電車は順調に動いている。
高く昇りつつある太陽が車内に光の帯を投げかけていた。
日本語と英語で機械的な声が流れる。続いて若い女性の声のアナウンスが、車内の注意と次の駅とを告げた。いつもの光景だ。ただ時間はいつもよりだいぶ遅い。
きっちりと制服を着た波南は、チェックのスカートも長めでまじめそうに見える。
細く華奢な体をぎゅっと押し縮めるように椅子に座っていて、細いフレームのメガネをかけた青白い顔を下に向け、顔を上げずに、さっきからずっと携帯をいじっている。
伏し目がちな瞳からは意外に長い睫毛がのび、細かく震えるように動いている。
もちろんノーメイクだが白い素肌はきめが細かく、痩せてはいるものの美人と言えなくもない。
そんな波南が、電車が揺れるたびにスクールバッグを胸に引きつけて、まるで自分を守るかのように固くなっている。
まじめな外観とは裏腹に、時間は10時を過ぎていて学校には完全に遅刻の時間だ。
波南は、それが人にどう見えるかが気になった。
だがどうしようもない。
携帯をいじっているとはいえ、波南は何かを見ていたりメールを打っているのでもない、ただデタラメに文字を押し続けている。異様な光景だが、何かをしていないと、泣きだすか、叫びだしてしまいそうなので必死に手を動かしているのだ。
その朝、波南は一人で食事をして制服を着たとたん、急に訳の判らない不安に襲われた。椅子に座ったり、水を飲んだりしながら不安を鎮めようとぐずぐずしていたので、登校に間に合う時間はとっくにすぎてしまった。
遅れて起きたお母さんは、バタバタと仕事に出かける仕度をしていたが、そんな波南に気づいて「どうしたの?」と言った。
波南は困った顔をしたが、今、お母さんに叱られたら自分がどうなってしまうか分からない。
重苦しい体を動かし立ち上がり無理に微笑んだ。
「ぼーとしちゃって…寝不足かな…うん、行ってくる」と言葉を絞り出した。
「体調が悪いの?休む?」おかあさんが言った。
「だいじょうぶだよ。ちょっとぼーっとしちゃっただけ。寝坊しちゃったし」
「本当に大丈夫?無理しなくていいのよ…。あ、ごめん、昼から会議だったの忘れてた。急がなくちゃならないから…」早口でそう言うと、おかあさんは慌てて化粧をし始めた。スーツのスカートのファスナーは開けっ放しだ。
お母さんは小さい会社とはいえ役職をしている。昨夜も接待とかで遅く帰ってきた。
お父さんとはこの3月から別居をしていて。もうすぐ離婚が成立する。
はっきりとはわからないが、二人の関係はとうの昔に冷え込んでいたらしい。いつでも離婚しておかしくなかったようだが、波南の受験が終わるまで待っていたようだ。
波南は中学のとき、夜中に言い争う二人の会話を何度もベッドで聞いていた。
別居と聞いても波南は驚かなかった。
家はお母さんの名義だったので、お父さんは実家に近い街へと引っ越した。
なれない街へ行くよりはと、波南はお母さんと暮らす事になった。
お父さんの家は東京を挟んで反対側だ。
「もうでるけど、タクシー呼んだから。いっしょに行く?」お母さんはそう言ったが、波南は首を振った。お母さんは心配そうに波南を見て「やっぱり休んだら。電話してあげようか?」そう言いながらiPhoneで電車を調べている。
「少し様子を見てから決める…学校へは電話しとくから早く行って…」
波南はもう一度水を飲んだ。
「ごめんね」そう言いながらお母さんはあわてて出て行った。
窓からお母さんがタクシーに乗り込むのが見えた。波南はそれを確認すると、バッグを手に取り重い体を引きずるように家を出た。
一人でいるのが怖かった。
来そうもないバスは避けて歩いて駅に向かった。
橋や交差点のたび、自分はどこかに飛び込んでしまうのではないかと心配になったが、そんな元気もなかった。
電車はすぐに来た。躊躇したが気力を振り絞り乗り込んだ。
下り電車でそう混んではいなかったので、あいている角の席に座った。
すぐに携帯を開くと、波南はそれからずっと意味の無いキーを押し続けていたのだ。
それにも疲れた波南は、携帯を親指でこすって顔を歪めると携帯を閉じ、後ろを振り返り窓の外を見た
。見慣れた風景が流れている。大きな駅はもうすぎた。あと3駅もすると学校の駅に着いてしまう。
波南はたまらなくなった。次の駅はおりた事が無い。
〈でも、次で降りよう。もう限界だ〉
涙がこぼれてきた。下を向いてメガネを拭く振りをしてごまかした。
鬱の原因が何かは波南にもわからない。離婚の事はあきらめたはずだし、学校でもそれなりに過ごしている。昨日は友達とカラオケに行った。何でもないはずだった。
ところが朝起きて仕度をしだしたら最悪がMaxになっていた。
〈みんな、なくなっちゃえばいい…なくなっちゃえば…〉
心の中で繰り返した。とにかくすべてが嫌なのだ。
よろけるようにホームに降り立った。後ろめたさにドキドキしながらSuicaをタッチして改札を出た。
知らない街。
小さな駅だった。駅前にバスロータリーらしいものはあったが、店というのはその周辺に何軒か有るのみで、すぐに住宅らしい。ただ大きな樹が多く少し気持ちがいい。人も少ない。
左手の道はゆるい下り坂になっているようだ。この沿線は海にそって敷かれているはずで、海は見えないがさほど遠くはないはずだ。
〈とにかく歩こう〉
時間帯が時間帯なので、制服姿が変に思われないか気にしながら波南は坂に向かって歩き始めた。
少し歩いて振り返ると小さな駅の向こうに、こんもりとした山が見えた。
いつも窓から見えるあの山だなと波南は思った。
坂は少し左に湾曲していて、駅はすぐに見えなくなった。家の塀が並んでいるが樹木が多く敷地も広いかといって田舎屋ではなくどことなく風情のある家が多い。
図書館らしき建物をすぎると交差点が見え、大きな道路を渡ってまっすぐ行けば海になるらしい。
太陽は高く上がっていてバッグを持った手が少し汗ばむくらいだ。
波南はちょっと持つ手を変えた。
気分は少し良くなっている。後ろめたさはあるが、学校からも家からも遠ざかった感じがしていた。
ちいさな道路を抜け、トンネルをくぐると突然海になった。
広い砂浜が広がっている。
海特有な抜けるような広さだ。起伏もほとんどなく砂が広がっている。
だが足下を見ると石が多くかなり歩きづらい。
波南は立ち止まって周りを見回した。
とおくに点のように人が動いているが、波南はたった一人でここにいる気がした。
〈なんだかホッとする〉波南は思った。
〈そうか〉
〈あたしは、ずっと人に気を使っていたのかもしれない〉
海風が波南の髪をいたぶるように吹き散らす。みんなより長めのスカートが脚にまとわりつき、細く、貧弱とも言える波南の体は時折吹き飛ばされそうになる。
〈あたしは怖くてたまらないんだ〉
〈ちゃんとしていなくては、すべてがこわれてしまう〉
ずっとそう思ってたんだと波南は考えた。
もう、ちゃんとからは離れてしまったかもしれないが…。
携帯を広げて時間を見る。11時を過ぎていた。
そのまま学校の番号をコールするとドキドキしながら、体調が悪かったが、午後からは出ますと伝えた。
気をつけてと言われた。…優しい声だった。
波南は座り込んでメガネを外して泣いた。
しばらく泣き続けた。
風は少しおさまってきている。砂の上に小さな跡が点々とついた。
目を少し腫らしながら、波南は駅まで帰ってきた。
靴の中に少し砂が入っている。
波南はベンチに座り靴の中の砂をとった。
ふと見上げると、街路樹の椿の葉がつやつやと光っていた。
泣いた目にはその光は少しまぶしかったが、なんとなく波南は微笑んでみたくなった。
波南はそっと手を伸ばし、そのつるつるした葉をしばらく撫でた。
強くしっかりした手触りだった。
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朝、目覚めた時、突然の不安に襲われた高校生の波南(はな)は、登校途中見知らぬ小さな駅におりてしまいます。
その後一部改稿しました。