退社間際に今朝のニュースが今夜は中秋の名月ですなんて言ってたのを思い出したのが間違いだったのだ。普段は一息ついてから帰ろうなんて考えもしないのに、今日に限ってお月見でもしてみようかなんて屋上にあるリフレッシュスペースを目指してしまった。今は重たい鉄扉を押し開けて、そのまま自分のとった行動を後悔しているところだ。
先客がいる。
設えられたベンチに浅く腰掛け、半ば寝そべるようにして夜空に目をやっている男の横顔が月明かりでほの白く浮かび上がっていて、その妙な綺麗さに一瞬ドキリとしてしまったのだけど、よくよく見るとそいつは社内でも色々と有名な庶務課の宮元だった。ネクタイを緩め、傍らにはビニール袋、手にはビールらしき缶。
要領が悪いのか人付き合いが下手なのか、何かとトラブルを起こしては叱責を受け、暗い表情で肩を落として歩いているのを見る男だ。社内で彼についてのプラス評価は聞いたことがない。新入社員ですら半年もすれば陰に日向に愚痴るようになるーー「あれとは本当に仕事したくない」。入社3年目のあたしだってその例に漏れず、できれば関わり合いにはなりたくない相手だった。
その宮元が、ゆっくりとこちらを向く。
目が合う。
こうなると無視もできない。逃げるタイミングを失って立ち尽くす。
「……あー、あんた。あれだろ」声をかけられる。かすれた抑揚のない声。「広報の。なんだっけ、ひ、ひ」
「平澤です」
「ああそう平澤さん」それだけ言って手元に目を落とす。数秒の間を置いて再びあたしの方を見、「あんたも飲む?」
「いえ、いいです」早くこの場を立ち去りたい。
宮元は「ふーん」とだけ漏らすと、あたしから興味を失ったようにまた視線を空へと戻した。
片手で抑えている鉄扉の蝶番がきしむ。
十月の夜気にさらされた扉は思いの外冷たい。
「あの、それじゃ、あたしはこれで」
「あん? なんだあんた」ってなんで意外そうな顔するんだよこいつは!「月見に来たんじゃないの」
「や、なんかお邪魔みたいですし……」
「なに、俺のことは気にすんなここで飲んでるだけだから」気になるよ目障りだよはっきり言って。「それにもうじき迎えが来るし。そうしたら退散する」
「はあ……」タクシーでも呼んでるのか。
いぶかしんでいると、宮元は空いた手の人差し指を立てて空へと向けた。
「月から迎えが」
あ、やばいダメだこいつ酔ってるか電波かどっちにしろやばい今すぐここから離れ、
「今は昔、竹取の翁と言うものありけり。っていう」
…………。
「いや、なんであなたに迎えが来るんですかあなたかぐや姫なんですかなんであなたが姫なんですか」
「うん? ふむ」ふむじゃねえ。「そうだな。どっちかっつうとあんたのほうが姫かもな」
うまいことを言ったつもりなのか、口元を緩める。なんなんだこいつ……。
あたしは宮元が先ほど指さした方を見た。大きな丸い月が、既に夜空のけっこう高い位置まで昇っている。雲に遮られることもなく、鏡か何かのように、冴え冴えとした光を地上に落としていた。太陽の光を返しているのだから鏡というのもあながち間違いでもないか。
ため息を一つ。
なんだか毒気を抜かれてしまった。
「ビール。一本貰えますか」鉄扉から手を離し、そいつの座るベンチへと歩を進める。背後でどおんと扉の閉まる音。「あたしがかぐやなら、あなたは帝かなんか?」ビニール袋に手を突っ込み、1本抜き取って封を開けた。口を付ける。
とても帝なんて風体ではない。せいぜい兵士。月の使者に無力化されて弓矢を取り落とすだけの。
「かぐやが月に帰る場面に帝はいねえよ」宮元は笑った。「……どうでもいいか。じゃあこの酒は不老不死の薬?」
「安っぽい容器に入ってるんですねー。不老不死なのに」しげしげと缶を眺めまわす。
「貸してみな」宮元が手を伸ばしてきた。
「? はい」
缶を渡すと、宮元はどこから取り出したのかサインペンで何事か書き付ける。「これでよし」
受け取る。
不老不死と大書されていた。
間抜けだ。
「字、汚いんですね。もうちょっと何とかならないんですかこれ」三十路手前でこれか。やっている内容と言い色々と酷い。
「かぐや姫が帝に渡すようなのはそんなんで十分だろ」
それもそうではあるけど。
あたしは鼻で笑って中身の残りを一気に飲み干してやった。「はいどうぞ」空になった缶を突き出してやる。「ごちそうさま。もう行きます、終電も近いし」
「お迎えってわけだ」受け取りつつ。「今も昔も無慈悲だよな、連中って奴は。お疲れ様」
宮元の方を向く。
普段の陰気さが薄らげば、それほど見ていられない風貌でもないのかもしれない。髪は一応短く整えられているし、背だって低くはない。顔の造作もそんなに悪くない――無精髭が浮いているのは気にかかるけれど。よれたシャツ、くたびれたスーツ、くすんだブーツ、これも独身の男だったらある程度は仕方ない。
ただ、いま確かに目の前にいるはずなのに、生気みたいなものがちっとも感じられてこなかった。枯れ木でも相手にしているかのようだ。
「悪く思わないでくださいね」告げる。月の秘薬を口にしたら一切の情は消えるものだ。「お先に失礼します」
宮元はあたしの方を見ることもなく、懐から取り出したタバコに火を点けている。「ああ。それじゃ」煙とともに、先ほどと同じ、かすれた声で。それからタバコを持った手を月へと伸ばし、小さく呟いた。
「天まで届けー、ってか。ははは」
紫煙が夜の奥へと流れていく。月には届きそうもなかった。
翌朝、出社すると社内がざわついていた。
宮元が自殺したのだそうだ。
屋上から身を投げたらしい。残された鞄の中にサインペンか何かで殴り書いた遺書が入っていて、将来に希望がもてなくなった、これ以上生きていても仕方ない、といった主旨だったようだ。
直前には辞表を提出していた。と言ってもそれが事実上解雇に等しいものであることは、社内の誰もが察していたと思う。
あの後、だったのだろう。
死んでまで傍迷惑な奴、と誰かが囁く。
短く制止する声。
私の席の後ろを誰かが通り過ぎた。
一服してきたのだろうか、ヤニ臭い。
「ぐっ――」
あたしは席を立った。猛烈な吐き気がこみ上げてきて、トイレへと駆け込んだ。便器に向かうなり嘔吐する。涙とも鼻水ともつかないものが吐しゃ物に混ざり、胃の内容物をすべて戻してしまってもなお喉はえづいてひきつり、胃酸が鼻の奥まで灼く臭いを感じ、そうしている間中ずっと、頭上でおおきな丸い月が、あたしを照らすのを感じていた。
内臓の奥にまで差し込まれる光の冷たさに、あたしはただうずくまって震えるしかなかった。
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ザ・インタビューズにて頂いたお題に基づいて書いた小説です。
『人:男性。身長172cm。短黒髪。容姿は中の上。年齢は20代後半。 場所/時間帯:ビルかマンションの屋上。夜(7時から11時くらいまで)。 もの:サインペン その他:満月 でお話を作ってください。』
とのこと。