No.301014

印。

 証明するための行動である。


 一般向けではないような気がする。

2011-09-16 02:25:21 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:494   閲覧ユーザー数:493

 高橋瑞樹という男は、幼少の頃から生真面目な人間であった。言われたことを素直に実行し、そして二度言わなくても理解する。持ち物には名前を書きなさい、早寝早起きしなさい、食事の前には手を洗いなさい、その他の言いつけも二度注意されることはなかった。さすがに自律とまでは行かなかったが、成長するにつれて、それは徐々に可能となっていった。こうして幼少の頃からほとんど変わらずに、生真面目な人間として育ってきたのだ。

 成人を迎えて何年か経つ今もそれは変わらずに、規則正しい生活を送っている。不慮の事態を除けば、一日足りともそれが乱れることはない。まさしく、よく出来た人間であった。ただ、彼の家族は幼少の頃こそはその性格をよかれと思ってもてはやしていたが、徐々に彼のことを変わっていると思い始めた。それは歳月が進むごとに移り変わり、変わっている、変な、不思議、おかしい、変人、狂人と。

 つまるところ、彼には普通の子供にはある行動理念が完全に無かったのだ。幼少期の子供が周りの言うことを聞き、実行する理由は、嬉しいからである。自分の周りの大人が褒めている姿を見て嬉しいと感じ、それを繰り返そうとするからだ。それは、誰もが備えている感覚。心の底からの賞賛に、気分を良くしない人間などいない。ただ、それが彼には欠如していたのである。それが普通とは逆に気分を害すならまだ良かったかもしれない。そうならば、まだ人間らしい感情が芽生えていくことだろう。……社会不適合者としてかもしれないが。

 彼は社会に適合していたとも適合していないとも形容しづらい存在であった。なんとかして表現するとすれば、社会の歯車の一部として機械的に存在していた。不適合でもなく、ただそこにいるだけで、他に何もない人間であった。この世界が管理社会であったのならば、彼ほどその世界にマッチした人間などいなかったろう。人間らしい感情がなく、機械的であるのだから。が、そんな機械的であっても、社会の歯車である。

 彼自身、今の生活を好いてもいないし、嫌ってもいない。彼の行動理念は幼少の時から形成された。善良な人間になるべく教えられた周りの大人からの言葉が主だった。その中に社会のルールを守る、という言葉がなかったら彼は社会不適合者となっていたかもしれない。

 毎朝、同じ時間に起き、同じように調理をし、同じように職場へと向かう。職場での午前の仕事が終わり、いつも通りの食事を購入し、摂取する。午後の仕事が終わる時間に、残業をするかしないかは選択するが、その判断も客観的視点からの判断であり、彼の私念は入っていない。残業をしないのなら、そのまま家へと帰り、毎回同じ料理を作る。そうして残りの時間はテレビのニュースを眺めている。時間が来たら、風呂へと入り、就寝をする。残業の場合は、時間によって変わるが、遅くなったときはいきつけの定食屋で食事を取って、帰って寝るという生活であった。仕事のない日は、主に読書をして過ごしていた。

 彼はときたまにその生活を知っている者に狂っている、壊れていると言われることがあった。そのことについて彼は感情を高めることは当然のようにしなかったが、それは違うと考えていた。確かに、彼は人間の観点から見れば、狂っていたかもしれないが、社会に迷惑を掛けたわけでもないし、彼の行動は強要されてしているわけでもない。自らが望んで取っている行動を否定されても、無感情でいることは一般の人間らしくはないかもしれないが、彼にとってはどうでも良いことだったのだ。

 しかし、彼の生活に変化が表れることになる。彼にとっては興味もなかったことだったが、彼の母親のかつてない希望で、お見合いをすることになった。彼は実家に帰り、お見合いをした。その最中でも、人間は人間であって、特別視することはなかった。彼が人間との付き合い方で見ていたのは上下関係だけだった。しかし、そのお見合いの前に彼は母親からあることを聞いていた。女性に好かれるようにしなさい、と。

 しかし、高橋瑞樹の思考の中には女性を喜ばせる方法というものが存在していなかった。彼は数瞬悩んだが、嫌われることだけは無くそうと行動をすることにした。それが失敗だったのか、成功だったのか、彼には判断することは出来なかった。しかし、彼の母親は大層機嫌を良くしていたし、女性のほうの母親も笑っていた。

 その日から、数日経って正式に婚約を交わすことになった。彼は珍しく有給を取り、女性の実家へと来ていた。そこで、彼は本心でもない虚言を放った。母親から頼まれたことだったからだ。

 娘さんをください、と。

 その後は、問題なく事が進み、彼の生活は変わった。彼の一人の生活に女性が加わることになった。彼は女性が加わっても、生活を改変しようとする気はなかった。その彼を見ても女性は好意的にそれを捉え、一人で舞い上がっていた。

 同居から数日が経ち、二人は正式に籍を入れる手続きをした。婚姻届に記入を済ませ、役所へと提出をする。これで二人は正式な夫婦となったわけだった。

 

 高橋瑞樹という男は、実に生真面目な男であった。彼は実に人間として完成されていた。そんな彼が、社会の中で汚点と評価されてしまったのも、完成されていた故だろう。彼は幼少の頃から、生真面目な性格であり、同じ注意を受けることはなかった。彼は幼少の頃の記憶を明確に覚えていた。その中で汚点となる引き金となったのは、この言葉であった。

 ――モノには名前を書きなさい。

 彼は籍を入れた後に、彼女に印をつけようとしたのである。それは、彼女は貰ったものであるからという思想に基づいたものであって、残虐思想があったわけではなかった。その考えに至った決定事項は、あの時の彼女の両親に対して放った言葉であった。印を付けようと、簡単なナイフで印を刻もうとしたが、彼は人間の身体は再生するものだということを思い出し、逡巡した。彼は所有物に印をつけることで自分のものだと証明しているのだ。それを証明できないということは、彼女とは太い縁(えにし)で結ばれたというのに。

 悩んだ末に彼は生死に関わりがないような箇所に印をつけようと決めた。しかし、それだけでも彼女には理解が出来なかったようであり、結局すぐに破局ということになった。彼はすぐには釈放ということにならなかったが、彼の根本は変わることなく、出所した今も前のように歯車の一部として機械的に行動をしている。

 


 
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