「山之内さん、お願いしますっ!」
いつものように詰所で書き物をしていると、急に休憩室の中からかおりの声が聞こえてきた。
どうしたんだろう、かおりが……しかも山之内さんに頼みごとなんて、珍しい。
……いや、もしかしたら以前からもあったのかもしれない。かおりはよく山之内さんの所へ漫画のお手伝いにいっているみたいだし……それに、わたしがかおりの事を気にしだしたのなんで、つい最近のことだから。
「そないなこと言われてもなあ……」
「お願いします! この通りです!」
「…………」
まあ、他に誰もいないことだし……と、しばらく我慢して書類を書いていたが、どうにもそわそわして手が進まない。以前ならこんなことはなかったのだけど――でも、気になるものは仕方がない。
ふぅとため息をつくと、重い腰を意を決してわたしはそっと休憩室の中を覗き込んだ。
「!!」
狭い休憩室の中では、こちらを向き、腕を組んで立つ山之内さんと、後ろからしがみつくかおりの姿。その、まるで昼ドラのような光景に思わず目が点になる。
「せやけどなあ。あとで主任になんて言われるか――」
「でも!」
「……こほん、どうかしたの、沢井さん」
いてもたってもいられなくなり、わたしは口を挟むと、かおりはバツの悪そうな顔でわたしをから目を逸らし、山之内さんは困ったようにわたしを見る。
「もし休暇の調整とかあれば、わたしの方でも――」
「あ、いえ、そういうんじゃなくて……ご、ごめんなさい、これは山之内さんにしかお願いできないことなんです!」
がつーんと、ハンマーで頭を殴られたような衝撃が、わたしを襲った。
「……そ、そうなの……」
「沢井、別にそんな言い方せんでも」
「でも、本当のことですから」
「……わ、わかったわ、口を挟んでごめんなさい。だけど二人共、声が外まで漏れているわよ? もっと静かにしなさいね」
そう注意するのが精一杯だった。わたしはまだ少し揺れる頭のまま、何とか事務机にたどり着く。
「ええのか、主任かなりショック受けてたみたいやけど」
「……こ、ここは心を鬼にしてです!」
なおも休憩室から声が漏れ聞こえてくるが、もう一度注意する気力はもうない。
「……わかった。そこまで沢井が覚悟を決めとるんやったら協力してやろうやないの。……だたし、代わりに二日、付きおうてもらうで?」
「ふ、二日も!? ……わ、わかりました。二日間、お付き合いします」
お付き合い――わたしはそこまで聞いて、がくりと机に突っ伏した。
「はぁ……」
誰もいなくなった詰所で一人、わたしはため息をついた。
あれからどうも仕事に気が入らず、小さなミスを頻発。幸いにも大きな事故に繋がらなくてよかったけれど……自己嫌悪。ほんと、感情に左右されるなんて、わたしもまだまだね。
「ため息なんかついて、どうかしたんですか、主任?」
「……ああ、藤沢さん」
振り返ると、詰所に戻ってきた藤沢さんが後ろに立って、心配そうにわたしを見つめていた。
「主任、今日はらしくありませんでしたよね。また沢井となんかあったんですか?」
「べ、別にそういう訳じゃ……」
うろたえるわたしを見て、逆に藤沢さんがため息を付く。
「主任……バレバレですから」
「やっぱり……?」
「はい。表情から丸分かりです」
そう言って、藤沢さんはくすりと笑う。
「でも主任、以前と大分変わりましたよね」
「……そうかしら?」
自分ではよくわからない。そんなに変わったつもりはないのだけど……かおりヘの態度以外は。かおりにはどうしても甘やかしてしたくなる気持ちと、主任としての理性のバランスが合わず、どうにも厳しく当たってしまう。もちろん彼女に期待している面はあるのだけど……ね。
「ええ。むかしはこう、看護師としての仕事には絶対に妥協しない「仕事の鬼」ってイメージがありましたけど――」
わたしそういう目で見られていたのね……いえ、自覚はあったけれど。
「でも、今は仕事に厳しいってのは変わりはないんですけど、なんかこう人間味があるというか……昔の主任は看護師として憧れる感じでしたけど、今の主任は人となり全てを尊敬してます。って、何だか上から目線で申し訳ないんですけど」
「……ありがとう、藤沢さん」
えへへ、と頭を掻く藤沢さん。面と向かってそういう風に言ってもらえることなんてないから、わたしも少し恥ずかしい。
「だから、沢井が主任に惚れちゃうのも仕方がないかなあって。……あ、でも、あたし諦めた訳じゃないですからね。そうやって主任がいつまでもすれ違ってばかりいると、あたしが沢井のこと奪っちゃいますからね?」
わたしはくすりと笑うと、彼女をじっと見据える。
「残念だけど、そうはならないわ。だってわたしたち、もっと深い絆で結ばれていますから」
わたし達の絆はそう簡単には壊れたりしない、それだけは間違いなく確かなこと。……そうね、だから疑ったり、嫉妬したりするんじゃなくて、もっとあの子のすることを信じてあげないとね。
「ありがとう、藤沢さん。かお……沢井さんはいい先輩を持ったわね」
「……そう思うなら、沢井をあたしに返してくださっても」
「それは駄目よ。ふふ」
しつこく食い下がる藤沢さんに、わたしは余裕の笑みを返した。
「ただいま」
誰もいない部屋に向けて、わたしは一人呟く。いつからだろうな、この部屋がこんなに広く感じられるようになったのは。もちろんかおりが片付けをしてくれるからというのもあるけれど……もちろんそれだけじゃない。
今日もいろいろとあったな、と思いながらわたしが荷物をその辺りに放り投げると、その中からちょうど携帯電話の着信音が流れ出した。
誰かしら、と思いながら慌てて鞄を探るとすぐに音は止まった。……どうやらメールだったようだ。かおりからは着信音分けたほうがいいですよ、とは言われているのだが――どうにも、「後でいいか」が先行してしまう。わたしの悪い癖だ。
それでも探し始めた手前、見ずに止めるのは何だか気持ちが悪いので、わたしはそのままカバンの中を探す。もしかしたら、かおりからのメールかもしれないしね。やっとのことで探し当てた携帯電話を開くと、そこには――
はつみさんへ
お疲れさまです。かおりです。
今日は傷つけるようなこと言ってしまってすいません。
色々と理由があるんですが……ごめんなさい、今はまだ言えません。
でも信じてください! わたしの愛は、はつみさんだけのものですから……なんちゃって!
……あ、そうそう、明日なんですけれど、お昼休みに屋上まで来ていただけませんか?
天気はさっき見たら、雨は降らないって予報だったので、大丈夫だと思います!
それでは明日、屋上でお待ちしています。
かおり
かおりからのメールを頭の中で反芻しながら、わたしはベッドに倒れ込む。
明日……何かあったかしら。別に誕生日という訳でもないし、なにか特別な約束があった憶えもない。
それに屋上といって思い起こされるものも――と、不意にこの前のかおりとのキスを思い浮かんて、頬が思わず熱くなる。ああもう、感情に流されないようにしようって、思ったばかりなのに。
だけど……そう思いながら、わたしは目を閉じる。暗闇の中にすっと浮かび上がるのは、かおりの笑顔。
こんなふうに誰かのことを考えるのって、楽しい。かおりが今何をしているのかとか、ご飯は何を食べたかなどと考えているだけで、胸が一杯になる。ああ、恋をしているんだなって、実感できる。
前に友人の恋愛話を聞かされた時は、どこか遠い話のように思っていたものだけれど、あの時彼女が浮かべていた表情の意味が今のわたしにはよくわかる。あれは相手のことが好きで一杯、という顔。……それにたぶん今、自分もあの時の彼女と同じ顔をしているに違いない。
藤沢さんが言っていたとおり、これまでわたしは仕事一筋で生きてきた。恋愛にうつつを抜かすことなく、看護に一生を捧げ、これから先もずっと生きていくつもりだった。もしかしたらとは思うことはあったけれど、それでもまだ随分先のことだとばかり思っていた。
けれど、かおりを好きになってみて初めてわかった。わたしはこれまで何も知らなかったんだってことが。
かおりと過ごす日々は、わたしの知らなかった沢山のことを教えてくれる。嬉しいこと、楽しいこと、もちろん悲しいことも辛いことも。
もちろんそれを知っていくことで、以前のわたしから見たらダメな人間になってしまったかもしれない。つまらないことで嫉妬したり悩んだり、ちょっとしたことで笑ったり楽しくなったり……だけどそんな今の自分も、わたしは結構好きだ。
……さて、明日昼休みを開けておくなら、明日に仕事は残さないようにしないとね。わたしはベッドから起き上がると、鞄から持ち帰ってきた書類を取り出し、早速取り掛かるのだった。
次の日、詰所に戻ってきたわたしが時計を見ると、既に十二時を回っていた。……いけない、すっかり遅れてしまった。
「沢井さんは?」
「さっき休憩に入るって言ってましたけど」
「そう、ありがとう」
詰所にかおりの姿はなく、その場にいた看護師に尋ねると、もう上に行ってしまったようだ。
わたしは記録を軽くまとめると、慌てて詰所を後にする。
「……あれ、主任。まだこんな所におったんですか」
と、そこでちょうど戻ってきた山之内さんに出くわした。
「あ、ええ。ちょっと前の処置が長引いてしまって」
「処置って、採血でしょ? そんなん藤沢に任せればいいんですよ。あいつも最近、やるようになってきたし」
「ええそうね、次からそうするわ」
沢井さんの影響か、藤沢さんも最近やる気をだしている。かおり曰く、わたしに対抗しているという話だけど……なにはともあれ、皆がやる気を出してくれるのはいいことだ。あとは山之内さんも……と思うのだけれど。
「それより主任、沢井のところへ早く行ってやってください。でないとうちが怒られてしまいます」
何か知っているような山之内さんだが、そういえば昨日山之内さんがかおりに頼まれていたのって、今日に関係のあることだったのだろうか。まあでも、聞いてもきっと教えてはくれないだろう。
「主任が何を考えてはるかはわかりませんが、たぶんそれ正解です。何かあれば、直接本人から聞いたってくださいな」
「ふふ、あなたには何でもお見通しね。じゃ、後のことは任せてもいいのかしら」
「任せとき、お題は既にもらっておるからな。泥船に乗ったつもりでドーンと!」
「……それを言うなら、大船でしょ?」
「あははは。主任、ナイスツッコミ!」
わたし達は互いに見つめ合い、ふっと笑みを浮かべると、それぞれの行く先へと歩き出した。
人の気配のない、屋上へ続く階段を一歩ずつ登っていく。以前は割と自由に出入りできたのだけど、以前わたしが閉鎖を指示してから、ここに来るのは精々病院の関係者ぐらいだろう。
昔は屋上の出入りも自由で、洗濯物を干したり、患者さんがタバコを吸ったりと、割と自由な空間だった。けれど柵の老朽化に伴って安全のほうが優先されて、患者さんは立入禁止、洗濯物はほぼ全て外部委託になっている。
もっとも、隠れてではありながら未だ屋上は患者さんの憩いの場になっていた、という事実もあるので早い修繕を依頼してはいるのだけれど……なかなか経営側からはいい回答をもらえていない。
わたしは屋上へと続く扉に手をかけると、えいと押し開けた。鍵はかかっていなかった。
ぶわっと、勢いよく背中から風が吹き抜けていき、そして眼前に青空が広がった。一歩外へ出て、燦々と輝く陽光に思わず目を細める。
「……あ、主任! おつかれさまです!」
入ってきたわたしを見るなり、かおりがぱたぱたと駆け寄ってきて、わたしの手をギュッと握る。まるで懐いたばかりの子犬のようだ、と思った。
「さあさあ、こっちへ来てください!」
「もう、そんなに慌てなくったって――」
わたしは手を引かれるまま、かおりに従って歩いていく。すると、目の前に可愛らしいシートと三段重ねのお弁当箱が目に入った。
「かおり、これって……」
「えへへ。びっくりしました? ささ、座ってください、はつ――主任さん!」
「ふふ、はつみ、でいいわよ。今はね」
にこりと微笑みながら、促されるままにわたしはシートに腰を下ろす。
「でも、どうして急に?」
「あ、理由は特にないんですけど……この所ずーっといいお天気だったから、外で一緒にお弁当とかどうかなって。で山之内さんにもお願いして、主任のお昼休みを開けてもらったんです!」
なるほど、あのお願いはそういうことだったのね。
「でも、それなら別に隠さなくたってよかったのに」
「えへへ、ごめんなさい。……けれど、主任をびっくりさせたくって」
呆れを通り越して、何だか微笑ましい。少なくとも怒る気にはなれなくて、わたしはふっと笑った。まったく、かおりったら。
「じゃ、早速お弁当たべましょう? ほら、はつみさんの好物、たっくさん入れてきましたよ!」
そう言って開かれたお弁当箱の中身は、どうやって知ったのか確かにわたしの好きなものばかり。その中には、まだ教えた記憶のないものまで含まれている。
「どうやって調べたの?」
「あはは、それは企業秘密です。……ささ、はつみさん。あーんしてください?」
「え?」
「大丈夫ですって。誰も見てませんから」
思わず頬を染めるわたしを見て、かおりは可笑しそうに笑う。そ、そうよね、屋上で――二人きりなんだものね。
「ささ、あーん」
「……あ、あーん」
わたしは口を開け、代わりにそっと目を閉じる。
……わたしは今日、また一つ新しいことを知る。青空の下で好きな人と一緒に食べるお弁当が、どれぐらい美味しいのか、ということを。
「……はつみさん、もう少し口を開けてくれません? でないと全然入らないですよ。……あ、それとも――」
かおりがくすりと笑って、わたしをじっと見つめているのが分かる。
「もしかして、キスのほうがお望みですか?」
Tweet |
|
|
1
|
0
|
追加するフォルダを選択
白衣性恋愛症候群、大塚はつみSS。はつみTrueEnd後を想定しております。 ある日、はつみはやすこに頼みごとをしているかおりを見かけ、自分にできることはないかと尋ねるのだが――