―――闇の森。
南にアザラ、他ルドニア、ツイザール、トューリカの四つの国の国境に位置している。歴史的にはアザラの領土であるが、森に足を踏み入れた者は暗黒神の怒りに触れ行方不明になるか気が狂うと言われ、事実そうであるが為に兵を駐屯させることは出来ない。
それ故に領土であって領土ではないという難しい地域だった。
その上この異常気象の中でも、
そして森の周囲には晴れることのない霧がたちこめており、獲物を追っていて、木の実を探していていつのまにか森の中に足を踏み入れ出口を見失ってしまうのである。
中には自らの意思で森の中に入る者もいるが、やはり戻ることはない。
森の中に何が潜んでいるのか。
暗黒神の怒りであるのか。
原因を調べられない為に人々の推測は幾通りもあった。
「ここか……」
走竜で走ればほどなく霧の中に入るという場所に降り立って行き先を眺めたアルディートは、噂には聞いていたが初めて目の当たりにする闇の森の異常なほどの緑の濃さに視線を外せぬまま呟いた。
アザラの領土ではあるが、その森の中がどうなっているのか知っている者はいない。
ザバに尋ねてみたが王家に伝わる書にも記されていないようだった。
「本当に行くのか?」
昨夜焚き火の前でアルディートと話をした歳の近い青年が近づき、アルディートに問いかけた。
メルビアンは自分かアルディートが神殿に行かなければならないと言っていた。
暗黒神の色である黒い髪と黒い瞳。
これが森の中の神殿に足を踏み入れ、帰ることの出来る免罪符になるのだろうか?
ではメルビアンは王族だからか?
だがそれならばメルビアンの兄は過去、この闇の森に出向き何故帰らなかったのか。
そしてメルビアンはザバが大丈夫だとは言っていなかった。
その件についてザバに尋ねても「まずは神殿に行かなくてはなりません」と言い、それ以上の質問は拒絶された。「いえ、私も分からないことばかりでして」とザバは続けたが。
少なくともザバは命の危険も、帰れないかもしれないとも思っていなさそうだった。
「バシュー」
森を見つめたまま、アルディートは鋭く呼びかけた。
「何だ」
「お前たちはここで待て」
「分かった」
時は夕刻。
夜になれば危険が増す可能性が高い。
夜行性の獣ほど、獰猛な種が多いのだ。
それを知らぬアルディートではないが、躊躇わず一気に行ってしまおうとするのは、若さ故なのかもしれない。
だが誰も何も言わない。
グイ、と手綱を引くと、立ちこめる霧のせいか走竜はそれ以上進むのを嫌がった。
森に向けていた視線を走竜に移し、トントンと頭を撫でると軽やかに走竜から下りると手綱を近くの青年に渡し、アルディートは森に向けて歩き始めた。
「戻ったらまずお茶を頂きたいですね。バシュー」
笑みを浮かべて言うザバに、
「酒じゃなくていいのか?」
「酒を飲みたいのはあなたでしょう?」
楽しげな声が響いた。
夕陽に緑が燃え上がり、霧が赤く色づく。
その中に二人の影がゆっくりと消えていった。
「空気が違う」
闇の森に足を踏み入れてすぐ、呟くようにアルディートが口にした。
鬱蒼とした緑が地上から消えて、何十年経過しただろうか?
アルディートだけでなく、後ろを歩くザバにしても豊かな緑の中に身を置くのは初めてのことだった。
だが空気の乾燥した砂漠で長く生活していたせいだろうか、吸い込むとじっとりと体の中まで湿りそうな重い大気は、大地の恵みを受けているという気持ちにはならない。
むしろ不快感を募らせるだけだ。
それを増長させるように、ざわざわと葉擦れの音が響く。
歓迎しているのか、拒んでいるのかと考えそうなものだが、ザバもアルディートもそう考える思考を持ち合わせていない。
まずは目に見えるもの、耳に聞こえてくるものを適切に捉え情報とする――それは砂漠で暮らす者にとって必要不可欠だった。
だから現象に伴う主観は出来うる限り排除するのがザバの信条であり、アルディートもそう育てられた。
そしてこれほど豊かな緑の中で鳥の声も聞こえないのは異常と言えた。
見たこともない恐ろしい獣が現れるという噂もあったが、それも噂でしかない。
この森に入り、正気で出て来た者がいないからだ。
「馬鹿げている」
ふと立ち止まりアルディートは振り返った。
「そうは思わないか? ザバ」
「何がでしょう」
「帰って来た者のいない森に入り、何某かの情報を持って帰るということがだ」
「酔狂・物好きという言葉は甘んじて受けますが、馬鹿げているとは思いません」
「オレは酔狂・物好きもゴメンだ」
「でしょうね」
微笑するザバにアルディートはため息で応えた。
また葉擦れの音が響く。
今度は先程よりも大きく長かった。
二人の長い髪はゆらとも揺れず、上空だけで風が舞っているのだと知れる。
「飛竜でも飛んでいそうな風だな」
「ああ……」
空を見上げるが、鬱蒼とした緑に遮られて空は見えない。
「ザバ。お前、この先にあるはずの神殿に行く価値があると思っているのか? いや、なければそう言うはずだな。何がある?」
アルディートの鋭い視線の前で、ザバは気を緩ませる笑みを浮かべ、
「何があるかは行ってみませんと分かりません」
「オレにも秘密と言うわけか」
「いえ、何がと明確に答えられないというだけです」
推測を口にすることを嫌うザバに普段ならばここで会話を切るが、今はそう出来なかった。
「分かる範囲で答えろ」
言われてザバは思案したまま口を開かないが、アルディートは急かさなかった。
二度、三度と葉擦れの音が近くで、遠くで鳴り響く。
「――アザラの初代王であるソリス王が子孫のために何一つ残さなかったとは考えられないのです。そもそも『封印』とあり『消滅』ではありません。王城になければこの森の神殿である確率は非常に高い。ここは古き神々が集う場所と言い伝えられてきましたが、それは同時に暗黒神を滅ぼした場所でもあります」
「そうだ。だから誰も近づかない。この森に足を踏み入れた人間が生きて戻らないのは、暗黒神の怒りに触れたからだと言われているからな」
「誰も近付かない場所。これは秘密を隠すために最適ではありませんか?」
「確かにそうだ」
辺りに誰もいないと知っていても、アルディートの声が潜まってしまう。
「先日、国王にのみ受け継がれる書を拝見させて頂きました。そこに記されていたのは暗黒神が再び迷い出ないように神殿を警備する守人をつけたという事。そしてその守人はある家系の者が神殿の近くに居を構え、その任を代々受け継いだいう事が書かれておりました」
「彼らは今でも住んでいるのか?」
「分かりません。ただ陛下は前王よりその話をお聞きになったことはないと仰せになりました」
顎に手を当てザバの話を頭の中で整理する。
「秘密を守る一族か。彼らが存在すれば生きて戻らない理由が分かるが、存在しなければ何故誰も戻らない?」
「さぁて。無事に帰る最初の人間になればその問いに答えが出るでしょう」
微笑するザバに、アルディートは呆れたような笑みを返した。
「宝探しと思えば少しは気が楽になる」
「そうですね。それにはたいがい困難がつきものですが」
お前が何とかしろよ、と言ってからアルディートは踵を返し、再び歩き始めた。
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【熱砂の海→見えない夜→崩壊の森】
闇の森へと足を踏み入れるアルディートとザバ。
その道のりで、ザバが得た情報をアルディートは聞き出す。
それは暗黒神を倒したアザラの初代王の頃のものだった。
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