第二章 海賊(パート6)
風が気持ち良い。
港にいるよりも潮の香りが薄く感じるのは何故だろうか。代わりに、陸にいるよりも大きな風が詩音の髪を遠慮なくはたき続けている。周囲に見られるものは既に永遠にも近い広がりを感じる海原だけ。陸地を離れてどのくらいの時間が経過しただろうか。既に日は中天を越えているから、軽く見積もっても五時間程度の時間が過ぎていることになる。
小型船であるゆえか、船の揺れは多少なりとも存在してはいたが、どうやら詩音の体調と船旅とは相性が良いらしく、これまでのところ船酔いの兆候は見えていない。かといって本格的な船旅が初めてである詩音に回される仕事は少なく、精々昼食の準備に駆りだされる程度の行為しか行ってはいなかったが、それでも詩音は退屈を余すことなく、ただぼんやりと海原を眺めていた。
海は不思議だと、改めて思う。大きな変化があるわけでもないのに、見ていてなぜか飽きない。ただ小さく煌く波の端切れを眺めているだけでも、それなりに楽しむことが出来るのだから。
「シオン、ここにいたのね。」
背後から声をかけられて振り返ると、バインダーを手にしたフランソワの姿がそこにあった。航海日誌でもつけているものか、バインダーには細かな文字が敷き詰められるように記載されている。その肩には先日詩音も見た、フランソワの白鳩であるシーズの姿も見えた。万が一の連絡用にと連れてきたのである。
「時間はいいのか?」
詩音がそう訊ねる間に、フランソワは詩音の隣に進んで、同じように船べりへとその華奢な身体をもたれさせた。
「うん。暫くは変化もなさそうだし。」
フランソワはそう言いながら、詩音に向けてバインダーのノートを翳して見せた。こちらの文字にはまだ慣れないが、アルファベットに良く似た記号の羅列から、詩音はどうやら航海日誌ではなく、何かの研究ノートであるらしい、と推測を立てる。
「シャルロッテの速度計算とか、風の効率とかを計算していたの。」
続けて、フランソワはそう言った。
「どうだった?」
「計算通りよ、シオン。」
そこでフランソワは誇るように、わざとらしく胸をそらせて見せた。そのまま、誇らしさに満ちている様子で言葉を続ける。
「最高速度は今のところ、予定速度よりも僅かに上回る時速30ヤルクを叩きだしたわ。アリア王国では間違いなく、最速の船になると思う。」
フランソワはそう言うと、視線をそのまま上空へ、目一杯に帆が張られている三本マストへと移動させた。そのマストは、専属の船員が細かなタイミングでその位置を変えている。簡単に帆の位置を代えられるように、てこの原理を応用した操作盤を備え付けているらしい。
「向かい風でも効率よく風を拾ってくれているみたい。揚力計算をちゃんとしたおかげね。」
つられて詩音も視線を上空へと移す。帆船がなぜ向かい風に進むのか、詩音はどうにも理解しにくいところがあったが、要するに飛行機と同じ原理であるらしい。というのも、フランソワが以前示してくれた図面が物理の教科書にも出てくるような、飛行機の翼の断面図と似ている図面であったから。
即ち、片面だけ膨らんだ板に真横から風をあてると、膨らんだ方向への揚力が発生し、飛行機が浮きあがる。横から風を当てれば、常識に考えて横方向に動くはずであるのに、揚力のおかげで上方向に、即ち違う角度への移動することができるのだ。それと同じ原理で、帆の角度を調整すれば逆風に対してもある程度は正面方向へと進むことができるらしい。無論、完全に逆風方向へと向かうことは難しく、逆風を避けるように斜め方向へと左右にジグザグ走行をしながら、ゆっくりと前に進むしかないそうだが。
「物理は苦手だ。」
説明されればなんとなく理解できるものの、どうやら現代人である詩音の科学理解度はフランソワよりも劣っているらしい。尤も、大航海時代のヨーロッパにもフランソワに匹敵する天才が存在していたからこそ、世界を股にかけるような活躍が出来たのだろうけれど。
「原理まで説明できる人は、流石に少ないと思うな。」
少し拗ねた詩音に対して、フランソワが庇うようにそう言った。
「とにかく、航海が順調でよかった。」
苦笑しながら、詩音もそう答える。その言葉にフランソワは嬉しそうに頷くと、こう言った。
「予定通り、明日には目標であるケリー島に着くと思うわ。」
ケリー島とは、チョルル港から南東に700ヤルク程度離れた、周囲4キロ程度の無人島であるらしい。距離感覚とすれば鹿児島から那覇程度の距離だろうか。大きさは江ノ島程度とイメージすると分かり易い。どの国家からも遠く、だが航海の訓練には適する位置に存在しているために、フランソワだけでなく、アリア王国の船乗りが一度は訪れると言われている島である。とはいえ、当のフランソワも訪れるのは初めてということではあったが。
「ケリー島の到着予想時刻は明日の午前十時。そこから半日休憩して、帰港は明後日の夕方になるかな?」
楽しそうに、フランソワはそう言った。
「その後はどうするんだ?」
詩音がそう訊ねると、フランソワはそうね、と呟くと、少し考えるように人差し指をその唇に当てた。
「半年間で航海データを採取して、それから先は第一艦隊に譲渡することになるかな。」
「なんだそれ、もったいない。」
フランソワの回答に、詩音は意外と言う様子で瞳を瞬かせた。たった半年、しかもデータ採取だけのためにこの船を建造したのだろうか。
「そうだね。でも、半年後に私は王立学校に行くから。」
「王立学校?」
詩音の問いに、うん、とフランソワは応えた。
「アリア王都の近郊にある学校よ。アリア王国の貴族は慣例で十七歳になるとその学校に入るの。一部平民もいるけどね。」
「学校か。」
日本で言うと高等学校に当たる施設だろうか、と詩音は考えながらそう言った。対して自分は、もう一ヶ月も学校に通っていない。
「それでね、まだお父様には言っていないのだけど。」
そこでフランソワは、少し上目遣いに詩音の表情を覗き込んだ。
「シオンにも、王立学校に来てもらうと思って。」
「俺が?」
そこでフランソワは真剣な表情で頷いた。
「王立学校はアリア王国では間違いなく、一番の知恵が保管されている場所よ。もしかしたら、シオンが元の世界に帰る方法だって。」
「帰る方法が・・。」
この一ヶ月間、まるで手がかりすらつかめなかった、帰る方法があるかも知れない。その言葉に、詩音は思わず息を飲み込んだ。だが、貴族どころかこの国の人間ですらない自分が、高等教育機関に入学することができるのだろうか。
詩音がそう考えたときである。
「お嬢様、少し宜しいでしょうか。」
グレイスであった。何かがあったのだろうか、心なしか顔の表情が優れない。
「どうしたの、グレイス。」
すぐに向き直ってフランソワはそう訊ねた。
「先ほど、物見が国籍不明船を目撃した、と。」
その言葉に、フランソワは不審そうにその眉を潜めた。
「商船・・にしてはおかしいわね。」
「ええ。このあたりは貿易海路から外れておりますから。」
「アリア王国軍の訓練船では?」
「そうかも知れませんが、出航前にバッキンガム提督が仰るには、現在訓練中の艦艇は存在しないと。」
「遭難船かも知れないわね。今は目視できる?」
「いや、先ほど一瞬見えただけで、現在は目視不能です。」
グレイスがそこまで述べたときである。けたたましい鐘の音がシャルロッテの全域に響き渡った。緊急を知らせる鐘である。
「何事だ!」
咄嗟に、グレイスが上方を見上げて叫んだ。見上げた先には、マストの中腹に位置している物見台が存在している。
「船長、海賊だ、バルバ海賊団!十時の方向から!」
物見の青年から響いた声は、絶叫にも近いものだった。海賊、と言う響きに詩音は瞬間反応できず、ただ瞳を瞬きさせる。
「馬鹿野郎、そんな訳あるか!バルバ海賊団はもう十年前に壊滅しているはずだ!」
怒声をもって答えたグレイスに対して、物見の青年も負けじとばかりに声を張り上げた。
「しっかし船長、俺は忘れないぞ!あれは間違いなくバルバのマークだ!」
「俺が見る、そこで待っていろ!」
グレイスは堪えきれない様子でそう叫び返すと、フランソワに黙礼だけをしてその場から駆け出した。そのまま、素早い動きで帆柱を駆け上っ登ってゆく。
「バルバ海賊団?」
グレイスが足音高く立ち去っていくと、詩音は緊張感に包まれたフランソワにそう訊ねた。
「かつてアリア王国を騒がせた海賊よ。このあたりの海域を我が物顔で荒らしまわっていたそうね。でも、さっきグレイスが言ったように、お父様とバッキンガム提督が完全に壊滅させたはずなの。実際、この十年は海賊被害の話を聞いたことが無いし・・。」
その言葉が終わりきる前に、再度の鐘が鳴り響く。続いて、上空からグレイスの声。
「お嬢様、面目ねぇ!間違いない、バルバ海賊団だ!十時の方向、1、2・・いや、もっとだ、十隻はいる!」
その声に、フランソワと詩音は一度顔を見合わせ、船首側の船べりへと駆け寄った。最早物見台へと上がる必要すらもない。
その視界の先には、詩音でも分かる、特徴的な意匠をその帆に凝らした船が存在していた。黒字の帆に髑髏マーク。
海賊であった。
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第十六話です。
漸く話が動き出します。。
黒髪の勇者 第一話
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