んでなかったんですもん。むしろ今日中に書き上げたことを褒めてほしいくらいっすよー」
「あのなぁ、だからあれ程夏休み中に読んでしまえと言ったのに・・・ていうか、そもそも夏休みの宿題なんだから夏休み中にやるのが当たり前だろうが!」
「へーい、すんませんっしたぁー」
気の抜けた返事をしながら、悪びれた様子もなく半助の手に感想文を押し付ける。
押し付けられた半助は、反省の色が見えないきり丸に溜息をつきながらも、とりあえず感想文に一通り目を通した。
「ふむ・・・、まあそれなりに書けてるみたいだから合格でいいか」
「ぃやったぁ終わったー!!」
両手をあげて万歳をするきり丸に苦笑する半助。
「ったく、しっかり夏休み中に終わらせておけばこんなことにはならないのに・・・きり丸、お前は夏休みをバイトに割きすぎだぞ」
「なーに言ってんすか!」
半助の言葉に、きり丸が前のめりになって抗議の声をあげる。
「夏っつったら一番の書き入れ時でしょ?そこでバイトしないでいつするんすか!稼げるときに稼いでおかないと、いざというときに困りますよー。今回の園田村だって――――・・・」
・・・あ
言い終わる前に、きり丸が小さく声を漏らした。そのまま、バツが悪そうに目を伏せて黙り込む。
だめだ。だめだ。また言いそうになった。
知っているのに。土井先生が、自分の命と金を秤にかけたような発言をすると、辛そうな顔をすることくらい。
知っているのに。
「・・・」
「・・・」
数秒間の沈黙。
きり丸が、恐る恐るといった感じで半助の顔を覗き見て、しかしすぐに視線を逸らした。神妙な面持ちでこちらを見つめる半助と目が合ったからだ。
ああ、嫌だなぁ・・・
またこんな顔を、させてしまった。
だがそれも一瞬で、次の瞬間には、半助はいつものように柔和な笑顔をきり丸に向けていた。
「ま、きり丸、今日はもう遅いから、そろそろ寝なさい。明日も授業だから、寝坊するなよ」
「・・・え、あ」
何か言いかけて口ごもるきり丸を安心させるように微笑みかける。
「お疲れ様、おやすみきり丸」
話を切り上げるようにぽんぽんときり丸の頭に手を置いてから、机に向き直って筆を握り直す。
その背中を、きり丸はただ困ったように後ろから見つめていた。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・先生、怒ってる?」
「・・・うん?」
すぐに出ていくと思っていたきり丸から声をかけられて、半助が不思議そうに振り向く。「どうした?」
「オレが園田村で言ったこと、怒ってます?」
―――きり丸!!銭と命と、どっちが大事だ!?
ぐっと唇を噛んで、深く下を向く。今半助がどんな顔をしているのか、きり丸は見るのが少し怖かった。
あの時
即答で、思わず「銭」だと答えてしまったあの時
ひとしきり怒られつねられ、その場では周りの苦笑いを誘うだけのやりとりとなってはいたが、答えた直後に見せた半助の表情を、きり丸はどうしても忘れることができなかった。
もちろん半助を怒らせたのは承知している。だがあの顔は、ただ怒っているのとは少し違っていた。
その違いを、しかしきり丸は具体的に見つけられなくて、ずっと妙な浮遊感に苛まれていたのだ。
「―――あー・・・あの時の・・・?」
頭上から降って来る半助の声にきり丸がゆるりと頷く。
「・・・私を怒らせるようなことを言ったという自覚があるということか?」
「えー・・・んまあ、そう、なんじゃ・・・ないかな、と」
段々と返答の歯切れが悪くなっていく。
なまじ普段要領よく過ごしているせいか、 その変化はいやに顕著だった。
きり丸の指がぽり、と頬を掻く。半助から反応が無い。
なんともいえずいたたまれない気分になって、しかし顔を上げることはできなかった。実際は数秒であるはずの沈黙が無駄に長く感じる。
先に沈黙を破ったのは、半助の大きな大きなため息だった。いきなりのそれにきり丸が驚いて思わず顔を上げようとするが、直後に半助の掌でがしがしと頭を撫でられたために叶わなかった。
「まったくお前は~・・・自覚があるなら最初から言わなきゃいいだろう!」
「ぃでっででっ!せ、先生」
「でも安心したよ」
頭を撫でていた手を下ろして、きり丸の肩にかける。キョトンとした顔のきり丸に、半助は心から安堵した笑顔を見せた。
「お前が、私に心配されていることをなんとなくでも自覚してくれているみたいで・・・」
心配?
きり丸な目が、ゆっくりと見開かれた。
(そうか・・・あの時の表情は)
心配、してくれていたのか
「心配じゃなきゃ、叱ったりしないさ。まあでも、あの発言が私を心配させるに値するものだったとわかってくれたならそれでいい」
半助の手が、きり丸の肩をポンと叩いて、もう一度わしゃわしゃと頭を撫でる。
その手の触れるところがなんとも温かくて、こそばゆくて、きり丸は思わず頭上にある掌をぎゅっと握った。
「・・・きり丸?」
半助の不思議そうな声。
きり丸は下を向いたままこっそりとほくそ笑んだ。心に温かいものが満ちていく。
「――――なるほど、よくわかりました!」
両手でぐいっと半助の掌を退かして、いつものカラリとした笑顔で顔を上げる。
「土井先生、心配性ですもんねえ。神経性胃炎再発してません?」
「って、あのなぁ!もとはといえばお前らが問題ばかり起こすからだろうが・・・!」
拳を握り締めてなんとも悲痛な顔をする半助に「へへ、すいませーん」と一言言うと、きり丸はくるりと反転して逃げるように襖を開けた。
「んじゃ、おやすみなさーい!」
半助の返答を聞く前に襖を閉める。直後に襖の向こうからお休み、と声が聞こえてきて、きり丸は思わず微笑んだ。
心配してくれる人がそばにいてくれるのが、こんなにも嬉しいことだなんて
ずっと抱えていた浮遊感もすっかりなくなった。
「・・・先生、ありがとうございます」
半助に聞こえないように呟くと、きり丸は長屋に向かって勢いよく走り出した。
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土井+きりのほのぼのです。
匂わす程度にアニメ映画のネタバレ含みます。