始業チャイムの30分前に池部九郎は教室にやって来た。まだ教室内には3、4人の生徒しかおらず、教室のすみで話す声でさえ聞こえてくるほど静かである。
自分の机にカバンを掛けると、カバンからここ数日かけて読んでいる小説を出して読書を始めた。特にこれが日課というわけではないが、遅刻したりギリギリで焦るのが嫌なので彼はこうして早めに教室について暇を潰すようにしているのだ。
小説を読み始めて数分経ったところで、「おはよう、クロ」と後ろから声をかけられた。振り向くと、後ろの席に友人の代々木正明が座っていた。
「おはよう」
「おう」
短く刈り込んだ頭髪に日焼けした肌がスポーツマンらしい外見をしている。いかにも運動神経抜群といった見た目だが、実際は特に運動部に入っているわけではない。むしろ芸術部に所属してイラストを描いているというギャップを持つ。
カバンを机にかけると、代々木は前に体を持ち出した。それにあわせて池部も体を後ろに向ける。
「昨日渡したゲームやった?」
「いや、まだ」
「なんだよやってねぇのかよ」
代々木は頭を抱えた。
「ずいぶん大げさだな」
「そりゃあおまえ……いや、なんでもねえや」
「?」
言葉の意図を理解しかね、池部は首をかしげる。そこに「おっはよー」と元気な声がとなりから響いてきた。見ると、紺色のブレザーの制服にボブカットの少女が立っている。池部のとなりの席に座る、新宿もとかである。
「おう、来たか新宿」
「おはよう」
「おはよークロ。今日もまた仏頂面してるねぇ」
「はは・・・・・・」
「そう言ってやるな。ところで新宿、ちょっと相談なんだが」
「ん、なんだい代々木っち」
「こいつ、昨日渡したゲームまだやってないんだとよ」
「やや、それはいけませんな」
「ん……そんなにまずかった?」
「いやいや、そんなことはありませんよ」
「ふぅん」
新宿は髪を振り乱して両手を前に突き出し、大げさに否定のポーズをとった。それに池部は多少の気がかりを覚えたものの、どうせ二人のことだ。些細なことだろうと考えて気にしないことにした。
池部はふと時計を見上げた。8時25分を針がさしている。朝の予鈴が鳴るまでまであと5分というところであった。
「今日は遥遅いな」
「お、気になりますかにゃ?」
新宿がからかうように言った。それに対してとくに気にすることもなく池部は答えた。
「いつもなら来てる時間だからね」
「たしかにそうだな」
池部が教室についた頃にはまばらだった人影も、いまではあふれるほどの生徒で埋まっていた。それぞれが思い思いの会話に華を咲かせている。
と、唐突に教室の扉が大きな音を出して開かれた。数人がその音に気が付いて振り向く。そこには、亜麻色をした髪を振り乱し、かすかに頬を上気させた渋谷の姿があった。
渋谷はそのままずかずかと教室を突き進み、池部の前にある自分の机までつくとカバンを力強くたたきつけるように置いた。教室の喧噪は、一切が取り除かれた。
(今日の委員長、なんか不機嫌だな)
(ああ。またクロのやつなんかやらかしたか)
渋谷のただならぬ気配にどこからかひそやかな声が届いた。
「おはよう遥」
池部が声をかけると、渋谷の背中がびく、と動いた。そのまま小刻みに震えだしたかと思うと、急に後ろを振り返った。その顔は真っ赤になりながらも、なにかを言おうとしているようでもある。
「どうかしたの、遥」
「なんだなんだ、ついに夫婦喧嘩か」
新宿と代々木も不安そうな表情であった。やがて、絞り出すかのように小さな声で「とぅ……」という言葉が出てきた。
「とぅ?」
「とぅ……とぅ……」
き、と鋭い目を細め、正面を見つめる。やがて右手を挙げて、渋谷は爽やかな笑顔を浮かべた。
「とぅっとぅるー!おっはよー、九郎!今日もはりきっていこう!」
「……」
「……」
「……」
静寂。風の音も鳥の音も聞こえないほどの静けさが教室を支配した。やがてどこかからかひそひそと声が漏れ出てくる。
(とぅっとぅるー?)
(しゅたげ?委員長もやってたんだ)
(しかしリアルでやるとは・・・・・・)
「……」
4人の間にはなおも沈黙が続いた。渋谷は頬をトマトのように真っ赤にさせ、なおも右手を挙げている。そして「ぷっ」と誰かが吹き出したの皮切りに、教室中に笑いが広がった。新宿も代々木も腹を抱えて笑い始める。
「あははははは」
「よくやった委員長」
「サイコー」
口々にはやしたてる声が届く。
「だーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
渋谷はたまらず池部の机に頭をぶつけるようにしてうずくまった。
(またやったまたやった自爆ったじゃないのもーなにがいい反応するよ新宿のやついい笑いものじゃないだいたい九郎も笑って……笑って?)
ちらり、と上を覗き見る。その目線にはいつも通り無表情をして、なにを考えているのかわからない池部の顔があった。
(ぜんぜん笑ってないじゃない!)
再び頭を下げる。
うじうじと額を机にこすり付けてると、後頭部に温かい、平たいものが置かれた。
池部の掌だった。
「まあ、その」
上から聞こえてくる声は、なにを言っていいか戸惑っているようでもある。
「なにがしたいかはわかったからさ。気持ちは受け取っておくよ」
頭に置かれた掌がやさしく動く。その手をはっしとつかむと、渋谷は勢いよく立ち上がった。
「じゃ、じゃあさ。なにがわかったの。九郎はなにを思ったの。それを、口にだして、顔にだして、言ってよ」
教室が急にしん、と静寂に包まれた。
さきほどまで笑っていた新宿も代々木も、渋谷の急な行動に驚き、ただ池部を見つめるだけであった。
池部は特に臆することも無く、平然と答えた。
「遥が僕を思ってるってこと。あと、遥はやっぱりかわいいな、と思った」
つかまれた手を握り返し、池部は渋谷と目線を合わせるように立ち上がった。
その表情は普段と変わってはいない。
「そういうところが好きなんだよ、僕は」
教室から歓声が上がった。
「いよー熱いねー」
「なによラブラブじゃないー」
湧き上がる渦の真ん中にいる渋谷は、目を見開き、今にも湯気が立ち上りそうなほど顔を赤らめた。
「がーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
全てを震わせるような大声をだし、つないだ手をがむしゃらに振りほどいて自分の机に向かうと、渋谷はぶつぶつと小声でつぶやきながら腕を枕にして顔を突っ伏した。
額を机にぐりぐりと押し付けていると、肩を叩かれた。そして耳元になにかが近づく気配を感じる。
目線を向けると、新宿のいやらしい、今にも笑い出しそうな表情が目に入った。
「また、自爆ったね」
「誰のせいでそうなった……」
低く、唸り声のようにそう言ったあと、渋谷はずっと顔をうずめ続けた。
そして、教室に広がったはやしたてる歓声は担任が入ってくるまで続いたのだった。
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難航しながらも(二)ができあがりました。しかし書いてる途中から感じる違和感と「コレジャナイ」感でなかなか筆が進まない……。プロットをもっと組み立ててから始めればよかったかな。ちょっと見切り発車がすぎた感じなのでしばらくこのシリーズは凍結します。