No.334663

車輪と幻想

いずみさん

佐藤は昔から、電車がホームに入ってくる瞬間が好きだった。

2011-11-14 22:35:18 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:456   閲覧ユーザー数:449

「人身事故多いな」

 アイフォンの上に指を置いたまま、加賀谷は顔をしかめる。

 電光掲示板を眺めていた佐藤が、加賀谷の方に振り返った。

「今度はどこ?」

「K新幹線。T線に影響はないから助かったけど……。まったく、迷惑な自殺方法だよ。どれだけ損害が出るんだか」

「本当に」

 確かにそうだと佐藤は思う。しかし彼は、自分から電車に飛び込む人の気持ちが分からなくもないのだった。

 R駅のホームにアナウンスが流れる。もうすぐ電車が来るらしい。

 今は通勤時間帯のため、電車待ちの列ができているが、二人はその最前列にいた。

 加賀谷はアイフォンに目を落としていたが、佐藤はじっと自分の手前に広がるホームを見つめていた。

 それは佐藤にとって、鬱々とした毎日の唯一の楽しみだった。

 朝の日差しの中、銀の車体にオレンジのラインが入った電車がホームに向かって走ってくる。佐藤は目の前のホームを見つめ続ける。佐藤の視界の端に電車の顔が現れた時、その空間は特別なものになる。

 次の瞬間には、電車は風と共にホームへ滑り込み、そして停車した。

 佐藤は昔から、電車がホームに入ってくる瞬間が好きだった。特に電車が通る直前の空間には、惹かれるものがある。一瞬後には消えてしまうあの空間には、何か違う世界の入り口が見えるような気がするのだ。

 もちろん彼は、会社で苦しい状況にこそあれ、ホームに飛び込もうなんて考えは持っていなかった。

「佐藤、俺の話聞いてんの?」

「ごめん、聞いてなかった」

 何の変哲もない、日常。

 

 

 電車の適当な吊革につかまり、電車が動き出すと、加賀谷は再び話し始めた。

「俺がさっき話してたのは、ヨネ屋のことだ」

「ああ、昔よく行った駄菓子屋」

 加賀谷と佐藤は、小学校以来の友人だった。今は別々の会社で働いているものの、通勤する時間も乗る電車も同じなので、会うと何となく雑談しながら会社へ行く。

「ヨネ屋が潰れたらしい。ババがボケて、誰も後を継がなかったって」

「そうか。残念だな」

「昔は毎日行ったよな。お前によくおごった」

「そうだっけ?」

「忘れたなんて言わせねえぞ。あの時の百二十円、後できっちり返してもらうぜ」

 加賀谷は冗談めかして笑った。

 やがて目的の駅に着くと、短い挨拶を交わして加賀谷は降りていった。

 電車が動き出すと、佐藤は自然と溜め息が零れた。加賀谷と話している時は忘れていられるのだが、こうして一人になると、否が応でも会社のことについて考えなければならない。

 この就職難の時代、ようやく入れた会社だった。多少環境が悪くても仕方ないが、それでもストレスは溜まるものだ。

 今日こそはミスをしませんように、と佐藤は心の中で願ったが、結局その日も願いが叶うことはなかった。

 

 

 とある朝。R駅のホームは、いつもより数倍もの人で溢れていた。電車待ちの列が階段まで長く続いている、異様な光景だ。

 人々のざわめきの中からアナウンスが聞こえる。電光掲示板には、電車の出発時刻の代わりに遅延を知らせる文章が流れている。事故が起きたのは隣のS駅だった。

 人ごみの中、佐藤は通話を切り、携帯をしまった。加賀谷は隣でその様子を見ていた。

「佐藤、なんでお前が謝ってるんだよ。悪いのはお前じゃないだろ」

「会社に遅れるなら、一応謝るべきじゃないの。例えオレみたいなのが休んでも、会社には何かしらの支障が出るはずだし」

「真面目だねえ」

「普通じゃない?」

 運転再開の目処はまだ立っていないが、きっとすぐに再開されるだろう。ホームに溜まる人のほとんどは、大人しく新しい情報が入るのを待っていた。

 二人も例に漏れず、佐藤は会社の資料に目を通して、加賀谷はアイフォンと睨めっこをして、それぞれ時間を過ごしていた。

 しばらくして、佐藤は思い出したように顔を上げた。傍にあった自販機の前へ行き、しばらくして戻ってきた。

「はい」

 加賀谷の手に、缶コーヒーが渡される。

「思い出したんだ。そういや返してなかったなって、百二十円」

「いや……別にマジで返してもらおうなんて思ってなかったけど」

「運が良かったと思って受け取れよ」

「そう。じゃ、ありがたく」

 加賀谷は缶コーヒーを開けた。

「でも、あれって何でおごってもらったんだっけ」

「一緒に遊ぶとき、お前はよくお金を忘れたじゃねえか。だからいつも後払いでやりくりしてたけど、あの日以来、別々の中学校に通うことになって。言う機会を逃してたんだ」

 佐藤って、昔はどこか抜けてるヤツだったよな、と加賀谷は笑った。

「一見真面目そうに見えるんだけど、財布を忘れたり、約束をすっぽかしたり」

「……そうだったな」

 佐藤の顔が陰る。彼は昨日も、上司に似たような小言を言われたのだった。人の性格は、数十年経っても変わらないようだ。

「そういえば」

 加賀谷の声が低くなる。

「ヨネ屋のババは、本当におかしくなっちまったみたいだ」

「ババに会ったのか?」

「いいや。でも声は聞いた。今日の朝、たまたまヨネ屋の前を通ったら、奥の方から怒鳴り声が聞こえてきて。あれはきっとババの声だ。……ババには悪いが、俺、ちょっと怖くてな」

「分かるよ」

 佐藤は、今は亡き祖父のことを思い出した。彼の祖父も認知症になり、佐藤はその症状を大体知っていた。

「認知症って、今は治療で重症化するのを先延ばしにするらしいけど、それってどうなんだろう。ババはそれを望んでるのかな」

「どうだろう。今となっては、もう答えは分からないけど」

「俺がババだったら嫌だな。あんな姿を周りにさらしながら生きるなら、俺は死にたい」

「家族の立場だったら、そうとも言えないよ」

 佐藤は苦笑して、「でも」と付け加える。

「自分がそうなるとしたら、オレも死にたくなるだろうな。これ以上、周りに迷惑は掛けたくないから」

「選ぶなら、消極的な生よりも積極的な死ってことか」

 電車の人身事故もそうでないものも、自殺というのは、積極的な死を選んだ結果なのだろうか。

 

 

 十九時。辺りはすっかり暗くなったが、M駅のホームは、冷たい白い光で溢れていた。こんな時間になっても、ホームにはそこそこ人がいる。仕事帰りの人やカップル、やけに騒がしいのは女子高生のグループか。

 佐藤は一人、ホームのベンチに腰掛けていた。彼の傍らには、大量の缶や瓶で膨らんだコンビニの袋。佐藤はその中からビールを取り出した。次の電車まで十五分ある。いつもは家に帰ってから酒を飲むのだが、今日はいてもたってもいられなかった。

 別に、何か特別嫌なことがあったわけではない。ただ、上司の嫌みと、努力しても結果が出ない自分への苛立ちが、限界まで達していたのだ。

 ――「佐藤、毎日遅刻すれば? その方が仕事がはかどる」

 佐藤の脳裏に、人を食ったような上司の顔が過ぎる。佐藤は酒と共に、今日の記憶を飲み込んだ。溜め息の後にしゃっくりが出た。

 向かいのホームに電車が入ってくる。佐藤はその様子をじっと見ていた。電車の手前に、あの魅惑の空間が現れ、一瞬後には消えている。

「思えば、これも昔からだな」

 佐藤はぽつりと呟く。母親の話によると、佐藤は幼い頃も、ホームに入ってくる電車からは、決して目を離さなかったという。

 佐藤は昔、一度だけ、本当に線路に飛び込もうとしたことがあった。その時の記憶だけは、今でも鮮明に残っている。

 小学生の頃、家族で田舎へ旅行に行った、その帰りのことだ。佐藤はいつものように線路を見つめ、電車が来るのを待っていた。ホームの向こうに群生したススキが、秋の風に吹かれてきらめくように揺れる様子は、美しく、そして幻想的だった。

 ここなら、いつも見ているあの空間に、違う世界の入り口が開くかもしれない。幼い日の佐藤は、気付けば線路に飛び込もうとしていたのだった。

 

 

 さざめくような音がして、佐藤ははっと顔を上げた。辺りを見回すが、M駅の無機質なホームにススキは見当たらない。

 もう一度、さざめきが聞こえた。ホームの向こうだ。突然、佐藤は弾かれたように立ち上がった。空になったビール缶が、彼の足元に転がる。

 おいで。そうささやかれた気がしたのだ。

 アナウンスが聞こえる。通過列車が来るらしい。もうすぐこの場所に、あの空間が現れる。もしかしたら、今日こそは、違う世界の入り口が開くかもしれない。佐藤は吸い込まれるようにホームの端へ歩いていく。行き交う人の間を抜け、ついにその足が、ホームの白線を越えた。

 辺りを切り裂くような悲鳴が聞こえて、佐藤は我に返った。とっさに辺りを見渡す。線路に倒れこんでいる女子高生を見つけるのに、そう時間は掛からなかった。

 電車の音が近づいてくる。女子高生は線路から離れようとしているが、気が動転しているのか、思うように歩けていない。

 気付けば佐藤は線路に飛び込んでいた。電車の光が、女子高生の姿を浮き彫りにする。佐藤は無我夢中で女子高生の腹を抱え、ホームの下へ駆けこんだ。

 佐藤の視界が暗転した。

 轟音が脳を支配する。地面が沈むように揺れ、空気がおののいた。車輪が牙となって線路に噛みつく。線路の継ぎ目を踏んで、黒い車体が震える。叩きつけられた風に、暫しの間、佐藤は息を継ぐことを忘れた。

 今、佐藤の隣を走る闇は、まさしく死そのものだった。

 

 

 視界が晴れた。死の音が遠ざかっていく。

 ホームの上の騒ぎも、隣で女子高生がすすり泣く声も、今の佐藤にはまるで聞こえなかった。

 繰り返す鼓動の音と、荒い呼吸で、ようやく自分が生きていることを知る。佐藤は改めて、自分の目の前に広がる光景を見た。そこにあったのは、摩擦熱を帯びた鉄のレールと、死んだ枕木。

 

 

 佐藤が惹かれた幻想は、跡形もなく消えていた。

 

 


 
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