黒煙を昇らせながら、蓮華の屋敷は炎に包まれていた。油壺を投げ込まれたらしく、燃えさかる炎の勢いは衰える気配がない。
崩れ落ちてゆく屋敷の中には、まだ主である蓮華の姿があった。
「くっ! 次から次へと!」
剣を振い、襲い掛かってくる警備隊を次々に斬り伏せる蓮華は、顔に飛び散った返り血を手の甲で拭うと、舌打ちを漏らす。
「蓮華様、私が活路を開きます。そこからお逃げください」
「私に一人で逃げろと言うの! まだ戦えるわ!」
「ダメです! あなたは……生きなければならない!」
思春は強い眼差しで、じっと蓮華を見た。瞳の中に揺れる炎が、彼女の意志の強さを象徴するようだった。しかしだからといって、それに大人しく従う蓮華ではなかった。彼女にも孫家の姫としての矜持がある。
「わかったわ。退路を確保したら、思春は牢にいる黄忠を助けて来てちょうだい。その間、私は退路を死守して待っている」
「蓮華様!」
「これは譲れないの。助けられる者を見捨てたら、私はもう孫の名を名乗れない」
その時の蓮華の眼差しに、思春は雪蓮の面影を見た。いつも控えめで大人しく、自分に自信を持てない彼女を、思春は側にいて守っていかねばならないと思っていたのである。どちらかと言えば、小蓮の方が雪蓮に近いとすら感じていた。だが――。
(虎の子は、やはり虎か……)
自然と頭を垂れた思春は、退路を確保すべく再び戦いの中に身を投じて行った。
屋敷の裏口は細い路地に通じている。数名の兵士が見張っていたが、思春が音もなく忍びより全員の息の根を止めた。死体を隠し、戻って行く思春を蓮華は一人で見送る。
「はぁ……」
緊張をほぐすように、蓮華は小さく息を吐いた。この辺りはまだ、火の手が回っていない。だが今の勢いなら、それも時間の問題だ。ここを死守すると言っても、火が回っては手遅れだった。
「思春……」
祈る気持ちで、蓮華は思春の消えた方を凝視する。その間にもやって来る兵士がいたが、敵は討ち、味方は外に逃がした。一緒に残ると願い出た者も多かったが、蓮華は「命令よ」と言ってそれをすべて断った。
後ろ髪を引かれる思いで、夜の闇に姿を消して行く忠臣たちの姿に、蓮華の心は熱くなる。
(この想い、一つ一つが私の力になる)
拳を強く握り、高揚する気持ちに心地よさを感じていた蓮華は、辺りに煙が立ちこめてきたことに気付いた。
「そろそろ、ここも……」
おそらく離れにも飛び火し、それが迫っているのだ。
「蓮華様!」
薄闇の中から人影が色濃く浮き出て、やがて仄かな明かりが思春の横顔を照らした。すぐ後ろには、黄忠の姿もある。
「こっちよ! 早く――」
声を掛けた蓮華の目の前で、不意に思春の体が横に傾くように倒れる。直後、空を切り裂く音が羽虫のようにいくつも耳元で鳴った。追っ手による、火矢の攻撃だった。
たちまち思春たちの周囲は、炎が背の高さほどまで燃え上がったのだ。
「思春!」
すぐさま蓮華は思春に駆け寄った。助け出された時に思春から剣を預けられたのだろう、黄忠が背後からの矢を剣を振って打ち落としている。
「……平気です。毒は塗ってなさそうですので」
肩に刺さった矢を抜かずに折りながら、思春が駆け寄った蓮華に言う。蓮華は頷き、肩を貸して思春を立たせた。
「すまない、黄忠」
蓮華が礼を述べると、黄忠は黙って微笑んだ。
「いくぞ!」
先導して歩きだそうとした蓮華だったが、炎の勢いがあり行く手を阻まれてしまう。迂回しようとしたのも束の間、炎に包まれた離れが傾き、倒れた柱が道をふさいでしまったのだ。
熱と煙が、蓮華たち三人を囲んでいた。追っ手は崩れた離れによって下敷きになり、すでにいない。
「ごほっ……ごほっ……」
少しでも新鮮な空気を吸うため、三人は地面を這うような体勢になった。しかしそれでも煙を完全に避けることは出来ず、口元を手で覆いながらゆっくりと呼吸をする。
(裏口はすぐそこなのに……)
蓮華は地面に着いた手に触れる草を握りしめ、悔しさに炎を睨み付けた。
(走り抜ければ……)
一瞬、そんな考えが浮かぶものの、炎の壁がどれほどの厚さかわからない上、すでに方角も見失っていたのだ。間違って裏口とは違う方に走り出しても、炎から抜け出せなければ死んでしまう。
蓮華は思春、黄忠の顔を見る。二人とも、自分より炎に近い。それでも歯を食いしばって堪えているのだ。
(どうすればいいの?)
もはや、絶望しかない。炎に焼かれて死ぬのなら、苦しむ前に自害すべきなのか。剣を握る手に、力がこもる。覚悟を決めるしかない……蓮華はぎゅっと目を閉じた。
その時だった。
「……さん!」
誰かの声が聞こえた。蓮華が驚いて目を開けると、炎の中から白い物が飛び込んで来たのだ。それは、水で濡らした大きな布を被った北郷一刀だった。
「孫権さん! ああ、見つけた!」
「か……北郷! どうして?」
「話は後だ。ほら、これを被って。霞、やってくれ!」
蓮華たち三人に、自分が被って来た大きな濡れた布を被せ、一刀は炎の向こうに叫ぶ。すると、庭の木が突然、大きな音と共に炎の上に倒れて来たのだ。そのお陰で、炎の勢いが弱まる。
「今のうちに、行くよ!」
「あっ……」
一刀が無意識なのか、蓮華の手を掴んだ。炎の中、一刀に強く手を引かれて蓮華の鼓動は激しくなる。
(こんな時に私は――)
どこか喜んでいる自分を恥じながらも、蓮華はほんの少しだけ、握る手に力を込めた。
木陰に身を潜め待つこと数分、蔵の扉が開いて痩せこけた老人が姿を現した。鞄を持った老人は、夜の闇の中をひょこひょこと歩き去って行く。それを見送り、穏は蔵の中に入る。
「
「ここだ」
燭台を持ち、地下から出てきた是空が何かを穏に手渡す。それは、小さな注射器だった。
「バレませんでしたか?」
「運良く彼女が暴れて、落ちた注射器を拾う時にすり替えた。気付いた様子はない」
満足そうに頷いた穏は、注射器を布に包んで大事にしまう。
「だが、本当にそれは鎮静剤ではないのか?」
「それを調べてもらうんですよ。私の知り合いに薬学に詳しい方がいますので、見てもらいます。信頼出来る方で、口も堅いですから安心してください」
「すべてを陸遜殿に任せたのだ。俺は信じるしかない」
穏は視線を、地下に続く扉に向ける。
「私の勘ですが、鎮静剤にしては少し彼女の様子が気になるのです。杞憂ならいいのですが、万が一の事を考えての行動ですので」
気になってすぐ、あの医者の事も調べてみた。流れ者のようで、この街に知り合いはいないようだが、診察をしてもらったという患者を何人か見つけた。費用は安かったようだが、もらった薬は効かなかったようである。結局、別の医者に掛かって完治したそうだ。
(何が出るでしょうかねー)
しまった注射器に触れ、穏は小さく息を吐いた。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
楽しんでもらえれば、幸いです。