No.343663

リトル・ディスタンス 第1部

凍月槐夢さん

謎の病で余命僅かと告げられた僕は、入院生活を余儀なくされていた。――それでも、僕は諦めない。最期の瞬間まで、大切な仲間達と笑っていたい。そう、心の底から思うから――
  ※某文庫に投稿して一次落ちした作品です。今読み返すと下手すぎて恥ずかしいですが、初投稿ということで許してやってください……。(pixivにあるものと同じです)

2011-12-05 15:16:38 投稿 / 全22ページ    総閲覧数:557   閲覧ユーザー数:557

 

プロローグ

 

 

 生命とは、生きとし生けるものに平等に配当され、各々がそれを抱き、明日へと繋いでいくものだ。それは常に有限であり、脆い。それでも、十人十色、千差万別な理由を抱き、時間と共に歩んでいく。中でも、人間という生物にとって、時間というものは切っても切り離せないものだ。彼らはそれがいつ果てるのかは知らない。……いや、知らないからこそ、前を見て進んで行けるのだろう。

 この世に「永遠」や「無限」が無いように、「平等」もまた、言葉だけで上辺だけの存在に過ぎない。生命が分配されること自体は平等でも、その生命の強さは決して平等ではないのだ。その生命が辿る、運命も。

 それでも人々は、時に争い、時に力を合わせて、果敢に進んでいくことが出来る。

 ――自分の時計の、砂の量を、知らないからこそ。

 

 

 天宮雅晴(あまみや まさはる)は、心身共に健康的でありながら、入院生活を余儀無くされていた。

しかし、幼い頃に両親に先立たれ、独りひっそりと暮らすことを覚悟していた彼にとっては、孤独にならないということは吉報だったかもしれない。

だが彼は、常人からすれば幸福とは決して思えないであろう現実を背負い、生きている。

――余命、数ヶ月。

――そして、その時間の延長方法も、原因の撤去方法も、皆無。

絶望的な現実を突きつけられながら、彼は入院生活を送っている。だが、彼を見たものは皆、彼がそのような重病患者であるということに疑いを持つだろう。彼は絶望するどころか、寧ろ昇華させ、誰に対しても明るく、そして優しく接しているのだ。それには看護士達は勿論、心理学や精神医療をはじめとする医者や学者ですら驚いていた。

彼が笑っていられるのには、理由《わけ》があった。彼の周りには、昔から常に仲間が居たのだ。

そして、彼は最期までその大切な仲間達と歩んで行くことを決意する。彼は、人の笑顔を見ることが好きで、中でもその仲間達の笑顔には、一際喜びを覚えていた。

――例え自分が辛くても、周りの仲間が笑ってくれるのだから、自分も明るく生きていこう。

その仲間達に病であることを告げ、彼は一瞬一瞬を大切に歩んで行く。

 だが、彼は仲間の一人だけには、どうしても現実を告げられないでいた。いつも伝えなければと心では解っていても、口に出すことはどうしてもできなかった。それは、彼が仲間に抱く「優しさ」でもあった……。

 

 

 時間と運命に弄ばれ、不幸な人生を歩むことを余儀無くされた雅晴は、絶望せず、覚悟をして、前を向いて仲間達と歩んで行く。――他ならぬ、仲間達のために。

 そして何より、ただでさえ少ない時間を、有意義で幸せなものに捧げたいと思うから。

――だから、彼は決して現実には負けない。

 

――最期の瞬間まで、笑っていたい。

 

……その強い想いが、いつも背中を押してくれるから……。

第1章:ありふれた、幸せな日常

 

 

「雅晴く~ん!朝ですよ~!」

 女性の看護士がカーテンを開け放ち、朝日を部屋の中に取り入れる。その陽光は、ベッドの上に横たわる雅晴の顔面へと降り注いだ。

「は~い……」

 まだ意識が覚醒し切っていないまま、雅晴は身体を起こした。

「はい、体温計」

 雅晴は、看護士が差し出した体温計を受け取り、腋に挟んだ。

「気分はどうですか?どこか、変なところとかありますか?」

「至って良好ですよ。強いて言えば、あまり寝起きがよろしくない」

 雅晴の言葉に、看護士は悪戯っぽく笑った。

「昨夜は夜遅くまで、一体ナニやってたのかな~?」

 その言葉に、雅晴は苦笑で返した。

「何もしてませんよ」

 雅晴がそう言ったとき体温計が鳴ったので、取り出して看護士に手渡した。

「六度二分かぁ……。まぁ、平熱だね」

「健康第一ですから」

 雅晴の言葉に、再び看護士は苦笑した。

「入院している人が言うと、物凄く違和感あるけど~?」

「自分でもそう思いますよ」

 看護士は、雅晴の苦笑交じりの返答を聞いた後、また後でと言い残し、病室から退室した。朝の健康状態をカルテに書き込むためであろう。

 そして、看護士が健康状態の確認を終えたということは、じきにこの個室の病室に朝食が届けられる、ということを意味する。……当然、味は塩気があまりなく、素気無いが。それでも、雅晴の思考は、「食べられるだけ有難い」なので、苦ではないようだ。

 朝食が来るのを待っていると、雅晴とあまり年齢は変わらないと思われる少女が、病院には決してそぐわないであろう大声を張り上げ、ドアをけたたましく開けて病室に駆け込んできた。

「兄さーん!!今日も来たよぉー!!」

 そして、ベッドの上で座っている雅晴の右腕にぎゅっと抱き付く。そのスキンシップの激しい行動に、雅晴は小さく笑った。

「こらこらこら。これでも一応病人なんだから」

 雅晴が優しく言うと、にっこりと嬉しそうに微笑んだ。だが、抱き付くのはやめていない。

「別に、感染するわけじゃないし、いいでしょー?」

「全く……、仕方ないな」

 ――彼女の名は、八重岬(やえみさき)。雅晴よりも一学年下で、幼馴染だ。身長が低く、髪はいつも高い位置でツインテールにして結えている。血は繋がっていないが、昔から雅晴とは兄妹のように育ち、今でも彼を「兄さん」と呼んでいるのだ。

 そんなやりとりをしていると、先程の看護士が戻って来た。

「あ、岬さん!ダメですよッ!!」

 咎めるような口調で二人に歩み寄り、雅晴から岬を引き離そうとする……と思えば――

「独り占めはダメです!私もッ!!」

 そう言って、彼女は雅晴の背後に回って、岬と同じように抱き付いた。雅晴は、たまらず苦笑した。

「ははは……。看護士が患者の近くに居るのは当然ですが、これは近付き過ぎでは?」

「別に、距離なんか決まってないのよ。これはお姉さんの挨拶ですから~」

 そう言って、彼女は密着率を上げた。無論、女性特有の膨らみが雅晴の背中を圧迫する。彼の年頃の男子ならば取り乱すであろう行為だが、沈着冷静な雅晴は全く動じず、再び苦笑を浮かべる。

「そんなことばかりやってると、また先生に怒られちゃいますよ。菫(すみれ)さん」

「もう……、直ぐにそんな意地悪言うんだから……」

 彼女は口を尖らせながら、渋々といった様子で雅晴から離れた。

 ――水無瀬(みなせ)菫。雅晴の担当の女性看護士だ。やたらと雅晴にひっつく、やや長めの髪をした彼女は、この病院で特に明るく気さくな性格をしている人気者だ。いつも穏やかな表情をしており、病状や老若男女問わず、彼女は沢山の人から好かれている。

 ちなみに、この病院では看護士の制服は男女問わず白衣なので、初めて来た人はよく彼女を女医と間違えるらしい。

「菫さん。『両手に華』という状況は、兄さんには理解できないようです……」

 岬の素気ない一言に、菫がここぞとばかりに喰いついた。

「グスッ……雅晴くんは、そんな意気地無しなのですね……。あ!それとも小さな女の子しか愛せな――」

「断じて、俺は幼女趣味《ロリコン》ではないです」

 雅晴がキッパリと言うと、菫は「なら安心」と軽々しく言ってから、一旦廊下に出て、雅晴の朝食を運んで戻って来た。

「はい、どうぞー。お姉さんの愛情がいっぱい詰まってるわよ~」

「いやいや、作ったのは栄養士さんと調理師さんでしょ……」

 菫にツッコミを入れている最中に、箸を岬に取られてしまい、岬はおかずの野菜炒めを一口分摘まんで、雅晴の口元に近づけた。

「はい、あ~ん」

「ははは……、これは恋人のやることだな」

 雅晴は、岬の行動に小さく笑うと、差し出された野菜炒めをパクリと口に含んだ。そして、ゆっくりと咀嚼し、嚥下する。

「美味しい?」

「う~ん……不味くはないな」

 直球過ぎる雅晴の感想に対し、菫がため息を漏らした。

「そこはお世辞でも美味しいって言わないと~!」

 自分のことでもないのに口を尖らせる菫に、「そんなことを言われても……」と返す雅晴であった……。

「あ、まさにーちゃんッ!!」

 登校前の診察を受けるべく、着替えを済ませ、鞄を持って岬と一緒にロビーへ向かった雅晴を待っていたのは、十人近い人数の元気な子供達だった。だが、皆腕や足にギプスを巻いていたり、車椅子や松葉杖を使用していたりと、怪我人であることを窺わせる。

「まさにーちゃん!おはよう!!」

「ああ。おはよう」

 あっという間に、雅晴の周りは子供達に包囲されてしまった。

 その中の一人の男の子が、雅晴に泣きついてきた

「にーちゃん……」

「どうした?苛められたか?」

 雅晴の問いに、その子は首を横に振った。

「……ちゅーしゃ、こわいよ~!!」

 他の子供達に「泣くなよ」と言われても、その子は全く泣き止む気配が無かった。その状況に雅晴は、泣き続ける子供の頭を撫でてから口を開く。

「そっか。注射、怖いか。だけどな、考えてみれば注射ってのは単なる針だぞ?お母さんが服を縫うときに使ってるのと変わらないじゃないか」

 当然、注射針と裁縫用の針は別物だが、相手は子供なので、雅晴は特に気にしないことにした。

「でも、ちくってするじゃんか!あれ、痛いもん!!」

「ああ、痛いな。俺も注射はあまり好きじゃない。だけど、注射しないと病気が治らないぞ?いつまで経っても、みんなと一緒に遊べないぞ?」

 優しく、静かに語る雅晴の言葉一つ一つが、泣き続けている子供に、少しずつ落ち着きを与えていく。

「やだよ……。みんなとあそびたいよ……」

「だったら、注射をしなきゃ。男だろ?そんなんじゃ、女の子から馬鹿にされるぞ?」

 表情に笑みを浮かべながら言う雅晴に、子供は泣き止んでからそれも嫌だと言った。

「ほんの少しの間だけだ。辛抱できるよな?」

 雅晴は子供の肩に手を置き、檄を飛ばした。するとその子は、鼻を啜って目元を拭ってから吹っ切れたように言った。

「……うん。それに、にーちゃんのびょーきにくらべたら、ちゅーしゃなんかぜんぜんへっちゃらだもん」

「……そっか」

 もう一度、雅晴はその子の頭を撫でてから、「頑張れよ」と背中を押してやった。

「さっすが、私のまさにーちゃん!」

「おいおい、お前までその呼び方をするか……」

 先程の子供の真似をする岬に苦笑し、背中にかけられる子供達の元気な声を浴びながら、雅晴は岬を連れて待合室へと足を運んだ。

 待合室には、話題を更に賑やかにするであろう人物、菫が待っていた。

「一部始終、キッチリと見てたわよ!やるじゃない、やるじゃない!!後ろの女の子なんか、雅晴くんにキュンキュンで!!」

「ははは……、それは困りますね……」

 予想以上のアグレッシブさに、雅晴は少しだけ圧倒され、苦笑いを浮かべた。

「ほんと困るわ~。私がお婿に貰おうとしてたのに!!」

 菫がそう口にした瞬間、ここぞとばかりに岬が喰いついた。

「だめですよ!兄さんを婿に貰うのは、私なんですから!!」

「おいおい、いつの間に俺は婚約したんだ?」

 ツッコミを入れる雅晴であったが、菫はそんなことは構わず、わざとらしく驚いたようなリアクションをとった。

「そ、そんな……。まさか、義妹だと思っていた岬ちゃんが、許婚だったなんて……」

 そして、岬はあたかも恋人であるかの如く、雅晴の腕に自分の腕を絡ませた。そして、誇らしげに胸を張る。

「近い将来、呼び方が『兄さん』から『ダーリン』に変わるんだから」

「ダーリンはよせ、ダーリンは……」

 だが、やはり雅晴のツッコミは聞き入れず、岬は自慢げに、絡めた雅晴の腕に頬擦りした。しかし、菫は黙って見ているだけではなかった。

「ふっふっふ……。甘い、甘いわ、岬ちゃん!」

 そう言って菫は、病室で雅晴の背中にそうたときと同じように、雅晴のもう片方の腕に自分の胸を押し付けた。

「私には、女の最大の武器があるのよ!!」

「むっ!抜かったぁ!!」

 この光景に、雅晴は堪らずため息を漏らした。呼ばれるまでこのままなのかと思うと、彼は頭が痛くなった。

「さぁさぁさぁ!雅晴さん、思う存分溺れなさい!!」

「溺れません!」

 そうして、三人で騒いでいると、いつも雅晴の診察を請け負っている、年齢は初老半ばくらいであろうと思われる医者が診察室から顔を出した。

「おーおー、今日もやってるか。本当に仲が良いな、君たちは」

 医者が呼びに来たということは、雅晴が診察を受ける番が回ってきたことだというのに、岬も菫も雅晴から離れようとする気配は無かった。

「勿論ですよ!此間なんか、『菫は俺の嫁だ!!』なんて言ってきて、嬉しいのなんのってっ!!」

「身も蓋も無いことを言わないで下さい……。というか、普通は患者を呼ぶのは看護士の仕事じゃないんですか……?」

 菫は、雅晴にてへりと小さく舌を出して誤魔化した。それを見た雅晴は、いつもそうしているように小さく笑った。

 岬に、「また後で」と一言告げてから、菫と一緒に医者の待つ診察室へと入り、扉を閉めた。菫は雅晴から鞄を受け取り、雅晴の背後に立つ。そして雅晴は、医者の前にある患者用の丸椅子に腰を下ろした。

「熱もないし、体調は良好……か。それじゃあ、服を捲ってくれ」

 医者の指示通り、雅晴は上着を捲って上半身を見せた。医者は聴診器を胸元に数回当て、今度は雅晴に後ろを向くよう促すと、背中にも同じように何度か聴診器を当てた。

「……異常なし、と。じゃあ、口を開けて」

 雅晴が口を開けると、医者は左手に持った銀色の診察器具で雅晴の舌を押し込み、右手に持ったペンライトで雅晴の口内を照らし、喉や口腔などを眺めた。そして、一通り見終わると器具を片付けた。

「異常なし。健康そのものだ。病人だとは到底思えないね」

 そう口にしながら、医者はカルテに書き込んだ。雅晴が見た限り、「良好」の二文字ばかりだった。

「自分でも、たまに自分は本当に病人なのか疑わしくなりますよ」

「……天宮くん」

 雅晴が口にした直後、医者はいつも以上に真剣な表情で、雅晴を正面から見据えた。

「実を言うと、原因も症状も常に出る病気ほど、治すことが簡単な病気は無い。どんな薬を注射すべきか、どんな薬を飲ますべきか、自ずと見えてくる。だが、君の場合は……」

 医者の言葉に、雅晴は穏やかな表情で返した。

「いいんですよ。何事にも限度はあります。それに、俺がこの病にかかったのは誰の所為でもない。俺は常に苦しい状態に晒されているわけじゃありませんし、楽な方ですよ」

 その言葉を聞いて、医者は数秒間だけ何かを考え込むようにしてから、ゆっくりと口を開いた。

「……天宮くん、君は強いな」

 そして、まるで雅晴のことを尊敬するかのような口調で語り出した。

「きみの不治の病というのは、末期ガンと似ている。病状はともかくとして、寿命が短いことを告げられるということは、常人では到底耐え切れないだろう。私は、『何とかしてくれ』と縋り、泣きつく患者や、『何で自分がこんな目に』と、ぶつけようの無い憤りや哀しみを持て余す患者を嫌というほど見てきた。無論、末期ガンと告げた患者は皆、そのどちらかだ。きっと、私が患者の立場でも同じことになる。だが、君は――」

 医者は、一旦話を切って小さく息を吸ってから話を紡いだ。

「――君は、泣くことも、怒ることもせず、ただ現実を受け入れた。私が診てきた中で、君のような患者は初めてだ。私は、君の心の強さに尊さすら覚える」

 雅晴は、一度苦笑を漏らしてから医者に応える。

「俺は、先生が思うほど強い人間ではないですよ。仮に強かったとしても、誰かに敬われ、称えられるような人間じゃないです」

 キッパリとして、迷いの無い雅晴の言葉に、医者は呟くように返した。

「……天宮くん。泣きたければ、泣いても構わない。怒りたければ、怒って構わない。私も、看護士達も、君の事を恰好悪いなどとは絶対に思わない。君の患っている病は、情緒不安定になっても可笑しくないような重病なんだ」

 医者は、自分が伝えたいこと全てを吐き出したのか、言い終えると一度深呼吸し、下を向いてしまった。

 雅晴は一度瞼を下ろし、ゆっくりと息を吸い、優しげな表情で医者の意見に応えた。

「俺は、泣く気も、怒る気も、毛頭ありません。だって、俺は幸せ者ですから」

 先程重病と言ったばかりだというのに、自ら幸せ者を言った雅晴に、医者は首を傾げながら目を向けた。

 そして、雅晴は続ける。

「確かに俺は病人です。寿命も長くないかもしれない。だけど、五体満足で生まれることが出来て、素晴らしい仲間達に巡り逢えた。俺は時間に恵まれていなくても、人には恵まれてます。欲しいものはありません。それだけで、十分です」

 雅晴は、菫に一度視線を動かす。すると菫は優しげな笑みを雅晴に返し、雅晴も微笑を菫に返した。雅晴は視線を医者の方に戻し、話を紡ぐ。

「それから、例え哀しくても、例え怒りを持て余していても、現実から目を背けてはいけないんです。泣いても、何かに縋っても、嘆いても、怒っても……何も変わらない。そこで挫けるか、前を向いて進むか、ですよ。だから俺は、最期の瞬間まで精一杯生きよう、って決めたんです。制限時間なんか関係ない。手探りで積み上げた思い出でも、傍から見たら不恰好な思い出だったとしても……それが、『天宮雅晴』という、一人の人間の一生なんだと、胸を張って言えるように」

 そう言い終えた雅晴は、もう一度優しげに笑った。

 雅晴の言葉を聞き続けていた医者は、数秒間俯いたままだったが、腕時計で時間を確認すると直ぐに顔を上げた。

 その表情は、まるで何かに吹っ切れたようにさえ見えた。

「そうか……。貴重な時間を割いてすまなかった。では、その素晴らしい仲間達の許へと行ってきなさい」

「はい!」

 雅晴は服装を整えてから踵を返し、菫から鞄を受け取り、扉を開ける。そして、一度菫と医者に礼をしてから退室した。

「……彼が医者になったなら、きっと沢山の患者が救われるだろうな」

 さり気なく医者が漏らした一言に、菫は小さく笑った。

「あら、先生もそう思いますか?私も、彼は医療関係の仕事に凄く向いていると思います。強くて、優しくて……私も、彼に救われた一人ですからね。なんか、患者に救われる看護士というのも可笑しい気がしますけど」

 菫が笑うと、医者も小さく笑い、次の患者が来るまでの間、診察室の空気はとても朗らかに流れていた。

 病院から出て外の空気を吸い、一度大きく伸びをした雅晴は、一度振り返って大きな病院を見上げた。

 ――薗橋市民病院。彼が入院している病院で、この街で唯一の総合病院だ。実のところ市営ではなく、私立病院である。

 というのも、市営病院が昔はあったのだが、この病院ほど大きくなく、数えるほどしか患者を収容できなかった為、この病院ができてから、直ぐに潰れてしまった。

 ちなみに、名前が市民病院なのは親しみやすいからで、他意はないらしい。

 そしてこの街、薗橋市はというと、西を海に、東を山に囲まれた自然豊かな街で、中央はそれなりに賑わう都市になっていて、高速道路も鉄道も通っており、そこそこ栄えている街だ。しかし、雅晴にとっては生まれ育った街としか映っていないようだが。

「兄さん!もうすぐ文化祭だね!」

 雅晴は視線を病院から岬に移した。

「ああ。もう秋も終盤だしな」

 もう、今は九月下旬。彼の病が発覚して、既に二年が経っていた。

 雅晴は通学路に向けて足を動かし始め、岬もそれに倣った。

「――それがどうかしたか?」

「えっとね……誰と校内を廻るのかな~って。あと、後夜祭のフォークダンスも!」

 特に誰と一緒に居るかなど考えていなかった雅晴は、うーんと唸った。

「……まだ、未定かな」

「そっか!それじゃあさ、一緒に廻ろうよ!」

 楽しそうに言う岬を見て、雅晴は思わず顔を綻ばせた。彼は内心、それも悪くないと思いつつ、応えた。

「そうだな。那奈美と弘光が誘ってきたら、一緒になるだろうけど」

「りょーかい!……で、後夜祭は!?」

 元気一杯のまま、再び岬は雅晴に問うた。

「岬、うちのフォークダンスは順番制だぞ」

 雅晴の言葉に岬は、あははと小さく笑った。だが、彼女が後夜祭のことを知らないのは決して可笑しくは無い。彼女はまだ一年生で、今年入学したばかりだからだ。

「まぁ、順番は自由だから、回る方向に注意して輪に入れば、俺と踊れるんじゃないか?」

「あっ!なるほど~!よし、当日はそうしよう!!」

 そう言い終えると、岬は雅晴の左手を取り、嬉しそうに抱き締めた。

「なんだ?俺と踊るのが、そんなに楽しみか?」

「もちろん!楽しみじゃなきゃ、こんなに笑わないよ!!」

 そう言って甘える岬に微笑みかけながら通学路を学校に向かって歩いていると、雅晴は後方から聞き慣れた声で呼ばれた。

「よう、雅晴と岬ちゃん!おはよう!!」

「おはようございます。雅晴さん、岬さん」

 声の主は男女で、雅晴と岬の幼馴染だ。学年は二人とも二年生で、やや長身な少年の方は杉原弘光(すぎはらひろみつ)、ショートカットの髪形をした少女の方は穂野村那奈美(ほのむらななみ)という。

「おはよう!那奈美ちゃん、弘光くん!」

 相変わらずの元気さで岬は二人に挨拶を返した。

「ああ、おはよう」

 雅晴が優しげに微笑むと、那奈美もつられたように微笑んだ。弘光は雅晴の肩に手を回し、耳元で囁いた。

「……どうだ、今朝の具合は?」

 雅晴は弘光と同じく、囁くように返した。

「良好だ」

「そうか……。無茶はするなよ」

 雅晴が「分かっている」と返すと、弘光は雅晴から離れた。……そう、那奈美は雅晴の病について知らされていないのだ。というよりも、とある理由で伝えられない、と言った方が正しいかもしれないが……。

「弘光くん?どうしたんですか?」

「ん?ああ、ちょっとオトコとオトコのハナシをね」

 弘光の言葉に、那奈美は首を傾げたが、あっと言って頬を膨らせた。

「えっちな話ですね!?駄目ですよ!こんな早朝から!!」

「ふっふっふ……。それは無理ってもんだぜ、那奈美ちゃん……。なんたって、男の性《サガ》だからな!な!雅晴!!」

 突如雅晴に同意を求める弘光だったが、雅晴は「俺は興味は無い」と言って、切り捨てられてしまった。

「ぬぅあにぃ~!?雅晴!お前、男を否定するのか!?」

「ひ・ろ・み・つ・さ~ん?」

 足を止めた那奈美は、弘光を冷ややかな目で見つめた。表情は笑っているが、目だけが笑っていない。弘光は堪らず足を止め、背筋を凍らせた。

「い、いや~……その、別に雅晴を引き込もうとか、そういった意味は無く……あ、あははは――すみませんでした……」

 結局、笑って誤魔化すことができなくなった弘光は、歩道の真ん中で那奈美に土下座をして許してもらっていた。

「あ、あららら……」

 岬は足を止め、そんな弘光を少し離れた場所で見て、何を言えば良いのか分からない様子だった。雅晴はそんな岬に一声かけることにした。

「やつのことを思うなら、あまり見てやるな……。いたたまれない気持ちになるから……」

 周りの注目を集めていた弘光だったが、どうやら那奈美が許してあげたようで、立ち上がり、雅晴達の許へと戻った。

「ふぅ……おっかねぇ~……」

「自業自得です」

 二人のやりとりを見ながら、弘光を気の毒に思いつつも、心の奥では小さく噴き出していた雅晴であった。

 教室に到着し、雅晴はいつも通り弘光と那奈美と一緒に世間話をしていた。弘光の他愛無い話、那奈美の女性らしい流行についての話……交互に語りかける二人にしっかりと耳を傾け、意見を求められれば、相手の意見をしっかりと尊重した上で自分の意見を述べる。そして、自然とその場の空気が和らいでいく。その繰り返しだ。

 そして、ふと那奈美は雅晴に話題を持ち掛けてきた。

「ねぇ、雅晴さん。雅晴さんは、将来の夢とかある?」

 雅晴の病気について何も知らない那奈美は、ごくごく普通に尋ねた。その光景に、弘光がやや焦ったような表情を雅晴に向けたが、雅晴は「いいんだ」と目で合図をした。

「夢か……。何だろうな?できるなら、人のためになる仕事をしたいかな。儲からなくても良いからさ」

 しっかりと応えた雅晴を見て、弘光は安堵しつつも寂しそうな表情を見せた。

 那奈美は、雅晴の応答を聞いて、小さく笑った。

「雅晴さんらしいですね。雅晴さんなら、きっと……ううん、絶対なれると思います!」

「だといいな」

 笑って言う那奈美に対し、雅晴も小さく笑いかける。その微笑に、偽りは全く無かった。

「那奈美の夢は、何だ?」

 雅晴は、穏やかな表情のまま那奈美に訊き返した。那奈美はその問いに、暫し考え後に、静かに口を開いた。

「職業は、今はこれと言って無いんですけど……。明るい家庭を築きたいなぁ……とは思っています。良い旦那さんを貰って、子供を産んで……って、要するに主婦ですね」

 そう言い終えた後、那奈美はまた微笑を浮かべた。

「那奈美ならなれるよ。人を見る目もあるし、俺なんかよりもっともっと頼り甲斐があって、恰好いい人に巡り会える。それに、那奈美は料理も上手いしな。将来の旦那さんが羨ましいよ」

 そう言って、雅晴は弘光を肘で小突いた。まるで、それは「お前がなるんだぞ」とでも言いたげに。弘光は表面上では照れ笑いをしていたが、内面では雅晴の本当の気持ちが手に取るように読み取れたので、とても悲しかった。――「俺が死んだら、那奈美を頼む」という、彼の強い想いが。

 だが、弘光は落ち込んではいけないと内面の自分を心で叱咤し、口を開いた。

「ああ。那奈美の手料理は本当に美味いもんな。今でも忘れてないぞ」

「あ、ありがとうございます……」

 那奈美は頬を染め、照れ笑いを浮かべていた。そして、ちらりと雅晴を見て頬を染めたまま嬉しそうな表情に変わり、小さく笑った。

 将来の話に一段落付いたその瞬間、雅晴の教室に岬が滑り込んできた。

「に、兄さん、大変!大変だよ!!」

 息の上がった岬を心配しつつ、雅晴は何事かと尋ねた。

「い、いいから来て!早く!怪我人が出ないうちに!!」

 こういったことは学園の先生方が対処すべきことなのであろうが、岬は自分を頼ってわざわざ走って来たのだろうと解釈し、雅晴は二人に先生が来たら自分のことを連絡するように頼み、岬と共に廊下へと駆け出す。

「一体、何があったんだ?」

「ちょっと揉めてるの!」

 揉め事ということは喧嘩なのであろうが、何故仲裁に自分が必要なのかと首を傾げる雅晴だったが、とりあえずは状況を確認してから行動しようと思った。

 一年の、岬の教室に入ると、机や椅子を薙ぎ倒し、教室の後方で鬩ぎ合う二人の男子が居た。だが、どうも様子がおかしい。争っている二人ではなく、その近くで立っている、やや長身で腰まで伸ばした長い黒髪の少女が彼の目を引いた。しかも、その少女は異常なまでに姿勢が良い。背筋を伸ばし、まるで礼儀作法の手本を見ているようだった。

 そして、その少女は突如、口を開いた。

「……うるさいぞ。いい加減他人への迷惑を考えろ。無粋な男ども」

 刺々しく言った彼女に対し、雅晴は火に油を注いでどうする、と言いたかった。

 ……案の定、彼が心配した通りになった。

「……んだと!?」

 今の今まで喧嘩をしていた二人は、その少女を睨み付け、酷く興奮した荒い息を吐いていた。

「あちゃ~……、遅かった……」

 岬はため息を吐き、その少女を眺めた。

「……彼女、知り合いか?」

 雅晴の問いに、岬は頷いた。

「私の幼馴染だよ。でも、兄さんたちには一回も会わせてない」

 雅晴が何故だと追求すると、岬は躊躇いがちに口を開いた。

「……彼女は――昴(すばる)ちゃんは男の人が苦手なの。あ、昴っていうのは彼女の下の名前で、苗字は柊(ひいらぎ)っていうの」

 ――柊昴。雅晴は、初めて聞く名だった。

「……とにかく、止めに言ってくるよ」

 雅晴が駆け出そうとした瞬間、岬が待ってとそれを止めた。

「昴ちゃんは……強いよ?」

「それでも、怪我人が出る前に止めないと。」

 後ろで揉めていた二人は、既に負傷しているかもしれないが、増やさないに越したことは無い。彼は、岬の牽制をやんわりと解き、教室に入った。

 教室では相変わらず、男子二人が昴を睨み続けている。昴は全く動じていないが。

「第一お前には関係無いだろ!何でいちいち割り込んで来るんだよ!?」

「他の人に迷惑になっている、と言っているだろう。お前は、特に頭の悪い男なのだな」

「手前ぇ――」

 男子の一人が手を出そうとした瞬間、雅晴は間に割って入った。

「ストップだ。そこまで。とりあえず、三人とも落ち着いて」

 突然の乱入者に男子生徒二人は再び腹を立てると思いきや、雅晴だということに気付いた瞬間、落ち着きを取り戻していく。雅晴は、岬がしょっちゅう彼の話をしているので、このクラスでは男女問わず、特に評判が良い――岬が彼を呼んだのは、これが理由だった――……但し、昴を除いて。

「あ、天宮先輩……」

「どうして、ここに……?」

 だが、そんな二人とは違い、昴は再び刺々しく言う。

「別に私は最初から落ち着いています。男の分際で、私に指図しないで下さい。例え、私よりも学年が上でも」

 昴が啖呵を切ったことで、落ち着き始めていた二人が再び奮起しそうになったが、雅晴が落ち着いた口調で制すと、また大人しくなった。

「……そうだったか。ならば、こちらの手違いだな。申し訳ない」

 とりあえず、雅晴はこの場から昴を引き離した方が良いと考え、廊下で待っている岬を呼んだ。岬は直ぐに状況を理解し、昴の腕を掴んだ。その瞬間、昴は先程の刺々しさはどこへやら、岬を見て驚きの表情を浮かべた。

「昴ちゃん!ちょっと、トイレ行こうよ、トイレ!!」

「え?み、岬?そ、そんなことより、この男とはどういう――」

 どういう関係なんだと尋ねたかったのだろうが、昴は岬に女子トイレまで牽引され、その輸送過程で出た問いの言語が廊下の空気に消えていった。

「ふぅ……」

 昴が退室し、二人の事情を聞いてから、ようやく二人を仲直りさせることができた。

 そして、散らかった教室を片付ける手伝いを終えた頃にチャイムが鳴り、直ぐに駆け足で自分の教室に戻ったので、雅晴は朝から骨が折れる想いだった。

「ふあぁ~……」

 下校中、朝の一件が原因で余計に疲弊してしまった雅晴は、大きなあくび欠伸を漏らし、その光景を見た弘光と那奈美と岬は笑った。

「お疲れ様です。雅晴さん」

「まさか、あの後にあんなことをしていたとはな……」

 口々に雅晴に言葉を浴びせる二人と、ただその光景に笑う岬と一緒に校門に差し掛かったときだった。

「……あっ」

 岬が真っ先に声を漏らした。その先には、長い黒髪の少女――昴が居た。

「……岬の言う、『兄さん』か?」

 雅晴は先程まで少々だらけていた心を、彼女の綺麗な姿勢に倣って正し、頷いた。

「今朝の件は、すまなかった。私も大人気無かった……」

 昴は心から反省した様子で頭を下げた。だが、再び頭を上げると今度は朝ほどではないが刺々しい口調で言い放つ。

「――だが、私は決してお前のことを信用したわけじゃない。例え、岬が信じてもだ。だから、勘違いはするなよ……」

 全て言い終えた後、昴は踵を返し、雅晴たちの通学路と同じ道へと走り去ってしまった。

「……どういうことだ?」

 訳が分からないといった様子で雅晴が岬に尋ねると、岬はくすくすと笑った。

「昴ちゃん、兄さんのこと気に入ったのかも」

「まさか、そんなわけないだろ」

 雅晴は冗談だと思い、岬に微笑を返した。

 そして、登校のときと同じように、四人で下校していると、病院に通りかかる。だが、雅晴は直ぐに病院には向かわない。何故ならば、那奈美が居るからだ。いつも、彼女の家の前まで行ってから、バレないように迂回して病院に帰っている。

「それじゃあ、また明日」

「ちょっと早いけど……。お休み!兄さん!!」

 弘光と岬は、病院とは目と鼻の先にあるマンションに住んでいるので、俺は二人に手を振って、那奈美と一緒に住宅街へと歩いて行く。

 暫く進んで、病院が見えなくなった辺りで、那奈美は突然口を開いた。

「……もうすぐ、文化祭ですね」

 今朝岬に同じ話題を持ち掛けられた雅晴であったが、彼はとりあえず「そうだな」と相槌を打った。

「その……、雅晴さんは誰かと校内を廻る、とか……決めてます?」

「今のところ、岬だけ。那奈美がいいなら、一緒に廻ろう」

 雅晴の応答に、那奈美は嬉しそうに頷いた。

「今年も、よろしくお願いします」

 笑顔で応える那奈美に、雅晴も微笑を返した。そして、心の中で想った。

 ――あとどれぐらいの間、こうして那奈美たちと一緒に楽しい時間が過ごせるのか、と。

「それじゃあ、また明日。雅晴さん」

「ああ。またな」

 那奈美が家に入っていくのを確認してから、雅晴は住宅街の奥へと進み、路地に入って迂回し、神社の前を通って病院へと戻った。

「雅晴さ~ん、もう消灯時間ですよ~」

 すでに食事も、入浴も、就寝準備も整えた雅晴は、読みかけだった文庫本をベッドの上で読んでいた。

 雅晴は、菫に呼ばれて直ぐに時計に目を移し、本に栞を挟んで閉じた。

「時間が進むのは、なかなか早いものですね」

 雅晴がそう言って微笑むと、菫がニヤリと笑った。

「あら、結構夢中になって読んでたの?何?もしかして、官能小説?」

 雅晴は、菫の言葉に小さく笑った。

「ははは……、さすがにそんな本は持ってませんよ。単なるミステリーです」

「何だ~、研究材料にちょっと読ませてもらおうかと思ったのに~……」

 何の研究材料だ、と雅晴が微笑しながら返すと、菫は彼につられたように笑った。

「それじゃあ、電気消していくわね。おやすみ」

「はい。おやすみなさい」

 菫は最後にまた微笑み、電気を消して病室を後にした。

 雅晴は布団を被り、ベッドに横になると、数分後には眠りに就いた。

 やがて、夜の静寂が全てを包み込み、今日という日が終わりを迎えた。

第2章:水無瀬菫

 

 

 今朝は珍しく寝起きの良かった雅晴は、菫が来るよりも先にカーテンを開け放ち、朝日を病室に取り入れた。

「ん~……」

 窓辺に立ち、大きく伸びをしていると、病室の扉が音を立てた。

「雅晴さん、朝――って、あら~今日は随分とご機嫌のようで~」

 そして、そのまま菫は雅晴の背中に抱き付いてきた。

「……お互い様じゃないですか」

 雅晴は苦笑気味に応えた。菫もつられたように苦笑いを浮かべる。

 雅晴はいつも通り体温を測り、菫がカルテに記入する。

「それじゃあ、朝食まで待っててね。まぁ、そのうち岬ちゃんが来るだろうから、暇はしないだろうけど」

 菫は小さく笑ってから、雅晴から離れて病室を後にした。

 そして、雅晴は菫が去ってから暫くして、一人静かに口を開いた。

「……元気、か。俺の『元気』は、一体いつまで持つのだろう……?」

 雅晴が自分の手を眺め、物思いに耽っていると、いつものようにけたたましく病室の扉が開いた。

「に・い・さ~ん!」

 ぼふっ、という布団に何かが突っ込んだ音が後方から聞こえたので、雅晴は自分のベッドの方へと視線を向けた。

「あ、あれれ~?兄さ~ん?いつの間に小さくなったの~?」

 噂をすればやってくるとはまさにこのことだと言わんばかりに、岬は菫の言った通り直ぐにやってきた。

 布団の上で首を傾げている岬に雅晴が小さく噴き出すと、彼女は窓辺に居る雅晴に気付いた。そして、今度こそ雅晴に抱き付く。

「おはよ~、兄さん!」

「ああ、おはよう」

 雅晴が岬の頭を撫でてやると、嬉しそうににっこりと笑った。

 そして、雅晴がベッドに戻ると岬はいつもと同じ、ベッドの横のポジションについた。

「兄さん兄さん!今日はどこか出かけるの?」

「出かけるって……、今日は平日だろ?」

 雅晴の言葉に、岬は「してやったり」とでも言いたげな笑みを浮かべた。

「……兄さん、今日は祝日ですよ。秋分の日です」

 くすくすと笑う岬にカレンダーを指差され、雅晴は指の先を見てみると、確かに今日の日付の数字は赤色だった。

「……ほんとだ」

 まだ寝起きで本調子が出ていない雅晴は、ポリポリと頭を掻いて小さく笑いを漏らした。そんな雅晴に、岬はくすすと小さな笑いを漏らす。

「それで、今日はどうするの?」

「そうだな~……。今日は――」

 顎に手を当て、雅晴が考え込もうとしたとき、背後から腕を回され、手で目を塞がれた。

「……だ~れだ?」

 雅晴は苦笑混じりのため息を漏らした。こんなことをする人物の心当たりが、たった一人で、しかもその人が来ることは予想できていたからだ。

「菫さん」

「あったり~!」

 菫は手を外し、無邪気に笑った。

「やっぱり、雅晴くんは騙せないなぁ~。はい、朝ごはん」

 騙す、騙さないの問題ではないだろうと言おうとした雅晴だったが、岬に揉み消されてしまう。

「あ、そっか!はい、あ~ん!」

 岬はいつもそうしているように、朝食のおかずを一口分箸で摘み、雅晴の口へと運んだ。

 雅晴が苦笑を浮かべていると、いつの間に用意したのか、菫の箸がご飯を摘んで、岬とは逆の方向から入ってきた。

「あの~……、菫さん?」

「たまにはいいでしょ~?それとも、お姉さんのあ~んは嫌いなの……?うぅ……、ショックだわ……」

 嘘泣きだと分かっていても、決して菫を放っておく気は無い雅晴は、ぱくりと箸で摘まれたご飯を食した。そして、岬の箸のおかずも口に運ぶ。

「やっぱり、雅晴くんは優しいわ~。お姉さん、雅晴くんが患者さんで嬉しいよ~」

「兄さん、モテモテですね~」

 咀嚼している最中に、菫と岬が面白そうに口を開くが、口の中に食べ物が入っている雅晴は喋るに喋れない状態だった。そんな雅晴の状態も構わず、岬は口を開く。

「あ!今日は一日中兄さんと一緒に病室で過ごそうかな!!」

 口の中の物を嚥下した雅晴は、岬の提案に口を挟む。

「いいのか?ゲームも食い物も何も無いぞ」

 雅晴の言葉に、岬はくすりと笑いを漏らす。

「肝心なのは、兄さんが居るか居ないか、です。場所なんて、どこでもいいんですよ」

 岬の言葉に、菫も続く。

「そうね。あ、私もいいかな?今日は学校が休みだから、診察が終わった後はずっと雅晴くんにつくことになっているし、事務仕事は片付いちゃってて今日のカルテをまとめるだけだし」

 岬はもちろんと頷き、雅晴も構わないと岬に倣った。とはいえ何も決めていないので、何をするんだと雅晴が問うと、菫は三人で話をしようと提案し、岬が賛成したので雅晴も同意した。

「話の内容は……ちょっと、昔の話でもしようか。丁度、私と雅晴くんが出会ったときくらいのこと」

 岬はその話題に興味津々らしく、身を乗り出して菫に耳を傾けようとしていた。

「そういや、あのときの菫さんは、今とは月と鼈だったな」

「え!?雅晴くん、お姉さんそんなに綺麗になった!?」

 とりあえず、雅晴は「もとから綺麗ですよ」と、事実であると言っても吝かではないが、社交辞令として言っておくことにした。

「それじゃあ、早速――」

 岬が話を進めようとして口を開いたところに口を挟み、雅晴は制止をかける。

「その前に、俺は飯を食って診察しなければならない」

 その言葉に、岬がてへりと舌を出して笑い、菫も苦笑した

 

 着替えと診察を終えた雅晴が病室に戻ると、診察に付き添って一緒に帰ってきた菫と岬にとても病人相手とは思えないほど急かされ、雅晴は苦笑いを浮かべてから口を開いた。

 

  ◆◆◆◆◆◆

 ――あれは、今から二年前のことだろうか。雅晴に発作の症状が出始め、入院生活が始まって間もない頃だった。

 まだ看護士になったばかりの菫は、自分への重圧と責任感、そして自らが受け持つ患者の生命の重さに押し潰されそうになっていた。

 現在の彼女を見ていると信じられないだろうが、この頃の彼女は、患者にも、仲間にも決して笑いかけることはなかった――いや、笑いかける余裕も無かったのだろう。

「………」

 カルテを書く手も、どこか落ち着きが無い。現在とは違い、彼女は一人の患者を専任で受け持ってはいないが、その分人手不足の場合の補充として使われることが多々あった。

「菫さん、ナースコール行ってくれますか?私は、書類を提出しなくてはいけないので」

「……はい」

 お世辞にも健康とは言えない声で応え、菫はいつものように、ナースコールをした病室へと向かい、問題に対処した。

 彼女は、自分が何故看護士になったのか思い出せずにいた。幼い頃、看護士に憧れていたからなったという適当な理由しか思いつかず、彼女は責任重大なその職業に、自分は向いていないのではないかとさえ思っていたのだ。

 ある日の夜中、彼女は救急車で運ばれてきた一人の若者を、ストレッチャーで集中治療室へと搬入するのを手伝った。その若者は、誰が見ても分かるような、あからさまに不良がしていそうな恰好をしていた。

 体中傷だらけて、足はあらぬ方向へと曲がり、右前腕の中間辺りから先までが消し飛んでいた。千切れたであろう先端までの部分は、医者が持っている生理食塩水の入ったポリエチレンの袋の中で泳いでいる。そんな血まみれな状態を見て、激しい喧嘩でもしたのだろうかと菫は思ったのだが、単車で暴走行為をしていて警察に追われ、暁に中央分離帯に激突。交通事故を起こしたらしい。

 後に二人乗りをしていたことが分かり、運ばれたのは運転手で、後部座席の人物は車両から投げ出され、アスファルトに頭部を強打して即死したらしい。

 菫は、そんな状況を見て、不謹慎だと思いつつも自業自得だと思っていた。そして、こんなやつは助けなくてもいいのに、とも。

 そんな、暗い雰囲気を纏いながら、ナースステーションへと戻る途中に、廊下で彼女はある人物と出会った。年齢は、先程運んだ不良と同程度であろうか。

 こんな夜遅くに徘徊しているようなやつは正常じゃないと思いつつも、病室へと戻るよう促すべく、菫は声を掛けることにした。

「患者さん、こんな時間に病室から出たら駄目ですよ。早く戻って、寝てください」

 その人物は、菫の声に振り返った。――彼こそ、天宮雅晴である。

「……そうですね。すみません。ちょっと野暮用があったので……」

 この頃の菫は、雅晴とは初対面だったので、彼が不治の病を患っていることはおろか、名前すら知らなかった。そのため、本当に彼が病人なのかさえも疑いを持っていた。

 そんなことを菫が考えているとは知らず、雅晴は口を開く。

「あの、先程運ばれた方は大丈夫でしたか?」

 菫は、知り合いなのかと思い、呆れと小さな怒りを覚えたが、自分の立場のことを考えて、しっかりと答えることにした。

「……分からないわ。酷い状態だったから」

「そうですか……」

 雅晴は小さく呟いた。だが、直ぐに菫に挨拶をすると、自分の病室へと戻って行った。

 菫は、雅晴の背中を睨み続けていたが、姿が見えなくなると、大きくため息を吐いた。

「(……どうせ、あいつも一緒よ。)」

 そして、彼女はナースステーションへと帰って行った。

 ――それから数日後、彼女はまたナースコールを受けた部屋へと向かった。簡単な問題が発生したので、それをいつも通り片付けてばいい。そう思っていた。

 だが、今日は今までとはまるで様子が違った。その患者は、末期の肺ガンを患っており、昼間には今夜が山であると言われていた。そして、現在ベッドの上で今にも止まりそうなほど不安定な呼吸をしていた。

「……そ、そんな……」

 菫は軽い錯乱状態に陥り、呼吸器が必要だということ以外が頭に無かった菫は、病室から出ると、医者にも言わず廊下を走った。ようやく呼吸器を発見し、戻って来た頃には医者が既に病室に駆けつけており、事切れていた。

 その患者には遺族はおらず、特に責められるということはなかったが、菫はひたすら自分を責めていた。

 ――あのとき、もっと早く病室に行っていれば……、医者を直ぐに呼んでいれば……、と。

 患者が末期だったことと、彼女がまだ新人だったということもあって、彼女は寧ろ関係者から慰められる立場になっていた。だが、彼女は決して納得はしない。菫は責任感は人一倍強く、自分を赦すことが出来なかったのだ。

 それからというもの、彼女は仕事に身が入らず、辞めてしまうことさえも考えていた。自分の所為で患者が助からなかった、と毎日のように思っていると、だんだんと患者の目が全て自分を憎んでいるかのように思えてくる。彼女は疑心暗鬼になり、耐えられなくなると、いつも屋上の隅のベンチで、静かに泣いていた。

 誰を頼ればいいのか、誰を信じればいいのか。いつの日か、彼女は周りの人間全てが自分を憎んでいるのではないか、と考えるようになった。未だに肺ガン患者のことを引き摺っているということを知るものが、彼女を心配して近付こうとすると、「大丈夫です」と非常に暗い声で言って、逃げるように距離を離していくため、彼女は、自ら己を孤立させていたのだった。

 そして、遂に彼女は辞表を出す決意をした。自己嫌悪と、責任感で、心が折れたのだ。

夜中に、辞表を持ったまま屋上のベンチで項垂れて静かに泣いていると、珍しくこんな時間に屋上へと人がやってきた。

 菫は息を潜め、出入口から屋上の中央へと歩いてくる人影を窺う。

「……やっぱ、曇りか。残念だな……。来年は見えるか分からないし、せめて今年はと思ったけど……」

 空を仰ぎ、雲を突き抜ける月光を眺めながら、その人物は呟いていた。菫は、その人物と面識があった。そう、雅晴だ。

 雅晴は一度伸びをして、腕時計で現在時刻を確認する。そして、菫の座っているベンチへと向かって来た。

「どうも、こんばんは」

 菫は、雅晴の挨拶には応えず、距離を置きたくもあったが興味が勝ち、問いかけるべく重い口を開いた。

「……何で、来たの?」

 今にも消え入りそうな声だった。だが。雅晴は全く嫌そうな素振りは見せず、静かに応えた。

「今日は、陰暦十六日、十六夜の日ですから、ちょっと月見をしようかと」

 少々肌寒い今の季節は秋なので、月見自体にはこれといって違和感はないが、十六夜ではなく十五夜が普通だろうと、菫は雅晴に小さく応えた。その応答に、雅晴は苦笑しつつ返す。

「そうですね。でも、俺は十六夜のほうが好きなんですよ。満月みたく堂々と出てくることはない。躊躇いながら、躊躇いながら、ようやく出てくるんです。なんか、人間と似てると思いません?」

 太陰暦についてほとんど知識の無い菫は、雅晴の言葉を適当に聞き流していた。来た理由が分かり、興味を失った彼女は、一人にして欲しいという想いが強くなった。彼女がそれを言葉に出そうと思ったとき、雅晴が口を開いた。

「……看護士さんは、家族の最期を看取ったことはありますか?」

 突然の問いに菫は戸惑ったが、彼女の祖母と祖父は既に亡き人で、その最期をこの病院で看取ったことがあるので、素直に頷いた。

「そうですか……」

 雅晴はそう言ったきり、何も言わない。ふと菫は以前気になったことを訊いてみることにした。健康そうな、病状の軽そうな患者の話を聞いておきたかったのもあるが。

「……あなたは、何で入院しているんですか?」

「あ、やっぱり、健康そうに見えますか?」

 雅晴は小さく笑った。

「とても病人とは思えませんから」

 そうでしょう、と雅晴。だが、次に口を開いたときに聞いた話は、菫が予想だにしなかった内容だった。

「……俺は、原因不明の不治の病なんです」

 菫は雅晴に疑いをもったまま、耳を傾けた。内心では、初期のガンで手術前の検査入院か何かだろうとも思っていた。

「俺の両親も、同じ症状でこの世を去りました。多分、遺伝か何かだと思います。でも、ガンではないんです」

 雅晴は、自分の右掌を眺め、続ける。

「投与する薬も無い。分かっていることは、長くないことと、発作が起こること。正直、もう駄目なんじゃないか、と思うこともありました」

 菫は、疑いを籠めた目で雅晴を睨んだ。

「……なら、何でそんなに笑えるの?寿命が短いと知った患者は、皆嘆いたり、憤《おこ》ったりするものよ」

 その言葉に、雅晴は菫の目を真っ直ぐ見詰めながら応える。

「確かに、大抵はそうですね。でも、俺は寿命が短いからこそ、たくさん笑えるんだと思うんです。短い時間を楽しいことで埋めよう、と考えられるから」

 菫は、その言葉で肺ガン患者のことを思い出した。

その人は、自分が長くないことを知ってからは、まるで生気が無くなってしまった。それに比べ、雅晴を見ると、とても寿命が短いと知っている患者とは思えなかった。

「……ふざけないでよ。私は、一度もそんな患者に会ったことはないわ。そんな人、居るわけないじゃない!」

 少々荒々しく言った菫に、雅晴は依然静かに応える。

「そう。自分でも、俺は普通じゃないと思う。両親が逝ったときも、俺は泣かなかった。血も涙も無い人間なんじゃないか、と思うときもある。だけど、病も寿命も事実だ」

 雅晴の言葉に、菫は堰を切ったように反論した。

「そんなことを考える余裕のある人が、そんな重病を患ってるわけないでしょ!?此間のガン患者だって、まるで生きる気力を失ったみたいになってて、挙句の果てに私の所為で――」

 菫はそこまで言うと、ハッとして口を塞いだ。またあの患者のことを思い出して、自分が嫌になってきた。

「……そうか。此間の騒ぎは、それが原因だったのか」

 雅晴は菫の隣に腰を下ろし、菫に話の続きを促す。だが、菫はそれを頑なに拒んだ。

 そんな菫の様子を見て、雅晴は暫く考え込んで口を閉ざした。夜中の屋上を、静寂が支配する。

 だが、意外にもその静寂を破ったのは菫だった。彼女は、内心では誰かに自分の気持ちを伝えたかったのだろう。

「……私はあのとき、ナースコールを受けてあの病室に行ったの。最初は、いつもやってる雑用みたいな仕事だと思ってた。だけど――」

 菫の声が震え、彼女の腿に生暖かい雫が垂れる。雅晴は、ただ黙って彼女の話に耳を傾ける。

「――その患者は虫の息で、誰が見ても限界が近いことが分かるような状態だった……。それで、私は取り乱して……、医者も呼ばず、廊下を走って呼吸器を取りに行ったわ……。でも、患者さんは……」

 そこまで言うと、菫は口を閉ざし、嗚咽を漏らした。話を全て聞き、暫く考え込んでいた雅晴が口を開く。

「……医療も、人間と同じで不完全だ。仮に、あなたがすぐに医者を呼んでいたとしても、助かったとは限らない」

「……じゃあ、もっと早く着いていたらどうなるのよ?」

 声を震わせたまま問う菫に、雅晴は、今度はすぐに応えた。

「それでも助からなかったかもしれない。患者さんが亡くなったのは、あなたの所為じゃなければ、誰の所為でもない。仕方が無いことだったんだ」

 菫は再び声を荒げ、雅晴に反論する。

「でも……、でもそれも百パーセントとは限らない!中途半端よ!そんなことで、自分には責任が無いなんて割り切れない!自分を赦すことなんて、できるわけないじゃない!!」

 目に涙を湛え、菫は自分の気持ちの全てを雅晴へとぶつけた。そんな菫の言葉を、雅晴はしっかりと受け止めた。

「……そう。百パーセントそうである、ということは無い。中途半端だ。どう頑張っても変わらないから、それで嫌な方へと転ぶこともある。だけど――」

 雅晴は菫の手を取り、続ける。

「――だけど、それでもこの手を求める人は減らない。例え目の前の人が不幸な結果になってしまっても、あなたの手を……救いを求める人々が居る。あなたを信頼している仲間が居る。だから、前を向いて患者に向かっていくしかないんです。例えそれで、亡くなった患者の遺族から薄情だと後ろ指を差されたとしても……。助けを求める人が居る限り、全力でその人を助けようと勤しむ。それが……医療、看護を受け持つ人間というものですよ」

 菫は、雅晴の言葉を聞いて項垂れる。そして、再び口を開いた。雅晴の言葉を聞いて、不意に自分が何故看護士を志したのかを思い出したのだ。

「でも、私は自分が赦せない……。人の為になりたくて看護士になったのに……、結局は人に頼ってしまっている、人に気を使わせてしまっている……そんな自分が、患者の命の重圧に耐え切れない自分が赦せない!!」

 そして、菫は『辞表』と書かれた白い封筒を眺める。雅晴は、一旦深呼吸してから口を開いた。

「人が、人の手を借りるのは、当然のことです。共に助け合うことが、人間なんですから。それから、……自分を赦す必要は、無いと思います。でも、それは自分を縛り付けるのとは別です。あなたは今、自分を縛り付けている。後悔と、自分で科した罪で、己を縛めている。反省は大切です。でも、後悔はしちゃいけません。後悔をしてしまえば、亡くなった患者さんはどんな気持ちになると思いますか?勿論、既にこの世には居ない以上話はできない。でも、もしその人が居たなら、どんな気持ちになるか……考えてみてください」

 その言葉に、菫はハッとして雅晴を見る。

「患者さんは、きっと自分を責めますよ。自分を全力で助けようと努力してくれて、それでも手に負えなくて、それを引き摺ったが故に他の患者が助からなかった。なんてことにならないとも限りませんし」

「でも……でもぉ……」

 菫は、泣き縋る子供のように雅晴の腕を掴む。そして、雅晴は自分の腕を掴む菫の手に、自分の手を重ねた。

「――納得できないんですよね。それはきっと、あなたが優しくて、責任感がある証拠ですよ。あなたは、立派な看護士です」

「そんなこと……」

「例え、納得できなくても、次の患者は来る。その患者が救いの手を求めるならば、その患者に喜んで手を差し伸べる。口で言うのは簡単でも、実際はとても難しいことだと思います。だけど――」

 雅晴は、菫の手に重ねていた手を菫の肩に置き、穏やかな表情で言った。

「――負けないで、そうしていくしかないんです。亡くなった患者さんの気持ちを想うなら、尚更、絶対に次の患者さんは助けようって、頑張らなきゃいけないんですよ。……亡くなった人は、自分を知っている人の心の中で、糧や思い出としてしか、生きられないのですから……」

 最後まで雅晴の言葉に耳を傾けた菫は、遂に耐え切れなくなり、突如雅晴に抱き付くと、堰を切ったように泣き出した。

 雅晴は、そんな菫の頭にそっと手を置き、撫でた。

 お互いに名前も知らないが、不思議と分かり合えるような気がして、状況が後押ししたこともあって、特に抵抗は無かった。

 やがて、菫が泣き止んだ頃には雲が去り、十六夜月の月光が降り注いでいた。

「……おはようございます、雅晴くん」

 翌日。早朝の来客で、いつも来ている岬が来たのかと思い、雅晴は重い瞼を開いた。

「ん……岬か?」

 雅晴は、手探りで声をした方向へと身体を傾ける。すると、なにやら柔らかいものが彼の顔面に当たった。

「ふふふ……朝から盛んですね~」

「さかん……?」

 ようやく思考が回復してきて、雅晴は自分が現在どんな状況なのかを理解する。

「あっ……!」

 寝ぼけていたとはいえ、菫の胸に顔を埋めていたのだ。

 慌てて、雅晴は顔を離した。

「す、すみません……」

「お姉さんは別にいいけど~?昨夜のお礼の足しにもなるだろうし」

 悪戯っぽく言う菫は、白衣のポケットから白い封筒を取り出した。それは、昨夜見た、「辞表」と書かれたものだった。

「それは……」

 雅晴が口を開いた途端、彼が見ている前でその封筒を細かく破いてゆく。やがて紙くずに変わったそれを、菫はゴミ箱へと丸めて投げ捨てた。

「もう、必要ないでしょ?」

 そう言った菫は、嬉しそうに笑っていた。

「昨夜ね、雅晴くんのお蔭で、これから頑張っていこう、って思えるようになったの。だから、ありがとう!」

 菫は雅晴を抱き締めた。だが、雅晴は抱き締められている最中でも、一つだけ引っ掛かることがあって、そちらが気になっていた。

「あの、一ついいですか?」

「ん?何?」

「何で、俺の名前を知っているんですか?」

 その問いに、菫はそういえばと呟き、雅晴から離れて再び悪戯っぽく笑った。

「ふふふ……、雅晴くんのことを聞きまわって、カルテ見ちゃった~」

「こ、個人情報が……」

 くすくすと笑うその姿を見て雅晴は、昨日まで悩んでいた菫が嘘みたいだと、内心では喜んでいた。

「……一つ、訊いてもいいかな?」

「俺でよければ構いませんよ」

 雅晴の言葉に、苦笑しつつも、その質問の内容が真剣なものであることを窺わせるような、そんな声で菫は尋ねる。

「不謹慎かもしれないけど……。カルテを見たけど、確かに雅晴くんは、とても重い病気を患っているわね……。でも、寿命が短いとも言われて……それを分かっているのに、泣いたりとかはしなかったの?」

 雅晴は、穏やかな表情で口を開いた。

「……泣いて何かが変わるなら。俺は幾らでも泣いてましたよ。何も変わらないから、泣かなかった。嘆いても、怒っても一緒です。寧ろ、俺はそんな時間が惜しいと思えたんです。ただでさえ短い時間を、そんな無意味なもので埋めたくはないじゃないですか。だから、俺は残された時間を、精一杯生きようと決めたんです。」

 最後まで雅晴の話を真剣に聞き入れていた菫は、感心を籠めた口調で呟いた。

「……強いですね。普通の人なら、きっと潰されてしまいます。私も……」

 だが、雅晴は菫の言葉に対し、首を横に振る。

「そんなことないですよ。俺はただ、色々な人から支えられてる。だから、崩れ堕ちずに済んだんです。自分の為に生きるだけじゃ、こんな感情は生まれませんよ、きっと。何せ、俺にとって最高の宝物は、仲間と過ごす、ありふれた日常ですから」

 最後まで言い終えた雅晴は、菫に向けて微笑を浮かべた。それは、自分に科せられた現実を受け入れ、それでもなお懸命に行き続けようとするような人間とはとても思えないように、穏やかで自然な笑顔だった。

 そんな雅晴を見て、菫は再び呟いた。

「……やっぱり雅晴くんは強いですよ。誰かより強いとかそういうことじゃなくて、人間として強いと思います」

 そう言って、菫は雅晴を抱き締める。

「……菫さん?」

「……ちょっとでいいから、その強さを分けて欲しい……。私は、弱い人間だから……。だから、私が落ち込んでたりしたら、支えてくれる……?」

 やや不安げな表情をした菫の問いに、雅晴は言葉を探そうとしたが、その言葉の意味を理解し、深々と頷いた。

「仰せのままに」

「……ありがと」

 菫は雅晴から離れると、何かを思い出したように掌を打った。

「あ、それから、今日から私が雅晴くんに専属で就くから、よろしくね」

「……そんな予感はしてましたが」

 雅晴は苦笑気味に応えた。

「水無瀬菫です。これから、よろしくお願いします」

 雅晴は、差し出された菫の手を握る。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 こうして、菫の心の冬は終わった。

  ◆◆◆◆◆◆

「……なるほど~、お二人にはそんな経緯が……」

「ほんとね、あのときの雅晴くんは凄く恰好良かったんだよ~?」

 菫に絶賛される雅晴は、小さく苦笑した。

「勿論、今でも恰好良いけど~」

 そして菫は、雅晴を抱き締める。つられたように、岬も雅晴に抱きつく。

「……今度は、私が岬ちゃんとの話を聞きたいな~」

「あ、私も話したいです!いいでしょ、兄さん?」

「いいけど……、午後からだぞ?」

 雅晴がそう言うと、二人は嬉しそうに笑った。

 午後からも賑やかになりそうだ、と雅晴は心の内で小さく笑った。

「ふふふ……妹同然の岬ちゃんが、雅晴くんに昔からどんな調教を受けてきたのか……楽しみで仕方ないわ……」

「……そういう危ない方向に行きそうな話は夜だけにしましょうよ……」

 困ったように言う雅晴に、菫と岬は同時に笑う。

 雅晴は、岬との昔の思い出を記憶の底から持ち上げながら、一人懐かしんでいた。

第3章:八重岬

 

 

 雅晴の病室で、三人揃って昼食を摂り、午前中に話した菫の話について再び細かいところを話していると、岬は不意に病室に置いてある写真を眺めてふと漏らした。

「この写真、まだ持ってたんだ」

 それは、雅晴と岬が幼い頃に遊んでいる光景を撮ったものだった。

「ああ。父さんが撮ってくれたやつだしな」

 岬は、その写真立てを持ってきて、菫に見せた。

「これ、兄さんですよ?可愛いと思いません?」

「わぁ~、ほんとだ!可愛い~!今とは別の意味でぎゅってしたくなるな~♪」

 とりあえず、菫の言葉に雅晴は苦笑しておくことにした。

「それより、その写真を撮った時期は丁度、俺がまだ岬の近所に住んでいるときだったよな」

 雅晴の言葉に岬は頷く。

「そうだね~。懐かしいなぁ……」

 事情を知らない菫が首を傾げていたので、雅晴は岬との思い出を語る前に説明しておくことにした。

「俺は、昔は両親と一戸建ての家に住んでいたんです。その家の近くに、岬が住んでいるマンションがあるんですよ。今は、俺の家は売りに出しちゃったけど、俺と岬は、昔から近所で仲も良かったんです」

 説明を最後まで聞き終え、菫はなるほどと頷いた。そして、納得したかと思うとニヤリと悪戯っぽく微笑んだ。

「今でも、でしょ?まったく~、イチャイチャしちゃってぇ~!この、この、このぉ~♪」

 笑顔を保ったまま、菫は雅晴の両頬を抓り、ぐいぐいと引っ張った。

「……ひゅみいぇひゃん、いひゃいいぇひゅ……(菫さん、痛いです)」

 しばらく雅晴の顔を弄んでいた菫だったが、何かを思い出したように、あっと言って手を放した。

「そうそう!私は、この写真を撮った頃の二人の話を聞きたいよ!午前中にも言ってたじゃない!」

 菫の言葉に、岬はそうですねと返し、雅晴も頬を擦りながら頷いた。

「兄さん!早速話しましょうよ!ね、ね!?」

 強請る岬に、雅晴は仕方ないなと言いたげにため息を漏らし、菫に岬との思い出話をすることにした。

「一応言っておきますけど、俺はやましいことは一切してません」

「分かってますって♪だって、雅晴くんはお姉さんが大好きだからね~♪」

 そして、菫はすぐさま雅晴の右腕を、自らのたわわに実った胸に押し付ける。

 その光景を見た岬は、わざとらしく頬を膨らませた。

「むぅ~……!兄さん、兄さんは小さい方が好きなんじゃないんですか!?」

 そして、岬も負けじと自分の胸にもう片方の雅晴の腕に押し付けた。しかし、既に二人の過激な愛情表現に慣れてしまっている雅晴は、ため息を吐いて呟いた。

「……二人とも、話すなら早く進めよう……」

 そう言った雅晴に微笑んでから、二人は雅晴の腕から離れた。

  ◆◆◆◆◆◆

 

 ……今から何年前のことだろうか?十年以上も遡り、ようやく雅晴と岬の住所が近所であった頃へと辿り着く。勿論、その頃は雅晴の両親はまだこの世に居て、後に病を患うことなど全く由もなかった。

 まだ幼かった二人は、一緒に外に出ては遊んでいた。

「おにーちゃーん!」

 この頃から岬は、雅晴のことを兄のように思い、慕っていた。

「ねぇねぇ、なにしてあそぶの!?」

「うーん……おにごっこ?」

 少し悩んで応えた雅晴に、岬は首を横に振る。

「たまにはかわったことしようよ~!」

「かわったことかぁ~……」

 雅晴は、周辺をキョロキョロを見回すと、岬の手を取った。

「それじゃあさ、にいちゃんのともだちといっしょにあそぼ!」

「おにーちゃんのともだち?」

 首を傾げる岬に構わず、雅晴は神社の近くの公園へと走る。そこには、雅晴と年齢が大して変わらないであろう男女が、「だるまさんが転んだ」をして遊んでいた。

「おーい、ひろみつ!ななみ~!」

 雅晴の声に気付いた二人は、今までしていた遊びを中断して、雅晴と岬の許へと向かう。

 その光景を雅晴の後ろから覗き見ていた岬は、雅晴の服の袖をぎゅっと掴んだ。

「……おにーちゃん」

 不安げに呟いた岬の頭に、雅晴はそっと掌を置いた。

「だいじょうぶ。にいちゃんをしんじろ」

 今では考えられないかもしれないが、幼い頃の岬は人見知りが激しかったのだ。だから、雅晴以外の子供と遊んでいるような光景は、ほとんど見ることが無かった。

「……ん」

 岬は、今にも消え入りそうな声で雅晴に応えた。そして、雅晴が二人と話し、彼女を紹介すると、おずおずと輪に入り、雅晴に背中を押して貰いながら一緒に遊ぶことが出来た。こうして、岬は弘光と那奈美と仲良くなることができたのだった。

 それから数年後、岬は相変わらず雅晴と一緒に遊んでいた。あるとき、雅晴が岬の家の手伝いをしていたときだった。

「痛っ!」

 床の段差に足をとられ、岬は転倒してしまった。岬はその場に座り込み、膝の擦り傷から流れる血を見て泣き出した。

「うぅ~……、痛いぃ~……」

 アスファルトだったらこの程度では済まされななっただろうが、フローリングとはいえ怪我をすれば痛いものである。

「にいちゃん~!痛いよぉ~……っ!」

 岬の泣き声を聞いた雅晴は、直ぐに彼女の許へと駆けつける。

「どうした?」

 直ぐに、岬は雅晴の服の袖を掴み、泣き縋るように抱き締める。

「うぅ~……」

 しかし、岬は泣くばかりで何故傷を負ったのか言おうとしない。だが、雅晴は何となく状況を把握することができた。

「……そっか、こけたのか」

 雅晴は、岬の傷が見えるよう屈み、傷口に触れない高さで、傷口の輪郭をなぞるように手を回した。

「いたいのいたいの、とんでけ~!」

 そう言って雅晴は、今まで岬に近づけていた手を上方へと振り上げた。

 それを見た岬は、一瞬だけ鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を見せた。だが、彼女は間違いなく泣き止んでいた。

「……どうだ?」

 微笑みかける雅晴に、岬は小さく頷く。

「うん……大丈夫」

 岬は雅晴に微笑み返し、手を借りて立ち上がった。そして、中断していた作業を続行した。

 ……幼い頃から、雅晴と岬は仲良く過ごしていた。雅晴の病室にある写真も、丁度この頃に撮られたものだ。

 しかし、そんな幸せな日々が続いて、そして今に至った――わけではない。

 ちょうど、雅晴が小学校を卒業する年だった。今まで健康そのものだった雅晴の両親が、突然の発作に襲われた。そして、雅晴の両親は検査入院という形で薗橋市民病院に入院することとなった。

 当時は、知らぬ間に疲労が蓄積していただけだと思われており、両親も心配は要らないと言っていたので、雅晴は特に気にも留めていなかった。

 その頃、雅晴は岬の家で生活させてもらっており、相変わらず互いに仲良く遊び、生活していた。時折二人で病院に向かっては、雅晴の両親の見舞いに言っていた。

 だが、それから一年の月日が流れても、一向に両親が退院するという情報は届かず、小学校の卒業式も、中学校の入学式も一人で参加した雅晴は、寂しさ以外に、疑いも持ち始めていた。

 それは、両親はただの疲労で発作を起こしたのではなく、何か病気を患っているのではないか、ということだ。

 彼は数日間悩んだ後、意を決して医者に尋ねることにした。

 ――彼の予感は、的中した。

 彼の両親は、病名はもちろんのこと、原因すら分からない病を患っており、定期的に発作を起こしては鎮まり、起こしては鎮まりを繰り返しているのだという。

 しかも、その発作は日に日に激しくなっており、発作を起こす時間の間隔も短くなってきていることから、二人がいつまで持つか分からない、というのが医者の言葉だった。

 突然の告白に、状況を咀嚼しきれない雅晴は、その日は両親の見舞いには行かず、岬の家に帰ってからも、夕食を食べてから勉強部屋に閉じ籠った。

 それでも、彼は決して泣かなかった。ただ、信じたくなくて、信じられなくて、一人黙って苦悩していた。

 それが何日も続いたからであろうか。雅晴の勉強部屋に、彼を心配した岬が入ってきた。

「……どうかしたか?」

 何気なく口を開いたつもりだったが、岬には雅晴が何かに悩んでいることが手に取るように分かった。

「兄さん……、何かあったの?」

 しかし、雅晴は心配かけまいと首を横に振る。だが、それは嘘だということを、岬は容易く見通していた。

「……嘘だよ。兄さん、一人で考え込まないで、私に相談してみてよ……」

「相談、か……」

 岬が食い下がると、雅晴は再び考え込んだ。それは、今までのこととは違い、彼女に言うべきか否か、である。

「一人で抱え込むのは、よくないよ……」

「………」

 心配そうな瞳で呟く岬に負け、雅晴は医者に言われたことをかいつまんで説明した。

「――ということだ。父さんも、母さんも……もう無理かもしれない」

「……兄さん」

 黙って聞き続けていた岬だったが、瞳に涙を湛え、遂には我慢できなくなって、泣き始めた。

「そんな……、そんなことって……」

「……俺だって、未だに信じられない。だけど、最悪の結果は……覚悟してるつもりだ」

 そう言った雅晴に、岬は縋るように泣きついた。

「そんなの……、嘘だよ!何かの間違いだよぉっ!此間だって、二人とも元気そうに話してたじゃない!」

 子供がいやいやをするように首を振り、雅晴の服を涙で濡らす。そうして、岬は現実から逃れようとする。

「助かるよ!絶対、絶対に助かるに決まってるよっ!病気だなんて、なにかの間違いに決まってる!」

「岬……」

 泣き叫ぶ岬に、雅晴は応える。

「岬、人はいつか、必ず死ぬんだ」

「……ッ……兄さ、……っ」

 言葉にならないような声ですすり泣く岬の頭に、雅晴は掌をそっと添える。

「俺だって、生きてて欲しい。だけど、最悪の結果が訪れないという可能性は零《ゼロ》じゃない。だから、飽くまで俺は、その零じゃない可能性に覚悟をしているだけだ」

 雅晴の言葉を聞いて、岬は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 そして、雅晴はもう一言付け足すように言った。

「――希望は、捨てちゃいないさ」

 そのときの彼の表情は、作り笑顔だったが、平常心ではなかった岬は、それを見破ることができなかった。

 そう、彼は分かっていたのだ。

 例え、両親が、医者が大丈夫だと言っても。

 ――もう、助かる見込みは無い、と。

 

 

 ――そして、別れの日は訪れた。

「血圧上昇!呼吸、依然不安定!」

 壁も天井も真っ白な病室で。そして、同じく真っ白な病床の上には、見慣れた人影が横たわり、酸欠の魚のように不安定な呼吸をしていた。

 ベッドは二つあり、もう片方も同じ状況だった。

 やがて、モールス信号のように間隔が短かった電子音が、間隔を空け始めた。それを合図にしたかのように、片方の病床の看護士と医者達の周りが、更に騒がしくなった。

「血圧、急激に低下!心臓停止します!!」

「気道確保!心臓マッサージ!!」

「呼吸停止!チューブを、呼吸器の準備を!!」

 電子音が間隔を開けることをやめ、音を伸ばし続けたとき、もう片方の病床でも騒がしさが増した。それを、雅晴は黙って見ていた。

 何も出来ないから、ただ見届けるしかない。

「心臓、呼吸、依然停止しています」

「――電気ショックの用意を!」

 シートを胸に貼り、医者が機械から二つの取っ手を掴むと、その取っ手の先にある金属板を押し付けた。その瞬間、病床の上で寝ている人の身体が跳ねる。だが、一瞬だけ反応を示したかに見えた心電図からは、再び伸びたままの電子音が鳴った。

「もう一度、電気ショックを!」

 二回、三回と身体が跳ねたが、電子音は再び間隔を刻むことはなかった。

 そして、医者は雅晴に近付き、時刻を告げ、病床の上に横たわる二人の両手を、胸の前で組ませてから顔面に白い布をかけた。

「――手は尽くしました」

「………」

 雅晴は何も言わず、ただベッドを眺める。なぜならば、こうなることが分かっていたから。助からないと、分かっていたから。

 哀しくないわけではない。けれども、彼は泣く事が出来なかった。

「兄さん!」

 医者が去ってから暫く経ち、廊下でリノリウムの床が激しく音を立て、その音が近付いてきたかと思うと、けたたましく病室の扉が開いた――岬だ。

「岬……」

 彼は無表情だった。岬はそんな雅晴に少々驚いたような仕草を見せたが、すぐに二つの病床に駆け寄る。

「おじ、さん……?おば、さん……?」

 岬は懸命に声を掛ける。だが、そこにあるのは既に亡骸だ。冷たく、物言わぬ人間になっていた。

「……ねぇ、起きてよ?返事、してよ……?」

 身体を揺すり、なおも亡骸に返事を求める岬。だが、二人は二度と目覚めることは無い。

「兄さん、寂しがってるよ?ほら、起きてよ……。また、一緒に遊んでよ……?写真、撮ってよ……っ!」

 声が徐々に震えていき、岬の瞳から雫が溢れ出した。

「何で……、どうしてっ!」

 遂には、乱暴に亡骸を揺すり始め、堰を切ったように泣き出す。

 そんな岬を、雅晴はただ見守ることしかできなかった。

「………」

 優しい言葉を掛けようにも、何を言えばいいか分からなくて、自分の両親が逝ったというのに、涙一つ流さない自分が薄情に思えて――雅晴は、自分が嫌に思えた。

 葬式も、遺産相続も終えて、雅晴はずっと泣かないまま過ごしていた。週一回以上は墓に向かうが、一度も「悲しい」という感情が湧かないどころか、思い出しても涙が流れることが無かった。

 それから二年――雅晴は、周りにはなるべく気を使わせないよう、今まで通りの自分を意識して過ごしていた。

 中学校の卒業を間近に控え、既に那奈美と弘光と一緒に薗橋学園へと進学することも決まり、雅晴は、残された中学校生活を楽しもうと思っていた。その矢先、再び不幸が彼を襲った。

 突然動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなった。しかし、それは直ぐに治まり、規模も微々たるものだった。

 ――雅晴の両親がまだこの世に居たのならば、彼は単なる体調不良かとも思っていただろう。雅晴は、直ぐに自分の容態に疑いを持ち、薗橋市民病院へと向かった。

 ――精密検査の結果、彼は両親と全く同じことが、医者の口から伝えられた。つまり、彼は「陽性」だったのだ。

「医者として言わせて貰うと、君は長くはもたない。君の両親のカルテにならってみると、三年後の上旬までもつか、それ以下か……」

「――そうですか」

 雅晴は静かに答えた。例え辛くても、決して泣いたり、嘆いたりはしなかった。

「……すまない」

「あなたの所為じゃありません。それに、これは仕方のないことなんですから」

 幼い頃にそうしたように、彼は現実を受け止めた。

 恐らく、検査入院という形で、死ぬまでこの病院で過ごすのだろう。雅晴は、これからのことを考えていた。

 家を売って、必要なものは病室に運び、入院費を用意する。それから、皆に伝えるための心の準備だ。

「兄さん……」

 診察室から出てきた雅晴は、心配して病院まで着いて来た岬の視線を真っ先に受けた。

 彼女にも色々と伝えなければならない。入院すること、長くは持たないこと……たくさんのことを。

「岬、落ち着いて聞いてくれ」

 雅晴が穏やかな口調で言うと、岬は心配しつつも、冷静に雅晴の言葉に耳を傾ける。

「……俺、父さんと母さんと、一緒の病気になった」

 はっきりと、躊躇い無く発されたその言葉は、とても重く、鋭いものだった。

「……ウソ、だよ……」

 名前も、治療法もわからないその病気は、言わば死刑宣告。岬は、信じたくないと首を振った。

「何かの間違いだよ!ウソって言ってよ!こんなの、悪い夢だってッ!!」

 岬は、雅晴の腕を取り、泣き叫んだ。

「――言ってよぉっ!!嫌だ!嫌だよ!!死んじゃ嫌だぁっ!!」

 嗚咽を漏らしながら、岬は雅晴の胸に顔を埋める。雅晴は、自分の所為で彼女を悲しませているというのに、それを自分の力で癒してやれないことに、歯痒さと自分への苛立ちを覚えた。しかし、彼は「どうにかしなければならない」という信念を曲げることはなかった。

「……ごめんな、岬」

 呟くように小さいが、それでも重く、力強さを持った声で言った。

「俺、馬鹿だからさ、こういうとき、どんな言葉をかけてやればいいか、分からない……」

 泣きながら、雅晴の言葉に耳を傾ける岬。言いたいことも色々とあるだろうが、今の彼女は、ただ泣くことしかできなかった。

「だけど――」

 しかし、雅晴が言いたいことは、それだけではなかった。

「だけど、俺は、岬には、最後まで笑っていて欲しいんだ」

「……っ!」

 その言葉に、岬は顔を上げて、雅晴の顔を仰いだ。その顔は、涙で濡れてはいたが、泣き止んでいることは確かだった。

「俺は、これまでと変わらない生活がしたい。だから、俺のことを思ってくれるなら、意識とかしないで、今まで通り笑って接して欲しい」

「……兄……、っ……さ……」

 言葉が出ない。岬は、ただ雅晴の瞳を見ていた。全てを受け入れて、それでも最期まで懸命に生きようとする、決意の眼差しを。

「……頼む、岬」

 冷静に念を押す雅晴に、岬は自らを落ち着けてから、視線を外して暫く考え込むような仕草を見せた。やがて、何かを決意したかのように頷き、視線を雅晴の瞳に戻す。

「……分かった」

 そして、岬は雅晴に笑顔を向けた。

「ありがとう……」

 雅晴は、その笑顔に救われるような気がした。

 翌日になり、雅晴は家に残された必要なものをまとめ、入院手続きと、家を売りに出す準備をした。家と一緒に不要な物も売りに出せるよう、しっかりと埃を取ったり、汚れを落としていく。いずれにせよ、売らなければ入院費になるような元手が無いからだ。

「兄さん!」

 家具を全て外に出し、雅晴が家の廊下の雑巾掛けをしていると、岬がやってきた。

 ――いつも通りの笑顔で。

「おぅ、岬。どうした?」

「手伝いに来たんだよ!」

 すぐさま、岬は腕を捲って予備の雑巾を持ち、バケツで濡らし、絞ってから雅晴の隣に膝をついた。

「二人の方が効率いいでしょ?」

「そりゃあそうだが……いいのか?」

「勿論!だって、そのために来たんだもん!」

 相変わらずの元気さに、雅晴は苦笑した。

「それじゃあ、頼む」

「お任せ~♪」

 岬は、手際よくフローリングを水拭きしてゆく。タタタッという軽快な足音が立ち、岬が通った跡は、拭く前よりも艶が増していた。

「ほぉ~、上手いな~……」

「これでも、家事は得意なんですよ~」

 雅晴は、そんな岬に対し、自然に微笑を浮かべた。

 そして、掃除が終わると、いよいよ病室へと向かい、私物の整理をした。

 着替え、教材、文房具、貴重品、両親の思い出の品……。それらを、綺麗に棚へと収めてゆく。

 そんな作業中、彼の脳裏に那奈美と弘光が浮かんだ。

 彼らにも、伝えなければならない。

 弘光はともかくとして、那奈美にはとてもではないが言い辛かった。

「……あと僅か、か……」

 せめて生きている間に自分から伝えたいと思った雅晴は、もう一度自分の決意を頭の中で確認し、とりあえずは翌日に、弘光には伝えることを決めるのだった。

  ◆◆◆◆◆◆

 

「……といった具合ですね」

 雅晴が最後まで語ると、菫が感嘆の声を漏らした。

「なるほど……。そうやって調教したわけですね。ふむふむ……」

 どこをどのように聞き間違えれば調教になるのか、と雅晴は内心で呟いたが、その言葉は口から漏れることはなかった。

「私、今でも憶えてますよ。あの時の兄さん。真っ直ぐな眼で、本気で自分の立場を受け入れて、口に出してるんだな、って……。そして、それが、今の兄さんがここに居る、何よりの証拠だよ」

「……そっか」

 雅晴は、照れ隠しで小さく笑った。

 先程は冗談を言っていた菫も、いつの間にか戯けた表情が真面目なものに変わっていた。

「……確かに、私も雅晴くんに救われたからね。それは、共感できるよ……」

 だが、菫の声には、どことなく遣る瀬無いようなものが混じっていた。雅晴はそれに気付いたものの、追究するとかえって彼女を責めるような形になってしまいかねないので、自重することにした。

「……何だか、懐かしいな」

 感傷に浸るように雅晴が呟き、岬が笑う。

「そうだね~」

「あ、あの掃除が終わった後なんか――」

 雅晴が続けようとした瞬間、それは起こった。

「……っ!!」

 何の前置きも無く、激しい動悸が雅晴を襲った。そして、ほぼ同時に彼の呼吸が乱れ始める。

「……っ、す……み――」

 雅晴が名前を最後まで口に出す前に、菫は病室を飛び出した。医者に連絡し、自分は呼吸器などの救急器具を取りに行く為だ。

「兄さん、しっかり!」

 病床の上で発作に苦しめられている雅晴に、岬は手を差し出して懸命に呼びかけた。

「ぐっ……、はぁっ……」

 そして雅晴は、岬が差し出した手を強く握り、岬はその握力に負けないよう握り返す。

「(まだ……、今は、まだ早い……。堪えるんだ……っ!)」

 そう自分に言い聞かせ、雅晴は制御の利かない自らの肉体に、何とか抑制を掛けようとする。

 遠退きそうになる意識を、岬の手を頼りに現へと縛り付ける。

 額に脂汗を滲ませ、雅晴は呻くような声を漏らした。

「頑張って、雅晴くん!」

 医者を連れて駆けつけた菫が、呼吸器と鎮静剤の注射、心電図の用意をする。

「天宮くん!気をしっかり持つんだ!」

 医者が指示する前に用意を終えた菫は、すぐさま呼吸器と心電図を雅晴に取り付け、注射を打った。

「――脈拍、呼吸共に、徐々に安定の兆し。雅晴くん?まだ起きてる?」

 菫の呼びかけに、雅晴は何とか首を縦に振る。

 けたたましく電子音を発していた心電図が、徐々に落ち着きを取り戻していく。

「……あとは、下り坂だな」

 医者はそう呟き、心電図を睨んだ。

「……兄さん」

 朦朧とする意識の中で、雅晴は呼吸を落ち着けながら、何とか災厄を祓い除けたことを理解し、安堵した。

「……もう、大丈夫だろう」

 医者は心電図を外し、雅晴に一旦微笑んでから病室を後にした。

「……ふぅ」

 難を逃れた雅晴は、うんざりしたようにため息を吐いた。

「さて、俺の舟はどれだ?」

 先の騒動で場の空気が湿っぽくなってしまったので、雅晴は彼なりの冗談を言った。すぐさま、菫と岬はその冗談に付き添う。

「残念。まだここは黄泉《よみ》でも三途の川でもないわよ」

「もし着いたとしても、兄さんはきっと、濁流掻き分けて、泳いで川を渡るんですよ」

 岬の言葉を聞いた雅晴は、苦笑気味に口を開いた。

「おいおい、菫さんはともかく……岬、俺は重罪人か?」

 幸い、賽《さい》の河原には行かなくて済むであろうが、それにしても濁流を泳いで川を渡るというのは勘弁して欲しいと思う雅晴であった。

 呼吸器を外し、雅晴は二人の方へと身体を向ける。

「まぁ、確かに……いたいけな女の子を調教した――」

「もうそれはいいです。はい」

 雅晴が皆まで言わせぬよう牽制すると、菫はつまらなさそうに口を尖らせた。

「それより菫さん、今日のこと、カルテに書かなくていいんですか?」

「別に、私は忘れっぽいわけじゃないわよ?それとも、私が失敗して怒られるのが心配なの?」

 悪戯っぽく問う菫に、雅晴は口をへの字にし、後頭部を書いて返事を詰まらせたが、結局茶を濁すことにした。

「まぁ、心配と言ったら心配ですよ。菫さんは、俺のお姉さんみたいな人ですから」

 お姉さんという単語に、菫は嬉しいような、それでもどこか物足りなさげな表情をした。

「……そっか」

 だが、すぐにいつもの眩しい笑顔へと変わる。

「やっぱり、兄さんは優しいですね~!」

 横から茶々を入れる岬に、雅晴は謙遜を兼ねた苦笑を返した。

「――お姉さん、か……」

 消え入りそうな声で菫は呟いた。だが、その声は誰の耳にも届かず、ただ彼女の胸の奥で、むな虚しく木霊した。

「――菫さん?」

 考え事に耽っていた菫は、傍から見れば「心此処にあらず」といった状況だったに違いない。彼女は、慌てて雅晴に応える。

「――ああっ!ごめんごめん。ちょっと、考え事してて……」

「そうですか……」

 菫の呟きをしっかりと聞いていた岬は、誰にも気付かれないように小さく笑った。

 岬は時計を確認すると、「あっ」と声を漏らした。

「もうすぐ晩御飯の時間だ!それじゃあ、兄さん、お大事に~!それからおやすみ~!!」

 そう言ってから、岬は病室の扉に手を掛けた。

「菫さんも、また明日~!」

 雅晴と菫が、挨拶を返す前に、岬は病室からそそくさと退室してしまった。

 その光景を見ていた菫は、足音が遠ざかった後に小さく笑った。

「ふふっ……相変わらず、元気そうで何よりね」

 雅晴も、彼女につられて微笑する。この何気ない時間が、堪らなく嬉しいと、彼は心の底から思うのだった。

「それじゃあ、夕食の準備とカルテのまとめ、してくるから。また後でね」

「はい」

 菫は一度、雅晴に笑顔を向けてから、病室を後にした。

 一人病室に残された雅晴は、ふと文化祭が近いことを思い出した。

「今年が、最後かもしれないしな……」

 皆と一緒に、催し物を回ることも約束したので、彼は文化祭前には、できるだけ体調を整えておくよう心掛けることを決めた。

第4章:柊昴

 

 

 先日発作に襲われた雅晴は、なるべく自分の身体に負荷を掛けないように心がけながら、その日の授業を終えた。

 その日、雅晴は両親の墓参りに向かうべく、いつものように、那奈美と一緒に住宅街に向かってから病院へ迂回して帰るのではなく、那奈美と途中で別れて、墓地のある神社の方へと向かった。

 道中、花屋で秋桜《コスモス》を買ったので、朝に病院から持ち出した墓参セットから線香を出せば、墓地に常備されている水道水と桶以外には、もう他に必要な物は無い。

「………」

 花立てに残っている、既に枯れてしまった花を取り除き、秋桜を挿してから水を注ぐ。あとは、柄杓《ひしゃく》で墓石の頭から水をかけ、線香に火を点けて立てた。

 そして、雅晴は墓石の正面に真っ直ぐ立ち、合掌した。挨拶や、これまでのことを簡潔に心の中で呟き、数分後に瞼を開き、普通の立ち姿勢に戻った。

「……ふぅ」

 桶と柄杓を片付け、雅晴が踵を返したとき、彼の正面には見覚えのある人影が目に入った。

「あ……」

 その人物は、雅晴の顔を見るや否や、一瞬だけ驚いたような表情を見せたものの、すぐに不機嫌そうな顔になった。

 ――岬の友達である、柊昴だ。

「……何の用ですか?」

 だが、雅晴には彼女に対して何一つ嫌な感情を抱いていないので、平然と応えた。それに、岬から異性が苦手だという話は、既に聞いているので、苛立ちや抵抗なども無かった。

「いや、特には無い」

「それじゃあ、何故にこのような場所に居るんですか?私の家は近くですし、興味本位で心霊スポット目当てで来るにしても、早すぎますよ」

 あまり自分が歓迎されていない、ということに気付いている雅晴は、単刀直入に言った方が良いと思ったので、手早く話を終えるようにした。

「ここ、俺の両親の墓だから」

「両親……?」

 やや疑わしげに昴は応えたが、雅晴が墓石に刻んである字を見るように言うと、彼女はそれが事実であると認めてくれた。

「……亡くなったのか」

「もう、何年も前だけどな。というか、岬から聞いてないのか?」

「………」

 雅晴の言葉に、昴は一瞬怪訝そうな顔を見せたが、ため息の後にぼそぼそと口を開いた。

「……いつも、あなたの話ばかりですよ。親御さんのことは初耳ですけど、彼女から出てくる話題といえば、専らあなたです」

 一体どんなことを昴に吹き込んでいるのかと気になった雅晴だったが、あまり引っ張ると彼女の機嫌を本気で損ねてしまいそうなので、自重しておくことにした。

 その代わり、雅晴は気になったことを彼女に訊いてみることにした。

「ところで、柊さんはどうしてここに?」

 さりげなく訊いたつもりだったが、雅晴の質問を聞いた昴は、一瞬だけ視線を雅晴から外し、雅晴に視線を戻してから静かに口を開いた。

「……ただ単に、家が近いから寄っただけだ」

 そう言い残した昴は、すぐに踵を返して神社の方へと足早に帰ってしまった。

「……家、神社なのか」

 雅晴は、神社の石段を上って行き、小さくなっていく昴の背中を目で追いながら、一人呟いていた。

 だが、どうも彼女の体調が万全そうに見えなかった雅晴は、内心では彼女を心配していた。しかし、追いかければ色々と面倒なことになりそうなので、雅晴は自分の思い込みだと解釈し、病院へと足を向けた。

「……え?兄さんについて?」

 翌日、昴は昼休みになってから、岬に雅晴について尋ねていた。

 どうも彼女は、雅晴のことで気に掛かることがあった。

昨夜に風邪を拗らせたのか、どこか熱っぽかったが、、岬に心配をかけたくない、という理由もあり、何とか学園に登校していた。

「迷惑ならば構わないが……」

「そういうわけじゃないけど……。珍しいな、って。昴ちゃんって、自分から男の人の話をすること、今まで一度も無かったもん」

「う、うむぅ……」

 確かにそうかもしれない、と昴は思った。だが、好奇心には勝てず、昴は食い下がって岬に問うた。そんな昴に、岬はくすりと小さく笑う。

「それで、兄さんの何が気になるの?」

「付かぬことを訊くようで申し訳ないが……。彼の両親は、本当に亡くなったのか?もしそうなら……、死因は?」

 少々申し訳無さそうに尋ねたが、昴の質問を耳にした岬は、これといって気にかけた様子も無く、平然と応えた。

「うん。私たちが小さい頃に亡くなったの。重い病気でね」

「そうだったのか……」

 残り少なくなった自分の弁当を見下ろし、昴は声のボリュームを落とした。そんな昴に、岬は付け足すように言った。

「……兄さん、強いよね?」

 その言葉に、昴はどう応えるか戸惑った。親友の幼馴染とはいえ、異性を賞賛するような事に便乗するのは、どうも癪に障ったのだ。

「……分からない」

 昴は、食べ終えて空になった弁当箱を片付け、岬に向き直る。そのときの岬の表情は、小さく綻んでいた。

「昴ちゃんなら、そう言うと思った。でも、私は凄く強いと思うよ。だって――」

 そこまで言った岬は、周りを数回見回した後に、昴の耳元で囁くように言った。

「……今から言うこと、誰にも言わない、って約束する?あ、でも、病院の人とか、兄さん本人には言ってもいいけど」

 そんなに聞かれたらまずいことなのか、と昴は疑問を抱いたが、岬が言うのだからと彼女は頷いた。もちろん、生半可な気持ちは抱いておらず、強いて言えば、親友の幼馴染という微妙な関係の人物――異性であるから、自分が気に入らないがゆえに、尚更そう思うのであろう――に、微々たる好奇心に引っ張られた程度である。

「――兄さんも、その病気なの」

「……あの人が?」

 昴は、思わず信じられないといった様子で、呟くように応えた。

「だから、尚更だよ。兄さん、強いって思うでしょ?私なら、絶対耐えられないよ……」

「………」

 返す言葉が見つからず、昴は黙りこくってしまった。自分が想像していたこととは全く違う人生を聞き、雅晴の表情を思い出していた。

 ――前に仲裁に入ったとき、冷静なあの表情が忘れられない。とても、そんな運命を抱えた人間ができるような表情とは思えないのだ。

「昴ちゃん、もし、よければだけど――」

 未だ沈黙を保ったままの昴に、岬は真剣な表情で言った。

「――兄さんとは、兄さんだけでいいから……男の人でも仲良くして欲しいの」

「それは……」

 親友の願いを叶えてあげたいのは山々だが、昴は言葉に詰まった。異性だからだけでなく、雅晴を心から信用できるほど知らないからだ。

「お願い。兄さん、あと何日生きられるか、分からないから……」

「岬……」

 岬の真剣な眼差しを受け、昴は暫く考え込んだ。そして数分後、彼女は重い口を開く。

「……努力は、してみる」

「……ありがとう!」

 昴の応答に、岬は満面の笑みで返した。

 そんな笑顔を見てしまっては断ることなどできないので、昴は自分なりに頑張ってみることを決めたのだった。

「ん?」

 全ての授業を終えた雅晴は、家に帰る途中に、校門付近であからさまに体調が悪そうな人物を発見した。

 今日は、那奈美は生徒会の書記の仕事があって一緒に帰れず、岬と弘光は委員会の仕事で居残っているので、雅晴は久しぶりに一人で下校しようとしているところだった。

 その人物は、人の流れから避けるように校門へと近付き、体を白い壁に預けた。

 雅晴が近付いてみると、それは昴だった。息が荒く、秋だというのにダラダラと汗を掻いてる。

「どうも、こんにちは」

 雅晴は平然と挨拶をした。

「……貴様か……」

「随分と顔色が悪いが、どうかしたか?」

「な、なんでもない……。そもそも、貴様には関係の無いことだ……」

 そう言った昴は、見るからに辛そうな仕草で体勢を立て直した。

「……さらばだ」

 覚束ない足取りで校門を潜ろうとしたとき、遂に限界が訪れたのか、昴はふわりとアスファルトへと倒れそうになった。

「お、おい!危ないぞっ!」

 慌てて、雅晴が昴を支える。当然、雅晴の手には彼女の体が触れ、その熱が伝わった。

「……熱があるじゃないか。ダメだろ、無茶したら」

「う、うるさい……貴様に、そんなことを言われる筋合いは……」

「筋合いも関係もあるか。病人は病院に連れて行く。それが当たり前のことだろう」

 そう口にした後、雅晴は昴の鞄を持って、膝を曲げて姿勢を低くし、彼女の腕を自らの首に回す。

「……何の……つもり、だ?」

「歩くの無理だろ?俺が背負ってくから、さっさと掴まれよ」

 だが、昴は雅晴の背中に、なかなか掴まろうとはしない。彼女は抵抗を試みるが、熱に浮かされたのか、直ぐに身体から力が抜けてしまった。

「ふ、ふざけるな……。私は、私は貴様が大嫌いだ……そんな奴に――」

「嫌いでも構わんが、さっさと掴まってくれ。病院、近くなんだし」

 皆まで言う前に横槍を刺されてしまい、昴は一層不機嫌そうな顔をした。だが、いざ地に足をつけても、お世辞にもしっかりと歩けるとは言えないので、昴は仕方なく雅晴に従うことにした。

「……止むを得ん」

 昴は、雅晴に体重を預け、彼の背中にしっかりと掴まった。

「……よっと。思ったより軽いな」

 口にした通り、雅晴は軽々と腰を上げた。

「あっ……」

 その瞬間、昴の腕がきゅっと強張る。だが、腕の位置は雅晴の気道を避けているので、何ら苦ではない。

 周りの目が少々気になったものの、病人を運ばなければならないという責任を糧にして、雅晴は病院へと足を進めた。

「結構、無茶してただろ?」

 直球な雅晴の問いに、昴は渋々肯定する。

「理由は訊かないが、あんまり無茶はするなよ。辛かったんだろ?」

「……関係の、ないことだ」

 昴は、頑なに雅晴の言葉を拒んだ。だが、雅晴はそれ以上追究することはなく、変わらず昴を背負って道を歩く。沈黙を守ったままそうしているものだから、稀にすれ違う人々から注目を浴びたりもした。だが、雅晴は特に気にもかけず、昴を背負ったまま直向きに歩き続けた。

「……貴様、名前は?」

 病院は目と鼻の先といった場所で、突然昴が訊いてきた。

「岬から聞いていないのか?」

「彼女は、貴様を『兄さん』としか呼ばない。先の、小競り合いの仲裁のときは、『アマミヤ』と聞いたが、正式には知らない」

 雅晴は、直ぐに名乗ろうかと思ったが、とりあえずは追々教えると言うことにした。診てもらってからの方が安心できるからだ。

 だが、病院に入って、エントランスを抜けていざ受付へと向かう途中、雅晴は大切なことを思い出した。

「あ、診察券……」

 自分の診察券はあっても、彼女のものがなければ意味が無い。一度彼女の家に戻るべきか悩んでいると、昴がくいくいと雅晴の襟元を引っ張った。そして、彼女は自分の鞄を指差す。

「私の……鞄の中……」

 その言葉を聞いた雅晴は、昴をベンチに座らせて、彼女の鞄を開く。中身は、勉強道具や空の弁当箱などが入っているが、綺麗に整頓されており、探すのは苦では無さそうだった。

「……財布の中……」

 昴の呟くようなか細い声を聞き、雅晴は鞄の中から財布を探す。五秒もしないうちに発見できたので、直ぐに中から診察券を取り出せた。

「ちょっと待ってな」

 雅晴は、診察券を受付に持って行き、菫の知り合いでもある看護士に見せる。平日だからか、診察待ちの患者は少なく、数分後には診察室に向かうことができた。

 診察室には女性の内科医師と菫が待機しており、簡単な症状の自己申告や、現在の体調などの質問などを受けた。そして、聴診器を用いたごく普通の診察を行った。それから受付で風邪薬を受け取るように言われ、処方箋を貰った。

 そんな中、菫がふと疑問に思ったことを口にした。

「ねぇねぇ、あなたは、雅晴くんとはお友達なの?」

「え……?」

 そう。菫はエントランスで、昴と雅晴のやりとりをしっかりと見ていたのだ。見慣れない顔だったが、雅晴と一緒に居たので――距離は完全に零になっていたことも含めて――、気になっていたのだろう。

「随分と仲が良さそうだったから。あの子、モテるからね~」

 昴は、雅晴とは誰なのかを直ぐに把握したが、友達なのかという問いには曖昧な返事をしておいた。否定しても、変に思われるかもしれないと思ったからだ。

「モテるん……ですか……?」

 思わず訊き返した昴に、菫は頷いた。

「凄く優しいでしょ?それに、挫けそうになったときは、凄く頼りになるの。今の私が看護士で居られるのは、彼のお蔭なのよ」

 大袈裟ではないかと思った昴だったが、次に菫が呟くように口にした言葉で、彼女の興味はそちらに向けられた。

「――ほんと、重病を患っているだなんて、ウソみたい……」

 昴は、昼休みに岬から聞いたことを思い出した。医療関係の人間が言ったのだから、その信憑性は一入《ひとしお》だ。

「それは、本当なんですか……?」

「……ええ。えっと……」

 菫は辺りを見回すと、もう一度昴を見て、口を開いた。

「あなた、岬ちゃんの友達?」

「はい」

 昴の応答に胸を撫で下ろした菫は、一息吐いてから続ける。

「このこと、岬ちゃんと雅晴くん以外には、誰にも言わないって約束してくれる?」

 既に岬との話で他人に吐露しないことを決めていた昴はもちろんだと頷いた。

「続きは……とりあえず、待合室で話しましょう。次の患者さんが待ってますし」

 菫に促され、昴は診察室を出て、菫と待合室で話をすることにした。

「……あんまり時間無いから、単刀直入に言うね。雅晴くんはね、原因も、対処法も、病名も分からない病気にかかってるの。突然発作が起こって……彼の両親は全く同じ病気で亡くなってるわ」

「そんなことが……」

 昴は、信じられないと言った様子で呟いた。

「でも、彼はそれを受け入れてる。そうした上で、私たちと関わっているの。優しくて、強くて……素晴らしい人だと思う」

 菫が全て言い終えると、昴は複雑な心境になった。菫は、小さく挨拶をすると、診察室に戻って行った。

 昴がエントランスに戻ると、雅晴が受付の近くで、二人分の荷物を持って待っていた。

 すぐに昴は受付で処方箋を見せ、風邪薬を受け取ってから会計を済ませる。そして、雅晴から荷物を受け取って一人で帰ろうとした。だが、雅晴はそれを制す。

「外、暗いぞ?それに、診てもらったからといって、治ったわけじゃない。家まで送るよ」

 既に、外は夕日が沈み、月が顔を出していた。

 しかし、昴は当然の如くその申し出を断る。

「……すぐ近くだ……。それに、単なる風邪だから――」

 端《はな》から断られることを想定していたのか、雅晴は昴の腕を自分の首に回し、病院へと来たときと同じように背負った。

「……どう聞いても、見栄を張っているとしか思えん。嫌なのは分かるが、今は辛抱してくれ」

 普段の昴ならば全力で振り解くであろうが、雅晴について色々と聞いていく中で、警戒心が薄れていったため、これといって抵抗することはなかった。

「家は、神社だよな?」

「……ああ」

 そのまま、雅晴は病院から出て、神社の方へと向かった。

「……なぁ、雅晴」

 病院を出てから直ぐに、昴は口を開いた。

「なんだ?」

「……幾つか、訊きたいことがある」

 突然ではあったが、特に断る理由も無いので、雅晴は昴の言葉に耳を傾ける。

「岬や、看護士から聞いたんだが……、お前は、自分の生命がそう長くないということは、知っているのか?」

「ああ」

 雅晴は、あたかもそれが当然であるかのように言った。それは、昴の問いの重さが嘘のように思えるほど、はっきりしていた。

 そして、昴は立て続けに問う。

「ならば、何故そんなに、人に明るく接すことができるんだ?」

「何故、か――」

 立ち止まり、雅晴は夜空を眺めた。昴を背負い直し、小さく息を吐いてから口を開く。

「――人に、明るく接してもらいたいから、かな」

「えっ……?」

 思わず、昴は素っ頓狂な声を上げてしまった。自分が想像していた答えとは、百八十度近く違ったからだ。

「俺はさ、人の笑顔を見るのが好きなんだ。俺が明るくしていれば、周りの人も、自然と明るく接してくれる。だから、俺も明るい人間でいられるんだと思う」

「………」

 昴は、雅晴の言葉を耳にして、沈黙した。そんな昴に、雅晴はもう一言付け加える。

「生きていられる時間が短いなら、その短い間を明るく過ごした方が、いいだろ?」

 そう口にした雅晴の顔は、とても優しげな表情をしていた。昴は頷いたが、彼の心の強さが予想を遥かに上回っていたので、驚愕で一杯だった。

 雅晴が再び足を進め、昴の心が落ち着いたとき、彼女は、自分のことを雅晴に話すことを決意した。

「雅晴。今度は、私の話を聞いてくれないか?」

 雅晴は、昴の申し立てに快諾した。彼は、特に話題が無かったので、神社まで静かに向かうことになったら退屈だろう思ったからだ。

「単刀直入だが……、お前は、『霊』を信じるか?」

「レイ?レイ、って……幽霊とかのことか?」

 雅晴の返事に、昴は頷く。まぁ、それ以外に考えられないといえばそうであるが。

「『信じる』って……それはつまり、実在するかを、か?」

「そうだ」

 雅晴は返答に困った。彼は、所謂霊感が強いという自覚があるわけでもないし、人から言われたことも無い。それに、そういった類のものを見た、という経験も無いからだ。

 そんな雅晴に、昴は特に気にかけた様子も無く話を紡ぐ。

「……まぁ、無理もない。突拍子も無いからな。それに、本当に聞いて欲しい話は、これからだ」

 昴は、一度咳払いをしてから続ける。

「私の家が、神社だということは知っているな?」

「ああ。墓参りのときに、見たからな」

「その、神社についてだが……、私は、その神社の巫女で、鬼斬り役なんだ」

 聞きなれない単語に、雅晴は首を傾げる。神社と巫女というのは特に珍しくはなく、寧ろ当然と言うべき存在だ。だが、『鬼斬り役』というものは、彼にとって初めて耳にする言語だった。

「……すまん、よく分からん」

「ああ、それが普通だ。簡潔に言えば、鬼斬り役というのは、先に述べた『霊』を斬る……即ち、『人ではないもの』を斬る役職のことだ。誰もがなれるわけではなく、私のように、特別な家系から生まれ、血を引いている人物であることが最低条件。尚且つ、体力、精神力、忍耐力、霊力……あらゆる能力が秀でている者のみが、その役を任ぜられる」

 ややこしい話ではあったが、雅晴は『鬼斬り役』という役柄になるのは、非常に難しいということは理解できた。話の後半は、大体は理解できたので、その役を担っている昴が凄い人物であることを知り、感嘆する。

「そりゃあ、凄いことなんだろ?誇りに思ってるよな」

「……そう、なんだがな」

 昴は、ため息を吐く。その声から推測するに、快いとは思っていないようだ。

「確かに、本来ならば私の言った通りの基準で決められるだろう。しかし、私は――」

 腕に力が籠もり、昴は小さく震えていた。

 そして、悔しがるような、悲しんでいるような……そんな口調で話す昴に、雅晴は耳を傾ける。

「――他に候補が居なかったから、穴埋めの為に決められたんだ……」

 自嘲的に笑い、昴は続けた。

「私は、使い捨ての駒なんだ……。適任の人材が見つかれば、すぐさま役を退くことになる。私は、出来損ないの、模造品なんだ……」

 話を終えた昴の口から嗚咽が漏れる。そして、雅晴は首筋に生暖かい感触を覚えた――涙だ。

「私は、体も弱くて、力も無くて……それでも、自分なりに努力してきた……。役に恥じぬように。そして、柊の鬼斬りの肩書きに恥じぬように……。でも、私には無理だ……。私の器では、鬼斬り役の業は支えきれない……っ!」

 ぶつけようのない悔しさや、悲しさを胸の内に秘め、昴はずっと鬼斬り役を担ってきたのだった。堰を切ったように泣き出す彼女を背中に感じ、雅晴はいたたまれないような、それでも彼女を何とかしてあげたいという気持ちになった。言葉に迷ったものの、雰囲気に背中を押され、雅晴は口を開く。

「――俺は、そうは思わない」

 突拍子も無く、雅晴がそんなことを口にしたものだから、昴は嗚咽を漏らしつつも、やや圧倒されたような反応を示した。

「確かに、今は未熟かもしれない。誰だって、最初はそうだ。だけど、大切なのはこれからだろう?」

「……それでも、私は弱い人間だから……無理なんだ……。幾ら頑張っても、無意味だ……」

「無意味じゃないよ」

 雅晴は即答した。

「努力したことは、自分の糧になる。未来に、努力してよかったと思う瞬間が、必ず来る。だから、それまでは自分に負けないで、日々努力だ」

「……その結果が、この風邪だ……」

 そうして、昴は再び自嘲的に笑った。そして、続ける。

「頑張れば、人の手を煩わせてしまう……だから、私は鬼斬り役を下りるべきなんだ……」

 人の手を借りずに、昴は自分を鍛えてきたのだ。だから、彼女は人を手を頼ることを、あまり知らない。

 雅晴は、彼女の気持ちが痛いほど分かった。言わずもがな、彼も病気の都合上、過去に似た考えが過ぎることが多々あったのだ。

「そうか……。なら、俺は止めない。だけど、それは本望なのか?辞めて、後悔しないのか?」

「それは……」

 そう呟いた声だけで、雅晴は、昴が思い悩んでいる様子が手に取るように分かった。

「その役職、押し付けられたんじゃなくて、やりたくてやってるんだろ?だったら、自分に負けちゃ駄目だ」

 優しく、力強さを秘めた雅晴の言葉が、昴の耳に届く。そして、彼の立場がその言葉一つ一つを重く、意味の濃いものへと変えた。

「諦めたら、そこで終わりだ。それに、人を頼ることは悪いことじゃない。とても、大切なことだ。人は、人の助け無しじゃあ生きてはいけない。そりゃあ、一方的に頼るのはいけないけれど、頑なに拒むのも駄目だと思うぞ」

「雅晴……」

 雅晴は、昴に向かって一度だけ微笑を見せた。

「何なら、俺を頼れ。まぁ、頼りない奴だろうけど。どうせ長くは無いんだ。精々生きてる間は、これからも生きていく誰かの役に立ちたいしな。基本的に拒否はしないから」

 その言葉には、強く悲しい決意と、偽りの無い優しさが満ちていた。それを聞いた昴は、思わず言葉を失った。

 そして、神社の前にある石段の前に辿り着いたとき、昴は閉ざしていた口を開いた。

「雅晴。先程、自分を頼れと言ったな。それは、今でも同じか?」

 その声は、先程嗚咽を漏らしていたものとは異なり、凛としたいつもの昴の声だった。その声を聞いて安心し、雅晴は頷く。

「二言は無い。今は勿論、これからもだ」

「……だったら、一つだけ私の頼みを聞いて欲しい」

「何だ?」

 一度背負い直してから石段を上り始める雅晴にしがみ付き、昴は何かを請うように言う。

「私が、鬼斬り役に恥じぬ存在に必ずなる、と信じて欲しい」

 この言葉に、雅晴は暫し黙した。そして、石段があと数段だけ残っているというところで、口を開く。

「勿論だ」

「何があっても、信じて欲しい。約束だ」

「ああ。約束するよ」

 ――いつまで生きていられるか分からないけど、それでも最期まで信じ続けてやろう、と雅晴は思った。

「えっと、宿舎はこっちか?」

「ああ。そこの、明かりが灯っているところだ」

 昴に促され、雅晴は宿舎の方へと昴を運ぶ。昴を学園から運んだ理由や、彼女が風邪を引いていることなどを彼女の両親に話すと、礼がしたいと言われて中に通されそうになった。しかし、後ろ髪を引かれつつも、雅晴は病院に戻らなければならないので、心遣いに感謝し、礼と挨拶をしてから神社を後にした。

 雅晴が病院の正面扉を開け、エントランスに入ろうとしたときだった。今日は、思いの外生徒会が長引き、帰りが遅くなってしまった那奈美が、偶然病院の前を通りかかったのだ。

 彼女は、歩道で雅晴を見つけ、声を掛けようかと思ったが、病院へと足を進める彼を見て思い止まった。

 那奈美は、人違いかと目を見張った。だが、何度見てもその人影は雅晴だった。

「(……どうして?)」

 不思議に思った那奈美は、暫くその場で待ってみることにした。診察して帰るだけなら、それほど時間が掛からずに終わるはずだ。

 ――だが、雅晴は幾ら待っても出てはこなかった。雅晴よりも後にやってきた人も、既に出払っている。即ち、今この瞬間でも、雅晴は病院の中に居ることを意味する。

「(もしかして、入院している……?それにしても、何故?)」

 思い当たる節が無く、那奈美は首を傾げる。両親が亡くなってから、何処に住んでいるのかを聞いたことは無かったが、いつも自分の家の前まで着いてきてくれるので、その付近に住んでいるとばかり思っていたのだ。

 那奈美は、足を家路へと向け、そのことについて考え続ける。しかし、考えども、考えども、雅晴の現住所を特定することはできなかった。

 そして、やがて自分の家の明かりが見えてきたとき、決意するのだった。

 ――明日、本人から聞き出そう、と。

 ……文化祭を間近に控え、冬が着々と近付いていく、この季節。これまでの平和な日常が変わってしまう瞬間は、確実に近付いているのだった……。

 

 
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