――自分の代わりに授業参観に出てくれ。
親父さんがそう言い出したのは、窓際に咲いた葉が朱に色めき出した10月の半ばのことである。
曰く、娘の魔理沙が通う寺子屋では来週に保護者の授業参観、並びに親と教師の面談が行われるが、それに親父さんは参加できないとのことらしい。
「わりぃ! その日は得意先で飲みがあって外すわけには行かねえんだ!」
いい年をした人の親のその言葉に思わず我が耳を疑ってしまった。
なんという親か。
「あんた、いつか娘に見捨てられるぞ」
「仕方ねえだろ。人間の仕事は大変なんだぞ」
プンスカ、と口で擬音を表現する眼の前の人間が、中年のそれとは到底思えなかった。
「それで、どうなんだよ。やってくれんのか」
やれやれ、と肩をすくめて呆れを隠さない僕に尚尋ねる。
、
「……まぁ、別に構わないよ」
僕も鬼ではない。なにより、商人としての手解きをしてもらった相手だ。
断るつもりなんて毛頭ない。
それに、言葉を濁した風を装ったが、実のところ二つ返事で承諾したいほどその案件には興味があった。
家では活発らしい魔理沙が親とは関係のない場所でどのようにして過ごしているのか。いや、魔理沙だけでなく、それくらいの年代の子がどのような方法をもってして周囲と友好関係を築いているのか。教師が己の知識をどれほどわかりやすく教示しているのかなど、興味の種は尽きない。かといって大の男が幼子の集まる学び舎に用もないのに足を運ぶわけにもいかない。
つまり親父さんのこの誘いは渡りに船に近いそれだったのだ。
「ありがとうよ」
親父さんは僕の心中を悟ることもなく、にこやかに礼を述べた。
「いえ」
礼を言われて悪い気がするという奴は余程のひねくれ者だ。僕は全うな人格であるからして素直に返答した。
僕が無心に対して返答してしばらく後、要件を済ませた親父さんはそそくさと帰り支度をし、早々と帰路についてしまった。話しているときは騒々しいと思うだけだが、いなくなると何故だか寂しく感じてしまう。
――世話話の一つでもしていけばいいのに。
用意しかけた茶菓子をかたしながらそう思った。
――実際会うのは数年ぶりだが、全然変わってなかったな。
なんだかんだといって、最初から僕が引き受けることがわかっていたのだろう。
思慮は浅いくせに、要領が良く他者の人となりを完全に把握する。
僕の師匠はそういう人だ。
僕が断れない頼み方を知っているから、昔は一々面倒事を押し付けられたものだ。
そういえば今日のも面倒事だったな。
全く、あの人にも本当に呆れるばかりだ。
……さて、授業参観では子供に恥をかかせてはいけないと聞いた。そうと決まれば準備だ。まさかこの服で馳せ参じるわけにもいくまい。
僕が年甲斐もなく浮き足立ったとき、やたら強い風が吹き抜け、香霖堂がギシギシ揺れた。
◇
そして当日となる。
子供たちの保護者だろう人々が集まり世話話を繰り広げる中、生憎とその手の社交性をもたない僕は所在なく佇んでいた。
しかしここで思うのは、自慢話というのは毒にも薬にもならないということだ。己の自尊心や優越感を満たすためだけのなんの意味もないもの。それも情報としての事実ではなく過度に脚色された、もはや物語じみた自慢話なんてものは聴いている側は不快にしか思わないものなのだ。それを理解すること無くわが子の誉れ高い所業についてひたすら唾を散らしながら語っている保護者たちの姿は、生まれてこのかた自慢話をしたことがない僕には滑稽に思えてならなかった。恐らく僕は今後いつまでも自慢話などしない清廉な人物で居続けるだろうな。僕にはわかる。
「保護者の皆様はこちらにおいでください」
そうこう考えているうちに、寺子屋の教師であろう若い男性が、子供たちの教室への案内を始めた。
我先にと保護者たちが案内に群がる。
まるで大量の小鴨が親鴨にひっついていくような風景を思い描き、僕は僅かに苦笑した。
――そんなに急がなくとも子供は逃げやしないよ。
そう静かにひとりごちた僕ではあったが、しかし足取りがいつもより軽やかになっている自分に気づき、またも苦笑してしまった。
霧雨魔理沙というのは、端的に言えば師匠の娘である。
魔理沙、魔理沙と気軽に呼ぶわりには仲がいいのかと問われると決してそんなことはなく、というより恐らく向こうは僕のことなど知りもしないだろう。
僕の師匠である霧雨の親父さんが経営する霧雨商店に足を運ぶと、ときたますれ違うが挨拶はとくにしない程度の間柄である。
しかし、先方は僕のことを知らずとも僕の方は十二分に知っている。主に、聴きたくなくとも娘がどれだけ器量良しかを語る口を閉じようとしない親父さんのお陰である。
当人を介さず、当人に関する知識を得るのは僕としても魔理沙としても妙な気分だろう。恐らく。
そんなわけで、僕にとっては知らない間柄ではないので喜んでこの役目を担わせてもらったというわけだ。
寺子屋というのはそう広いものではなく、歩いているとすぐに教室にたどり着いた。
教師らしき男性が引き戸を開けると、そこには多くの子供たちがいた。
数は20ほどだろうか、その殆どが己の親を見つけて、我が子を見つけた親と手を振り合っている。
中には親元まで駆けつけ元気いっぱいに会話している子供もいた。
あっという間に騒々しくなった教室で、僕は魔理沙を見つけた。
隅の隅、恐らく室内で最も目立たない場所に魔理沙は座っていた。
一応、良いところのお嬢様である魔理沙は、礼儀作法にも聡い。今も正座をしていたのだろう。が、恐らく突然の闖入者たちに驚いたのか割座に崩していた。
他のはしゃぐ子供達に比べ、魔理沙はえらく冷静だった。
激しい動きをすることもなく、ゆっくりとこちらを振り向く。
教室内の保護者を端から端まで一瞥し、自分の父親がいないことを確認するとそのまま前を向いてしまった。
――まぁ僕に気づくわけないか。
覚悟はしていたものの、少し傷つかないでもない。
だが、今まで話したこともないのに気づけというのが酷かもしれないな。
それに、仮に商店での姿は覚えていたとしても、今の僕の格好は魔理沙の前で初めてだったのでやはりわかるわけは無かった。
考えていても仕方ないので、大人しく授業の開始を待つことにしよう。
「それではみなさん、今日は算数をしましょう」
それからしばらく後、騒然とした教室が静かになってから授業ははじまった。
やはりというかなんというか、内容は児童向けの易しいものだった。
――成程、計算は物に例えるとわかりやすいのか。
例えばただ数字の1、2ではなく、りんご一つ、二つなどの方が想像しやすく拙い頭脳にもスルリと入っていくというわけだ。幼子では数学の概念は理解出来ないだろうから、とりわけ実用的な部分のみを覚えさせるのか。確かにこの方法だと覚えるのにそう難くない割りに応用も効く。
教師がつらつらと授業を進めていく。
僕はそれを、思わず一言一句に頷く勢いで聴き入ってしまった。これではどちらが生徒かわからない有様である。
明らかに周りから奇異の目を目を向けられてはいるものの、しかしこれは僕の本来の目的の一つであるからして、何の問題もない、と自分に言い聞かせた。
どれくらい時間がたっただろう。
おもむろに教師が生徒たちに質問を始めた。
「この問題が分かる人はいるかなー?」
途端、我先にと手を挙げる児童。
親の前でいい格好をしたいのだろう。なんとも可愛らしいことだ。
ここでふと、そういえば魔理沙はどうしているのだろうと思い、先ほどの場所を覗き込んだ。
そこに存在した魔理沙は明らかに周囲の雰囲気とは一線を画していた。
教師の問いに手を挙げる素振りもなく、それどころか開くべき教本も開いていない。
ただ下に俯いてじっとしているだけだった。
――寝ているのか?
そう思いもっと深く伺ってみたが、その瞼はたしかに開いていた。
しかし、その目はどこも見てはいなかった。もはや虚ろと形容していいほどに虚空を眺め、視線を動かそうとしない。
ただの不真面目とは到底思えなかった。
まるで魔理沙がいる空間だけ他とは別の場所にあるかのような錯覚を覚えるほどに、その存在は周囲と乖離していた。
それによく見ると周りの生徒や教師でさえも魔理沙を視界に入れていない。ここまで露骨だと、恐らくこれが日常的な風景と化しているのだろう。
一方的な迫害、かどうかは今はじめてこの場に来た僕には判断できないが、この状態がとても好ましくないことは理解できた。
かといって僕に何ができるかという話しである。
――余計な詮索は後回しにして、いまはただこの授業を堪能しようではないか。
僕はこの件について深く考えるのをやめた。
物事には順序というものがある。
別に魔理沙の件が僕の知的好奇心に劣るとかそういった話ではなく、それについて考える場は――今ではない。
自然と拳に入る力を無理やり緩め、僕は再び好奇心の海へと旅立った。
◇
授業は魔理沙の件を除けば恙無く終了した。
授業参観日なので授業は半日もせずに終わるのだ。
普段よりも圧倒的にはやく帰宅できるからか、やいのやいのと騒ぐ子供たちとは裏腹に僕はといえばあまりに早い終わりに少し落胆していた。
――別に参観日だからといって半日授業することもないだろうに……。
だが、これで大体の要領は掴めた。
これなら恐らく僕でも教師になれるのではないか。
あの教師は教え自体はわかりやすく丁寧だったが、僕ならばもっと面白おかしく授業を行うことが出来るだろう。面白い授業のコツは、ずばり適度な息抜きだ。頭に勉強を詰めるだけの作業ではいくらなんでも退屈だ。そこで生徒たちが勉強につかれた時に、僕のもつあらゆる薀蓄を体験談を込めて話すのだ。そうすると疲れた頭が活性化されてより効率よく学習することができるだろう。もしかしたら教師というのは僕の天職かもしれない。
香霖堂を畳むことは今は考えられないが、いずれどうなるかは誰にもわからない。候補にでもしておくとしようか。
生徒がどんどん教室外へ消えてゆく中、ちら、と魔理沙の方を見るとすでにその姿はなかった。
魔理沙を探そうと外に出たが、まだしなければならないことがあったのを思い出し、思いとどまる。
室内に戻ると、教師が僕に向けて手招きをしていた。
「すみません、お名前を伺っても?」
どうやら保護者の中で僕だけ素性がわからないのでどう扱っていいかわかりかねていたらしい。
「霧雨霖之助です。霧雨魔理沙の兄をやっております」
ただの知り合いと応えるよりは説得力が増すだろう、と僕はあえて自分を偽った。
「あぁ、霧雨の……」
「……」
僕が兄を名乗ると、一瞬で教師の顔が淀んだ。まず間違いなく先ほどの魔理沙の態度の関係があるのだろう。だがそれを追求するのはいまではない。
その時、はたと僕は気づいた。
――絶好の機会があるじゃないか。教師と一対一で対話する、絶好の機会が。
◇
「それでは、そちらにおかけになってください」
「失礼します」
教師と保護者が一対一で対談する、面談会。
まぁ教師は一人しかいないわけで、二十何人もいる保護者と全て和談しようとするならそれなりの時間を設けなければならない。
事実、僕は13番目だったので、大分待つ羽目になってしまった。他の保護者たちと違い僕には知り合いがいないのだ。ひたすら思考を繰り返すことでなんとか暇を持て余さずに済んだ。やはり考察というものは他者に伝えてこそだ。自分一人で自己完結するための考察など、なんの意味もない。否定でも肯定でも、他の意見を交えてこそ考察というのは完結するのだ。自分だけの価値観、物差しで尺度を図るなど愚の骨頂、物を売らない道具屋のようなものだ。早速このまとめた考えを博麗の巫女あたりに聴いてもらおう。彼女は僕の話を聴くのが好きだからな。くつくつと楽しげに笑う巫女を想像して、僕は一人で微笑んだ。――僕が彼女にとっての気遣いの対象になっていると知ったのは数年も後の話である。
「お兄さん?」
「……あぁすいません」
思案にふける場合ではなかったな、と反省する。
思考を教師との対談に切り替え、姿勢を正した。
「えーと、魔理沙ちゃんは、とても活発で頭も良い優等生ですよ」
「さいですか」
「特にこれといった問題もないので私どもとしても助かっております」
「ほう」
目をじっと見つめると教師は少したじろいだ。ただ言葉を交わしている間、僕は目を逸らさないつもりなので、もしその手の会話が苦手な人だったらご愁傷様だな、と考えながら話を聴く。
その後も教師の話は続いた。
◇
「お兄さまの方から何かご質問などはありますか?」
しばし白々しく魔理沙を褒めちぎる言葉に頷くだけだったが、ようやく僕の待ちわびていた質問がきた。
僅かに椅子から身を乗り出し、僕は訊ねた。
「一つ、お聞きしたいことがあります。何故、魔理沙は教室で孤立していたのですか?」
「それは……」
「覚えがないはずは無い。人数が多いといっても二十数名です。その中で教授を受けようとしていない子がいたのは僕から見ても明白でした」
僕としては若干語気を荒らげたつもりだったが、しかし教師の方は僕の質問を織り込み済みだったらしい、別段表情を崩すことはなかった。
「教本も開いていない、教師のほうを見てもいない。どうして先生は魔理沙を叱らなかったのですか?」
「いやあ、孤立なんてそんな。叱るなんてそんな。今日は魔理沙ちゃんは体調が優れないように見えたので、授業を聴けなくても仕方が無いかなと考えた次第です」
よくもいけしゃあしゃあと言えるものだ。
僕は少し感心した。
関心したからといって、はいそうですか、とは到底思えなかったが。
「体調が悪かった……ように確かに見えましたね」
「でしょう? 私としても心配でならなかったのですが、なにぶん、今日は特別な授業でしたので……」
「……それでは、魔理沙の周りの子供達の反応についての意見をお聞かせ願いたい」
確かに魔理沙の態度だけならばそう捉えることも出来たかもしれない。
そして教師の言い分も最もかもしれない。
しかし、それは同年代の子供達には当てはまらない。
彼らの態度には嘘はない。子供など、口で嘘はついても態度で必ず現れる。この世で一番正直な生き物だ。その子らが魔理沙に対し全くの無関心だったのだ。普通ならば、心配するなりなんなりするだろう。……僕はされたことはないが。
「反応、ですか? 特に変なところは……」
「では魔理沙に仲の良い友人はいますか?」
「それはもう沢山……」
「その仲の良い友人が、体調の優れない魔理沙に対して何も言わなかったのですか?」
捲くし立てる。自分でも普段の僕らしくないとは思ったが、随分熱が入ってしまった。
そして僕は一つの確信に至った。
というより、恐らくそうではないかという考えが、この教師との問答で確信に変わったというべきか。
「それは……」
「……先生。僕の推察ですが、魔理沙には本当は友人がいないんじゃないんですか? 何らかの理由で周囲の同年代の子供達から避けられている。そして先生――貴方からもね」
「そんな!」
「いえ先生。責めたてているわけではありませんよ。ただ事実確認をしたいだけです」
嘘である。もとより事実確認ができ次第ネチネチと責める腹積もりだった。
「この問答は、先生が事実を述べてくださるまで続く、と宣言しておきます」
「……えーとですね……」
ここにきて教師は明らかに狼狽する。視線はそこかしこを行き来していた。
額からは冷や汗が伝いおちる。
しまった。少し口調が強すぎたか。本当に今は責めているつもりはなかったのだが。
僕は語気を弱めた。
「教えてください。仮にも兄です。僕は魔理沙のことが心配で堪らない」
「……」
……黙ってしまった。
ハンケチでひたすら額を拭う教師には、先程子供たちに教鞭を振るっていたその人とはとても思えなかった。
僕は教師の視線が逡巡している間も、教師の眼から目を逸らさなかった。
ようやく言葉を見つけたのか、教師が話しだした。
「……実のところ、おっしゃっていたとおり、私は魔理沙さんを避けていたのかもしれません」
「……理由をお聞かせ頂けますか」
「お兄さんはどのような職につかれていますか?」
「職ですか……? 道具屋の店主をしてますが」
「店主ですか……。さぞ、ご自分の仕事に誇りがあるでしょうね」
――唐突に何の話だ?
職や誇りの話。
僕には話の先が見えなかった。
「考えてもみてください。その、道具屋でさあ物を売ろうかという時、客が店にある商品を全て持っていたとします。どう思いますか」
「どう……って。何故ここにきたのだ、と思いますね」
「でしょう? 私の気持ちはそこにあるんです」
ここに来て、僕は教師の言わんとしていることに目星がついた。
そしてその推察は的中していた。
「私はこの教師という仕事が好きです。何も知らない幼子が、私の話を聴き、それを血肉として育む。これ以上の喜びはないと考えています」
「……それで?」
「魔理沙さんがここで学ぶようになり、半年近くになります。最初は、素直な良い子という感想でした。学びたがりで何度も私に質問していました。しかも飲み込みも尋常じゃなくはやい。私は教師人生の中で最高の生徒だと思いました。まぁ、私もつきっきりというわけにもいかず、彼女が質問に来る回数は次第に減っていきました。……魔理沙さんが私に訊ねることもなくなって一月ほど経ったある日、彼女は久方ぶりに私のもとへ来ました」
『先生、勉強でわからないところがあるから教えて』
「彼女が持っていたのは私が与えた教本ではありませんでした。それよりも、もっとずっと高度な――私でも手に負えない程の学書だったのです。彼女はしきりに訊ねるのです。わからないから教えてくれと。"わからないのはここだけ"だから、手を煩わせないからと。……気がついたら私は彼女の手を払いのけていました。私の人生を否定された、そんな気分でした」
……教師は一息おく。
理由は……だいたい把握した。魔理沙は賢すぎたのだ。神童と呼ばれても差し支えないほどに。人生を勉学につぎ込んだ大人に絶望を与えるほどに。
正直、僕はくだらないと思った。
――何が人生を否定されただ。お前はその腹いせに魔理沙の人生を否定しようとしているのか。
僕の中に僅かな熱が生まれた。
それは外に出すまでも無い小さな熱だった。
僕は冷静さを崩すことはなかった。
しかし、教師は次第に熱くなっていった。
「その後、彼女から私に話しかけてくることはなくなりました」
「……それは災難でしたね」
「災難? そうですね、災難です」
明らかに冷静さを欠いている。
この教師が口にしているのは、そして今から口にしようとしているのは愚痴以上の何か。おおよそ人に聞かせる類の話ではない。それを兄である僕に話すということは、よほど腹に溜め込んでいたのだろう。
――やめろ、それ以上口を開くな。
僕の中の熱が教師に向かって言葉を発する。無論、目の前の男に聴こえるはずもなかった。
「私の自信を粉々に打ち砕いてくれましたよ彼女は……! こんな事ならあんな生徒の相手をするんじゃなかった!」
ドクン、と熱が肥大する音が聞こえた。
――やめろ。
「私の気持ちがわかりますかお兄さん! あんな、生徒を持ってしまった私の不幸を!」
「落ち着いてください」
――お前のような奴の気持ちがわかるか。わかってたまるか。
ドクン。
「何故、あんなに優秀なのに寺子屋に来たんですか? 一人で学べるなら一人で学べばよかった! ここに学びに来る必要性など微塵も無かった!」
「熱くならないでください」
――その自己主義な口を、不愉快しか産まない口を今すぐ閉じろ。殺すぞ。
ドクン。
「友達ができないのも当然ですよ! 子供は何より正直な生き物なんです! 誰が好き好んであんな気味の悪い子と仲良くなろうとしますか!」
ドン、と。
僕の中の熱が膨張しすぎて爆発したのと、僕がこの不愉快な男との間にある机を思い切り叩いたのは同時だった。
教師はいつのまにか立ち上がっていた。
その事実に僕は、自らを抑えるのに手一杯で気づかなかったらしい。
教師は僕の行動に驚き、目を見開いた。
「落ち着いてください、と言っているんです」
「……」
「貴方の話を聴いて大体の事情はつかめました」
この男は僕より圧倒的に多く魔理沙を見ているだろう。見てきただろう。
だが、僕はこの男よりも圧倒的に魔理沙を――聴いてきた。
「つまり、要はこういうことですか。先生は、常日頃持っていた生徒に対する優越感を魔理沙に打ち砕かれたと」
「ち、違います!」
「何がです? 先生の仰ったことを整理するとそうとしか取れません」
「ぐっ……」
こっちは、何年も前から、この男が魔理沙と出会うより遥かにはやく、とある中年男の娘自慢を聴いてきた。
会った回数は少ないとも、魔理沙がどれほどの器量かはわかる。
「貴方は彼女が知的好奇心を持つための手助けをした。だがそれだけだった」
僕は知っている。新たな知識を得ることが、新たな発見をすることが楽しくて、眠い眼をこすりながら励んだ少女を。
「己の生徒が己を超えるのが想像もできなかったんでしょうね、貴方は。だから、取るべき行動がわからず八つ当たりをしてしまった」
「取るべき行動、何ですかそれは」
「生憎、最良の行動は僕にはわかりません。――本職ではないですからね。それでも、自分を頼る生徒の手を払いのけたりは絶対にしない。そうですね……僕ならば、恐らく共に知識の探求に勤しむでしょう。生徒に先に進まれても、追いつこうとします。それが意味のない行動でも。たとえ、才覚で劣っていてどんなに努力しても追いつけないとしても。絶対に生徒を見捨てるような行動はしない。生徒の導き手となることを諦めたりしない」
魔理沙が新しい学書を買うために実家のの仕事を身を粉にして手伝ったことを知っている。
――勉強は楽しい。
そう言って、魔理沙は笑っていた、と聴いた。
「わかりますか、先生。貴方は教職者に相応しくない」
「相応しくない、ですって……? 悪いのは全て霧雨です! 私は間違っていない!」
ドン、と。
僕は、再び机に手を思い切り叩きつけた。
「貴方は教師である前に人として間違っている。人は間違いを顧みることができる生き物です。魔理沙が貴方の行動のせいでどれほど傷ついたか、それを貴方は知ろうとしなかった」
「先ほどから何度も言っているでしょう! 傷ついたのは私です! 恐らく霧雨は私に恥をかかすために――」
「恥をかかすだけならば、他の生徒の前でやっている。それにわざわざ学書を買う必要もない」
「それは屁理屈です!」
「理屈すら立てられない貴方より、マシだ」
わかっている。これは半ば以上屁理屈だ。しかし、譲れないものもある。
お互いの言論に熱が入る。
僕は、この男のあまりの物言いに、ついに冷静さを見失ってしまっていた。
「私は毎日霧雨を見ているんです! どういう子供だかは見ていればわかります!」
その言葉を耳にした瞬間、僕は椅子から思い切り立ち上がっていた。
完全に、無意識の行動だった。
「お前に魔理沙の何がわかる」
熱が入りすぎて、敬語が崩れる。
構うものか。この際気にする必要も最早ない。
「お前が毎日見ていたのは本当の魔理沙じゃなく、自分の卑しい心に存在する、魔理沙の幻影だ」
「貴方だって、普段は仕事で霧雨を見てはいないでしょう!」
教師はたじろいだが、負けじと反論をする。
「そこまで言うのでしたら……だったら……貴方こそ霧雨の何がわかるっていうんですか!」
「……魔理沙の何がわかるか。……わかるさ。僕は魔理沙の、兄だ」
「そ、それだけで――」
「それだけ? それだけじゃない。もう一つ……魔理沙は僕の妹だ」
僕は机に両手をつき身を乗り出した。
「魔理沙は、この世で一番可愛い、僕の――妹だ!」
半ば叫ぶ形で。
僕は教師に言葉を叩きつけた。
しばらくの問答で、僕が言いたい事を一言にまとめた、その言葉。
しかし、この男には届いていないだろう。
教師はただただ僕の怒号に驚き、口を開閉し、放心していた。
「……失礼します」
言いたい言葉は全て言った。
長居は無用だ。
僕は手荷物を持ち、唖然としている教師を後ろ目に教室を後にした。
◇
――冷静ではなかったな。
勢い良く教室を後にして暫し後、僕は早くも後悔し始めていた。
――どう考えても頭の悪い問答をしてしまった……。
眉間に指を当てて俯く。
僕は校舎を出て、寺子屋の近くにある古びた公園へと向かっていた。
そこには恐らく魔理沙がいるだろう。
そのへんにいた魔理沙の同級生から聴いた、確かな情報だ。
しかし、あそこまで熱くなったのは本当に久しぶりだ。
僕は自分が思っている以上に魔理沙という少女に愛着があったようだ。
――話もしたことないのにか?
ククッ、と僅かに声を漏らし笑う。
親父さんから頼みごとをされたときはこんな事になるとは思わなかった。
主に僕のせいで今後は魔理沙は寺子屋に居場所が無いな。
ここをやめさせて、僕が勉強を教えるのもいいかもしれない。
この事が親父さんに知れたら、どれだけドヤされるか全くわからないな。
ここまで考えて、またククッっと声が出てしまった。
予想以上に変だな、魔理沙という娘は。
恐らく、魔理沙はこれからもその歩みを止めたりしないだろう。
最終的にはどれほど大物になるかな。
今から楽しみになってきた。
そうこう考えてるうちに、目的の公園にたどり着いた。
魔理沙は長い椅子の端にちょこんと座っていた。
僕は彼女にゆっくりと歩み寄った。
「こんにちは」
「……どなた?」
まぁそれはそうだ。
魔理沙の隣に陣取った僕を、彼女は怪訝な目で見る。
「君のお父さんの弟子だよ。見たことないかな」
「あぁ。見たことある気がする。それで、お父さんのお弟子さんが私になんのようなの?」
「実は君の授業参観には僕が来てたんだ」
その瞬間、カァと魔理沙の顔が朱に染まった。
「今日は、その……お腹が痛かったから真面目に授業受けれなかったから……その……」
しどろもどろに言い訳をする。
家では気丈に振舞っている分、寺子屋での自分を身内に知られたくないのだろう。
可愛い、と素直に思った。
「……提案なんだけどね」
「?」
朱に染まった顔のまま首を傾げる魔理沙。
「もっと複雑なことを学びたいだろう。寺子屋をやめて僕のところに来ないか?」
「えっ」
僕の言う意味がよくわからないのだろう。素の言葉が出た。
「授業を見たが、あれはひどいな。相手が子供だからといって、簡単すぎだ。魔理沙もそう思うだろう」
「う、うん」
「その点僕なら魔理沙に正しく深い知識を授けることが出来る。どうだい? 素敵だろう」
僕は手のひらを胸の上に置いた。
できるだけ得意げな顔で、気さくな印象を与えられるよう務めたつもりだったが、それは成功したようだ。
「お兄さんは……私が勉強のこと訊いたら答えてくれる?」
「あぁ」
「いつでも?」
「あぁ」
パァと、魔理沙の顔が輝いた。
「ありがとう!」
「さぁ、そうと決まれば親父さんのところへ行こう。流石に許可を取らないと」
「うん!」
勢い良く立ち上がり、今にも走りだそうと浮き足立つ魔理沙を見て、僕は微笑んだ。
――これからが大変だな。
ここまでのことを考えたら親父さんに大目玉物である。
しかし、まぁあの子煩悩のことだ。事情を説明すると僕以上に憤慨して、最終的には僕の提案を是としてくれるだろう。
「はやく行こう!」
魔理沙が駆け出す。
先ほどと別人のような彼女を見て、僕は考えた。
――辛かったのだろうな。
信じてた教師に、信じてた友人たちに裏切られて。
しかし、決して信じることをやめない彼女の強さに、僕は少し心が熱くなった。あの教師と話している時の熱とは全く別のそれは、心地良い何かをもたらしてくれた。
これから魔理沙は様々壁に直面するだろう。人々からは猜疑の目で見られ、仲間と思っていた者たちから迫害されるかもしれない。
だが、何時如何なる場合でも、どんな時でも僕は魔理沙の傍にいよう。絶対に彼女を裏切らないようにしよう。
誰も魔理沙を理解しなくても、僕だけはいつまでも理解者でいよう。
当の本人とは関係ないところで自分勝手な物思いに耽る僕に、現実の魔理沙が手を振った。
――あぁ。
「今、行くよ」
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