ハルと穹の体育祭
夏休みが終わり、二学期も中盤になったある日。僕、春日野悠が通う穂見学園では放課後になっても生徒がクラスに残り、臨時のホームルームが開かれていた。臨時といっても、なにか生徒全員が居残りさせられるような事件が起こったとかではなく、数週間後に行われる体育祭に向けて、各競技への出場者を決める話し合いがなされていたのだ。
「皆さん、静かにしてください! 早く決めないと帰れませんよ?」
教壇ではクラス委員長の倉永梢さんと、彼女曰く悪友の女の子が書記を務めて議題を進行させている。放課後とはいえ、学校行事の話し合いであるから担任が立ち合ってもよさそうなものだが、我がクラスの担任は割と大雑把な性格をしているため、「祭りは生徒が楽しむもんだ。一通り決まったら、後で教えてくれ」とだけ言って、さっさと職員室に引っ込んでしまった。無責任な、という気がしないでもないけど、高校生にもなって先生に話し合いを主導してもらうものも変な話だろうし、ここは委員長に頑張ってもらうしかないのかな。
「けど、体育祭か」
運動はそれほど得意というわけじゃないけど、苦手という程でもないので、その点は問題ないと思う。重要なのは僕が穂見学園に転校してきてから初めての体育祭ということであり、どんな競技をやるのかなど今から興味が尽きない。小学校の運動会でさえ、学年が上がるにつれて競技の内容は大きく変わっていたのだ。僕らぐらいの年齢になれば、ガラっと変化してもおかしくはないだろう。
そこまで考えて、僕は不意に苦笑してしまった。確かに僕が転校してきてから初めての体育祭には違いないけど、僕らはこの学校において最下級生なのだから、僕にかぎらずクラスメイトの誰もが穂見学園での体育祭は初めてのはずだった。
「どうしたんだ、悠? 急に笑ったりして」
僕が急に笑い出したのを訝しんでか、前席に座っている中里亮平がこちらを振り返る。
「いや、ちょっとね。思い出し笑いみたいなもんだよ」
正確には違うのだけど、詳しく説明すると長くなるし、それに説明したところで別に面白い話でもないだろう。
「思い出し笑いねぇ……と、ほらよ」
亮平はそれ以上追求しようとはせず、僕に向かって一枚のプリントを差し出した。どうやら振り返ったのはこれを渡すためでもあるらしい。
「んっと、体育祭のプログラムか」
最低でも二日間は開催される学園祭と違い、体育祭は一日限りで終了する。各競技のタイムスケジュールなどの他には簡単な注意事項程度しか書かれることはなく、プリント一枚でも事足りてしまうのだろう。
「日時は……あれ、平日じゃなくて休日にやるのか」
雨天延期とは書いてあるものの開催日は来週の土曜日となっており、本来であれば学校はお休みのはずである。
「悠が前いた学校は、平日にやってたのか?」
「授業の一環って感じだったからね。小学校の運動会とかなら、日曜開催ってのもあったけど」
両親が年中無休に近い共働きの僕には縁遠い話だったけど、小学校の運動会というのは父兄参観も兼ねていたから児童の家族が来やすい休日に行われることもあったような気がする。
「お前もいい加減分かってると思うけど、この辺って娯楽とかそういうのがなんもねーだろ?だから、こういう行事ごとは父ちゃんや母ちゃんだけじゃなくて、近所の人なんかも見に来んだよ」
「そういう風に説明されると、なんだか体育祭が一大イベントみたいに思えてくるな」
「ま、実際去年は盛り上がったからな。俺も色々な競技に出たけど、かなり白熱したぜ?」
「え、去年の競技に参加って……あ、そうか」
亮平は個人的な事情から一度留年をしている、所謂年上クラスメイトという奴だ。学年は一緒だけど年齢的には先輩、そうした微妙な立場からクラスでは浮きがちだが、僕とは僕が穂見学園へ転校してきた日に、なにくれとなく会話をしたことで親しくなった。軽いノリだが芯はしっかりした奴で、兄貴風こそ吹かせたことはないが、僕にとっては頼れる友人の一人だ。
確かに去年からこの学園に在籍している亮平なら、以前の体育祭に参加していても不思議はない。
「前回は凄かったんだぜ? クラス対抗リレーのアンカーを務めたこの俺が、前方を走る連中をバッタバッタ抜き去って逆転優勝を……」
「あれ? 亮兄ちゃんが出たのって、リレーじゃなくて大玉転がしじゃなかった? 勢い余って大玉に乗り上げちゃって、そのままグシャッと!」
亮平がなにやら自慢話を始めると、それを遮るように僕の隣席から声が掛かった。
「それで怪我しちゃって、後はほとんど座ってるだけだったと思うけど」
「お、おい、瑛! それをバラすなよ」
この茶色の髪を短く結んだ女生徒は天女目瑛。僕の隣席に座るクラスメイトで、奥木染にある叉依姫神社の管理人兼巫女をやっている。幼い頃、僕が奥木染を訪れたとき一緒に遊んだことがあり、そういった意味では幼馴染と言えなくもないのだけど、出会った頃より再会したときの方が印象は強い。
「もしかして、天女目も去年の体育祭に参加したとか?」
「違うよー、あたしは亮兄ちゃんの応援に行ったんだよ。ね、カズちゃん」
天女目は笑いながら、自分の前席でプリントに目を通していた女生徒に声を掛けた。
「なんだって!? 瑛がいたのは知ってたが、まさかお嬢まで俺の勇姿を見に来てたなんて」
「ち、違います! 私は単に学校見学をしに行っただけで、中里先輩のことなんてこれっぽっちも見てません!」
亮平の軽口を必死で否定しているのは渚一葉さん。天女目の親友で、僕のクラスメイトの一人だ。美人という言葉がよく似合う、長い黒髪に楚々とした容姿の持ち主だが、親友の天女目のこととなると人が変わることがあり、そこをよく亮平にからかわれていた。お嬢というのは、渚さんが奥木染でも名士の家の生まれであることから亮平がそう呼んでいるのだけど、本人はお嬢様であることを特に誇示したこともなく、むしろ僕らの中では一番の常識人じゃないかとさえ思うときもある。
「大体、中里先輩の勇姿って、先輩は瑛の言うとおり大玉に潰されただけじゃないですか」
「あはー、なんだかんだ言ってカズちゃんも亮兄ちゃんのこと見てたんじゃない」
「ちょっとした騒ぎになったから覚えてただけよ。大玉に転がされて潰されるなんて人、中里先輩以外ではあり得ませんから」
まあ、そんな冗談みたいな場面に遭遇することは早々ないだろう。大した事故ではなかったらしいけど、軽く負傷した亮平は、その後の競技参加を認められなかったらしい。
「じゃあ、本当のところは雪辱戦なわけだ」
「おうよ! 今年は全競技を制覇して、俺の名をこの学園に轟かせるぜっ」
既にちょっとした有名人じゃないか、という言葉を飲み込んで、僕はプログラムに目を通す。一日掛けて行われるだけあって、午前と午後の二部構成になっており、競技の方も定番のものを中心に、かなり充実していた。少し子供っぽいのではないかと思えるものも、地域の人が見に来ることを考えると、娯楽性を考慮してのことかもいしれない。
マフユノソラ
辞書で〝デート〟なる単語を引くと、『男女が日時を決めて会うこと』と書いてある。日本語で言えば逢引であり、フランス語で書けばランデブーとなるそうだ。
僕のイメージでは、ランデブーはどこかSFっぽい印象があって、デート同じ意味の単語には思えないんだけど、まあ、そんなことはどうでもいい。問題なのは類語の種類ではなくて、単語の意味だ。辞書だけ読むと、デートとは即ち恋仲にある男女が外で会うことを指すのだという。
確かにまあ、外で恋人同士が待ち合わせるというのは如何にもなシチュエーションだけど、じゃあ逆に、家から一緒に外出して、どこか遊びに出かけたりするのはデートとは言わないんだろうか? 勿論、広義の意味ではそういうのも全部引っ括めてデートなんだろうけど、どこか〝それっぽさ〟に欠けるのは事実かもしれない。
どちらが正しいかと言うよりは、どっちが楽しいかというレベルの話だけど、こればっかりは試してみないと分からないし、個人の好みも左右される。
「くしゅっ……朝はやっぱり、冷えるな」
コートにマフラー、それに手袋までしてきたにもかかわらず、僕は小さなくしゃみをしていた。吐き出された息は白く、雪が降っていたのが不思議なぐらい、という感じだ。
朝、時間的には確かにそうだけど、この空を見上げて朝であると形容する人は、果たしてどれだけいるだろうか? 日はまだ昇っておらず、空はまだ黒一色に染まっている。冬の明け方なんてこんなものなんだろうけど、普段こんな時間に外出しない身としては、なんだか新鮮な風景だ。
僕は今、穂見駅前にいる。朝の五時半という時間を考えれば、人はなるほど春日野悠は始発電車を待
っているんだなと思うだろう。否定はしないし、事実その通りだけど、正解かどうかと言われれば、半分だけと答える。確かに始発電車も待っているけど、あいにくと僕には一人で始発電車へ乗るような趣味はないからだ。
「まだかな……」
都会に比べれば、五時半頃に始発電車が来るというのは、割りと遅い方に分類されるだろう。でも、常日頃真面目に学生生活を営んでいる僕らにとっては十分早く、いつもならまだ布団の中にいる時間だ。最近は朝方冷え込むことも多くなってきたので、なかなか布団の外に出られなくなったけど、今日は予め「軽く仮眠を取る程度」に睡眠時間を抑えたため、特に問題なく起き上がることが出来た。
何故、僕がそうまでして始発前の穂見駅に出てきたのかといえば、言うまでもなく電車に乗って出掛けるためだ。しかも、始発でなくてはいけないような、結構遠くまで。奥木染や穂見みたいな田舎に住んでいると、ちょっとした遠出をするだけでも、始発でないと目的地に午前中着かないなんてことがあるから、なにかと面倒くさいのだ。
「おかしいな、そろそろ電車が来るんだけど」
腕時計で時刻を確認しながら、僕はコートのポケットから携帯電話を取り出す。電話で連絡をとるべきだろうか? 時間を考えれば、急かしても文句は言われないかもしれないけど、それ以前の事情を考えると、やはり僕が電話を掛けるべきではないように思う。ただ、始発逃すと次に来るのは三十分後なのだ。この冬の寒空、駅のホームで三十分も電車を待つというのは、あまり想像したくない姿だろう。当然ながら、穂見駅前には電車の待ち時間を潰せるような飲食店の類は存在しないし、あったとしても、朝の六時前に開店するところはない。
「……ハル」
電話を掛けるべきか否か、僕が悩んでいたところに小さな声が掛かった。少し気怠そうで、聞くからに眠そうな声。僕は、開いていた携帯を閉じると、再びコートのポケットへと押し込んだ。
「えっと、おはよう、穹」
「……待った?」
「いや、その、待ってない。今来たばっかりだよ」
本当は二十分以上前から来てたけど、どこの世界に彼女とのデートを「大分待った」なんて一言で始める奴がいるのか。例えそれが、一緒に暮らしている双子の妹だとしても。
「じゃあ、電車も来る頃だし、行こうか?」
「……うん」
答える穹の反応は、いつもよりどことなく遅めだった。多分、まだ眠いのだろう。穹は寝覚めが悪いわけじゃないけど、寝起きがいいわけでもない。こんな朝か夜かも分からない時間に表を出歩いたことなんてないだろうし、眠たそうな姿を隠せないのも無理はないのかもしれなかった。
やがてやってきた電車に乗るも、穹はさて、すぐ眠りの森へとたびだってしまう。
「ま、着いたら起こせばいいのかな」
僕らはどこへ行こうとしているのか? どこと言うか、僕らはデートをしているはずなんだけどね。こんな始まり方では、あるけどさ。
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サークル・シャリテクロワールが発行するヨスガノソラ本第7弾「マフユノソラ」のサンプルです。