6.
カミングス1/512は、ほの暗い通路の上で立ち止まり、頭の右後ろ側に手をやると、片目用の暗視スコープを右目の前までスライドさせ、通路の先を囲んでいる闇をじっと見つめた。
一応は中層区の区画内とはいえ、中層区の中でも最下層のこの地区は、下層街と中層街の間にあり、下層街の天井裏に当たる場所となっている。
建物も人の姿もなく、ただ、電気や光を供給する太いパイプがむき出しの岩のトンネルの空中を這い、そのパイプの上を橋のように渡る通路だけが、迷路のように交差している。
ふだんからめったに人気のない通路のわきに、申し訳程度の灯りがぽつぽつと灯り、ともすれば、切れたまま忘れられている。
カミングスに与えられたマップの輸送ルートは、目の前にまっすぐ伸びてはいたけれど、その通路の下にも、暗い別の通路が立体に交差していて、待ち伏せし、姿を隠せる場所が、いくらでも見つけ出せた。
そんな行き先を見つめている間、銀色のアタッシェケースを床に立て、カミングスは、左腰の大剣に手を回し、ゆっくりと刃の半ばまで引き抜いてみた。
厚く、鈍く光る刃が引き出され、鞘に触れて、ぞろぞろと音を立てる。
右頬がひきつったように感じたカミングスは、自分がほほえんでいるのに気がついた。
カミングスは、武器、とくに、大剣を好んでいる。
誰にも見せたことはなかったが、部屋の壁には、さまざまな種類の剣を飾り付けていた。
それは、ただの飾りではない、と彼は思っていた。
事実、ときどき壁から下ろし、引き抜いて、刃が曇っていないかを確かめるのが、ひそかな楽しみとなっている。
芸術品のように装飾の施された鞘から、隠されていた刃が引き出される音が、とくに好きだった。
今日も、そのコレクションから、一番新しいお気に入りを帯刀してきたのだ。
この大剣は、まだ一度も使っていない。それゆえ、刃を引き抜く瞬間の喜びを考えると、柄にもなく、期待で手のひらの辺りがそわそわした。
短くなったタバコを吐き捨てると、カミングス1/512は、もう一度、アタッシェケースを左手に持ち、右手を所在無くぶらつかせながら、残りわずかとなった輸送ルートを消化してしまうことにした。
10メートル先で、通路は急にがくんと下へ折れ、金属の壁とぶつかったように見える地点に、バイオ公社へと下降するリフトの扉が見え、近づいてくる。
扉の上にぽつんとつけられた常夜灯に、身悶えるようにぶつかっている燐虫だけが、カミングスの到着を待っていたかに思われた。
(そのリフトを下降すれば、この面白くもない茶番は終わる。
本物のドラッグは、あのでくの坊のバニッシュが運ぶと隊長が言った。
私がおとり役2人のうちの1人だと?
私のことを、ただの飾りと思っているわけだ。)
左腰の辺りに、真新しい大剣の柄がぶつかり、がしゃん、と鳴った。
カミングス1/512は、右手を思い切り後ろに回すと、背中ごしに大剣の柄を握り、一気に引き抜いた。
カミングスの背中で、大剣がぞろぞろと大きな音をたてた。
「……ここが終点だ。」
リフトの入り口横の鉄骨に取り付けられた常夜灯の光が、にじむような金色の髪をした下っ端レンジャーを照らし出した。
その後ろに立つ男に、カミングスは見覚えがあった。
「スターンか、なんのさわぎだ。」
「カミングス、お前に内通の嫌疑がかかってる。」
「嫌疑? もう違う。」
驚いたことに、まだ少年と言える年令のこの下っ端レンジャーが、ファーストレンジャーのスターンを制して、話を引き継いだ。
「どういうことだ?」
引き抜いた大剣を握りなおして、カミングスは、聞き返す。
気づかれないように、間合いをつめるのを忘れずに。
「…つまり、麻薬組織の内通者はカミングス、あんただって事。
本物のドラッグ輸送だと信じ込んで、組織に情報を流して、バニッシュ1/512を襲わせた。
あんた馬鹿だろ? それとも、
自分がおとり役なもんだから、頭にきた?」
金髪の少年は、右手の指で、とんとんと頭を叩いて見せた。
カミングスの中で、なにかが、ぞろりと音を立てる。
「サードふぜいが、なにを言ってる?」
「あんたは、ひっかかったんだ。
3人のうち、だれも本物のドラッグなんて運んじゃいなかった。
ただ、別々の情報を運んでただけだ。
アンガスは、『本物の輸送はカミングスだ』と聞いていた。
バ二ッシュは、『薬はアンガスが運ぶ』と思ってた。
で、あんたは、直前に『バニッシュが本物の薬を輸送する』と隊長に聞かされて、
自分だけがそう聞いたとは思わずに、
情報をそのまま組織に流した。
今夜、襲われたのは、バニッシュだけだ。
結果は明白だ、…だろ?」
馬鹿な、と言おうとして、カミングスは口を開いた。
舌が口の中にはりついて、うまく出てこない。
「…スターン、お前が内偵か……。」
そう言われて、申し訳なさそうに、カミングスの後輩にあたるファーストレンジャーは、頭をかいた。
「もういいだろ。あんたは、金をもらって情報を流した。」
「誰でもやってることだ……。」
声を低めたカミングスに、ボッシュが、にやりと笑いかけた。
「もちろん、あんたは見せしめだ。
それだって、どうだっていいんだよ!」
カミングスの右手が、大きく、すばやく白い弧を描いて、ボッシュの元へと届いた。
金属の擦れ合う耳障りな音が長く伸びて、ボッシュの手元でくるりと回り、全力の切っ先をそらされたカミングスは、重心を失って、思わず前に踏み出した。
つづいてそのすきを突いてきたボッシュのレイピアの先を、わずかの間合いでかわすと、カミングスは、形勢が悪いと見て、大剣を大きく振り回す。
ボッシュが踏み込む一歩前に、カミングスは、手にしていたアタッシェケースを、2人に投げつけ、ぐるりと向きを変えて、通路の2メートル下を交差した巨大なパイプの上に飛び降りようとした。
予想しなかったことに、そこに、もう1人、青い上着を着た下っ端レンジャーがひそんでいた。
だが、少年の手にした粗悪な官給の剣を見たカミングスは口をゆがませて笑い、そのまま、立ちすくむ少年の前へと飛んだ。
手にしたぴかぴかの大剣を、落ちる勢いのまま、振りかざして。
「――リュウ…!!」
落ちてくるファーストレンジャーを振り仰いだ少年は、通常人とはおもえぬ速さでカミングスの下へと滑り込み、ふりかえりざま、身をおとして、大きく横ざまに斬った。
砥がれていない鈍い刃が、ももの裏の肉を引き裂くのを、カミングスは、熱い、と感じた。
前のめりに倒れこみ、足の力を失って、くずおれる。
丸みを帯びたパイプの上から、そのままずり落ちようとしたカミングスの前に、さっきの青い上着の少年が、おもわぬ速度で、また飛び込んできた。
とっさに握っていた大剣を振り上げ、少年を追い払ったカミングスは、そのせいで、大きくバランスを失った。
踏みとどまろうとして力が入らず、パイプの上に染み付いた油のしみに、手を滑らせる。
カミングスはパイプを回るように、ぐらり、と姿勢を崩し、その下に広がる闇へと落ちた。
深い、深い、奈落の底へと。
明かりのない闇の底で、一度だけ、彼の剣がぴかり、と光を送ってきた。
ボッシュは、通路の手すりから、下に広がる深い闇を覗き込み、パイプの上に身軽に降りると、リュウのところへ歩み寄った。
青の上着とベージュのセーターを赤黒く染めたリュウは、苦しそうに舌を出して息をつきながら、両手を後ろにつき、通路の真下のパイプの上に身を投げ出している。
「オイオイ、だいじょうぶかよ、リュウ?」
身をかがめるボッシュに向かって、目を閉じたまま、手が振られた。
「動いたらひどい目まいがしただけだ……。これは、彼の血だよ。」
「馬鹿かよ8192? ファースト相手にやれると思ったのか?」
「勝手に体が動いたんだ。なんだろ、まるで、自分の体じゃないみたいだ……。」
「完全に一服もられたな? リュウ。」
にやにやするボッシュの揶揄をかわす余裕もなく、リュウは、押し寄せる頭痛と、目の前をちかちかと舞う蛍光色の幾何学模様のラッシュに、ついに音を上げた。
7.
赤く錆びたスクラップの山は、ブーツの重みで少し沈み、靴底のまわりから油の匂いと粘り気のある褐色の液体を吐き出した。
沈み込む前に次の一歩を踏み出して、ボッシュは次第に高くなるジャンクの山の頂上へと登っていった。
壊れた機械が積まれた角度が、とがるほど急になっていくせいで、残した足跡から、踏まれた屑鉄がからからと、ゴミの溜まった底のほうまで転がり落ちてゆく。
グローブをはめた手をかけて金属のフレームだけが残る巨大な工場用クレーンの残骸の上に体を引き上げ、乗り越えると、赤い鉄くずの山の頂上に、古びた冷蔵庫が刺さっているのが見えた。
斜めにかしいだまま、下側三分の一を赤黒い土に埋めている冷蔵庫の横に、ボッシュはたどり着き、そこでようやく足を止め、上ってきた距離を振り返った。
見下ろした角度は、ほぼ45度もあるように見え、高く、急だ。
ボッシュは、ふと壊れた冷蔵庫の陰に、どこか見たことのあるものを見つけ出した。
掘り出してみると、それは、赤いびろうど張りの背の高い椅子だった。
肘掛全体が、猫の手のようにゆるいカーブを描いていて、その上に腕を乗せると、ちょうど手のひらの下に、美しい螺旋の彫られた丸い部分がしっくりと収まるように作られている
ボッシュには、見覚えがあった。
部屋の高い天井から白いやわらかな光が漏れ、その真下にいる人物を照らし出している。
長い食卓の真正面に座っているその人物は、剣聖と呼ばれ、多くの弟子たちにかしずかれていた。
その人物のまわりには、いつも多くの者たちがいた。
幼いボッシュのまわりにも、食事の世話をする者たちがいたのだが、
長い食卓で向かい合っても、ただ1人とだけは、けっして目が合うことはなかった。
話しかけることもできなかったし、声を張り上げても、届かない距離だ。
命令は弟子伝いにボッシュの元へと届き、そのすべてが、絶対だった。
忙しい人物だったため、やがて、ともに食事をすることもめったになくなった。
幼いボッシュはいつしか食事のときには、食卓の真正面に置かれた赤いびろうど張りの空の椅子を、きまって見るようになる。
白い光に照らされた背の高い椅子は、その持ち主がいないままで、いつもボッシュを見据えていた。
ジャンクの中に、その椅子を見つけたボッシュは、傾いたそれを引き抜き、ガラクタの山の頂上に据えた。
赤錆びた鎖が、カーブを描いた椅子の足に絡まり、古びた冷蔵庫へとしばりつけられているのにもかまわずに、ボッシュは、その椅子に、ゆっくりと腰掛けた。
自然に右足のブーツを上げ、左足のももの上へと乗せる格好になり、ボッシュは、高い背もたれに斜めにもたれかかる。
ここから見ると、通り過ぎてきた屑鉄の巨大な山がいくつも眼下にあり、そのまだ下に、下層街の明かりが見える。
夜の下層街は、上からの天井のライトが消される代わりに、小さな酒場や露店の明かりが下から建物を照らし出している。
閉じこめられた空気がよどんでいるせいで、その明かりはまっすぐに天井には伸びずに、赤っぽいもやのような光となって街全体をくるむように覆っている。
ちらちらと時折小さな光が燐虫のように、移動した。
この高さからは、そんな下層街のようすが、はっきりと見てとれる。
ボッシュは、びろうどの椅子に丸まって、眼を細めて、街を見た。
なにかが腐ったようなすえた匂いも、いつしか気にならなくなっている。
眼下遠くに光るうす赤い下層街の光が、ボッシュの表情を、下から照らし出していた。
――ボッシュは突然、目を見開いて、飛び起きた。
任務のあと宿舎の部屋に戻り、どうやらそのままソファにもたれこんで、眠り込んでしまったらしい。
あれから、2時間経っていた。
闇の中で時計の赤い数字が、まだ同じ夜の夜更けであることを告げている。
せまいレンジャールームの足もとの床には、まだジャケットも脱がないままのリュウが転がり、倒れこんでいる。
どこかで身体能力を高める怪しい薬を飲まされたらしいリュウは、体力を限界まで使い、疲労に意識を失いそうになりながら、ようやくこの部屋まで戻ってきた。
もちろん、ボッシュは、リュウに手を貸したりは、しなかった。
床に倒れたまま、泥のように意識を失っているリュウの顔には、まだ数時間前の戦闘の血がこびりついている。
ボッシュは、ソファから立ち上がり、レンジャースーツを脱いで、やわらかい黒の革のパンツを履き、コートを羽織った。
床に備え付けられたテーブルに、プライベート用の黒のブーツを乗せたときも、その横の床で倒れたまま、リュウは、身動きひとつしない。
ボッシュは、ブーツを履く前の素足で、リュウの体を転がすように、蹴ってみた。
それでも、リュウは目ざめない。
「起きてるよ、…か? リュウ。 それでお前は、なにか、わかってるつもりなのかよ?」
ボッシュは、ブーツのファスナーを引き上げ、もう一度時計に目を走らせた。
そして、新しい手袋をはめなおし、ふたたび、まだ夜の明けない外の街へと、ひとり出て行った。
午前5時、下層街は、本当の眠りの中に落ちようとしていた。
にぎやかな客引きの声は、店じまいに居残る客を追い出す声に低く変わり、吐しゃ物の匂いのする壁にもたれたまま、昏睡する客のほか、路地を歩くものもない。
酒を扱う店もネオンを落とし、朝までのわずかな時間、泥のような沈黙に、街はつつまれている。
流れのよどんだ部分にたまった澱のような空気を切り開くように、ボッシュはブーツを躊躇することなく鳴らして、ふだんパトロールで歩く路地をさらに右に折れ、高い壁にはさまれ、行き止まりになった細く暗い裏路地へと、入り込んだ。
人が2人ようやく通れるほどの壁の左右には、店の裏口が並んでいるだけで人の通る姿はなく、すでにゆうべの客の残飯を詰め込んだゴミ袋が、通用口の前にいくつも積まれている。
その影になって、さらに暗く3段下りたところにあるひとつの通用口の前へとボッシュは降りた。
予想に反してロックはされておらず、扉はすいと開いた。
コートのポケットに手を突っ込んだまま、ドアを蹴ろうとした右足を、ボッシュはもう閉店した薄暗い店内の中に踏み出した。
「…すみません、お客さん、もう今夜は上がりなんですよ。」
店内の中央にあるバーカウンターにただ一つの明かりを落として、客の使ったグラスを磨いて並べていたらしいバーテンダーが、ボッシュに向かって、明るく声をかけた。
ただ、その両手には、カートリッジ式の銃が握られ、銃口がカウンターの上に乗せられている。
ボッシュは、一顧だにせずに、つかつかとカウンターに歩み寄ると、回転式のスツールを軽く回し、どっかと腰を下ろした。
そのまま右足を膝の上に乗せて、ブーツでカウンターの端を、軽く蹴って、スツールを傾ける。
ゆらゆら不安定に遠ざかるたびに、カウンターを上から照らすライトの輪の中に、けぶるようにまばゆい金色が出たり入ったりした。
「今夜、リュウになにか飲ませたのはお前だろ、ダニー1/4096? ずいぶん効いてたぜ――何を盛ったんだ?」
「とても教えられません。」
「反射神経を高める神経興奮系のドラッグか、違法ものの筋力増強剤か……リュウのやつ、いま死んだように寝てるぜ。」
「いまごろ死んでいるよりはましだ。」
はにかむように笑ってみせながら、でかい図体をしたバーテンダーのダニーは、手にしていた銃をカウンターの上に、気軽に置いた。
カウンターの上に置かれても、ボッシュのほうに向けられた銃口が、上からのライトに鈍い光を放っている。
ボッシュは、遠ざかる動きを止め、カウンターに両肘をついて、その上に顎を乗せた。
「……ダニー1/4098、酒場のオーナーから引き継いだ職業は、バーテンダーだけじゃないよな?
いまじゃ下層街の情報屋の中でも腕で知られてる。」
「そんな噂が?」
「今夜の俺たちの作戦を、なぜ組織にリークしなかった?」
「ご丁寧に、あんたがこの店に来て、わざと作戦を吹聴していったでしょう。
これでもトラップには鼻がきくんでね。
どのルートにも組織の襲撃がなかったら、あんた、俺を挙げるつもりだった?」
「手ぶらで作戦を終わらせるわけにはいかないんでね、保険てやつ。
――ふん、なんだ、つまらないな。」
ボッシュは、大きく伸びをして、スツールを蹴り、立ち上がった。
「そりゃ、なんだって、あんたにはつまらないんでしょう。」
「ずいぶん噛み付くな。」
ボッシュは面白そうに、首を回した。
「――先週末、下層街で情報屋なかまが1人、姿を消したんです。死体すら出ない。
そして今夜、ファーストレンジャーのカミングスが死んだ。
情報屋とつるんでて、うまみのあるルートを握ってたやつだ。
だから、狙われた、と思ってる。そう遠くないでしょう?」
「は?」
「誰かが後を引き継ぐんだ。
――だからといって、あんた、子どもみたいに欲しがって、なんでも手に入れられると、思ってるのかい?」
がらりと声音を変えたダニーが、ボッシュをまともに見据えた瞬間、ダニーの背後に並べられていたガラスの酒瓶が、端から順にはじけるように砕け散った。
ダニーは、鍛えあげた大きな体を折り曲げて、思わずカウンターの中に身を伏せた。
斬る素振り、一閃の動きさえも、見えなかった。
カウンター内部の床に転がったカスタムガンの上に、強い香りの酒が降り注いでいる。
ボッシュが、カウンターに寄りかかり、のぞきこんで口を開いた。
「お前は、なぜ情報屋になったんだっけ?」
「――断れば、ほかのやつに手が回った。まだ、若かったんだ。」
「誰かをかばって、受けたのか? 馬鹿正直なんだな、」
ボッシュは、楽しそうに笑い、腰のパウチから、白い小さなディスクケースを取り出した。
「――じゃ、これからは俺の仕事を手伝えよ。いいよな?」
立ち上がったダニーは、追い詰められたネズミのような表情を一瞬浮かべ、黙り込んだ。
ボッシュは、気にも留めずに、取り出したディスクを、カウンターにすべらせた。ダニーが黙って、その動きを止める。
「――パトロール中に手に入った面白いデータなんだ。
それを使えば、下層街を貫く送風パイプの一部をいつでも止められる。
パイプの中を通って、どこかへ移動しようとする連中には、役に立つ。――やるよ。」
「信じろと?」
「さぁ、それには興味ないんだ。いまのところ。お前が協力する限り。」
がっしりと筋肉のついたダニーの腕に、怒りがみなぎるようだった。
「じゃ、必要なときにまた連絡する。」
言うだけ言って、ボッシュは、手を伸ばして空のスツールをくるりと回すと、きびすを返して、出て行こうとした。
ダニーは、低めた声で、静かに、その背中に呼びかけた。
「――下層に、こんな子ども向けの話があるんだが、知ってるかい?」
「なんだ?」
「昔々、王様が、『馬鹿者には見えない服を作る』と、仕立て屋にだまされる。
仕立て屋は詐欺師で、できあがった服は誰にも見えないが、王様も家来も見えるふりだ。
新しい服を着たふりで、王様は街を練り歩く。ところが、1人の子どもが大声で叫ぶ。
『王様は、裸だよ』……って。」
「それが?」
「もしも、あんたがその王様なら、その子をどうする?」
「殺すよ。」
はっとしたダニー1/4098は、路地につながる通用口が、閉まるのを見ただけだった。
8.
永遠の中に立ち止まってしまったような夜の時間が過ぎ去り、ほんの少しずつ、朝がにじみはじめていた。
相変わらず、ブーツの底の泥を、階段のとがった部分にこすりつけながら、ぶらぶらとボッシュは、宿舎の階段を戻ってきた。
階段を上った先の長い廊下に出ると、わずかに残った常夜灯は切れて、気持ち程度に外壁にうがたれた窓のブラインドから、足もとがわかる程度の白々とした外の光が漏れ出している。
窓に取り付けられたブラインドは、中央部分が一度、くの字に折られたために、外からの光は、廊下の床にあちこち折れ曲がった薄いストライプを描いている。
その淡いストライプが、ボッシュの歩く廊下の先へジグザグと伸びている。
その先の廊下の壁際の影の中に、壁を背にして足を投げ出した人影があり、投げ出したその体と足のところにまで、ぎりぎり淡いジグザグ模様が届いていた。
外光が白み始めたとはいえ、窓の少ない宿舎の廊下は暗く、相手の顔すらもまだ見えない。
ボッシュは急がずに、廊下の壁にもたれた人影へと近づくと、無視して、通り過ぎようとした。
だらしなく床に横たわったその体をまたいだとき、ふと気が変わり、ボッシュは両手を腰にあてた姿勢で立ち止まり、相手の顔を見下ろした。
確かに、まつげがわずかに動き、重そうな目蓋がわずかに開いていた。
「…戻ったのか……、」
「廊下で寝るなんて、好い趣味だな。」
「……出てったとき、追いかけようと、したんだけど…、」
リュウは、閉じようとする目蓋に抗うように何度かまばたきをし、床についた手に力を込めて、わずかに体をずり上げた。
「ここで歩けなくなって、待ってた。
帰ってくるだろう、と思ってさ。」
寄宿舎の古い壁に頭を押し付けたままずり上がったために、ひとつにまとめた髪もぐちゃぐちゃに乱れてしまっている。
乾いた血のこびりついた頬に、長い睫毛が影を落としている。
ボッシュは、リュウの言葉を繰り返した。
「待ってた…?」
「起きてたよ。」
背中の壁へとしばりつけ、深い眠りへといざなう疲労と闘いながら、リュウは、顔を上げて、ふっと笑いかけた。
ボッシュの目の中で、あの風景が、動いた。
ジャンクの山の上に、赤錆びた鎖でしばりつけられた赤いびろうどの背の高い椅子に、ボッシュは腰掛けている。
足もとの地面からしみ出るくさくて汚い油にブーツを汚したくなくて、足を高く組んでいる。
眼下には、赤黒い闇の底に転がったような下層街が、ぴかぴかと安っぽい光を放っている。
なにも価値のない、がらくたでできた山を登ってくる風さえもなく、風景は、死んだような沈黙に、ずっと埋まりつづけていた。
その、風景が、動く。
ジャンクの中に、なにかが埋まっている。
ボッシュは、最初は物憂げに、次は少し驚きながら、高い椅子から背を離して、そのものを見、やがてそれに近づいた。
小汚い壁に背を当てて、目を閉じたサードレンジャーのリュウが、横たわっている。
ほうっておけよ、それだって、がらくたのひとつに過ぎないだろ、とどこかでボッシュを揶揄するような声がした。
けれども、ボッシュはその声を無視し、前に立ってそれを見つめ、やがて、しゃがんで正面からその顔を覗き込んだ。
(何を見てるんだ?)
心の中のリュウは答えず、ボッシュのことさえ見えず、ボッシュを透かして、その向こう側をまっすぐに見ているようだった。
(下層街か?)
(それとも、もっと上か…?)
ここには、何もない。
すべてが壊され、捨て去られ、荒涼とした世界の中で、ただひとつ、それだけが、動くものだった。
(こっちを見ろよ、リュウ。)
(ほかには、何もない。)
ボッシュは、思わず、手を伸ばした。
「――ボッシュ?」
現実の廊下に戻り、ボッシュは、問いかけに答えて、リュウを見た。
廊下に横たわり、壁を背にして、ようやく目を開いたリュウと、その前にかがみこんだボッシュの視線がぶつかった。
ずっと気がつかなかった。
かすかに、風の音がどこかから響いてきていた。
「――部屋に戻るぜ。」
「あ、あぁ? わかった。……いいから、ほうって置けよ……」
ボッシュは有無を言わさず、リュウの両脇に手を回して起こし、足を引きずるリュウに肩を貸すと、、宿舎の廊下の数メートル先にある、彼らの部屋へと向かう。
しゅん、と、風を断ちきるような音がして、下っ端レンジャーふたりを飲み込んだレンジャールームの扉が閉まる。
宿舎の廊下は、ふたたびまだ夜の明けきらないしじまへと戻った。
END.
(サイト/http://tenfours.web.fc2.com/)
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ゲーム「BOF5 ドラゴンクォーター」二次創作小説です。ドラッグ密売組織の内通者探しに、リュウとボッシュが巻き込まれる話。後編です。※ボッシュがちょっぴりダークで、少し女性向表現(リュボ)を含みますので、苦手な方はご注意を。