No.293570 「手乗り文鳥と子飼いの羊」もうひとつの結末capeさん
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2011-09-05 05:59:59 投稿 / 全24ページ 総閲覧数:469 閲覧ユーザー数:460 |
小さかった頃から、「人に物事に伝えることが下手だった」と少女は言う。
小さかった頃から、「人の気持ちに気付くことが下手だった」と、もう一人の少女は言う。
かたり。と他にダレもいない教室の窓のすき間から、ひんやりとした秋の風が入り込んできていた。
―――――――――――
-もう9月だ。
あんなに沢山あったと感じていた長期連休はあっという間に過ぎ去り、
胸には後悔と自責の念ばかりが積もりに積もっている。
友人の武勇伝を聞かされるたび、家にこもってのオンラインゲーム三味や、ご近所の御妙齢達に囲まれ、
お茶会なんかしている場合ではなかったのだ。
高校生活で3回しかやってこない夏休みも後一回を残すだけになってしまった。
くしゃくしゃと頭を抱え込んで嘆いているところを、健康的に日焼けした小麦色の肌の友人と
いつの間にやら大人の色気みたいなものを身に着けてしまった友人、二人に慰められてしまうなんてまったくもって惨めである。
「あんたはゆっくり大人になればいい」なんて気休めにすらならない言葉をかけられたって
そうこうしてるうちにあっという間に距離が開いてしまうではないか。
半ば自暴自棄になりつつ、頬杖とため息をけむりのように吐いてると、教室の上の古ぼけたスピーカーから
始業のチャイムが流れはじめた。あぁ、また長い学校生活が始まる。
、
始業のチャイムから5分ほどたってから、担任がのそりのそりと教室に入ってくる。
その怠慢な動きと、もっさりとした風貌から「肥溜めの豚」なんてあまりにも・・な、アダ名を頂戴している担任の
すぐ後ろをこれまた、お下げ髪にクロブチ眼鏡なんて、いかにもな風貌の少女がちょこちょことついてくる。
「あ、、これは文芸少女だな」直ぐ、後ろの席の小麦色の友人がこうつぶやく。
不条理な仇名の名付け親はたいがい彼女の犯行で、これまで幾多もの生徒や教師がその犠牲になってきた。
彼女も例に漏れず、転校初日からその毒牙にかかってしまった。
もじょもじょ、こもりながら必死に自己紹介している彼女を尻目に教室内では
「文芸少女でOKか?否か?」というメモ紙があっという速度で駆け巡り、
友人の手元に戻ってきたときには、「OK」の欄に沢山の正の字マークがならんでいた。
うちの学校は、どちらかというと活動的な子が多く、成績も中の上くらい。どこにである普通の学校ともいえる。
そこにうろ覚えとはいえ、有名なお嬢様学校の制服を着た子が入り込んできたとしたら、
まぁ、話題にならないはずもなく昼放課などは人だかりが出来ていたが、放課後には落ち着いていた。
今は転校初日の洗礼を受けてか、少し疲れ気味に窓際の席に座っている転校生の姿を眺めながら、
私達は雑談を交わしている。
「まぁ、なんというか・・。暗いよね」
せっかくの名付け親になれたのに、あまりにそのまんま過ぎた仇名をつけた友人がこう呟く。
人だかりが消えた原因はそこなのだ。なんというかお嬢様学校出身というにはあまりにも
似つかわしくない言動や振る舞いで、私達がお嬢様学校に抱いてきたイメージを粉々に打ち砕いてくれたのだ。
しょせんは全て幻想であるという事に気付かされた生徒達は、早々に彼女に興味を無くし
自分達の輪の中に舞い戻っていったのである。
「あー、でも実際はそんなものなんじゃない?」
気だるそうにあくびをしながら答えるもう一人の友人。
「ふぅん、そんなもんかねー?」
つまらそうに答えると、小麦色の友人はがさつな動きで椅子から立ち上がった。
「じゃあさ。こんな事してても仕方がないから、どっか遊びに行こうよ」
そう言って、私達2人の腕を引っ張って教室から連れ出された。
教室には少女が一人、取り残されていた。
―――――――――――
2学期ももう2週間が過ぎようとしている。残暑の残る教室もようやく馴染んできた気がしないでもない。
転校生は黒岩未唯と言うらしい。らしいというのは、人ずてに聞いたからだ。
実は、まだ私は一度も転校生と喋ったことがない。私だけでなく、教室内でもほとんど口を聞くものがいなくなっていた。
会話らしい会話をしていたのは転校初日のあの日だけで、それ以来、彼女はずっと一人ぼっちでいる。
ぽつんと窓際の決められた自分の領域内に収まり、時折り外を眺めては物思いに耽っているような気配もある。
そんな彼女の姿を見ていて、ふと思い出した童話がある。
「手乗り文鳥と子飼いの羊」という物語だ。
内容は、仲の良かった文鳥と羊がいて、ある日文鳥が新しい世界を求めて旅立っていってしまうが、
しばらくたったある日、羊が主人の子供と一緒に散歩をしていると新しい世界に旅立ったはずの
文鳥が道端で野垂れ死んでいる。というなんともやるせない物語だ。
ここではないどこかを求めて旅立つのはいいけど、それには代償も伴うということを実感させられた物語で
今でも強く印象に残っている。
彼女も新しい世界を夢見ているのだろうか。
そんなことを考えてしまう。まぁ、気のせいだろうけど・・。
なんにせよ、私は夏休みの宿題を消化していないという理由で、これから居残り補習でみっちりと残らされるというのが
大きな悩みのタネなのである・・。お嬢様学校には宿題は存在しないのだろうか。それならそっちのほうがいいのだけれど。
校庭からは部活動に勤しむ生徒の大きな掛け声が響いている。もうすぐ午後6時。まだ日は明るい。
誰もいない渡り廊下をポツポツと歩き、知恵熱で沸騰しそうな頭を冷やしながら、教室へ荷物を取りに行く。
教室まで後5,6メートルだろうか。それぐらいまで近づいたときに誰もいないはずの室内から物音が聞こえた。
それと同時になんとも嫌な威圧的な声も。
そぅっと、気付かれない位置まで近づき教室内を覗き込んでみる。そこには数名の女子生徒に囲まれた転校生の姿があった。
逃げられないように周りを取り囲み、時折り、机の脚をつま先で勢いよく小突いている。
「え?なにこれ?いじめ?」
ふいに声のした先を見上げると小麦色の肌の友人がいた。二人で教室の中の様子をうかがう。
どうやらいじめに加わっているのは、うちのクラスの生徒とその友人達らしかった。他のクラスの生徒もいる。
態度が気に入らないやら、服装がどうやら、ほとんど言いがかりに近いような内容だったが、
ようするに転校生、黒岩未唯のことが気にくわないだけなのだ。
こういう特有の行動を取る人物に対して、正直ぞわっとした感情を逆撫でさせられるのだが、友人にいたっては
すでにそんな範疇ではなかったらしい。
「ねぇ、ちょっと邪魔なんだけど。」
気がついたら教室の真ん中、自分の席などまたたく間に通り過ぎ、まさに火中のなかへ平然と足を突き進めていた。
「大宮」
「あのさ、いい加減大人なんだからこんな子供じみた事、やめたら?」
凄みのある声と鋭い目線で、取り囲んでいた女生徒達を一喝する。はじめはなにか言いたげな女生徒達だったが、
結局、友人、大宮の迫力に圧されてしまい、無言のまま教室を後にしていった。
「はい、カバン」「あ、あぁ・・ありがとう」
手渡されたカバンを受け取り、ちょっとした上目遣いで大宮の姿を覗き込んだ。
「ん、なに」
その視線にすぐに気付いたのか、凄く照れくさそうに頭を掻いている。
「それより、さ」
大宮が視線を切る。その視線の先には黒岩未唯の姿があった。
「あんたもさ、言い返せばいいじゃない」
ずっと俯いたままの黒岩に向けて言葉を向ける。泣いているのか怯えているのかよく分からない表情をしていたままだった。
少女はふいに、気がついたかのようにあたふたと席を立ち上がるとぎこちなくお辞儀をして、教室から逃げ出してしまった。
「あ・・」
あまりの出来事にあっけに取られて、呆然と立ち尽くす二人。
「ち、なんだよ、あいつ」
腹立たしげに吐き捨てる大宮に少しだけ同情した。
―――――――――――
教室の片隅には、誰かが夏祭りの出店で捕まえてきた大きな黒い金魚が飼育されている。
たいがい出店で捕獲してきたようなものはすぐにその寿命を全うしてしまうものだけれども、
その金魚がすくすくと成長し、全長12センチメートルにも、せまろうかとしていた。
水槽のなかのオブジェには砂利、水車、陶器でできた安っぽい家、そして、「黒岩」と書かれた少し小さなノート。
それを取り出すことから黒岩未唯の朝は始まっていた。
いじめはいまだに続いていた。
大宮の手助けを無碍にしてしまってからは、誰にも止められることも無くなり、少しずつエスカレートしているかのように感じていた。
「ねぇ、止めないの?」
「やだよ、いまさら。ほっときゃいいじゃん」
ふてくされたように言う大宮。少しばかり同情の余地はあるが、それでもそうも言ってられないような気もする。
「じゃあ、アンタが止めればいいじゃん」
ふいに、言葉の端を尖らせて大宮の言葉が斬り付けてくる。
「で、でも」
「アンタいっつもそう。自分じゃなんにもやらないよね」
「や、違う。そんなんじゃ・・」
「・・ま、いいんだけどさ。でも、悪いけどさこの件はもう関わらないよ?」
「・・・・・。」
どうすればいいのだろう。こういうときいつも人に頼ってきたツケがまわってきたのだろう。
止めようと思っても、怖くてガタガタと震えてしまって、なんにも出来ないのだ。
いつも始業のチャイムが鳴るのを待つだけの日々。それが、なんとも辛かった。
補習が終わる頃にもまだ続いているソレに、まるで無関係を装うようにして、カバンを自分の席に取りにいく毎日。
そしてあるとき、事件は起こった。
先生が入ってきたのだ。それも最悪の状況で。
ある日の昼放課、いつものように、いや、もはや見慣れた感じでいじめが始まった。
それまでは軽くこづいたり、物を投げてキャッチボールをしたりするようなものだったのだが
この日は、誰がなにを思ったのか、ストリップショーを開催しようといいだしたのだ。
各所で巻き起こる「脱げ」「脱げ」コール。
またいつものように泣いているのか怯えているのかよく分からない表情のまま、頑なに拒んでいる黒岩の姿に
業を煮やしたのか生徒の一人が腹部のセーターに手をかけた。
ぎょっとしたような表情でこれまで見せたようなことのない抵抗をし、激しくあがらっていた。
やがて腹部に伸びる手が一本、また一本と増えて最後には完全に床に押さえ込まれるような形で
仰向けにされ、そしてブラウスごと一気にめくり上げられると、生徒達の手が一瞬で止まった。
そこには、痣、痣、痣。切り傷。今まで見たこともないような痕跡の痕が無数に刻まれていた。
「おいー!何をやってるんだ!」
先の騒ぎを聞きつけて、体格のいい男性教師が教室内へと侵入してきた。
「おい!お前ら、なにを・・」
入ってきた男性教師ですら、言葉を失う程の無数の傷跡をさらしたままの転校生と硬直したままの生徒達。
教室内の空気は凍りついたままだった。
時計の針ですら動くのをためらうなか、転校生黒岩だけがいそいそとブラウスを元に戻すと、そのまま教室を飛び出していった。
そして、その日は結局帰ってこなかった。
午後の授業は取りやめになり、急遽HRと今までのいきさつについて激しく先生達から問いただされた。
後日、教師達が黒岩の家に挨拶に行くと、腹部の傷は幼い頃に事故で出来た傷で、今は何も問題はないと
両親から告げられたという。だが・・。
その日から、黒岩は腫れ物扱いとなり、いじめはなくなったが、ますます一人で窓の外を見上げてる日のことが多くなった。
―――――――――――
「やめときなって」
そう言って制する大宮の言葉を振り切って、わたしは黒岩さんの席の前に立っていた。
時間はお昼休みの予鈴が鳴った直後。他の生徒達は各々の昼食にありつこうとせわしなく動き回っている。
わたしは母の作ってくれたお手製のお弁当を片手に、黒岩さんを昼食に誘おうとしている最中だった。
知りたくなったのだ。ただ、単純に。
この「黒岩未唯」という少女のことを。
きょとんとした顔をした少女を尻目に、教室には水面に小石を投入したかのようなざわつきと少しだけの不穏な空気が
漂う感じがした。
それを敏感に察したのか、少女はとまどいながらも、中庭でなら・・と応じてくれた。
わたしは大宮ともうひとりの友人、中島を手招きし、中庭へと誘った。
二人は、なんというか呆気にとられた顔をしていたが、教室内の空気を敏感に察したのだろう。
嫌な顔ひとつせずに
「さー、それじゃ黒岩ちゃんと仲良くなってみるかー」
「ま、これもいい機会かもね」
と、軽くのびをしながら、わたしの後についてきてくれた。そのまた後ろを黒岩さんがとても申し訳なさそうに
おずおずとした足取りでくるのを大宮が
「ほら!何してんの。はやくいくよっ」とがさつに背中を叩いて、促していた。それは少し、照れ臭そうな、嬉しそうな。
昼休みの中庭には、暖かな日差しが舞い込んできていた。ほがらかな午後の陽気。
初めて触れてみた転校生「黒岩未唯」の素顔は、そんな穏やかな午後の空気によく似ていた。
なんというか、決して口数は多くはないのだが、私達の他愛のない会話に相槌を打ったり、
質問をされると、とても照れ臭そうに耳を真っ赤にして答えたりとか、
まるできらきらとした宝箱にふれてしまったかのような、愛しそうななんともいえない笑顔で、私達3人の会話に聞き入っていた。
「えー、黒岩ちゃんこれで転校5回目なの?」
「・・うん、お父さんの仕事の都合で・・」
そりゃ大変だ、と腕を組んで頷く大宮。そりゃ友達作るのも苦手になるよねー、と中島。
えへへと頬をかく黒岩さん。まんざらでもないといった感じで頬を桜色に染めている。
その姿はまるで愛らしい小動物のようで、その魅力にすっかり中てられてしまった大宮はキューーーっと黒岩さんを抱き締め、
びっくりした黒岩さんはその腕の中ですっかり固まってしまっている。
それを見て、笑い声をあげる私達。
穏やかな昼休みはさりげなく鳴り響いた予鈴のチャイムと共に終わりを告げ、私達はいそいそと教室へと戻っていった。
放課後は用事があるらしく、黒岩さんは申し訳なさそうに断ると、少しだけ足早に教室を後にしていた。
―――――――――――
黒岩さんの口数は、決して多くなることはなかったが、わたし達は次第に打ち解けていった。
相変わらず、教室の中で昼食をとろうとしないのはいつものことだが
それは転校してきてからもずっとそうだったし、その理由もなんとなくわたし達は察してきていた。
「うーっす、ほら、今日はからあげ食べな」
「・・ありがとう」
いつの間にか、わたし達はお弁当のおかずを一品ずつ提供するのが日課になっていた。
黒岩さんのお弁当箱の中は、華の女子高生と呼ぶにはあまりにも色がなくいつも白米に海苔を
載せただけや、おかかが滲みののように申し訳程度で、まぶしてあるようなお弁当ばかりだったからだ。
お父さんの事業がかんばしくなく、子供の自分が贅沢を言ってられないというのが理由だったからだが、
それでも、あまりにもあんまりな感じだというので、大宮がひょいと無言で黒岩さんのお弁当箱に
野菜コロッケをのっけたのが始まりだった。
いつも通りの泣き笑いともとれるような笑顔をした後、大事そうに、もきゅもきゅと頬張る姿を眺めていた。
「でもさ、大変だね」
珍しく神妙な顔つきの大宮。そのあまりのもの珍しさに思わず、目が点になる私と中島。
それに気付いたのか、顔まで真っ赤にしながら大宮は声を荒げる。
「だ、だってさ!そうじゃん。ウチだってそう裕福だとは思わないけどさ」
「それでも・・!」
大げさに手振りをしながら、憤りを表現するかのような動きをする。
「仕方がないよ」
妙に落ち着いたような、あきらめたような声色で黒岩さんが言う。
おや?とその反応にその場にいる全員が思わずその動きを止めた。
「で、でも・・」
大宮が諦めきれずに反論する。
「誰だって生まれ来る親の所は決められることはないもの。もし、その場所はハズレだったとしても
はい、そうですかと選び直すことは出来ないでしょう。甘んじてその場所を受け入れるしかないもの」
落ち着きはらった、低く、それでいて透き通るような声は、つい先刻まで控えめにもきゅもきゅと揚げ物を
頬張っていた少女から発せられていた。今までみたことのない姿。
その貫禄に反論できずにいた大宮が、そのストレスの発散場所を求めて席を立つのを心配した中島が追いかけていった。
細く長いため息とともに、小さな体躯をさらに縮め込ませる黒岩。
「私は、連れ子なの」
少しだけ濁りをみせるその瞳に、その場に取り残されてしまったわたしは息を呑んだ。
だって、そこに写っているモノは、どうしようもないほどの不穏さを孕んでいるんだもの。
「女ってのは、怖い生き物だよ」
いつだったかのご婦人達のお茶会で聞かされた言葉だ。
「女って生き物はね、ひたすらに走っているんだ。走って、走って、走り続けて、いつの間にか
傾いてしまっても、それすら気が付かず走り続ける生き物なんだ。」
「そして、自分ではどうにも出来ないくらいに歪んでしまっても、それでも走ることを止めることが出来ないんだ。
なぜなら、立ち止まって振り返ってしまったら、自分が自分では無くなってしまっているということに
気付かされるからさ。だから走り続ける。たとえ間違っていてもね。」
からからと笑いながらそう話すご婦人達に、自分もそうなのかと尋ねてみると、
「あー、アンタはまだ大丈夫だよ。アタシらはもう何週もしてるけどねぇ」とまたカラカラと笑い声をあげるのだった。
その笑いながらも乾いた瞳にみた濁りを、黒岩未唯のなかにも発見してしまったのだ。
これは、大事だぞ、と。
頭のなかでいろんな思考がフル回転で稼動し始める。だが、答えなんて出来こない。当たり前だ。
子供の私がそんな「大人の女性」に対応する術なんて、持ち合わせていないのだもの。
「お母さんがね、どうしようもないの」
深い、ため息ともに黒岩未唯は重いくちを開く。
「わたしはお母さんの連れ子なんだけど、お父さんが暴力を振るう人ばかりだったの。
それでうまく行かなくなって、別れて転校してって毎日。今のお父さんも持っているほうだけど。
機嫌がいいときはいいのだけれど、良くない時は最悪。家中めちゃくちゃにかきまわされて
一晩中その片付けをしていたときもあったわ。お母さんはそれでもしょうがない、しょうがないばかり。
わたしもうつっちゃったのかな。しょうがない病。」
「え?!」
午後のほがらかな気候にはおよそ似つかわしくない、ヘビー級のボクサーのボディーブローのような話を聞かされて
わたしは思わずしどろもどろになってしまう。
そんなドス黒いもやのような事実とは対照的に、黒岩未唯のカラダは消え去ってしまいそうなほどに、縮こまっている。
「でもね。」
「だからといって、不幸せなわけではないの。いいときはいいの。とても幸せな平凡な一般家庭という感じで。
それに、わたしは文章の才能があるらしいから。いざとなったらわたしがそれで家族を養ってゆけばいいの」
「お父さんの機嫌が悪いときは仕事がうまくいってないときだから。お金の心配さえなくなれば
きっと幸せになれると思うの、うん、なれると思うわ。」
ごぼごぼとからだのなかで、泡が波立っているのが感じ取れる。わたしはそれがなんなのか分からずに対処できずにいた。
そして、ようやくくちを開こうとしたときに、昼放課の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「もうこんな時間」
黒岩未唯の瞳からはさきほどまでの濁りは消え去っていた。あるのは年相応の純粋そうな瞳。
「さっきまでの話は誰にも秘密にしておいてね?」
そう言って人差し指を口元にあて、軽くほほえんでから教室内へと戻っていった。
「女ってのは、怖い生き物だよ」
ご婦人のその言葉だけがグルグルと頭のなかを駆け巡っていた。
―――――――――――
その日以来、4人で取る昼食は、どこかぎこちないものになってしまっていた。
そして、気がつくと一人、また一人と減って、そして私と未唯、二人だけでいることが多くなっていた。
いまだにわたしは未唯になんて言えばいいのか分からなかった。
だから、他愛のない話題を出したり下らないことを言って、場を濁し続けるだけだった。
未唯はそんな私の気持ちを見透かしてか、ただ付き合ってくれていた。
最近、未唯はわたしの家族のことに興味があるらしく、ちょくちょくわたしの父や母の事を聞いては、
感嘆の声をあげたり、妙に納得したそぶりを見せたりしていた。
普通の家庭環境とはあまりにもかけ離れたうんちゃらとか、物書き特有の、幅の広すぎる難解なボキャブラリーで
私を混乱させるのを楽しんでいるようなフシさえ見受けられた。
以前、抱いていたイメージとは、180度違う姿がそこにはあった。
正確には、根っこは変わっていないのだけれど、見る角度が変わったという感じか。
「以前は波風を立てないように必死だったもの」
彼女はそんな風におどけて、ペロリと舌をだした。彼女曰く、自分の問題を家庭に持ち込むのがいちばん厄介らしく、
その日は超大型の台風が家のなかを吹き荒れたようになるのだとか。
一番望んでいるのは穏やかな凪の日のような毎日なのだから、自分で対処できる問題は自分だけで片付けてしまうのが一番いいと。
「いざってときは想像の世界に逃げ込んでしまえばいいし。」
彼女が時折り夢見心地だったのは、そんな理由があったからなのか。
妙に納得してしまった。
見た目は愛くるしい小動物のようなのだけど。女って、つくづく怖い生き物。と思った。
自分も生物学上では「女性」なのだけれども、とても「彼女」達のようになれる気がしなかった。
何が足りないの?人生経験?それとも生まれた環境?もしくは元々持ち合わせた才能?
「無い」者は「持ち合わせた」者を羨ましがるけど、当の本人達には意味のないことかもしれない。
だって「元々、持ってしまった」のだから。「持たざる人達」とはなにかが、決定的に違うのだろう。
まじまじと未唯を見つめていると、その視線に気付いたのか体躯をよじらせて顔を隠そうとする。これだ。
この思わず、もひゅっとしたくなる感じ。これが、わたしに決定的に欠けているものなのだ。
「え、なに。くすぐったいよ」
思わず、未唯を抱き締めながら頬擦りまでしてその小さな体躯を堪能する。
おんな特有の柔らかいにおいをふわふわと発しながら、未唯はわたしの腕のなかで大人しくなっていた。
「未唯ちゃん」
「なに?」
「未唯ちゃん」
「なに?」
「・・呼んだだけ。」
「えー、なにそれ」
クスクスと笑う。うん、やっぱりおんなって、怖い。と思った。
世の男性達が、夢中になってしまうのも分かる。おんなのこって、怖い。
―――――――――――
「ただいまー。」
いまだに昭和の様式美を引きずった横に開くタイプの玄関を、ガラガラと格好のつかない音を立てて家の中に入ってゆく。
和風と洋風のごっちゃになった居間に鞄を放り投げると、台所から「ちゃんと片付けなさい」と声が飛んでくる。
はーいなんて気のない返事を適当にかえして、制服をハンガーにかけ、お気に入りのトレーナー上下セットに袖を通す。
冷蔵庫をがちゃりと開け、パックのオレンジジュースをコップへ。そして、ソファに埋もれながら
カチャカチャとテレビのチャンネルを上から順に変えてゆく。
「ほらー、そんなにチャンネル変えないの」
「だってー、見たいものやってないんだもの」
となりの一人掛けソファでは、父が興味なさそうに新聞をがさり、とめくっている。
ようやく定まったテレビのチャンネルをオレンジジュース片手にぼんやりと眺める。
夕食が出来上がるまでの時間、我が家でよく見かけられる光景だ。
台所からは、香辛料のいいにおいが漂ってくる。今夜はカレーだ。
「あ、カレー」
「そうよ、中辛と辛口。どっちがいい?」
「中辛」
「辛口」
わたしと父が同時にくちを開く。
「はいはい。そういうと思って半分ずつ入れておいたわよ」
「えーーー」
親子ねぇ、と言いながらテーブルに鍋を持って、母が台所から出てくる。
わたしと父は、のそのそとソファから腰を上げ、テーブルへと移動する。居間のテレビは付けっぱなしだ。
銀食器の小気味いい音と、テレビから流れる雑音が心地よいBGMとなって我が家の夕食は進行してゆく。
「おお、どうだ。学校は?」
「別に。普通」
別段、取り挙げるような事もない会話のやりとりにも、未唯は瞳を輝かせて聞き入っていたっけ。
それこそが一般家庭の会話だね、とかなんとか言いながら。
こんなの、おもしろくもなんともないと思うんだけどな。
「ごちそうさまでした」
ぺろりと一杯半、母ご自慢のちょっぴり辛目のカレーをたいらげ、コップにオレンジジュースを注いでいると
さっきも読んでいたはずの新聞紙をまた開きながら、
「最近な、みょうなトラブルがおおくてなー」と
うわ言のように父が呟いた。
「ふーん」
大人の社会のことなどよくわからないが、こんなヌボーっとした風貌の父でもそれなりに苦労があるんだなぁと思った。
「おんなの人?」
くちに含んだばかりの麦茶を新聞紙にぶちまけて、父がむせ込んでいる。
それを見ながら母が
「やあねぇ。お父さんにそんな甲斐性あるわけないじゃない」とケラケラと笑った。
それもそうかと思った。こんな冴えない中年サラリーマンの代表みたいな姿をした父についてゆくなんて、
そんな人、よっぽど、どうかしていると思った。
あれ?でも、そうするとこんな父についてきてしまったお母さんも、よっぽどどうかしているということになるの?
そもそもこの二人はどうやって知り合ったのだろう。
「ね、お母さん達ってどうやって結婚したの?」
二人顔を見合わせて、はて?という顔をしている。母は下顎に人差し指をあてて、少しの時間考え込んでいた。
「気がついたら、一緒になってたのよ。ね?」
と、父に目くばせをする。父も少し照れ臭そうに「そうだ・・」なんて答えている。
「もうそんな年頃かー。早いわねー、時間って残酷よねぇ・・」
と母は心持ち嬉しそうにしている。父はびしょびしょにしてしまった新聞紙をようやく片付けながら
少し強張ったような顔をしてて、学生のうちはまだ恋愛なんて早いとか、うんちゃらぼやいている。
わたしはオレンジジュースをくっと飲み干すと、「ごちそうさま」と2階への階段を上がっていって
自分の部屋に向かった。
―――――――――――
季節はもう10月も半ばに入ろうとしていた。
夏の残暑もようやく影をひそめ、少しだけ肌寒さを感じるような季節になった。
「おはよう」
「おはよう」
互いに挨拶を交わす女生徒達の手も少しかじかんでいるようにも見えた。
この頃、私と未唯は新たな昼食の補給場所の確保に腐心している頃だった。
だったというのは、これを思い出しているのは、今、11月現在のこと、だからである。
この頃の事を思い出すのは今でも辛いし、また、それは現在進行形の出来事でもあるから
正直なところ、こころが引き裂かれそうな思いでもある。だけど、これを思い出すことで新たな扉への鍵となってくれるのなら
それは願ってもないことなのである。
今、現在、私と未唯の関係は修復不可能なところにまで、破壊されている。
引き裂いたのは周りの大人達と環境、そして・・、何より、わたし達自身であったのだろうが、
出来ることならわたしはまた、以前の関係に戻りたいと思っている。
だが、未唯の気持ちがわからない。理解することができないのだ。
彼女がなにを感じ、考えているのかが、わからない。
だから、この10月からの数週間を思い出してゆけば、なにかが掴めると信じている。掴めると信じたい。
それでは、始めるとしよう。
―――――――――――
「おはよう」
「おはよう」
ようやく私達と同じ、えんじ色のセーターに身を包んだ未唯と挨拶を交わす。
衣替えの季節まで待ちきれなかったと、心底嬉しそうにしている未唯に私達は顔を綻ばせる。
「ようやくみんなと一緒になれた」なんて子供のような無邪気な笑顔で軽やかなステップを踏んでいる。
この頃、私達は再び4人で昼食をとるようになっていた。
きっかけはなんだったのだろう。うん、そうだ。きっときっかけなんてない。
バツの悪そうにしていた大宮が戻ってきて、そのしばらく後に中島が侘び賃代わりに、駅前「サン・ペリエ」の
特製シュークリームを持ってきたことだろうか。
なんにせよ、わたしは再び4人でわいわいと騒げることによろこびを感じていた。
未唯はたまに調子の悪そうにしているときもあったが、それでも以前に比べよりも饒舌に喋る姿を披露して
二人を驚かせていた。
放課後も未唯の用事の無いとき以外は、いつも4人でどこかに出掛けていたように思う。
あの頃の未唯は本当に幸せそうだった。
未唯がわたしと二人だけのときに話してくれた
「小説も役者も一緒なのよ。読者は、観客は、作者の心地よい嘘で気持ちよく騙されたいの。
そこに演者自身のことなんて関係ない。どんなに心がズタボロでも、身体が壊れてても
一度、舞台の上に上がってしまえば平然としたフリをして、観客を騙し続けなければならない。」
そんな話を思い出すまでは。
ある日の朝、教室のなかは騒然としていた。
「おはよう」
からりと、教室の扉を開けて自分の席まで向かおうとした最中、人だかりに気付いた。
あの席は未唯の席のあたり・・、なにかあったんだろうか。なんて、悠長にかまえていると
人だかりの足のすき間から明らかに真横を向いているうわばきの形が見えた。
思わず駆け寄ると、床につっぷしたまま腹部を押さえ苦しそうに呻く未唯の姿とそれを心配そうに
見守るみんなの姿だった。
「未唯」
心配そうに手をかけようとするが、それを制され、
「大丈夫、だから」
と青ざめた顔で未唯に言われた。
「大丈夫なわけないでしょ」
近くにいた男子に
「ねぇ、救急車呼んで?」
と頼んだ。未唯は
「大丈夫、だから。ちょっと休めば良くなるから。救急車なんて呼ばないで」
と男子生徒に懇願した。男子は混惑した様子であたふたした様子で
どうすればいいのか戸惑っていた。
未唯は、頑なに救急車を呼ぶことを拒んでいた。なら、保健室で、という呼びかけにしぶしぶと応じ、
棒っきれのように突っ立っている男子生徒に保健室まで担架で運んでもらうことにした。
わたしは、未唯のそばでずっと手を握っていた。
未唯を保健室まで運ぶまでの間、コレが未唯の父親の仕業であることに気が付いた。
だから救急車を呼ぶことを頑なに拒んだのだ。
前にも言っていたじゃないか。未唯自身の問題になると嵐が来ると。
でも、だからって・・、
保健室まで未唯を運び終え、担任に事情を説明している。騒ぎを聞きつけた大宮と中島も保健室の前までやってきた。
事情を知らない大宮や中島はともかく、担任までもが救急車を呼ばないことに疑問を持った。
当たり前だと思う。誰がどう見たって保健室で休んだ程度で直るような苦しみ方では無かった。
もういっそのこと、洗いざらい全部話してしまおうか。そう考えていた矢先、保健室の中から
「ヒィッ」
と短い悲鳴があがるのが聞こえた。
私達は慌てて保健室のなかへと押し入った。
保健室のベッドには、鮮烈な赤い滲みと傍らには、手と口を同じ緋色で染めた少女が倒れていた。
「おい!救急車だ!はやく!」
担任が慌しく指示を出す。私はもうどうすればいいのかわからなかった。
頭を抱え込んで、その場にへたり込んでしまった。
同じように保健室のすみでへたり込んでいる保険医を、大宮が腕をつかみ引っ張りあげる。
中島が私の前にきてやさしく抱き締め、
「大丈夫。大丈夫だから」
と慰めてくれた。
わたしは流れ出る涙を止めることができず、ただひたすら泣き続けていた。
少し経つと、遠くの方からサイレンの鳴る音が聞こえた。
「で、どういうことなの」
放課後、わたしは中庭のいつものベンチで大宮と中島に問いただされていた。
わたしは、未唯には悪いが全て話してしまうことにした。この二人にはいいだろう。そんな軽い気持ちで。
二人ははじめ黙って聞いていたが、そのうち深い憤りを隠せなくなっていた。
「なんでそんなこと黙ってたの!」
「ウチら、友達でしょ!?」
「ごめん」
「未唯だって友達でしょ!?」
「ごめん」
わたしはこの二人が未唯のことも友達だと思っていてくれたことが、嬉しかった。ほんとうにほんとうに嬉しかった。
「友達だったら何とかしてあげたいと思うのが当然じゃん!!」
大きく拳を振り上げて大宮が立ち上がった。そーよ!これから作戦会議よっ!と中島も息巻いている。
3人で喧々囂々と今後のことについて話し合っていると、担任が現れた。
「おー、こんなとこにおったか」
未唯はどうやら無事に手術が終わったらしい。後、もう少し運ぶのが遅かったら命に関わっていたらしいが、
数週間、入院して安静にしてたら、その後はまぁ、なんとか経過を見ながらだが、登校できるとのこと。
「それよりも、なぁ」
担任は困った素振りで首の辺りをポリポリ掻きながら、唸っていた。
「先生、相談があります」
声を揃えて言った。
「親御さんの、ことだろ?」
とヌボーっとした担任は首を掻きながら言った。
「医者の先生の話じゃ、かなり以前から虐待らしき傷跡があったって話なんだけど、
虐待なんてしていないの一点張りでなぁ。今朝の件も階段から落ちたって
言い張って聞かない。本人に聞くのが一番なんだが、まだ意識が戻ってないしな。」
「なんにせよ、対処できるのは本人の意思次第なんだけどな」
ヌボーっとしたまま、踵を返し担任は去り際にこう告げた。
「ま、お前達が一番力になれるのだろうから、なんとか説得してやってくれ」
右手を気だるそうにあげながら、担任は校舎の中へと消えていった。
私達はその言葉に火がつき、日が暮れるまで意見を交換し合った。
―――――――――――
「ただいま」
いつものように格好の付かない音を立てながら玄関を開ける。
いつものように靴を脱ぎ、いつものように制服をハンガーにかけ、
いつものようにオレンジジュースをすする。
・・はぁ、我ながら自分のボキャブラリーのなさにあきれ返ってしまう。
こんなとき、未唯ならどんな風に表現するのだろう。きっと、あっと驚くような書き出しで
私達をあっといわせてくれるに違いない。
・・いけない。余計なことを考えてはいけない。
これは未唯を取り戻すための戦い、私にとってのいわば魂をかけた聖戦なのだ。
つまらないことを考えていては、いけない。
そう・・、それから確か・・そうだ。確か、このときは横に父がいた。険しい顔をして。
そのあまりの剣幕に家の中がピリピリしていたのを憶えている。
「お父さん」
母は父を諭すように穏やかな口調で言った。
「ん・・」
父は上の空で、生返事をしたまま、ソファの上でずっと考え事をしている。
なんだか、少し居心地が悪かった。
あぁ、これが不機嫌の味か・・と子供ながらに思った。なら、嵐の日はどうなるのだろう。
きっと指一本動かすことすら、ためらってしまうのではないか。そう、思えた。
ただ、ひたすら嵐が過ぎ去るのを耐え凌ぐ。そして再び凪の日がやってくるまでただひたすら耐えることを強要させられる。
なんというか、あの日、未唯の言った「仕方がない」にはどれだけの重みがこめられていたのか。
自分がほんのちょっぴりだけ体験して、これだけの重みなら実際の嵐に遭遇したことのある未唯にとっては、
その言葉がどれだけの深さと重さをもっているのか、ちょっと想像がつかなかった。
あのコは、どれほどの痛みに耐えてきたのだろう。
なんとしてもあのコを救い出さなければ。そう決意を新たにした瞬間だった。
その日の夕食はなんとも重苦しい空気に包まれていた気がする。
かちゃり。
かちゃ。
ぱり。
ぽり。
ずず。
無言で食物を口に運ぶ音と、それを咀嚼する音。
「ごちそうさまでした」
箸を置き、手を重ねる。それまでムスッとしていた父が物言いたげに口を開く。
「お前の学校に黒岩って名前の生徒いるか?9月頃に転入かなにかして」
私はその言葉に心臓を鷲掴みにされたかのような気持ちになって、思わず父の顔をぎゅっと睨んでしまった。
「い、いるけど。」
「・・そうか」
それきり父は押し黙ろうとしてしまったので、わたしは語気を強めて問い質した。
「いるよ。いるけど、それがどうかしたの。今そのコちょっと大変なことになっているんだけど。」
それを聞くと、父は「・・あぁ。」と表情を暗く落とした。
ざわつく。胸がどうしようもなくざわつく。私のなかでどうしようもなくいやな予感しかしなかった。
父はとても申し訳なさそうに
「実はな、ウチの会社の下請けのさらに下請けの会社にな。その9月頃くらいから入ったところが
あるんだが、そこがまた大変な会社で。発注どおりにつくらない、納期を簡単にすっぽかす、
金額ミスを意図的にする、そこの社長の名前が「黒岩」っていうんだが」
「その男がまた大変にどうしようもない男で」
「さんざん注意してきたんだが、どうにもならない。ウチの会社だって、多分に大目にみてきたつもりだったんだが
そう、いつまでも譲歩できるわけじゃない。そこで先日、契約破棄にいってきたんだが」
あぁ、
あぁ、なんということだろう。
「そこで何と言ったと思う?」
やめて。
「お前の通う学校の名前を出してきて」
やめて。聞きたくない。
「オタクの娘さん、通ってるんですってねぇ」
もう、やめて。聞きたくない。
「かわいい娘さんですよね。大事にしたほうがいいですよ、なんて」
お願い、お願い。もうやめて。
「脅迫まがいのことまでしてきたものだから、ついカッとなってしまってな」
お願い、お願い、お願い、お願い、お願い。
「弁護士を交えて、契約事項について訴訟を起こさせて・・
「もうやめてっ!!!」
わたしは思わず叫んでいた。
両親はわたしのあまりの剣幕に驚き、固まったままだった。
わたしはこぼれおちそうになる涙を手で隠しながら、必死で階段を駆け上った。
「女って怖い、生き物だよ」
いつかのご婦人の言葉が浮かんできた。
・・女って、怖い?
それを言うなら、おとこのほうがよっぽどこわいじゃないか。
女はただ、大海に浮かぶ小舟のようなもの。
おとこはそれを撒き壊す嵐。わたし達おんなはただひたすらそれに打ちのめされるだけ。
怖い、怖い。わたしは怖い。
「おとこ」も「女」も怖い。
「人間」が怖い。この世界が怖い。
―――――――――――
次の日はどうやって過ごしたかあまり、憶えていない。
その次の日のことも。
だが、その次の日のことはよく憶えている。忘れる訳がない。
わたしはいつものように登校した。
最近、俯きがちだった顔をあげようとして、信じられない光景をみた。
「なんでいるのっ!?」
そこには頭に痛々しいほどの包帯をまいて、左目をすっぽりと包帯に包まれた黒岩未唯の姿があったからだ。
瞳がどうしようもないほど、暗く澱んで力なく笑っていた。
「・・なんでって、治ったからよ」と生気の抜けた人形のように笑った。
「うそ。治ってるわけなんてないじゃない。」
「ほんとだよ。お父さんが治ったっていったんだもん。だから、治ってるよ」
・・お父さん?
「あんな男の言うことなんてなんで聞くのっ!?」
「お父さんのこと知ったふうなクチ聞かないでよっっ!」
「ウチには、わたしなんかが入院しているお金なんてないのよ!それよりも
さっさと卒業して働きに出掛けなきゃ生きてゆけないのよ!」
わたしは未唯の細い肩を両手でぎゅっと掴んだ。たったそれだけの衝撃だけでも苦しそうに呻く姿に
どうしようもないほどの憤りを感じていた。
「卒業しなきゃって・・。アンタ今のままじゃ卒業なんてできるわけないじゃない・・。
お願いだから・・」
それきり言葉が出てこなかった。縋りつくように泣き崩れるわたしをかろうじて支えていた未唯は
やがて渾身の力で持ってわたしを振り払った。
「だからって、どうすればいいのよ!家にいたってお父さんに際限なく暴力を振るわれるだけだし!
病院に行くためのお金だってありゃしない!ねぇ!どうすればいいのよ!どうしたらいいのよ!教えてよ!」
「教えてよ!ねぇ!教えてよ!どうしたらいいのか教えてよ!」
未唯は力尽きたようにその場にへたり込み、やがて泣き崩れた。
わたしもただひたすらに泣き続けることしか出来なかった。
子供って無力だ。ひたすらに無力だ。
こんなに痛感させられたことはなかった。
わたし達が何でもできると思っているのは、親の力を借りているだけであって、
その親にさえ力がなければ、こんなにも簡単に駆逐されていってしまうものなのだ。
わたしは無力だ。
目の前にいる友達ひとりさえ、救うことが出来ないなんて。
「おいおい、どーしたー」
いつの間にか始業のチャイムが鳴っていたのか、担任の教師がヌボーっとした様子で入ってきた。
そして、黒岩の姿を見つけると少しだけ表情が強張った。
「おいおいおいおい、黒岩。お前、病院はどーした?」
「大丈夫です。もう治りました」
「・・大丈夫なんかじゃないです。」
担任は少しだけ辺りの様子をうかがうと
「おい、てきとーにHRしとけー」
と周りの生徒に促して、わたし達を連れて教室を出た。
向かう先は、保健室。
すでに大分息のあがっている黒岩をベッドに寝かしつけると「ちょっと用があるから」と保健室を出て行った。
室内にはわたし達二人と、保険医の先生。
わたしが目くばせをするとそれを察してくれたのか、保健室を出て行った。
室内にはわたし達二人。
先刻からずっとそっぽをむいたままの未唯を見つめながら、わたしは切り出した。
「ね、わたし達ずっと考えていたのだけど」
「わたし達?」
どこか言葉尻をとるような発言に少しどきりとするが、
「あなた、やっぱりあの家を出たほうがいいと思う」
その言葉によほど腹に据えかねたのか未唯はぶるぶると震えながら、上体を起こして
「私達、おやこはずっと一緒に暮らしてきたのよ?それを今さら離れろって?
ね、ずっと一緒に暮らしてきたのよ?どんなことがあっても、なにがあろうとも
耐えながらずっと。離れられるわけないじゃない。」
「でも、このままじゃきっとあなた殺されちゃう」
「そんなわけないじゃない。そんなことするはずがない」
「でも、今だって・・!」
「そんなわけない。」
「先生だって、そう思う」
いつの間にもどってきたのだろう。気がつくと担任が入り口のドアに、もたれかかっていた。
「先生まで・・。そんなわけないじゃないですか」
「私達、家族がそんなわけないじゃないですか。私達がそんなわけない。
私は守らなくちゃ。家族を守らなくちゃならないんです。私がいなくちゃダメになっちゃう」
「先生、もう治りました。もう治りましたから授業受けさせてください。ほら、もうこんなに元気、元気ですから」
「そんなわけないだろう。救急車、呼んどいたから」
「先生!大丈夫です!私、治りましたから!もう全然へっちゃらですから!
病院行ってるヒマなんてないんです!お金も・・」
「お金は心配しなくていいよ」
「でも!」
遠くの方からまたサイレンの響く音が聞こえる。
「あと、親御さんは面会させないようにするから」
「そんな!どうしてですかっ!なんでです!ほら、なにか言ってやってよ!アンタも!」
「・・ごめん、未唯。私もそのほうがいいと思う」
「病院を退院したら、しばらくは施設に暮らしなさい。先生が手配しといたから」
「そんな・・!あんまりです、あんまりですよ!ダメに・・ダメになっちゃう
今まで必死に守ってきたものが全部ダメになっちゃう・・!」
未唯があんなにも取り乱した姿を見たのはあれが、初めてだった。
そして、あんなにも感情を剥き出しにしたのも、あれが最後だった。
やがて、救急隊員の人がやって来て未唯は病院へと運ばれていった。
―――――――――――
未唯はあれから、なんとか退院して今は施設から通学している。
だが、その姿は糸のきれた人形のようだ。
誰とも会話をすることもなく、ただひたすら窓の外を眺めている。
まるで、転校してきた当初のように。
ずっと空想の世界をただよっている。海に浮かぶ小舟のように。
たぷん。
たぷん。
と、揺れながら。
私達が話しかけても「ああ」とか「うん」とかしか、反応が無い。
瞳は濁ったままだ。もう、あれから何週もしたかのように。
走って、走って、走り続けて、そして振り返ってしまったのか。
そして気が付いてしまったのか。自分が自分じゃなくなっていることに。
そして、わたしはここまで書き出してみて気が付いたことがひとつだけ、ある。
それは、事象に対峙しているときには気付かなかったもの。
未唯が頑なに、守りたかったもの。
明日は、それを未唯に伝えに行こうと思う・・。
―――――――――――
朝。少しだけ早起きをした私は制服のジャケットに袖を通す。
すっかり秋の気配に包まれた洗面台の前は、ピンと空気が張り詰めていた。
こんがりと焼けたトースターを口に運び、牛乳を一口。
斜め向かいに座っている父は、いつものように新聞紙と格闘している。
「お父さん」
「ん」
スッと差し出したサラダを受け取ると、父は無言で食べた。
「何かあったらすぐ連絡しなさい。」
「はい」
それきり会話は途切れる。わたしは朝食を食べ終わると、黙って席を立った。
立ち去り際、小さく「ありがとう」と呟く。父は黙ったままだった。
登校途中の道は、いつもと変わらない。1年半、誰かと一緒だったり、一人だったり。
昇降口を抜け、自分の下駄箱に靴を入れる。いつもは適当だが、今日は特別。かかとを揃え、箱のなかへきちんと。
自分なりの願掛け。おまじない。今日のことが、どうかうまくいきますように。
教室のドアを開け、自分の席に座る。おごそかに、慎重に。全ての動作に願掛けをしながら。
昼食はあまり、喉を通らなかった。大宮と中島も今日は静かだった。
昼放課の終わりを告げるチャイムの鳴る直前。
中島は私の手の上に自分の手を重ね、力強く頷いてくれた。
大宮は、わたしの背中を押し出すように力強く叩いてくれた。
嬉しくて涙が出そうだった。
わたしはぐっと涙を堪え、食べかけのお弁当をしまうと教室に戻っていった。
放課後のチャイムが鳴る。慌しくこの後の予定の話をしながら、一人、また一人と教室から去ってゆく。
そして、教室にはわたしと未唯の二人だけが残った。
未唯はあいかわらず窓の外を見たまま。
わたしの心臓の音がどくん、どくんと大きくなっていた。
視界もぐにゃりと歪んでる気がする。
だめだ、しっかりしないと・・。
わたしは、かたり・・と椅子から立ち、未唯の後ろの席まで歩いてゆく。
立ち止まると、ぼんやりとしたままの未唯の後姿に声をかけた。
「未唯」
しばらくの間、ぼんやりとしたままだったがようやくわたしのことに気がついたのか、
「うん」
ぼそっと呟いた。
「二人きりだね」
「うん。」
「・・・・・・・・・」
壊れた蓄音機のようにくり返している。
ここにあるのは「黒岩未唯」という形を成しただけの少女の残骸なのか・・。
「二人きりだね」
わたしはもう一度確認するように呟いた。
「・・・・・・・。」
今度は返事がなかった。
さらさらと窓の隙間から入り込む風にカーテンが揺れている。
部活動に励む野球部員達の掛け声が響き、校舎外にたむろしている生徒の楽しそうな談笑が聞こえてくる。
わたしは立ち尽くしたままだ。
ごくりと息を呑み込んで、わたしは覚悟を決めた。
「未唯。初めて二人きりになったときのこと憶えてる?」
「うん」
「あのとき、言ったよね。仕方がないって」
「うん」
「そんなの嘘よ」
「・・・・・・・・。」
しばらくの間、沈黙が続いていた。やがて、未唯はかたり・・と椅子から離れようとする。
あ・・。
あ・・。
待って、いかないで・・。
あなたが行ってしまったら、この先の、これから先の私達の時間は永遠に失われてしまう。
どうにかして繋ぎとめようと、必死に言葉を探す。
「・・逃げないで!」
口にした瞬間、しまった、という顔をしてしまう。そんな言い方するつもりなかったのに・・。
「逃げてなんか、ないわ」
少し八つ当たりするかのように乱暴の椅子を動かし、未唯は再び自分の椅子に座り直した。
「逃げているわよ。何もかも、全部」
「逃げてないわ」
「逃げてる」
「逃げてなんかない。」
「・・じゃあ、何で仕方ないなんて言えるの?逃げてる証拠じゃない。そんなの・・」
ばしん!!
左頬に強烈な痛みが走った。思わず、手で左頬を覆い被せるように押さえた。
おお粒の涙を流しながら未唯は、先刻まで座っていた椅子を後方に薙ぎ倒し、息を荒げながらその場所に立ち竦んでいた。
「だって!仕方ないじゃない!どうしろっていうのよ!」
「もう、逃げたりしないで!わたしも、もう、あなたから逃げるのを辞めた!!」
未唯は驚いたような表情をみせている。
左頬がじんじんと傷むのをおさえながら、わたしは強い口調で言い放つ。
「わたしは、もう、あなたから逃げない!あなたの周囲から逃げない!あなたの環境から逃げない!家族から逃げない!
あなたを取り囲んでいる、すべてのことから逃げないって決めたの!なにがあろうと戦ってやるって!!」
驚いたような、あきれたような表情を浮かべ、未唯は嘆く。
「あなたは、いったい、何を言ってるの・・。何がいいたいの・・・」
「はは・・、ゴメン意味分かんないよね」
ばしん!!
「そんなせせら笑うような態度で私の戦場に入ってこないでよ!」
再び打たれた左頬が、じんじんと痛む。それぐらいが何だというのだ。
こんなもの今までこの目の前の少女が受けた痛みの何百分の一にもなりはしない。
「ごめんね」
「謝るくらいなら、最初からそんな下らないこと言い出さないで!」
ばしん!!
「ごめんね、今までずっと辛かったんだよね。」
ばしん!!
「ずっとこんな痛みに耐え続けてきたんだよね、ごめんね」
ばしん!!
「だからなんだっていうのよ!可哀想だとでもいうの?!そんな薄っぺらい同情なんて誰も求めてない!」
ばしん!!
「ううん、違うの・・。わたしが言いたいのは、そんなのじゃない・・。」
「じゃあ!なんだっていうのよ!私にしてみれば全部同じ事なの!一緒なのよ!」
ばしん!!
わたしの頬をぶつ未唯の右手が真っ赤に腫れ上がっているのが見える。
「もう放っといてよ!もう誰とも関わりたくない!関わり合いたくなんてないのよ!」
ばしん!!
幾度となく叩かれ続けた左の頬はもうあまり感覚がなくなっていた。それでも、
ばしん!!
「わたしは気がついてしまったの」
・・・・・・・・。右手が止まる。
その言葉に未唯はひくっと、その細い体躯を揺らした。
「わたしは気が付いてしまった」
「なにを言ってるの・・よ」
伝えなくてはいけない言葉は何かを、わたしは知っている。
「あなたがどうにかなる原因。」
「あなたが本当に、たいせつに守りたかったもの・・」
「待ってよ。今さらそんな・・」
未唯はそこまで言って、口をつぐんでしまう。そこには切望して諦め続けた何かを
望んでやまない表情があった・・。
寄せては返す漣のように心の中はこんなにも静かで、頬はこんなにも熱く疼いて
でも、うねりを挙げ続けた感情の波はたった一つの解答だけを持って、漂流していたんだ。
「わたしが、あの時あんなことを言わなければよかったんだよね。」
未唯ははじめ黙って、立っていた。
やがて俯くようにして、嗚咽をあげ始める・・。
わたしは未唯の右手を手にとり、自分の左頬に当てて、
「ごめんね。気付いてあげられなくてごめん。あのとき私達がしなきゃならないことは
あなた達、親娘をあの男から引き離さなければいけない事だったんだよね。」
私達は間違っていた。間違えていたから、こんなことになってしまったのだ。
問題の認識自体を間違えていたから、なにもかも掛け違えてしまった。早く気が付くべきだった。
未唯は肩を震わせて、ポタポタと大粒の涙を流し続けてゆく。
「あの男は・・、かんたんに暴力を振るってくるの・・。私達は、ただそれに黙って・・耐えてるだけ。
それは一晩中、続くこともあった・・。それでも・・ただ・・、それが過ぎ去るのを・・待つだけ」
「ごめんね。」
「酔っ払っているときも・・ささいなことで・・怒鳴り散らして・・動けなくなるまで・・殴られ続けて
わたしが動けなくなると今度は・・母の番で・・」
「ごめん。」
「私は・・それが・・嫌で・・嫌で、・・なりふり構わずに、なんとしてでも・・母の番にはしたくなくて・・」
「ごめん」
「でも・・それすらも引き離されできなくなってしまって・・どうしたら、・・どうしたら」
「ごめんね」
「お母さん・・」
その場にへたり込む。
「・・お母さん・・」
「ごめんなさい・・」
ボロボロと大きな涙を出しながら、未唯は泣き崩れてゆく。
「・・お母さぁん、お母さぁん・・。」
わたしはそばに寄りかかり、優しく未唯を抱き締めた。
未唯のか細い腕が、わたしの肩口から廻り力無くしがみついて
「・・お母さぁん、お母さぁん・・。」
力なく呻く・・。
「・・お母さぁん、お母さぁん・・。」
「ごめん」
「・・お母さぁん、お母さぁん・・。」
「ごめんね」
「・・お母さぁん、お母さぁん・・。」
「ごめん」
「・・お母さぁん、お母さぁん・・。」
気が付いてあげられなくて、ごめんね。
柔らかい黒髪をそうっと撫で、きゅっと抱き締める。
制服が擦れ合う衣擦れの微かな音。湿り気味の暖かな鼓動。
目を閉じ、確かめ合う。この静謐で絶望的な世界でも一人ではない、と。
短く漏れ出るため息に嗚咽が混じり込んできて、ひきつけでも起こしたように大きく体躯を揺らす。
「大丈夫。」諭すように語り掛ける。その言葉を懸命に肯定するかの如く、ただ、ひたすら頷き続けた。
絡み合い、やがて自然に解れ出したかのように、私達はお互いに向き合って座り込む。
繋がったままの両手にぽたり・・と涙を零しながら
「・・怖いの」
と、未唯は言う。
「私は・・もうあの男が怖い・・。・・暴力が怖い」
「施設に入れられたとき・・、どこかでホッとした・・。もうこれで暴力から逃れられると・・。
同時に、母のことも・・浮かんだの。でも、私は・・」
そこまで続けると、未唯はまた再び涙を流し始める。
「仕方がない・・、仕方がないなんて・・、ずっと言い聞かせても・・
いつも母のことが、頭に浮かんで・・」
「でも、どうしたらいいのか分からなかった!もう耐え切る自信なんてなかった!
私は・・臆病者よ!ずっと・・守ってくれた母を・・置いて、逃げ出してしまった臆病者なの!」
「いや、・・卑怯者なのよ・・!でも、・・怖い、・・怖いの・・。・・怖くて仕方がなかったの・・!」
瞳をくしゃくしゃに潤ませて、未唯は何者にでもなく責めるように嘆願し続けた。それは自分自身に向けて。
「怖いの・・怖いの・・怖いの・・、暴力が怖いの・・」
「もう大丈夫、大丈夫だから」
わたしは、傷つけるように自身を責め続ける未唯に両の手で覆い被さって呟いていた。
「もう大丈夫だから。」
未唯は唇を小刻みに震わせながら、一身腐乱に頷き続けていた。
わたしは、未唯を落ち着かせると制服のポケットから一枚の用紙を取り出した。
―――――――――――
わたしはしとしきり説明し終えると、再び、制服のポケットに紙をしまい込んだ。
未唯は瞳をぱちくりと驚嘆の表情と共に聞いていたが、やがて暗く沈み込むように
「・・できるかな。不安だよ・・」
と嘆いた。
「できるよ、大丈夫だよ!」
明るく振舞いながら、未唯の両手を手にとる。
「心配ないよ。絶対できるって信じようよ!」
「でも・・」
「大丈夫!」
「・・ほんとに?」
「・・いざってときにはすぐ突入できるように、近くで待っててもらうから!」
「・・そっか。」
未唯の物憂げな表情が次第に明るくなってゆく。
わたしは前日の日に父に相談をし、助言と協力の提案を受けていた。
数日前、母から未唯との関係のことを聞かされ、父は今回の件に関して、相当の負い目を感じていたみたいなのだ。
あんまり父が申し訳なさそうにしているので、こっちまでなんだか申し分けない気持ちにさせられたのだが、
テキパキと判断を下してゆく父の姿をみて、なんだかとても頼もしい気分にさせられた。
「・・大人、ってすごいねー・・」
未唯は心底びっくりしたように言う。
わたしもつられて
「うん、すごいねー・・」
と声を揃えた。
「すごい」
「すごいね」
「すごい」
「うん、すごいね」
「ばっかみたい。」
「・・え」
「・・わたしばっかみたいじゃない?自分だけで抱え込んじゃって、さ。
いろんな人にもっと相談していれば、こんなことにはならなかったじゃないかな。」
「え、でも・・いや、そんな。」
「私、もっと大人にならなきゃ。・・口下手じゃだめよね。」
「え、・・そんな」
「ふふ」
「・・ふふふ」
「ふふふふ」
「あははは」
二人とも、そんなやりとりがなんだか滑稽で可笑しくなってしまった。
手をつないだまま、笑い合った。
わたし達はなんてちっぽけな世界で生きてきたんだろう。
きっとわたし達の見ている世界は大人の何倍も小さい。
この箱庭のような世界を飛び立つ日が来たとき、わたし達は大人になってゆくのだろう。
瞳ににじんだ涙を指で拭って「行こうか」と未唯が言う。
わたしも腰を上げ、返事を返す。
教室のドアをからりと開け、眩しい陽の差し込む昇降口を手を繋いで出て行った。
―――――――――――
途中、父に連絡を入れ、知り合いの方に来てもらう。背の高いがっちりとした体型の男の人が二人。
父の会社の人だ。白色のスポーツセダン車の後部座席に座り、途中まで送ってもらう。
車内では「人使い荒いよなー!」とか「荒事はまかせといてよ!」って
軽口を叩きながら近所のスーパーマーケットに買い物にでも行くような感じ。
わたしと未唯は肩を竦めて「変なひとたち。」と囁きあった。
それが聞こえてたのかまた何やら変な事を。
可笑しくなってまた笑い合った。
一度、家の前を通り過ぎて場所を確認すると、少し離れた場所に車を止めて携帯電話を渡してもらう。
「一度でも鳴らしてもらえれば大丈夫だから。」と、発信ボタンの場所と
不測の事態の時の対処法を何種類かのパターンに分けて説明してもらう。
「ほら、向こうにももう一台。」と離れた所で止まっている車を指差し合図を送る。
向こうの車のヘッドライトが、合図を送り返してくる。
中には、3人・・4人?屈強そうな人達。
「じゃあ、頑張ろうな」と手をひらひらさせる。さっきまで軽口を叩いていた顔が嘘みたいに引き締まっていた。
それにつられ緊張感が・・。未唯の表情もいつしか強張っていた。
それに気付いたのか運転席の男の人が「はい、リラックス、リラックス」と
両方の手の平を顔の前で蟹の足みたいにひらひら、ひらひら。
わたし達は、そんな子供みたいな仕草をする若い男の人を見たことがなかったので
思わず吹き出してしまう。安心したように男の人は
「よし、緊張は解けたかなっ」と背中を叩いてくれた。
わたし達は「行ってきます」と声を揃えると目的地に向け、歩き出した。
―――――――――――
未唯は深呼吸するように大きく息を吸って、はく。
「大丈夫?」
わたしが心配そうに尋ねると、「うん。大丈夫」と力強く頷いた。
築何十年と経っているようなボロボロの木造の平屋。此処が未唯の住んでいる家。
荒れ果てた庭は雑草がもうもうと生い茂っている。鬱蒼とした雑木林。
割れた窓ガラス。中には人の動いている気配がする。
しばらく様子を窺ってわたし達は気持ちを固める。
「いこうか。」
「うん、いこう。」
少しでも気を抜いたら、へたり込んでしまいそうなほど足がガクガクしている。
未唯も平静を装っているが唇の先が小刻みに震えている。
心臓がばくん、ばくん、と脈打つ。
でも、怖がってなんかいられない。
もう、すでに手遅れになっているかもしれないのだ。
でも、もしそんなことになっていたら、・・このコは。
心配そうに未唯を見つめる。
視線に気付いたのか未唯はこちらに振り向き、笑顔をみせる。
すこしぎこちない笑顔。
・・そうだ、この子の為に戦おうって決めたんだ。
今からそんな弱気でどうするんだろう。信じるしかない。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
・・絶対、大丈夫。信じよう。
・・よし、行こう。
歩みを進め玄関の前に着くと、引き戸になった玄関に手をかけた。鍵は開いていた。
―――――――――――
からからから。
引き戸を開け、玄関の中へと滑り込むが、そこは驚くほど静かだった。
未唯も途惑いを隠せない。
あれ?こんな静かなの?・・、そこに一抹の不安が過ぎった。
もしかして・・、もう遅かったんじゃ。
みるみる青ざめてゆくわたしの顔に気付いて、未唯は顔をくしゃくしゃにした。
あ、と気付いて、どうにかして未唯を支えようとすると、
「ハーイ」
と、中から間延びした声が聞こえてくる。
ぱたぱたとスリッパの音を響かせて、中から細身のおんなの人が出てきた。
「あら、未唯ちゃん?」
のほほんとした口調で突然現れたわが娘の姿にきょとんとしている。
「お母さん?」
未唯は半分、腰を抜かしながら口をぱくぱくさせて言った。
「あらあら、どうしたのよ。丁度、これから迎えにいこうと思っていたところなのよ」
「お父さーん」
と、家の奥へと声をかける。その言葉にわたしは一瞬、身構えるが、
中からでてきたのは、Yシャツの裾を半分ほどはみ出させ、ネクタイを締める途中の小柄な朴稔とした中年の男性だった。
わたしは何処か話が食い違っているような気がして首を捻っていたが、
未唯はその男性を指差しながら、心底、信じられないといった様子で
「だ・・、誰!?その人!!!」
と、問いかけるように叫ぶと、
「あたらしいお父さん、よ」
なんて、未唯の母がしれっと答えた。
奥から出てきた小柄な中年の男性は
「き、きみが・・未唯ちゃんかね・・。は、話は聞いているよ・・。よ、よろしく」
などと、中年特有のか細い腕を伸ばし、未唯に手を差し伸べていた。
未唯はなんだか訳も分からずに交わした握手をぶんぶんと振り回されていた。
わたしは、呆然としながらも、未唯の母親を見つめていた。
すらっとした体躯、白髪の少し混じった老いの見える髪におっとりとした顔立ち、どことなく目元が未唯に似ている。
白色のワンピースから、ときどき傷を覗かせるが、そんなこと気にならないくらい綺麗なおんなのひとだった。
どことなく想像していた姿から掛け離れていて、あぁ、未唯も大人になったら、こんな風になるんだ・・、
と思ったら、少し羨ましくなった。
ふいに、視線が混じり合うと優しく微笑み、
「ところで、このお嬢さんはお友達?」
と尋ねられた。
ただ、なすがままに手を振り回され続けていた未唯ははた、と気付くと
「うん、そう。小林祐子ちゃん。ていうの」
と、わたしを母に紹介してくれた。それを聞くと未唯の母は、
「そう。よろしくね。・・ところで、ちょっと散らかっているけど、上がってく?」
家の中へ招き入れてくれた。
とまどいながらも頷くと、その前に片付けなければいけない用事があるのを思い出した。
「あ、ちょっと待ってて下さい」
そう言って、玄関を出ると携帯電話の呼び出し音を押す。
1コール、2コール、・・3コール。
途中、自動車のばたん、と勢い良く開く音がするが近づいてくる人影を制しながら、携帯電話を指差す。
コールが止まる。
「も、もしもし。」
「もしもし、どうしたの?」
「あの、ですね、なにやら、もう、大丈夫みたいですので・・」
「・・・・・・・」
「ええと、そのですね。なんて言ったらいいのか」
わたしが返答に困っていると、
「・・あー、もしもし?」
運転席の男の人がでた。
「あ、あの、ですね。あの・・状況が違ったというか・・。その、あの」
「・・あー、大丈夫そうなの?」
「え、あ・・、はい・・はい。」
「そうか、それなら良かったけど。とりあえず、まだ何かあったらいけないから。
もしなにかあったら、また電話してよ。とりあえず俺ら待機してるからさ。」
「あー、でも、その」
「いいって、いいって。これで俺らも残業代出るんだからさ。また電話してよ」
「あ、はい。わかりました。」
そう言って、携帯電話を切った。
玄関の中から、未唯が
「そっか、そうだよね・・。待っててくれたんだよね」
と心配そうにしていた。
「ううん、大丈夫。あんまり気にしてないみたいだったよ。」
未唯がちょっぴり申し訳なさそうにしているので
「ほら、あんまり気にしちゃダメだって。中に入ろう」
と、手をつないでゆっくり中へと誘った。
―――――――――――
所々、穴の開いた壁を塞ぐように様々な物が積まれている。
わたしはちょっぴりぬるい麦茶に口をつけると辺りを見渡した。
「ごめんなさいね。散らかったままで」
と、未唯の母親は微笑んでいる。
未唯は新しい父親となる中年の男性と、すっかり打ち解けたのか楽しそうに談笑を繰り広げていた。
母は近くにあった背もたれの折れた椅子を引っ張ると、そこに腰掛けた。
そして、新しい父親と未唯の姿を見てニコニコと微笑んでいる。
わたしは麦茶をちょっとすすって、おずおずと切り出した。
「・・あの、前のお父さんって・・」
ああ・・、と未唯の母親はまるで興味を失ってしまった古い出来事を思い出すかのように
「ああ、別れたわ」と、口にする。
「だって、あの人。どうしようもないんですもの。別れないほうがどうかしてるわ。」
きゃっきゃと未唯のはしゃぐ声。
「あの子と離れて気がついたの。あぁ、私はあの子が・・いなければどうしようもないんだってね」
「あの人と別れるのは簡単だったわよ。だって、あの人、悪いことばっかりしてたのだもの。」
「だから、私は・・、ちょっと告げ口しただけ。・・そうしたら、ね。」
と、わたしに微笑みかける。
わたしは、ご婦人達のあの言葉を思い出していた・・。
「で、あの人は・・」
と未唯とじゃれ合っている中年の男性を指差し、
「そのとき、うちに来た刑事さん。なにか・・ひとめぼれだったんですって。」
小声で囁く。
「女って、怖い、生き物だよ」
「私は、愛って傷をつけられる事って思ってたのだけど、年を取ったのかしらね。
暴力ってね、・・ただ痛いだけじゃない?」
わたしの頭のなかでぐるぐるとご婦人達の言葉が響く。
「女って生き物はね、ひたすらに走っているんだ。走って、走って、走り続けて、いつの間にか
傾いてしまっても、それすら気が付かず走り続ける生き物なんだ。」
「今さらそんな事に気がついてしまうとねー・・、ほら、分かるでしょ?」
「そして、自分ではどうにも出来ないくらいに歪んでしまっても、それでも走ることを止めることが出来ないんだ。
なぜなら、立ち止まって振り返ってしまったら、自分が自分では無くなってしまっているという事に
気付かされるからさ。だから走り続ける。たとえ間違っていてもね。」
からからと笑いながらそう話すご婦人達に、わたしは疑問に思ったことを尋ねてみた。
「あー、何のために走るのかだって?そんなの、決まってるじゃないか。自分に合った男を探すためだよ。
こりゃ、違うな。と思ったらさっさと捨てて、また新しいのを探し始める。そして、
また・・走って、走って、走り続けるのさ。」と、カラカラと笑い声をあげていた。
未唯の母親を見上げてみると、また、にこにこと微笑んでいる。
笑顔の下に隠された瞳は、とても澄みきっているような気がした。
わたしは麦茶を飲み干すと、コップをテーブルの上に置く。
未唯はまだ父親ときゃっきゃとはしゃいでいる。
ふいに・・未唯の母親に優しく頭を撫でられ、儚げな声で囁かれた。
「いつか・・あなたにもわかるときがくるわよ・・、でも・・、わからないほうがいいのかもしれないわね。・・ふふ」
そして、
「ここも手狭だから、もう、そろそろ引越しちゃいましょうか。」
と、居間の隅でじゃれあっている二人に声を掛けた。
「えー、学校変わりたくないよぅ」
「そんな、と、唐突な・・、しかし、なんとか・・・し、しましょう・・。」
「ふふ・・、じゃあとなり町くらいにしましょうか。」
和気あいあいと和む家族の姿を、ちょっとだけ離れた場所から見ながらわたしはご婦人達の言葉を思い出す。
・・女は、怖い、生き物。
もう一度、自分に言い聞かせるかのように繰り返してみた。
女は、怖い、生き物。
そうしたら、胸の辺りが、ちくりと小さく・・疼いた。
女って、怖い、生き物。
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向こう(無印)とこっちの結末、この二つの結末があって「手乗り文鳥と子飼いの羊」という話は形を成します。無印だけだとただの悲惨な物語です。こっちの結末、事実と絡まるからこそ面白いと思うのですが、どうなんでしょうね。単純な、悲しいだけのお話なら無印だけ読んでもらえればいいので・・。