「ねえ、いいでしょ?」
リビングの真っ赤な二人掛け用のソファの上に並んで腰を降ろし、他の誰かに気付かれないように小さく耳元に囁きかける。吐息を含んだその甘い声は、小鳥の囀りか、蜜蜂の囁きか。
もっともリビングの中にも他の部屋にも誰かが潜んでいるわけではなく、仕事で帰りの遅い両親がまだ日も沈んでいないような時間に帰ってくるはずはないのだから、誰に聞かれても困るわけじゃない。
「いいでしょって、そんな簡単に……」
「簡単じゃないよ。他の子にはこんなことお願いできないもん」
こうやって「お願い」されるのが一番弱いと分かっていてやっているのだから本当に性質が悪い。そりゃあ僕だって、たった一人の片割れの頼みとあれば大抵のことは叶えてきたけど、今回のお願いは厄介なんてもんじゃない。
「レンじゃなきゃダメなの」
嘘つき。うそつき。
僕は子供じみた非難の言葉を頭の中で何度もくりかえし、そのうちのいずれも声にはならずに消えていった。その憤りをぶつける代わりに非難するような眼差しを向けようとしても、すぐにその大きな瞳に捉えられてしまえば、睨みつけるどころか瞬きすることすら難しい。
「レンだってこういうの、興味あるでしょ?」
そう言ってリンは自分の唇を人差し指で押さえ、秘め事をその指先に乗せるように、今度は僕の唇に触れる。リップか何かの甘い香りがかすかに漂ってきて、下唇の膨らみに触れているものが唇なのかそれともリンの指なのか、分からなくなりそうだった。
だけど見つめ返した先にはちゃんとリンの唇があって、お揃いの色をした瞳と同じように、僕を捉えるための言葉を形作る。
「それとも、あたしが相手じゃ嫌?」
――…その唇の赤さに、目を奪われる。
「ああ、もう」
僕は吐き捨てるようにそう言って、唇を押さえていた人指し指を、それから手首を掴む。見た目よりもずっと細い手首の感触に驚いてしまったけれど、すぐに離してしまったら怖気づいたみたいに思われてしまいそうで、掴んでいる手にさらに力を込める。
するとリンは手首の痛みにほんの少しだけ眉を顰めたけど、声には出さずに視線だけでそれを訴えてくる。
「分かったよ」
「やった」
強く握りすぎたせいで離した手首にはかすかに赤い痕が残っていて、僕は少しだけ申し訳ない気持ちになる。
けれどリンがそれを気にしている様子はなく、ただ嬉しそうに声を弾ませては、急かすように白いカッターシャツの裾を引っ張っているだけだった。
「……今度の日曜だっけ?」
「そう。だからちゃんと練習しておかないと」
何が「だから」なのかちっとも理解できないまま、僕はこのままの体勢では首が痛くなってしまうだろうかと考えてソファから立ち上がると、腰を降ろしたままで僕の反応をじっと見ているリンの肩に手を置いた。
その下が透けて見えそうなほど白い肌。手首と同じように細い手足。生まれつき色素は薄いほうだけど、全身を覆っている紺色のセーラー服のせいで今は病的なくらい白く見える。
……というか、夏の間はもう少し健康的な色をしていたはずなんだけど、寒さが厳しくなるにつれて余計に白くなっている気がする。血が通っているのか不思議になって白い首筋に手のひらを当ててみると、そこからはちゃんと血の流れる音が伝わってきた。
「くすぐったい」
ごめん、と僕は小さく謝ってからそのまま頬に触れる。外から帰ってきたばかりでまだ冷えているそこに少しでも熱を分け与えようと手のひらを密着させる。僕の手だってそれほど温かいというわけではなかったけど、水みたいに冷たいその場所に比べたらまだ体温を保っているほうで、リンもまた気持ち良さそうに頬をすり寄せてきた。その無邪気な姿に、思わず唇の端が緩む。
「そういえば、レンはしたことあるの?」
「……ないよ。そんな相手がいないことくらい知ってるだろ」
「じゃあお揃いだね」
ああ本当だ、と他人事のように僕はその言葉に思わず頷いてしまう。紺色の襟の上で散らばっている髪の色も、こうして触れるくらい近くにある瞳の色も。小さい頃は嬉しくてたまらなかったはずなのに、それが少しだけ疎ましくなったのはいつ頃だろう。
「はじめての相手もお揃い」
本当に嬉しそうなリンの顔に息が詰まるような思いがして、僕は何も言わずに肩を引き寄せる。間近に見えるリンの顔は少しだけ緊張の色を含んでいるような気がした。
……本当に、何でこんなことになったんだろう。
リンが他の奴とキスをするための練習なんて。
「お願い。キスの練習台になって」
学校から家に帰ってくるなり、僕の目の前で手を合わせたリンがそんなことを真剣に頼み込んできたのが、今からほんの数分前のことだ。
「…………は?」
ストーブの電源を入れるとすぐに床の上に鞄を投げ出してリビングのソファの上でくつろいでいた僕は、そんなリンの言葉に思いっきり怪訝な声を出してしまう。
「前からかっこいいって言ってた三年の先輩いたでしょ?」
「ああ……」
そういえば何度かそんな話を下校途中に聞いた気もする。顔も頭もそこそこ良くてサッカー部のレギュラーで、どっかの雑誌の読者モデルもやってるっていう話で……。リンと一緒にいるときに一度だけ姿を見たことはあったけど、やたら背が高くてチャラチャラした奴だということ以外にはほとんど記憶にない。それよりも隣で騒いでいるリンに苛々したことのほうがよっぽど印象に残っていた。
ギ、とソファの揺れる音がする。隣にリンが腰を降ろしたのだと知ると、僕は少しだけ詰めるようにして場所を移動する。
「今度の日曜日にね、一緒に遊びにいこうって誘ってもらったの」
「……え。付き合ってたっけ?」
デートがどうこうよりももっと根本的なことを尋ねてきた僕に、リンはきょとんとした顔をして、それから当たり前のように首を横に振った。
「そんなわけないじゃない」
「だよね。放課後も休みの日も僕にベッタリだったし」
クラスが離れているとはいえ、クラスメイトの女子よりも僕と一緒にいることを好んでいるリンは、登下校はもちろん休みの日も一緒に過ごすことを何よりも優先させていたからそんな暇があるはずがない。というか僕の見ていないところで僕の知らない相手とそんな約束を取り付けていたことにすら驚きを隠せない。
「じゃあ何。付き合ってもいないのにデートするの」
「先輩はそういうの面倒だからとくに彼女とか決めてないし、自分が気になった子にはすぐに声かけてるんだって」
……最低じゃねえか。
僕は思わず嫌悪をこめて全力で貶してしまいそうになるのをギリギリのところで堪えた。その先輩が最低で節操のない女たらしなのはどうでもいい。それよりもずっと問題なのは――…。
「なんでそんな奴が好きなわけ」
「別にまだ好きとかそういうんじゃないけど……。かっこいいし、他の男子よりずっと大人っぽくて落ち着いてるし。いいなって」
好きでもない奴とデートしたりそれ以上のことをしたりするなんて。どう考えても理解できない。そんな僕の気持ちを察しているのか、リンは俯いてプリーツスカートに包まれた自分の膝に視線を落としたままで、すぐには顔を上げようとはしなかった。
「……で、キスするかもしれないから練習台になれって?」
「うん」
「別にいいじゃん。その先輩に教えてもらえば」
その言葉を口にした瞬間、口の中で砂利でも噛み潰したみたいに喉の奥に不快な感覚が生まれた。
「……だって、この年にもなって男の子とキスもしたことないって分かったら、面倒くさい子だって思われちゃうかもしれないじゃない」
「この年って、まだ中学生なんですけど」
思わず敬語になってしまった。この年でキスしてないことくらい全然普通のことじゃないか。何をそんなに焦っているんだか。
「クラスの子はみんなもうしてるって言ってたもん……」
ああ、なるほど。最近妙にクラスメイトの誰と誰が付き合ってるとか何年の先輩がかっこいいだとか、今まではまったく興味を示していなかったことばかり話題に出してきて変だなとは思ったけど……。
きっとクラスの女子から変なことでも吹き込まれて、それを間に受けてしまったんだろう。リンがそういうことに疎いと知って、からかわれているとも知らずに。
「ねえ、いいでしょ?」
本当はそんなことに興味なんてちっともなかったくせに。周りの言うことに流されて、すっかりその気になって。本当にバカだ。
「レンだってこういうの、興味あるでしょ?」
だけどそんなリンの言葉に乗ってしまう僕は、もっとバカだ。救いようのないバカだ。
「――…目、閉じて」
「何で?」
「何でって……じっと見られてたら恥ずかしくて出来ないよ」
どんなに顔を近付けてもそんなのお構いなしだと言わんばかりに僕の顔をじっと見つめてくるリンの視線に、それまで平静を装っていた僕は思わず本音を口にしてしまう。
「そっか」
するとリンはすぐに納得がいったように瞼を下ろした。白い肌に影を落とすほど長い睫毛が揺れる音が、あと少しだけ耳を澄ませば聴こえてくるような気がした。
「キスしてる間もレンの顔ずっと見られると思ったのになぁ」
「何でそんなもの見たがるの」
「好きだから」
「……ナルシストっぽくない? それ」
あくまで僕の「顔」を好きだと言っていることくらいは分かっているので、これといって惑わされることもなく冷静な口調で答える。自分の片割れの顔をずっと見ていたいと言うなんて、鏡の中にいる自分に好きだといっているようなもんじゃないだろうか。
「違うよ。あたしとレンの顔は全然」
まあ、確かに。
小さい頃は着ている服を取り替えて周囲の人間を騙すことなんてお手の物だったけど、今じゃ顔の造りも身体の骨格もまるで別のものみたいに成長してしまったから、そんな趣味の悪い遊びもできなくなってしまった。
たとえ僕が髪を伸ばしたって、リンが髪を切ったって、見間違える人はもう一人もいない。自分たちはまったく違う人間だと思い知らされてしまったんだ。
……きっとあの頃からだ。リンと僕との間にある「お揃い」を素直に喜べなくなったのは。だってそんなものがあったって、一緒の人間にはなれない。どんなに似ている人間がいたって、結局は同じにはなれない。
誰だって世界に一人ぼっちだと、気付かされるだけなんだから。
「まだ?」
「……そのまま」
絶対に目は開けないで、と念を押してから、待ちくたびれているリンの肩に手を置いた。顔が熱い。今の自分がどんな顔をしているのか見られたら、死んでしまうかもしれない。そんな馬鹿げたことを考えながら、僕はそっと指を伸ばす。
滑らかな肌。綺麗な鼻筋。色つきのリップをしているわけでもないのに、白い肌の上でもそこだけは薄く血を伸ばしたみたいに赤い唇。見た目よりも中心はずっと膨らみがあって、端から端までゆっくりと指で辿っていくと、かすかに睫毛が震えた。何だかその様子がおかしくて、気付いたときには顎に指をかけて、吸い寄せられるようにして一気に距離を詰めていた。
唇の先を軽く触れ合わせて、すぐにまた離す。小鳥が木の実を啄ばむようなキス。
それはあまりに一瞬のことで、僕もリンも実際に触れていたのかどうかすら分からなかった。
「レン」
「……もうしたよ」
「全然分かんなかった。もう一回!」
今のがファーストキスだっていうのに、何でこんなに緊張感がないんだろうか。僕だってはじめてだったのに。
「ん……」
そんな複雑な胸中には気付かれないように、今度はさっきよりも深く、その形や感触を確かめるようにゆっくりと、お互いの唇を重ね合わせる。
唇ってこんなに柔らかかったんだ、と指で触れていたときよりもずっと近くに感じられるその感触に驚いた。
「っ、は……」
息が苦しそうだと思えば一度離して、呼吸が整ってきた頃合いを見計らってまた重ね合わせる。そのくりかえし。
最初のうちは顔の角度やタイミングが分からずに歯がぶつかったり、あまりの苦しさに堪えきれなくなったリンの手が僕の胸を叩いたりもした。
けど、コツが掴めてくると徐々に角度を変えてより深く、長い時間をかけて唇を合わせることができるようになった。
「っ、ぁ」
ときどき上唇を唇で挟んだり、軽く歯を立ててみたり。それはキスというよりは、じゃれ合いのような感覚だったけれど。
それから何とはなしに唇の隙間から親指を差し入れて、舌の表面をなぞってみると、いつの間にか開いていたリンの瞳が何か物言いたげに僕を見ていた。非難するでもなく、咥えている指を押し出すわけでもなく。
いつもならふざけている僕の指を噛むくらいは平気でやってのけるくせに、何で今日はこんなふうにされるがままなんだろう。
練習だから? 僕とキスしながら、他の誰かのことでも思い浮かべているから?
(……嫌だなあ)
こんな顔を、他の奴にも見せてしまうんだろうか。
(何だろう、これ)
リンの視線に耐えきれなくなった僕は、その瞼の上に手のひらをかざし、視界を覆ったままで唇を塞ぐ。
「っ………!」
するとリンはいきなり視界を塞がれたことに戸惑って僕の肩を押し返そうとしたけど、深く唇を重ねているうちにその手からも力が抜けて、シャツの上を滑り落ちていく。
(ああ、あのときと同じだ)
真っ赤なソファの上に紺色のスカートの襞が広がっていくのを横目に見ながら、僕とリンが中学に上がったばかりの頃を思い出す。その記憶は鮮明な部分もあればひどく曖昧なところもあって、つい最近の出来事のようにも、もうずっと昔のことのようにも思える。
「うわぁ……」
中学校に通い始める数日前。新調したばかりの制服を着てみるように母親から言われて合わせてみたはいいものの、三年間着られるようにと大きめのサイズに作られたそれはちっとも身体に合っていなくて、何でこんな重くて動きにくい格好をしなくちゃいけないんだろうと少し不機嫌になっていた。
……別に、自分の身体が小さいのが余計に際立ってしまうことを気にしてるわけじゃないけど。
そんなことを頭の中で言い訳しながらもう脱いでしまおうと金色のボタンに手をかけた直後に、隣の部屋で着替えていたはずのリンがパタパタと駆けてくる音が聞こえてくる。騒々しい音を立てて開いた扉の向こうには、紺色のセーラー服を身にまとった僕の片割れが得意げな顔をして立っていた。
「見て、レン」
部屋の中に入ってくると同時に僕の目の前でくるりと一回転して、プリーツスカートの裾が大きく広がる様子に、ご満悦の笑みを浮かべる。
「可愛いでしょ」
それから紺色のスカートの裾をちょこんと指先で摘むと、小さく首を傾げてみせる。裾の捲れた先から白く伸びた足には、眩しいくらい真っ白な靴下。身体よりは大きめではあるけれど、僕ほど制服に着られている感じはなかった。
だけどリンのその姿を見て、僕はそこに違和感を覚えることしかできなかった。
「でもまだちょっと暑いね。半袖のほうも着てみた?」
「いいや。面倒くさいし……」
……ああ、スカートを履いているからかな、と僕はすぐにその理由に思い当たる。男と変わらないくらい活発に動き回るリンの服装は今までズボンや膝丈くらいのパンツがほとんどで、スカートを履いている姿なんて数えるくらいしか見たことがない。だからこんなに変な感じがするのか。
「夏服も可愛いんだよ。あとで見せてあげるね」
こんなに色が白くて、ちょっとでもぶつけたら折れてしまいそうなくらい細い脚をしてたっけ。リンなんてちっとも女の子って感じがしなくて、僕とほとんど変わらないような身体をしていると思っていたのに。いつの間にこんな――…。
「レンの制服もかっこいいね。ちょっとダボダボだけど」
「……っ!」
そう言っていきなり正面から抱き着いてきたリンに、僕はひどく動揺してしまった。
「レン、さっきまでお昼寝してたでしょ。お日様の匂いがする」
どこもかしこも柔らかい身体。お菓子みたいに甘い香り。紺色のセーラーの襟から覗く白い首筋。
扉の近くあった鏡に目をやると、その違いに愕然とした。今はまだ身長も体格も大して変わらない。けど、僕は男でリンは女で。とっくに別の生き物になってたんだ。
一緒に生まれてきたのに、どうしてこんなに違ってしまったんだろう。
制服なんて――…どうしてこんなものがあるんだろう。ちっとも似合ってなんかいないし、窮屈でたまらないっていうのに。
「……レン?」
男とか女とか、そんなの知りたくもない。ずっとリンと同じでいたかったのに、どうしてそれを許してくれないんだろう。
誰の目にもつかない場所で、ずっと一緒に眠っていられればよかった。それだけでよかったのに。
卵の外になんて出なければ、僕らはずっと同じでいられたのに。
そのときの気持ちを思い出していると胸の中にある靄のようなものが余計に広がっていって、僕はリンの視界を手のひらで覆ったままで、八つ当たりのようなキスをくりかえす。
視界を覆われたまま唇まで塞がれているせいか、リンはちょっとの刺激にも敏感に反応して、唇の隙間からは絶えず苦しげな息を漏らすようになっていた。
「レン、もう……いいでしょ?」
あんまり苦しそうにしているものだから、僕はようやくリンの視界を覆っていた手のひらを退けた。
さっきまであんなに白かった頬は痛々しいくらいに真っ赤で、目の端からは涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。
「こんなんじゃ全然ダメだよ。その先輩って人、相当遊んでるんだろ? もっとリンも上手くならないと」
「う…………」
「口、開けて」
「ん……、っ? やっ!」
唇を合わせた直後にその隙間から舌の先を滑り込ませると、リンはすぐに驚いて僕の胸を押し返した。どうしてそんなものが口の中に入ってきたのか分からない、という顔をして。
「このくらいで恥ずかしがってちゃ、すぐにフラれちゃうよ」
「や、やだ」
「じゃあ続き。今度は舌出してよ」
「し、た?」
リンは少しだけ不思議そうな顔をして、それでも言われたとおりに唇から舌を出して見せた。僕はその先端から根元までを辿るように舌先を這わせていくと、それを閉じ込めるように唇を重ね合わせる。
「ん、ぅ、う……っ」
ざらついた感触。人間の舌ってこんな感じなんだ、とくすぐったいような生々しいような感触を舌全体で確かめながら、僕はリンがまた逃げないようにと掴んだ手首をソファの背に押し付ける。
「は……っ、ぁ」
唇の端から垂れた唾液がセーラーの襟に落ちて小さな染みになっている。ソファに全身を預けている身体からはとっくに抵抗する力は失われ、僕から与えられるものすべてを受け入れて、いつしか自分からも舌を絡めるようになっていた。その表情は次第に熱を帯びていき、僕に「お願い」してきたときの無邪気さなんて欠片にも残っていない。
それでもまだ慣れてはいないのか、ときおり肩をびくりと震わせて、唇が離されるたびに不安げな瞳で僕を見上げてくる。
(こんなリンの姿、きっと今だけしか見れないんだろうな)
(きっとその先輩とやらは、僕が教えたキスを上手になぞってみせるようなリンしか見れないんだ)
こんなふうに縋りついてくる瞳も。小さく震えてる姿も。全部。
(ざまあみろ)
顔もよく知らないような奴の姿を思い浮かべながら、より深く唇を重ね合わせる。まるでそいつに見せつけるように、じっくりと時間をかけて。
(お前になんて、絶対に見せてやらないよ)
「……その先輩とキスするときはさ、リンのほうからリードするといいよ」
「っ、はぁ。え……?」
リンはまだ唾液が残っている唇や首筋を拭いながら、しばらくその言葉の意味を考えて、それからまだ熱っぽい瞳をソファに腰掛けている僕へと向ける。
「……変な子だって思われない?」
「そんなことないよ。男なら、女の子が積極的になったら嬉しいもんだって」
「そっか」
リンはもっともらしい僕の言葉に納得したように頷くと、さっきまで僕のものともリンのものとも分からないくらい深く重ね合わせていた唇を指先でなぞる。きっと今の僕と同じように、軽く痺れたみたいになってるんだろう。
「じゃあ、そうする」
そう言ってまた小さく頷いている姿を見ているとうまく言葉にならない感情がこみ上げてきて、僕はその身体を抱き寄せると瞼の上に唇を落とした。
それから数日後の日曜日。朝から少し緊張した面持ちで出かけて日が沈み始める頃に外から帰ってきたリンは、ずっと楽しみにしていたデートの後だって言うのに浮かない顔をして、「おかえり」と玄関で出迎えた僕の顔を見るなりその大きな瞳に涙を滲ませた。
「先輩に、いまどきめずらしく男慣れしてない子だと思ってたのに騙された、って言ってフラれた……」
家まで帰ってくる間ずっと泣いていたのか目の端は赤く腫れて、頬には何度も涙を擦った跡がくっきり残っている。裾の膨らんだピンク色のバルーンワンピースも、いつもより念入りにセットした髪の毛も、これじゃ台無しだ。
「へえ」
「へえ、じゃないっ! レンがあんなこと言うから積極的に……。はぁ……」
たいして興味がなさそうな呟きを漏らした僕にリンは抗議しようと声を上げたけれど、その途中で力尽きてしまったのか、がっくりと肩を落とす。
「他に何か言ってた?」
「……えっと、こんな他の男にイチから全部教えこまれたようなキス、気持ち悪いって」
「あはは」
あまりに予想通りの展開すぎて、ついには堪え切れずに笑い出してしまった。
「笑いごとじゃないっ! もう……」
それからリンは覚束ない足取りでリビングまで歩いていくと、近くにあったクッションを胸に抱え込み、ソファの上に倒れ込むようにしてうつ伏せになった。
「そいつがおかしいだけだって。本当に好きな女の子が自分からキスしてきたら、普通は嬉しいはずなんだから」
「でも先輩はやだって……」
そいつから言われたことを思い出しているのかまた瞳が曇っていく。クッションを抱きかかえている腕にいっそう力を込めている姿は、必死に震えをおさえているようにも見える。
「そのうちもっといい相手が見つかるよ。リンくらい思い込みが激しくて寂しがりでも、ちゃんと見ててくれる奴」
僕はソファに背を預けたままで指を伸ばして、頬に伝う寸前の涙を掬い上げる。
「そんなひと、簡単には見つからないよ」
「そうかな」
そうよ、と恨めしげな瞳が僕を見上げる。それはまるで僕のついた嘘なんてとっくに見抜いているのだと責め立てているようで、喉元にナイフの先を突き立てられている気持ちになる。
「そんなの、レンくらいよ」
そう言った直後に、小さく息を飲む音が聞こえてきた。自分で口にしたことなのに、その言葉に驚いてでもいるかのような。
「そうかもね」
「…………そうよ」
それからしばらくの間、僕らは見つめ合ったままでどちらかが口を開くことはなく、沈黙だけが部屋の中を満たしていった。
時計の針の音がやけに早く聞こえ出す。カチリ、カチリと、何かを急かすように。
「……キスの練習、しとく?」
「え?」
先に沈黙をやぶってしまったのは、僕のほうだった。
「リンにちゃんとした相手が見つかるまでの、練習」
そんな相手、一生見つからなくたっていいんだけど。
「…………する」
するとソファから身体を起こしたリンは、もう何も言わずとも自分から僕の首の後ろで指を絡めて、唇を寄せていく。
最初に触れたのは僕だったのか、それともリンだったのか。もう分からないけれど。
殻の外になんて出なければよかったと、雛鳥は卵の夢を見る。
そうすれば失うものなんてひとつもなくて、ずっと二人で眠り続けていられたのに。
だけどどんなに思い続けたって、砕け散った殻を集めたって、二度と卵の中には戻れない。だってもう、外の世界を知ってしまったんだから。
その唇の味を、知ってしまったから。
「もう一回」
「……うん」
もう二度と元には戻れない。
そんなことくらい、分かってたんだ。
End.
It's no use crying over spilt milk.
(こぼれたミルクは元には戻らない)
あるいはハンプティ・ダンプティ。
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いい双子の日なので制服近親鏡音を。Rはギリギリつかないくらいの内容だけど普通にいかがわしくてそこそこ長い。