『雨に唄えば』だったろうか。スーツを着た主人公が土砂降りの中で歌って踊るミュージカル。
小学生の頃に一度、映画版を観ただけだから、ストーリーは良く覚えていないけれど。
僕はコウモリ傘をちょっとだけ傾けて、ここ数日、雨を垂れ流し続けている大きな黒雲に目を向ける。奴のせいで洗濯物を満足に干すこともできない。部屋干しは邪道だと思う。
でも、まぁ、いいのだ。例えば、だだの水と雪だったら、さっさと流れていくだけ前者の方がマシである。
それに雨粒が傘を叩く音も心地良いし、この水々しい空気の味も、どこか爽やかなこの匂いも、決して嫌いじゃあないのだ。
ふと立ち止まる、ここは老人ばかりの寂れた住宅街。そして今は、日曜日の真っ昼間だ。
周りに誰も無いことを確かめて、ごほん、ごほん。と喉を整える。
そして、僕はあの映画の、あのシーンで、あの俳優が取っていたポーズの真似をする。
ミュージカルの舞台に立っているような気分になりながら、僕は喉を震わせた。
「あいむしーん、きんざれーいん」
想像したいたのとは何かが違う。音程ってどう調節するんだろう。そもそも歌詞はこれで合っているんだろうか。
でも、まぁ、いいのだ。人に聴かせる歌じゃない。
僕は傘を放り投げた。特に意味は無い。全身を叩きつけるように降り注ぐ雨に立ち向かうように、馬鹿みたいな大声で叫ぶ。
「じゃすしーん!きんざれーいん!」
僕の歌声が雲まで届けばいいと思う。そうして、桶屋が儲かるように至極遠まわしな連鎖で雨がもっともっともっと降るのだ。
それはきっと楽しいことだ。通勤通学など知ったことか。みんな雨の中を歩けば良い。各々好きな曲でも歌えば尚良い。
いっそう強く、僕は高らかに歌声を張り上げる。
「わっぐろーりあす……ふぃ、ふぃー……」
何だっけ。
どうにか続きを思い出そう、と頭を捻る。腕を組んで、うーん、と唸っていると、すぐ傍の家の、軒先にいた女の子と視線が合った。
慌てた様子で家の中に引っ込んだ彼女は、頭のおかしい人間を見る眼をしていたような。
そうして、僕は我に返った。
お気に入りのパーカーは文字通りの『べちょべちょ』だ。ジーンズも下着まで濡れてしまっている。これが字面だけなら妙に嬉しくなるというのに。
四千円したコウモリ傘は風に吹き飛ばされたのか、住宅街の奥へ消えていた。体は芯まで冷えていて、このままだと明日以降、風邪でダウンするのは間違いない。雨は依然、ざあざあと喧しい音を立てて降り注いでいる。
ため息をひとつ。
――疲れているんだろうか。僕。
でも、まぁ、いいのだ。
ここの所、こんな気分になったことなんて無かったから。
我ながら調子の外れた鼻歌で、『雨に唄えば』のメロディーをなぞる。
全身ずぶ濡れになり、体を震わせながら、僕はゆっくりと家路を辿った。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
某所にて晒した習作の加筆修正版その3
掌編って難しい。