No.296976

子供

225さん

電子書籍フリークーポン合同誌【phassa】という企画の第1回で参加した時の作品です。
テーマは「妹」で短い話を書きました。何気に気に入ってます。

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2011-09-10 07:15:52 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:438   閲覧ユーザー数:434

 妹にとって世界の構造はよく仕上がったフランスパンの様に思えた。表面はカリッと固くしっかりしているのに、一度かじってみれば意外とやわらかい。自分よりももっとずっと大人の人間が造ったこの世界は、表面上は上手く機能しているように見えても、でも内実は想像以上に変化と混乱に満ちている。そんな事を思うようになったのは昨日のある出来事が原因である。昨日の夕飯の少し前に、妹はリビングのソファで膝を抱えてニュース番組を見ていた。よく見知ったキャスターの重々しい声色は、どこか南米の国で起こる暴動の様子を伝えていたが、あまりにも遠い出来事であるために現実感は乏しかった。まるで「ハッブル宇宙望遠鏡」を通して地球の一部分を覗いた様な感覚だった。そうして天体観測に使用するような一般的な望遠鏡を想像して宇宙に浮かべている時に、妹は兄に話し掛けられる。

 明日、家に彼女が来る事になったから。

 果たして翌日の土曜日の午後にやってきた女は、妹よりも年上の高校二年生であった。同学年の兄とクラスこそ違うものの、なんだかの委員会で一緒に仕事をしているみたいで、茶菓子のクッキーをテーブルに置いた時にそんな事を話していた。長くて綺麗な黒髪は少しウェーブが掛かっていて、目を細めて笑う姿は中学一年生のガキでしかない妹から見てもとても魅力的に映った。これが本当に兄の彼女か、と思う。もっとずっと、ホラー映画で序盤に余計な事をしでかして脱落していく俳優のような、言わば残念な彼女を想像していたのだけれど、とてもそうじゃない。大人しくリビングのソファに座って、用意されたカルピスに腕を伸ばす。一口だけ飲んでテーブルに戻す。その一連の動作、ただそれだけなのに優雅に見える。そうして厄介な一言を、まるでハリウッド女優がレッドカーペットの上で浮かべる様なくすぐったい笑みで、兄に向けて言うのだ。

 可愛い妹さんだね。

 途端に妹は恥ずかしくなった。茶菓子を用意して相手の品定めを図った事もずる賢く感じられ、ただその場に居る事も躊躇われた。彼女の優しい応対は妹にとっては厄介な鎖でしかなく、今はぐるぐると手足を縛られて脱出を図る囚人のようになっている。兄は彼女の応対に満足したであろう笑顔を彼女に向けていたが、妹にとってはただの追い打ちでしかない。すでに今夜の約束すらも覚えていないと見える。もちろんこの両親が不在の時を狙って彼女を連れ込んだ事にも憤慨しているし――事前に両親の了解は取ってあるので、彼女は公式訪問の扱いではあるが、妹にとっては寝耳に水の出来事である事に変わりはない。だが何よりも兄の彼女に向ける笑顔に妹はやられてしまっていた。後からじわじわと胸を襲う、夜の訪れを待つ囚人のような心境になってしまい、茶菓子を運ぶために持ったお盆を兄の頭に叩き落としたい衝動に駆られる。でもそこは中学一年生のガキと言えど一人の女である。ゆるい笑みを浮かべながらユラユラと二人のリビングから撤退して、なんとか体裁を保つに至った。閉めた扉の向こうから、本当に可愛い妹さんだね、と話す透明な声が、透明ゆえに扉を通り抜けて聞こえてくる。やめていただきたい。何もそんな余裕の言葉を頂くために、女の鎧を纏(まと)って応対したわけじゃない。では一体何を期待したと言うのだろう? 妹は自問して、ああそうか、と得心して、また後でお気に入りの映画を観ようと考えた。序盤でパニックになってあっさりと亡くなってしまうあの俳優は確か、長い黒髪の女性だったような気がする。

 兄が悪いのだ、と妹は脳内処理を加速させる。思えば兄の年齢が地球を一周するに連れて、兄との距離は大きくなっていった。小さな頃に比べると二人の間にある溝は、ただの側溝から大きな川へと変容してしまって、今や対岸が視えない。いいさ別に。自室にこもって漫画を読む事に決めた妹は、声も出さずに呟いてみせる。兄はもう高校生なのだ。彼女ができても不思議じゃないし、両親の不在時にリビングでホラー映画を観て乳繰り合う事だって、すでに高校生である兄ならば許されて当然の権利かもしれない。だけれど、なのにだけれど、である。本来の約束を忘れられているのには本当に悔しくなってしまうのだ。別にそれが寂しくて言っているんじゃない。妹の意識は漫画の上で散漫に踊り、結局は漫画を放り投げてベッドに突っ伏した。枕。そうさ。別に寂しくて言ってるんじゃない。ただ今日は両親が不在だと随分前から決まっていて、母親からたまに教わる料理の腕前を披露してあげるよ、と軽く兄に提案してそれを、楽しみだ、と言ってくれた事から全ては始まっているわけで。だから二人で落ちていく夕陽を眺めながら、近所のスーパーへ買い物にでも行こうと思案していたんだけれど、どうやらそれも実現しなさそうだ、と枕に顔を埋めた妹は、目を閉じた。

 夕陽。結局妹は一人で家を飛び出して買い物に向かった。夕方の落ち着いた時間帯は好きだ。世界の全体が「今日はよく頑張った」という空気に満たされている様で、何をしなくとも充足感がお腹に溜まっていく。妹は後ろから来る自転車に気を付けながら少し狭い歩道を歩いた。足元はすでに薄暗くなっていて白い運動靴がくすんだ色に見える。紫色の空が街路樹の隙間から見え隠れして、長い送電線があちらに向かっていた。あれは一体どこまで続くのだろうか。ふと夢想する。それとも一体どこから来るのだろうか。そうして妹は自転車を思い浮かべた。一般的なママチャリ。バランスなんてお構いなしに細い車輪が送電線の上に納まって、自由に自転車で走ってみたい衝動に駆られる。きっとそれは気持ち良いだろう。世界が赤く染まる頃に、町の中をビルと同じくらいの目線でキコキコと走って行くのだ。河を越えて電車に手を振って、山を登って下って。そして知らない町を観てみたい。知らない人と知らない建物のある知らない町を。でも――妹は「でも」と頭に大きく乗せてみせる。でも、兄も付いて来てくれなければ、きっと自分は不安で寂しくなって送電線から転がり落ちてしまうだろう。転がって落ちた先はきっと、二度と家に帰れない全く知らない世界の一角。それだけは避けねばならない。やがてスーパーに辿り着いた所で、妹の意識は現実に押し戻される。

 どうでもいい事だが、兄が連れてきたあの彼女には蜜柑(みかん)がとてもよく似合うと思った。長い黒髪を後ろに束ねて、スラリと伸びた指先で蜜柑を掴む。一枚ずつ丁寧に皮を剥いでいき、やがて丸裸となった果実を一粒その小さな口へと放り込むのだ。やわらかな舌の上を橙色の酸味が広がって、彼女の眉根が可愛らしく寄せ合う。そして甘味。ゆるく開いた口元から、ライオンすらも気を許しそうな笑顔を浮かべて、彼女は妹を見る。先程の一件では優しそうな印象を受けたが、妹にとっては女としてもとても魅力的に映った。気が早い話ってのは知っているけれど、もし兄と結婚とかになったならば、あの人が自分のお姉さんになるのだ。スーパーの店内で果物コーナーをうろうろしながら、妹は久々に蜜柑が食べたくなってしまった。

「なんだ。蜜柑が欲しいのか?」

 声がして振り向くと兄の姿があった。

「いつ来たの?」

「さっき。お前が勝手に買い物に行ったから慌ててやってきた。自転車も家に置いたままだったから俺が乗ってきた」

「可愛い彼女さんは?」

「あいつはもう帰ったさ。今度会った時はもっと話そうね、だって」

「え?」

「お前と、だよ」

 買い物を終えた二人は自転車に乗る。すでに陽は大きく傾いてしまって、遠くの山から余韻が覗く程度であった。買った品物は前のカゴに預けて妹は兄の背中にくっついた。薄暗い道の上を小さな小さなライトが照らして行く。自転車のペダルを力強く漕ぐ兄の足。その振動が背中から伝わって妹の前髪を揺らす。背中に耳を当てると兄の鼓動。それは確かにそこにあって、そして確実にいつか自分の手を離れてしまう大切な鼓動。いっそのこと蜜柑の様に丁寧に皮を剥いで、一粒ずつお腹に隠してしまいたい。さすればきっと妹は、なんでもできる。

「カレー上手くできるといいな」

 ふと兄が声を掛ける。その声に反応する様に妹は兄の背中に顔を埋めた。兄の匂いを嗅いで、ゆっくりと息を吹き掛ける。温かな塊が背中に漂い、それが面白くて何度も息を吹き掛けた。

「馬鹿。背中が熱いって。何してんの?」

「いっぱいヨダレがついちゃった」

 妹の無邪気な声に兄は思わず笑ってしまう。

「子供かよ」

 


 
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