なんだか台所が騒がしい。
本を読みながら、リコはそんな事を思った。母親と妹が何かしているのだろうか。おやつでも作っているのなら、後で食べに行こう。妹は時折り、母に菓子作りを習っているのだった。そういう時は決まって、出来上がった時にリコが食べさせられる。ハズレがほとんど無いのが救いだ。妹はアレで、中々料理上手なのだった。
とはいえ、今日のおやつはすでに用意しているが。
近くのケーキ屋で買ってきた苺ババロアである。とても美味しいと評判だ。小腹が空いたら食べようと、今から楽しみにしている。
だから、台所から騒がしさが消えても、リコは気にも止めなかった。特に何かを作っていたわけでも無いのだろう。
運動公園から帰宅した夜である。
帰宅してすぐに睡眠を取り、晩御飯を食べて良い感じにまったりして本を読んでいた。
リコの部屋は一階にある。その窓をノックする音があった。カーテンは閉まっていて、向こう側は見えない。普通なら超自然現象だったり不審者だったりを疑うが、リコの頭にその可能性は思い当たらなかった。
「
あ、どもー」
ヤカである。
窓を開け、カーテンの向こうから現れたのは紛れも無くヤカであった。リコは軽く手を振った。
何時もの事なので驚いたり怒ったりする意味は無い。リコだって、ヤカの部屋へ行く時は玄関を使わないのだ。
「どうしたの、ヤカ。こんな時間に」
「別にー。なんとなく」
「そう」
こんな時間に、とは言ったが、深夜に尋ねてきた事もあるくらいだ。2人にとっては何も特別な事では無かった。
「ああ…………」
疲れた様なヤカの声。彼女はその場でバタッと倒れて呻き始めた。
リコがペラ、ペラ、と本を捲る中、ヤカは匍匐全身である方向を目指して進み始めた。
ペラ、と一枚捲ると一歩。
ペラ、と一枚捲るとまた一歩。
「ふぅあああああ」
気の抜けた声を出してヤカが手を伸ばした。伸ばした手の先にはシーツがあった。ベッドのシーツだ。それをゆっくりと引っ張っていき………………。
「ふぬぅあああぁぁぁ」
ヤカの手に引かれたシーツは、ベッドから半分ほどはみ出し、床にだらしなく垂れ下がった。
「…………なにしてるの?」
それを横目でみていたリコは、その奇行に対してついに耐え切れなくなった。半眼でヤカに問いかける。
「いや、眠くってねぇ」
「匍匐全身の意味が分からんわ!」
ヤカは眼だけをリコに向けて、
「なんだか立って歩くのが面倒臭くて」
「アンタの行動の方が面倒臭いわ」
ヤカはシーツを掴んだままその場で身体を回転させて、身体をシーツで包んだ。そのまま床を転がり、シーツは完全にベッドからずり落ちた。
「ちょっと…………皴になるから止めてよね」
「ごめんなさい」
言いながらも、ヤカは右へ左へゴロゴロと転がり続けた。これ以上言ってもおそらく無駄だろうと考え、リコは無視して再び本を読み始めた。
読んでいる本は、最近はまっている小説家の最新作で、ドブに落ちて名実共に底辺を彷徨っている妖精が、とある国の暗君を倒そうとする正義の味方たちに恐ろしく陰湿な嫌がらせをする、という若干アレな内容の物語であった。実は、この小説の作者は一部のコアなファンに支えられているのだった。当然、リコもその一人である。
「どうしよう」
「何が」
「リコが相手をしてくれないよぅ」
「ふーん」
転がりながら、ヤカがシーツを身体から剥いでいく。脱ぎ散らかしとはまさにこの事だ。
「相手をしてよぅ」
ヤカは匍匐全身ではなく、腕の力だけでこちらに近付いてきて、リコにしがみ
ついて来た。とても早かった。
「…………本読んでるでしょ」
「本読みながらでも!」
「それでいいのかアンタは…………」
妙に必死なヤカに、リコはやや諦め気味だった。本を読んでいる時は雰囲気と
気分が大事だ。ヤカによって雰囲気は潰され、気分も萎え気味。とても本を読めるコンディションでは無かった。
リコは本に栞を挟んで、
「で、何がしたいの?」
「うーん…………」
恐らく何も考えていないであろうヤカが、考えているフリをして声を出し、口元に手を当てて考えている様なポーズをした。本当に何も考えて無いだろうが。こうやって暇を潰しているだけなのだという事を、長年の付き合いからリコは知っていた。そして半ば諦めていた。
ヤカが考えている間に、リコはシーツを畳む事にした。それを実行に移そうと
し、立ち上がった時である。
リコの部屋の扉が開き、一人の少女が入室してきた。
「お姉ちゃん、さっきから五月蝿いよ」
「こらコハル。ノックしなさいって言ってるでしょ」
少女の名はコハル。中学1年生になるリコの妹だった。
「あ、ヤカ姉ー。来てたんだあー」
「うん。久しぶりだねえーコハル」
「一年ぶりくらいかなヤカ姉ほんと久しぶりー」
「昨日会ってたでしょうが。ていうかなんでそんなにわざとらしいのよ」
リコのツッコミは華麗に無視され、コハルはヤカに近付き、その膝に座った。
コハルはやたらヤカに懐いていた。まあ、小さい頃からコハルの面倒を見てきたのはリコとヤカの2人である。コハルにとっては、ヤカも実姉の様な存在だ。
「あ、リコ」
「なによ」
「コハルが来たから本読んでて良いよ」
「お姉ちゃんは本でも読んでれば良いよ」
「アンタらはほんとアレね…………」
盛大に溜め息をついて、しかし今更本を読む気にもなれない。
苺ババロアでも食べよう。
立ち上がって、使っていた座布団をコハルの頭の上に乗せて(特に意味は無いが)、部屋から出ようとドアまで歩く。
「お姉ちゃん何処行くの?」
「何処でもいいでしょ」
そうやって、やや無気力に部屋を退出したのだが。
「コハル、さっきのババロア美味しかったねー」
「うん、さすがお姉ちゃんが冷蔵庫の奥に隠しておくだけの事はあったよ」
聞こえた瞬間。
リコは台所へ向かって駆け出していた。あまりに床を強く蹴ったために、なんだか物凄い音がしたような気がしたが、脇目も振らず駆け出した。
台所へのドアを開けて、一直線に冷蔵庫を目指す。母親が眼を開いて驚いていたが、構う余裕は無い。
右手で冷蔵庫を開いて(あまりに強く開きすぎたため炭酸入りペットボトルがガタンガタン動いていたが、それを静止する時間も惜しかった)、苺ババロアの姿を探す。
「無い…………無い! お母さん、私のババロア何処言ったの!?」
「ふふ、冷蔵庫の中に向かって叫んでもお母さんは冷蔵庫の中に居ないわよ」
「分かってるわよ!」
「ババロアならさっきヤカちゃんとコハルが………………」
母の言葉が終わらぬうちに、ヤカは駆け出していた。先ほどと同じく、床に物
凄い衝撃が走ったような気がしたが、脇目も振らず駆け出した。
自室の前に付き、ドアに手を当てたが…………。
「アンタ…………ら?」
ガチャガチャと、手ごたえは有るがまるでドアの開く手ごたえが感じられな
い。鍵がかかっているからだ。
「く…………こら、開けろ!」
「嫌です」
「絶対にごめんです」
「ふざけんな!」
ドアを強く叩いて、何度も呼びかける。
だが、そんなに体力が有る方では無いのだ。疲れて、ドアの前でうな垂れた。
「あのねリコ」
「………………なによ」
「美味しかったよババロア」
「…………頼むからもう黙ってちょうだい」
こうして、夜は更けていくのだった。
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ババロア食べたい。