昴は自身の指先に息を吐いた。吐いた息は白くなり、指先に小さな水滴を付ける。すかさず手をこすり合わせてもう一度息を吐く。
そんな繰り返しをしながら昴は空を見上げた。時は11月の終盤に差し掛かり、気温が下がり体が冷え込む。
こんなことなら意地を張らずにマフラーと手袋をしてくればよかったと昴は今朝の自分を悔やんだ。
天気予報によれば昨日より気温は4度も下がっているらしい。思い返せば思い返すほどに後悔は増していく。
コートのポケットに手を入れ、肩を小さくしながら歩く。
キャンバスの近くまで来るとちらほらと歩く学生の姿が目に映り始めた。
ほとんどの学生がマフラーや手袋を着用し、コートやジャケットに身を包んでいる。
冬が近い割に薄手のコートを着てきてしまった昴は自分一人だけ浮いているような気分になる。
心の中で季節や天候に文句を言いつつ歩き続けていると後ろから小走りで近付いてくる足音に気付いた。
おおよそその人物も予想でき、昴は小さくため息をつく。
「オニーサン! 何しんみりと歩いてんの?」
後ろからおなかあたりに手を回され、ふざけた口調で聞いてくる人物の手をきつめにつねった。
その人物は痛い痛いと叫びながら昴に抱きついた手を離した。
昴は後ろを振り向きその人物を見下ろして軽くにらみを利かせた。
「久遠、もっと普通に挨拶できないのか」
久遠と呼ばれた少女は少し不機嫌そうな顔をして昴を見上げる。15cmも上にある目線に対して明らかに敵意をもった目を向けていた。
「そんなだから昴は無愛想って言われるんだよ。ちょっとくらい冗談言ったり乗ったりすれば少しは愛想よくみられるのに」
「俺がそんなことするように見えるのかよ」
「全然見えなーい」
久遠は茶化すように笑いながら歩き始める。それを見て昴は大きくため息をついて久遠の横で歩き始めた。
「大体、先輩って呼べって言ってるだろ。お前まだ一回生だろうが」
「そんな堅いの別にいいじゃん。高校で一緒に生徒会やってた仲なんだし」
「尚更だ。というかそれは理屈になっていない。お前のその態度は厳重注意に値する」
「厳しっ! 昴がまじめすぎるんだよ。佳代ちゃんは佳代ちゃんでも怒らなかったよ」
「佳代は頭のねじが緩いだけだ」
「うわー辛辣! 彼女さんにそれ伝えとくねー」
「本人も周知の事実だろ」
久遠の茶化すような言葉たちに昴は大きくため息をついた。
久遠は至極ご機嫌のようで鼻歌交じりに歩を進めている。
校門をくぐったところで久遠は小走りをして昴より前に出た。
そして振り返って後ろ向きに歩きながら昴に手を振る。
「じゃ、ボク授業の資料とりに行かないといけないんだ。図書室寄って行くからまたねー」
「もう俺の前に現れる必要はないぞ」
昴の悪態を笑って受け流し、図書室に向かって一直線に駆けていく久遠を昴は見送った。
騒がしい後輩がいなくなったと考えて昴は教室にまっすぐ向かった。
その途中、突然なりだした携帯を見るとメールが来ていた。その相手を確認するや否や昴は自傷気味に笑うしかなかった。
AM 11:47
昴は花壇に咲く蘭に被写体を定め、屈んで実習用の一眼レフカメラを構えた。被写体にピントを合わせてシャッターを切る。
丈夫な花弁はその姿を凛凛しく見せ、厳しい寒さの中で咲き誇る。その凛凛しさは永久に続くように感じさせた。
昴はあたりを見渡すが特別惹かれるような被写体が見つからない。実習のテーマは「植物」だった。
しかし冬前に色のある植物は少なく、葉を落とした木を撮ろうにもワンパターンになってしまう。
懲りずに何度かカメラを向けてみたが、結果は変わらなかった。
葉を落とした樹木を写すことはあきらめ、何かいい被写体はないかと学内を歩き回る。冬に咲く花がないわけではないのだ。
先ほどの蘭のように冬にしか咲かない花もある。しかし見つからないのは学内に冬咲きの花が少ないこと、そもそも冬咲きの花が少ないことがあげられる。
そして昴がそれほど植物に対する知識が少ないことが何よりの痛手だ。
昴は小さくため息をつきながら辺りを見渡す。息を吐くごとに白く濁る空気が視界をさえぎる。
明確な目的がないだけに思うように進まない現状に苛立ち、せまる時間に焦ってしまう。
昴は中庭に入るとなんとなくカメラを構えた。そのまま中庭を見渡すと奥に見えるベンチによく見知った姿があった。
(……久遠?)
カメラを下してみてみるとその姿は確かに久遠だった。
ベンチに座り、クリアファイルと白い紙をもって真剣に紙を見ていた。
昴があまり見たことのない表情だったので可笑しく思いながら近づいてみた。
「くお……」
昴が声をかけようとしたとき、久遠は大きく息を吸い込んだ。そして慎重に音をなぞるように歌い始めた。
芯のある、しかし透きとおった歌声が中庭に響く。中庭にいた何人かの生徒も久遠に振り返った。
このような誰が聞くかもわからない中庭で堂々と声を張り上げる久遠に、昴もまた目も耳も奪われた気がした。
久遠の歌声はものの1分足らずで止まり、おそらく楽譜であろう紙から目を離して大きく息をついた。
集中していたのかその姿にわずかな疲れが見え、周りがまるで見えていないようだった。
久遠はゆっくり視線をあげて周りを見渡すと昴が目にとまりキョトンとした。久遠は昴に向かってにこりと笑った。
「何やってんの? カメラ持ってるってことは実習中だよね」
昴はハッとした。自分が久遠の歌に聞き惚れていたことに気付き、わざとらしく小さくため息を吐いてみせる。
「こんな寒い中、外のベンチに座っていたから心配したんだよ。お前昔から風邪引きやすいからな」
「そうなんだ。館内じゃ声が反響しちゃうから練習できなかったんだ。レッスンルームはどこも貸し切りだったっし。ごめんね、心配掛けて」
久遠はニヒヒといたずらじみた笑いを浮かべる。昴はその表情に少しの苛立ちを感じた。
仮にも心配していたというのにそのたくらみを込めた表情は何なのかと。昴はもう一度ため息を吐いた。
「外でやるのもほどほどにしとけよ。本当に風邪引いたら洒落になんねーからな」
「はーい。ところで昴、今日は何を撮ってるの?」
久遠の興味は昴の首に下がったカメラに向けられていた。自分が先ほどまで人を聞き惚れさせる歌声で歌っていたことを理解していないようだった。
昴はカメラのモードを切り替え、先ほどまで撮っていた写真を久遠に見せる。久遠はカメラのディスプレイを覗き込むと感嘆の声を溢した。
「今日のテーマは植物なんだが、季節柄か被写体が少なくてな。そろそろ戻らなきゃならないものの、もう少し取ってから戻りたいんだ」
子供が宝物を見つめるようにディスプレイを眺める久遠は「それなら」と短く切って校舎の先を指差した。
「あっちの喫煙所を抜けたところにキンカンの木があったよ。もしかしたら実ってるかも」
「そうか。それなら行ってみる。ありがとな」
昴は久遠の頭をクシャクシャとなで、軽く走りながら教えられた場所に向かう。
後ろから久遠から何かを言われた気がしたが時間は押している。急いで向わなければと思い昴は走った。
久遠に教えられた場所には確かにキンカンの木を見つけ、シャッターに収めた。幸いにも小さな橙色の実が幾つか実っていた。
そのあとは全速力で走って教室に戻り、パソコンにバックアップを取ると授業が終了した。昴は大きく伸びをして脱力すると窓から外を見た。
そこから見える中庭には久遠の姿はなく、移動のために校舎から出ていく大勢の学生たちの姿だった。
先ほどの歌を思い出し、この教室にいれば歌声は空を突き抜けるように聞こえるような気がした。
そう考えた時、声とともに空を昇っていく蝶が見えたような気がした。きっとそれは、普段被写体にすることのない植物をカメラに移していたからだろう。
昴の腹が遠慮がちに鳴り、昴は苦笑しながら荷物を持って食堂に向かった。今日は人と約束をしているのだ。
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『春に舞う蝶は、互いの魅力を競い合うように、たくさんの蝶たちが元気に飛び交う。その最たるものはモンシロチョウとモンキチョウだろう。
それはさながら子供を連想させる光景だ。美しい羽根をもつアゲハチョウもオオムラサキもそのさまは変わらない。春の蝶はにぎやかだ。
では、それが冬ならどうなるのだろう。冬に舞う蝶は如何様な光景を人に見せてくれるのだろう』
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