夜の湖は怖い。
黒い染料を溶け込ませて底なし沼になり、湖底に引きずり込まれてしまいそうな気がするからだ。
だが今夜は月夜。
月光がさざ波を銀色に輝かせていて、恐怖感は少ない。
なんとなく寝そびれて寺院の裏手にやってきたジェクトは、微かな水音、水の匂いに誘われて道のない岩場を下りて湖の畔に立った。
途中立ち入り禁止の文字が目にとまったが無視する。
見えないフリは得意なのだ。
そして躊躇わず飛び込むと、夜の湖はほんの少し肌より冷たくジェクトの体温を奪った。
だがその代わりに開放感を与えてくれ、沸き立つ心を思い出させる。
(ボールがあればなぁ……)
持って外に出なかったことを後悔し、と言って今から戻る気にもなれなかった。
「まぁいいか」
ジェクトはうっすら月に向かって笑うと小さな水音を立てて暗い水の中に身を投じた。
何も見えない暗闇だが、自在に動ける喜びの方が勝っていた。
その時上方――水面で音が響く。
見上げると鈍く銀色に光る水面に黒い月が浮かんでいた。
訝しみ浮上すると、月ではなくボールだと分かる。
「ジェクト」
ボールを掴んで泳ぎ、水の中から畔に立つブラスカを見上げる。
「起こしちまったか」
「いや。私も寝付けなかった」
「ぐっすり寝てるのはお子様だけってことか」
ジェクトの言葉にブラスカは楽しげな笑みを浮かべる。
「ところでそちらに行ってもいいだろうか?」
「あ?」
ジェクトが返事をする前に、ブラスカは派手な水音をたてて飛び込んだ。
「ちょっ」
「ああ、ジェクト!」
ブラスカはバシャバシャと水面を両手で叩く。
「泳げないのを忘れていた」
「は?」
驚くと同時に水中に沈んでいくブラスカの手を掴み引き上げる。
「忘れんな!」
「あまりに気持ち良さそうだったから」
咳き込みながらもブラスカは楽しそうに笑ってそう言った。
「ふん。で、泳げない事を思い出した召喚師様はどうするんだ?」
「しばらくこのままでいたい」
「じゃあ服を脱ぐんだな。重くてかなわん」
「あ……ああ、そうか」
だが簡単に脱ぐ事が出来ず「一度上がるか?」とジェクトが尋ねる。
「いや。脱がせてくれないか?」
「はぁ?」
「お前が脱がせてくれ」
「……お子様より手がかかる」
「すまないな」
本当にそう思っているのかアヤシイ口調だったが、岸に上げるよりは脱がせる方が簡単だとジェクトは手早くブラスカの服をはぎ取って岸に投げた。
「流石だな」
「服を投げたのがか? それとも脱がせるのがか?」
ニヤ、とジェクトが笑う。
「両方だ」
答えたブラスカに「狡いぞ」と返した。
「なぁ、少し息を止めてみろよ」
「ああ」
確認してジェクトはブラスカの手を引いて水中に潜った。
ほんの一メートルだったがブラスカに水面を指し示して上向かせる。
「あ……」
ゴフと空気が口から漏れ出したが、ブラスカは気にせずジェクトに示されたものを見ていた。
銀色に輝く水面、そこにうっすらと映る丸い月。
それは別世界のようだった。
いつまでも眺めていたいとブラスカは思っていたがすぐに苦しくなり、ジェクトは慌ててブラスカの手を引いて浮き上がった。
「すまん。忘れてた」
激しく咳き込むブラスカの背を撫でる。
「大丈夫か? ブラスカ」
「大……丈夫」
ようやく落ち着いてきたブラスカは天を見上げ、
「同じ月も違う月に見える」
「ああ」
「ジェクトがいなければあの月は見られなかった」
「大げさだな」
「泳げないからな」
「そうだった」
苦笑いを浮かべるジェクトを見やってから、ブラスカは再び月を捕らえ、
「どこにいても同じ月が見られるだろうか?」
「そりゃ、月は一個だからな」
「全てが終わった時、誰かと同じ月を見る事が出来るだろうか」
「見られるさ。だがその相手、俺は遠慮する」
「どうしてだ?」
「腕が疲れる」
ブラスカは笑い、すまんな、と言いながらも月を見続けていた。
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不器用なオヤジはまだ、究極召喚をすることでブラスカがどうなるのか知りません。ほんの少しすれ違っているけれど、それでいいとブラスカは思っているのかもしれません。