私は妖怪です。何の妖怪かというと、自分ではうまい名前が見つからないのですが、けれど私が妖怪だということはわかります。決まった場所に決まった逢魔時に出現しては、人が通りすがるのを待つのです。待っている時間は何ともし難く暇ですので、飛んで行く鳥たちの数を数えたりしています。ちなみに昨日は七十八羽の鳥が私の視界を通り過ぎて行きました。昨日は結局人は通りかかりませんでした。もしかすると場所が悪いのかもしれません。いいえ、きっとそうなのでしょう。なにしろここは人気のない廃寺ですから、仕方がないことなのでしょう。けれど、何分私は妖怪なものですから、場所を選ぶことなどできはしません。こればっかりはどうしようもありません。妖怪ですから。
今日も私は昼と夜の間に佇み、宵の橋を渡り行く鳥の数を数えていました。そして、五十八羽目の鳥を見つけたとき、ふと思ったのです。
――果たして、私は妖怪である必要はあるのかしら、と。
だってそうです。妖怪というのは、人間に何かしらの害を与えたり、驚かせたりするものです。ということは、人間が居なければ妖怪は妖怪足りえないのです。
この寺も、昔はそれなりに信者や坊主の影がありました。その頃は私も一介の妖怪として十分にその意義を果たせていました。ですが、この寺が廃れ、人が寄りつかなくなって随分時が経ちました。数えてはいませんが、十年とか五十年とかいう期間ではないように思います。数えた鳥の数も、きっと数えきれないくらいになっていることでしょう。
それほど長いこと、永いこと、私は人の姿を見ていません。逆にいえば、それは、それだけの間、私が人間に見られていないということでもあります。
ついさっきもいいましたが、妖怪とは人間に害を与えたり驚かせたりすることで意義を果たすものです。それを実現するためには、何より先ず私という存在をほんの欠片でも、たとえば声だけとかでもいいから、人間に認識させねばなりません。それが必須なのです。
だのに、それがここではできません。手入れにくる坊主もいないし、ふらりと迷い込む人間さえもいない。本当に誰も立ち寄らない、完全に忘れられてしまったのであろう寺なのです。
私はそこで、誰にも逢うことなく、ただこの境内に座ってじっと宵の空を眺めるばかりです。
もし私が場所に囚われることのない幽霊のようなものであったならば、きっとちゃんと自身の意義を果たし、自身を確立することが出来たのでしょう。だけど、それが不可能なことである以上、私はただぼうっとこの薄暗い場所に存在するのみです。
このような存在であるのに、私が妖怪である必要はあるのでしょうか。
やめられるものならば妖怪などやめてしまいたい。そうすればこんなことに悩むこともなく、好きな場所に出かけられるのに。
そう考えた時に浮かんだのは、私を見つけたときの人間の恐怖に歪んだ叫び声でした。
それはそれは、耽美な音でした。耳を心地よく震わせて、まるで酒でも飲んだかのように私の気持ちを高揚させてくれるのです。あれは忘れようと思っても忘れられるものではありません。あれより素晴らしいものなんて、きっとこの世界にはないことでしょう。
そう。人の恐怖の声、顔。
妖怪をやめれば、それらはきっと二度と味わえなくなってしまうことでしょう。
それは嫌だ。もしかすると、このまま妖怪を続けていればまたひょんなことから人間にめぐりあって、あの素晴らしい感情に浸れるかもしれない。
そう思うと、妖怪をやめることなどできません。未練、というのでしょうか。
結局は、どうしようもありませんでした。本当に、もう二進も三進もいきません。
私はまた宵闇に目線をやりました。黒に染まり行く世界の果て、本日五十九羽目の鳥を確認したところで、今日の私は終わりました。
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SSS第二弾。SSSになるべくしてなったわけではないのでなんだか不完全燃焼気味。いつか書き直したいものです。