音楽が聞こえる。ピアノの音。ショパンでもチェルニーでもバイエルでもない、もっとシンプルで、そしてどこかコミカルな曲調。懐かしくて、一口飲んだ水がすっと身体の中に吸収されていくように親しみやすい、そんな音楽。
目を開けると、どこまでも白い世界が広がっていた。
「そろそろどいてくれないか?」ふいに足下から澄んだ声がした。「尻尾、踏んでいるのだが」
白い世界に一匹の黒猫がいた。わっ、と小さな悲鳴を上げて私は数歩後ずさった。猫が人間の言葉で鳴いた。やれやれ、と人間染みた動作で黒猫がため息をつき、私に踏まれていた尻尾を持ち上げる。
レのシャープだ。何故かふとそう思った。猫の声が、レのシャープの音に似ていた。
「では、行こうか、アリス」
一度だけ黒猫は私を振り返り、白い世界を歩き出す。どうやら私に言ったみたいだ。でも、私はアリスなんて名前じゃない。
私の名前は──。
……思い出せなかった。しばらく呆然としていると、黒猫がしばらく歩いたところでこちらを振り返り立ち止まる。どうやらついてこいという事らしい。
猫さん、ここはどこ? とことこと、どこかにエスコートする黒猫に向かって訊ねる。さあな。無愛想な返事がレのシャープの音を奏でる。その後も色々な質問をぶつけたが、帰ってくるのはとりつく島もない答えばかり。まともな返事が来たのは一度だけ。
「猫さん、お名前は?」
「……チェシャとでも呼べ」
その間ずっと、聞き覚えがある音楽は鳴っていた。やがて黒猫が立ち止まる。ついたぞ。そんな無愛想な声で猫が鳴く。そこには小さな電子ピアノがあった。椅子にはまだ幼い少女が座って、鍵盤を楽しそうに叩いている。『ねこふんじゃった』。さっきから流れていた音楽はこれだったらしい。
あれは──……。
行くぞ。黒猫がそう言って歩き出す。私もそれに続く。しばらくすると白い世界の調べがシンプルなものから豊かな曲調に変わっていく。黒猫が行き着いた場所には同じ電子ピアノ。そして、少し大きくなったさっきの少女。彼女は本来二人で行うはずの、『ねこふんじゃった』の連弾を一人で弾いていた。
やっぱり。あれは私だ。さっきの少女は初めてピアノに触れて、そして『ねこふんじゃった』を教えてもらったときの私。ああ、そうか、思い出した。私はピアノを弾いていたんだ、ずっと。ピアノが上手な人は何故か知らないけど、『ねこふんじゃった』を高速で弾こうとする。それが上手さの証と見せびらかすように。速く弾くのが苦手だった私は、だから人と違う事をしようと思ったんだ。それが今、目の前で『ねこふんじゃった』の連弾を弾いている私。この頃はピアノに関して、誰にも負けたくなかった。
次。黒猫が案内した場所には、少し成長した私が落ち込んだ様子でピアノを弾いていた。小学六年生の時、ピアノの発表会があった。私がソロで弾いた曲はショパンのワルツ第6番変ニ調作品64-1、『子犬のワルツ』。小さな子犬二匹が鍵盤を駆けていくような、そんな曲。何ヶ月も練習した。21小節から36小節が私は苦手だった。それでも頑張って頑張って練習して、克服した。それどころかそこを一番得意な場所にまでした。そう思っていた。それでも間違えてしまった。完璧だったはずの21小節から36小節。そこでミスを犯した。楽しそうに鍵盤の上を飛び跳ねていた子犬が見事に転んだ。やっぱり犬なんかより猫のほうがいいや。そんな事を思いながら、その日は一人部屋に閉じこもって『ねこふんじゃった』を弾いていたんだっけ。
そういえば、たぶんこの頃からかもしれない。誰にも負けたくなかったピアノ。それに自信が持てなくなったのは。例えば空で弾けていた曲の楽譜をど忘れした時とか、低音が少しずれた時とか、二音の短いトリルでうまくペダルを踏めなかった時とか、そんな些細な事で私は落ち込んだ。中学の三年間、私はずっと合唱コンクールで伴奏をしていた。けれど、高校に入ってから合唱コンクールのしおりに私の名前は載らなくなった。私よりも上手な子が、ずっと同じクラスだったからだ。私の方が上手だと言ってくれる友達もいたけど、少なくとも私はそう思えなかった。
そして──……ああ、そうだった。そして、私は音大の受験に失敗したんだ。
父は有名なピアニスト。母は音楽界では無名だが有名な音大を卒業している。その子供が私なのだ。だからきっと、親は私に音楽に携わる道を望んでいたんだと思う。実際、私にピアノを教えたのは母だった。でも、私は受験に失敗した。二人の期待を裏切った。だから、私はこれを機に音楽から遠ざかろうと思った。幸い普通の私大には合格している。別の道を歩もうと思った。両親は少しだけ悲しそうな顔をしていた。嫌われてしまうかもしれない。そう思った。それも仕方がない。私には……才能がなかったのだ。
思い出したか? 黒猫の声だ。うん、と頷く。嫌われちゃったかもね。そう言葉からこぼれる。猫は首を傾げながら見上げてきた。二人の期待に応えられなかったんだもの、きっと出来の悪い子だって思われた。少し間があってから黒猫は歩き出す。ちょっとだけ逡巡してから、私はまた左右に揺れる尻尾を追いかけた。
──ねえ? もしかしたらあなたはあたしたちと同じように音楽の道を選ぶかもしれない。それはね、楽じゃない道かもしれないわ。とっても苦労するかもしれないし、周りが才能を認めてくれない事だってあるかもしれない。もしかしたら音楽なんてやらなければよかったって後悔して、くじけちゃう事もあるかもしれない。
──こぅかい?
──そう。えっとね、もしかしたら不思議の国で迷子になっちゃったアリスみたいに淋しい思いをするかもしれないって事。ウサギさんなんて追いかけなければよかったって、そう思う時がくるかもしれない。
だからね、と母は続ける。その言葉に聞き覚えがあった。膝の上にいる我が子に語る母。その唇の動きが、今、その光景を眺めている私と重なる。
「──チェシャ猫を探しなさい」
──不思議な国に迷い込んでも、くじけそうになっても、チェシャ猫みたいな出口に導いてくれるものを探すの。
──ねえ? 母が膝の上にいる小さな私に問う。音楽は……ピアノは好き?
幼い、まだ小さな私は、確かに、嬉しそうに──笑った。
思い出した。ピアノを最初に教えたのは母だ。でも、それを望んだのは私だ。
「……思い出したようだな」少しだけ嬉しそうに見上げてくる黒猫に、小さく頷いた。「これは、わたしからのプレゼントだ」
その瞬間、黒猫は煙のように白と同化して消えてしまった。ずっと聞こえていたピアノの音も、いつの間にか止んでいる。その代わりに話し声が聞こえてきた。私はその声のするほうに足を向ける。白い空間に、白いベッドが置いてある。その上に一人の女性が上半身を起こして寝ていて、そのすぐ傍に簡素な椅子に腰掛けている男性がいる。彼は大事そうに赤ちゃんを抱いていた。
「あなたの事だから、音楽に関する名前をつけるんだと思ってたわ」女性が笑う。「花音とか」
「そうだね、そんな名前もよかったかもしれない」でもね、と男性が赤ん坊を高い高いをしながら続けた。彼もまた、幸せそうに笑っていた。「音楽に触れるかどうかは、この子次第。それよりも、もっと女の子として当たり前の事を願ってやりたいんだ。〝智(かしこ)く〟、そして〝美しく〟。ねえ──」
父が私の名前を呼んだ。やがて目の前の光景は白く溶けていき、いつの間にかさっきの黒猫が寄り添っていた。
「……私はお父さんとお母さんが望んだ子になれたのかな」黒猫に訊ねる。「〝智(かしこ)く〟、〝美しく〟、名前に込められた意味と同じ、そんな子に」
黒猫は私を見上げ、そしてまた視線を前に戻した。心なしか少し嬉しそうな表情をしている気がした。黒猫がレのシャープで鳴いた。
「今後に期待だな」
やがて、どこからともなく猫たちが集まってきた。白い空間よりも白く浮かび上がる猫に、私の隣にいるのとおなじ黒猫。何十匹という猫が集まり、列を組み、見覚えのあるコントラストを描く。びっしりと隙間なく並ぶ白猫に対して、見えない台にでも乗っているのか黒猫が白猫よりも少し高い位置で、こちらはそんなに密集しないでぽつんとぽつんと並んでいる。
それは、ピアノの鍵盤と同じ並び順だ。けれど、ひとつだけ、黒の鍵盤が抜けていた。レとミの中間にあるはずの黒の鍵盤。そこだけがぽつんと抜け落ちている。足音が聞こえた。三人の女の子が猫たちの鍵盤に寄っていく。ピアノを楽しそうに弾いていた四歳の私が、他の子に負けたくなくて『ねこふんじゃった』の連弾を練習していた九歳の私が、発表会で失敗してしまった十二歳の私が、十八歳の今の私を見ていた。ああ、そうか。見ているのは私じゃない。
「ほら、あなたを待ってる」しゃがんで黒猫を押す。あの子たちが待っているのはこの子だ。「最初の音のあなたがいなくちゃ、あの曲は弾けないでしょ? 全部、思い出したよ。ありがとう、また助けられちゃったね」
黒猫は満足そうな表情を浮かべて、猫の鍵盤へと向かう。そこが自分の定位置のように、ぽっかりと抜け落ちた黒の鍵盤の位置に猫は座った。
そして、流れ始める音楽。いつもいつも励まされたもの。私がピアノで最初に弾いた『ねこふんじゃった』の曲。
思い出したんだ。どうしてあんなにもピアノが楽しかったのか、どうしてあんなにもピアノで誰にも負けたくなかったのか、どうしてあんなにもピアノの事で落ち込んだのか。その時の気持ちを。
気がつくと私は、自分の部屋にいた。目が少し痛いのは、もしかしたら泣いていたからかもしれない。電子ピアノの前に座る。何年間も使ってきたピアノだ。鍵盤はすでに平らではなく、使いすぎてぼこぼこになっている。
さあ、弾こう、大好きなあの曲を。
ポーン──……
鍵盤の上、レとミの中間、『ねこふんじゃった』の初めの音、黒いレのシャープが小さく鳴いた。
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