ドアの開けると無機的で潔癖を感じさせる真白な、大して広くない空間が鎮座し、そこにはやはりいつもと変わらぬ金属光沢を放つ簡易ベッドと白い机、そして一人の少女が混じりあうことなくただ点々と存在していた。
少女は僕が部屋に入ってきたことにも気付かずに、ぼんやりとどこかを見つめた虚ろな視線を壁に固定している。
僕は少女の後ろに立ち、ゆっくりと傷つけないように彼女の目を両手で覆う。
ぴくり
と、微かに肩が震え、ゆっくりとこちらを振り返る。表情はいつの間にか笑顔になっていたが、それが仮初めの物であることを僕は知っていて、彼女はそのことに気がついていないことが余計に痛々しい。
それでも、そんな様子はおくびにも出さないで髪の毛を撫でてやりながらゆっくりと「お・は・よ」と口を動かす。
彼女も目を細めながら「お・は・よ」と返してくる。
部屋の中は静寂に包まれている。ただただ、二人の呼吸音だけが響くだけだ。けれどそれですら彼女を取り囲む世界に比べればずっと、音に満ち溢れた世界なのだろう。僕が髪を撫でる手を止めると、彼女は頭を二、三回振った後にベッドからするりと降り、
『遅い。四分も遅刻』
紙に鉛筆で消え入りそうな文字を綴り、怒ったような顔を作りこちらに向けてくる。ただし、半分以上が笑顔で塗り固められていてはあまり効果はないし、それ以前に、それらはすべて虚構であると僕は知っているから尚更意味を成していない。
『そんな事言ってるけど、髪、跳ねてるぞ』
そんな色んな事に気づいていないふりをして──現に彼女はまだ自分の笑顔が虚構であるとバレていることをまだ知らない──同じように紙に文字を書けば、彼女は慌てて髪を押さえ始める。
『ごめん。嘘』
あまりに真剣な顔で頭を押さえているのがなんとなく可哀想になりそう書くと、バッとこちらの顔を見た後に頬を膨らませ、髪を押さえるのをやめ、髪の毛がまたぴょんと跳ねる。嘘というのが嘘だったのだが、まあここで再度手のひらを返すのも彼女に悪い気がするのでその旨は伝えない。
『ごめんごめん』
文字を書きつつ彼女の頬をつつく。口の中にためられた空気が気の抜ける音とともに抜け出し、跳ねた髪がぴょんぴょん揺れる。
『機嫌直してくださいよ、おじょう様』
あれ、“じょう”ってどんな字だったっけな。ふざけた感じでそう書けば、
『だからそのお嬢様ってのやめてって』
丸っこい字ですらすらと書かれる。よくそんな簡単に字が書けるものだといつもの如く感心する。
『それはそれは申し訳ございません』
『だからその言葉遣いもー』
『じゃあどうしろって言うんだよ!!!』
『ええっ!!!ここで逆ギレ!!!』
ふと目が合って、思わず笑う。ふりをする。彼女だって本心では笑ってないんだからおあいこだ。
ひとしきり笑いあった後は、いつものように他愛も無い色々なことを筆談する。お互い慣れたもので、今ではもう普通に話すのと同じくらいの早さで会話が進んで行く。
話の内容は自然と、この部屋の外の世界の話になることがほとんどになる。彼女はこの世界に生を受けてわずか十年でこの部屋に入れられ、それ以来一度も外に出たことも、それどころか外を見たこともない。
あくまで表向きは“治療”のためということになっており、彼女にもそう伝えられているが、実際はそんなものが嘘偽りであることは彼女も知っているのだろう。それでも彼女はその事を一度も話題に出すことすらなく、こうして毎日を白い部屋の中ですごしているのだ。
そして僕に与えられた役割――別に誰かに強要されているわけではないが──が、彼女に外の世界を伝えることだ。でもそれももう長くは続かない、それどころか、もう終わってしまうことも、僕は知っていた。
それは、彼女の“治療”にあたっての副作用や体力の衰え、精神的苦痛等が原因で、もう先が長くないことや、僕に対する“治療”が最早最終段階に達しつつあり、来週には晴れて“退院”するという事実に基づくものもある。
が、それだけではない。
そんな物より直接的で具体的で圧倒的な現実があるからだ。
先程から警報が鳴り止まないのだ。
無個性で無機質で機械的な女性のアナウンスと、響き渡る警告音。断続的に薄い扉の向こうから漏れ聞こえる怒声と悲鳴と歓声と爆音。逃げろ逃げるな諦めろ戦えやめろ殺せ撃て逃げろ逃げろ逃げろ!
つーっ。
『どしたの?』
袖を引かれる感触と、惚けた表情と、丸っこい文字。
まわりの音に気を取られて心ここにあらずだったらしい。
『なんでもないよ』
そう、なんでもないのだ。これは彼女の知る必要のない情報だ。僕が彼女に与えるのは、綺麗で暖かで優しくて丸くて嘘みたいにやわらかい、そんな世界のことだけでいいんだ。たとえそれが全部作られた、嘘と虚構に塗り固められた、そんな、世界でも。
『そうだ、今度この前言ってた猫、頑張って連れてきてみるよ』
『え? 本当に?』
爆音と悲鳴。
『ああ。すっかり懐いてるからTシャツの中に入れて連れてくればばれないよ』
『うわあ……いいなあ……暖かそう』
『暖かいぞー。ぬくぬくのほくほくだぞー』
ごめんなさいやめてください助けて助けて助けて!
『ぬくぬくでほくほく……。触りたい!』
『おっし、任せてくださいな!』
悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴。
『それじゃあ、指きりしよっ』
『おお、懐かしい。どれ、それじゃあ一つ……って、これ恥ずかしいな』
ひときわ大きな爆発音。衝撃で扉がゆれる。
『へへへー。実は私も恥ずかしかったり』
『ま、そんなこと気にしてたってどうしようもないか。よっし、それじゃあ始めますか、せーのっ』
四度目の爆発音とともに、部屋の扉が破られる。
『ゆびきりげんまん』
立ち上る炎と、肩から銃器を下げた男達が部屋の前に並ぶ。幸いにも彼女は気付いていない。
『うそついたらはりせんぼんのーます』
銃口が一斉にこちらを向く。
ふと、結局彼女には何一つ本当の事を教えてあげられなかったな。という思考が脳裏をかすめた。
でも、彼女に僕が何を伝えられたって言うんだ。こんな現実、廃れ荒んだ真実を伝えることなんて、できるはずがないだろ?
だからこれで良かったんだよな? たとえ嘘でも、彼女にきれいな世界を見せてやれたなら、それで。
彼女の顔を見ると、とても嬉しそうに、笑っているような気がした。
ただそれだけで、僕は満足なんだ。
純粋に、混じり気一つ無く僕も自然に笑い返すことができた。
二人で笑いあったあと、どちらともなく、声にならない言葉がこぼれ出て、
「せ・ー・のっ」
『ゆーびきった』
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ずっと昔に書いた物語が不意に私に会いに来たので、あの頃を忘れないために。