「右手を……、マオ……」
差し伸べられた手を、少年は拒む事が出来なかった。
友の瞳が、その表情が、あまりにも苦しそうで、あまりにも辛そうで……。生き続けることは彼にとって一番の苦痛なのだと……、そうと知ってしまったから──。
「わかった、もうわかったから……ジョウイ」
思わず口にしてしまった言葉は、嘘──。
本当はわかりたくなんてなかった。そんなことを自分に願うジョウイは、誰よりも何よりも残酷だと思った。
でも、これ以上彼を苦しめたくなかったのだ──。
そっと重ね合った手のひらに、友から受け継ぐその紋章の輝きをマオは見つめる。
哀しくてやるせなくて、胸に、喉奥にまるで鉛でも詰め込まれたようで、告げるべき、告げたいその言葉を、声にすることすら、出来なくて──。
ただ、かすかな唇の動きだけで呟いた。
──真の紋章なんて、いらない。
僕はただ、君だけに居て欲しかったんだ……
気づいただろうか──? ジョウイは、ただ微笑んだだけだった……。
がくりと、力の抜けきった友の身体を胸に抱き、マオは力無く頭を垂れる。
涙なんて出てこない。ナナミが死んだ時もそうだった。哀しいという気持ちは、後からやって来る。今はまだ、ぽっかりと空いた胸の穴が痛いだけ。
「埋めて、あげなきゃ……」
ぽつん、と少年は呟いた。
大切な親友の亡骸をこのままにはしておけない。でも、抱いて連れ帰るほどの力ももう無い。
残された体力と魔力を振り絞って、マオはその場に厳重な結界をしいた。それから横たえた友の指に、そっと白銀の指輪をはめ込んだ。
「ジョウイ、この指輪、君に返すね……」
かつてミューズの街で、ピリカに頼まれた木彫りのお守りを購うためにマオがお金を立て替えてあげた時、ジョウイがかわりにとくれた指輪だった。大切な宝物じゃないかと遠慮したマオに、ジョウイは微笑んで言ったのだ。
君だって、僕の宝物だよ──
以来、ずっとそれを右手にはめていたから、無くなった場所が少し寂しい。
「ごめんね、ジョウイ……。すぐ迎えに来るから、それまで待ってて……」
ふらふらとマオは立ち上がり、峠を下って──。
だがその後、少年がその地に戻ることは二度となかった──。
窓からすべりこんできた風が、きっちりと机上に重ねられていた
書類をひらりと舞い上げた。
書き物をしていた手をとめ、シュウは絨毯上に落ちたそれを拾い上げようと立ち上がり、そうしてふと目に入った窓外の景色が夕の陽色に紅く染まり始めていることに気づいた。
いつの間にこんな時間になっていたものか――シュウは苦笑しながら拾い上げた書類を元通りに重ね、いたずらな風を閉めだそうと窓辺に近づく。
そうして見つけた。沈みゆく陽を追うように走っていく少年の後ろ姿――。
「マオ殿……」
呟くように言って、シュウは軽く眉をひそめる。
そこへ遠慮がちなノックの音が響いてきた。
「シュウ様、いらっしゃいますか?」
「クラウスか、入りなさい」
返事を待って開かれた扉から、黒髪の青年が姿をあらわした。
「お忙しいところ、申し訳ございません」
わびるように言ってクラウスが頭を下げる様を、シュウは胡乱気な目で見つめた。
机上に積載された仕事を一気に片づけてしまおうと思い、今日は徹底した人払いを命じてあった筈なのだ。そうして日常の政務と大統領マオの補佐役の代行をクラウスに任せた。軍務のみならず政に於いても優れた才を示す彼ならば、多少の問題は難なくあしらえるだろうと、そう判断してのことだったのだが……。
「なんだ?」
窓を閉ざしながらシュウは面倒そうに訊いた。
「お客様がいらっしゃってます。とりあえず階下でお待ちいただいているのですが、如何なさいますか?」
「客? 今日は人とあう予定など入っていなかった筈だが……」
言いかけて、シュウはすぐに思い直す。よりによってクラウスが、あう必要もない客を取り次ごうとする筈がないのだ。
「いったい誰だ?」
「フリック殿です」
「フリック……?」
シュウの方が微かに身動いで、呟く声がその名を繰り返した。気配に聡いクラウスがそれを見逃す筈もなかったが、だが素知らぬふりのまま青年は、出直していただきましょうかと、添え物程度に付け加えた。
「……いや、ここに通してくれ。どうせあと2~3枚もサインしてしまえば、今日の仕事は終わる」
「では、お呼びして参りましょう」
一礼して退出しようとする青年を、肩越しに振り返ったシュウが呼び止めた。
「クラウス」
「はい?」
「客人は、フリック一人だけなのか?」
「階下でお待ちいただいているのはフリック殿だけですが、そういえばもうお一方、お連れの方がいらっしゃると伺ってます。そちら様はなんでもこのミューズがはじめてだということで、街を見物してからこちらにいらっしゃるとか……」
「そうか」
何を思ったものかシュウの唇に笑みらしい気配が浮かんだ。珍しい事もあものだと、クラウスは少し驚く。普段見慣れているシニカルなものとは違う、それはなんとも優しげな笑みだったのだ。
「宿の手配は如何いたしましょうか?」
ふと思いついて青年が尋ねると、シュウは少し考え込んだ。
「二人分、手配しておいてくれ。宿は、そうだな……レオナのところが良いだろう」
「かしこまりました。至急連絡しておきます」
「ああ、頼んだぞ」
パタンと閉じられた扉から夕焼けに燃える西空へと視線をうつして、シュウはひとりごちた。
「残念だな。先にこちらにいらしていただけたなら、ミューズで一番夕陽を美しく見られる場所を、お奨め出来たものを――」
西の端に夕陽が沈んで行く。
黄昏が次第に深みを増し、正門を中心として東西にのびるよう構えられたミューズ市の高い壁を朱金へと染め上げた。
その壁を背にマオは一人立ちつくして、昼の光がゆっくりと地平に消えゆく様を見つめている。そうしながら、かつて友の帰りを待ちわびた時のことを胸に懐かしく思い起こしていた。
偵察のため潜入した敵地で囚われてしまったジョウイ――必ず帰ると約束してくれたその言葉を信じて、ただひたすらに待ち続けた。
この同じ場所で、これと同じ夕陽を見つめながら――。
目を瞑れば――今があの時と錯覚してしまいそうな夕陽の中、でも確かに違うと思い知らされてしまうのは、あのとき傍らに居てくれた人達が今ここに居ないからだ。
ナナミは、マオとジョウイを庇おうとして敵の放った矢に倒れ、ピリカはルルノイエの落城とともに行方しれずとなった。
そうして、ジョウイは――
……なんだか考えるのが嫌になって、マオはぎゅっと強く拳を握りしめた。するとほんの少しだけ手の甲が熱くなる。
こんな風に感じる時は、たいてい紋章が濃く浮き出てきている。そうと知ってはいたが、だがマオは手袋の下に隠されたそれを確認しようとはしなかった。
「どうして、思い出させようとする……?」
皮手袋の上からそっと手の甲をおさえ、彼方の黄昏に視線を向けたまま少年は呟いた。
沈んだ心持ちでいる主を慰めようと言うのか、それとも嘲笑ってでもいるものか――時に紋章は、そうやって気まぐれに自身が在ることを主張する。だがマオの問いかけに答えを与えてくれる事は決してない。
紋章とはそういうものだ。感情を持たず言葉を持たず、ただそこに存在するだけのもの……。
そうとわかっているから、マオももうその存在の意味を考えることをやめてしまった。
意味があろうとなかろうと、変わらず紋章はそこに刻まれている。きっといつまでも消えない。それは友が在った刻の大切な思い出――そうして消えることのない罪。自身の手でジョウイを死に追いやった証。
友との争いも、勝敗の決着をつけることも、マオは決して望みはしなかったと言うのに。むしろそうなることを避けていた。そのときが来ないようにと切望してさえいたのに。
それでも、降り積もる砂時計の砂のようにやがて時は満ち、あまりにも儚いその感触だけを残してさらさらと指の隙間からこぼれ落ちていった。
もう誰も帰っては来ない――
なのに――待つ人も居ないというのに、どうしてこんな場所に自分は立っているのだろうと、マオはいつも考える。そうしていつも答えが出ない。
それでも、こんな綺麗な夕焼けを見ると、どうしてもこの場所に来たくなるのだ。
物思いに沈んでいる少年をまるで揺り起こすかのように、ふと風が吹いて来た。なんとなく肌寒いような感じがして、マオはむき出しになっている腕をこしこしと手のひらでさすった。
「少し風、冷たくなって来たかな」
そう呟いて顔をしかめる。
うっかり風邪などひいてしまおうものなら、きっとまたバーバラあたりに諫められてしまうだろう。
『もっと自分の身体を大切にしな! もうあんた一人の身体じゃないんだからね!』
かつて同盟軍が本拠地としていた城の倉庫番だった彼女は、今やミューズの重鎮、国庫の番人たる財務大臣としてその逞しい腕をふるっていた。そうしてその傍ら、未だいたいけさの抜け切らぬ少年リーダー――とバーバラは思っているらしい――の健康に気をつかってくれてもいる。大変にありがたいことだったが、はずみでくしゃみをしただけでも、ホウアン先生からもらったという苦い薬を飲まされてしまうのはどうにもたまらなかった。
(心配性なとこ、まるでナナミみたいだ……)
くすりとマオは笑う。そうしてまたどうしようもなく寒くなる。
その寒さはどうやら肌寒いと言うより人恋しさに近いもののようだった。無意識のうちぶるりと身震いしてしまった自分に、マオは苦笑する。
(そろそろ帰ろう……)
マオは地平から門へとその視線を転じ、少し離れた場所に佇む少年の姿に気づいた。
「…ナ……チ…さん……?」
大きく瞠った目を、穏やかな表情が見返して来る。
「やあ、久しぶり」
言いながらゆっくりと歩いてくるその少年は、ナチと言う。元トラン解放軍リーダーだった少年だ。
彼もまたマオと同様、世界に27あると伝えられる真の紋章を所持する者の一人――つまりは不老の運命を持つ者だった。似たような境遇に在る者に共感してのことか、彼は先の戦いのおりマオ達に何かと協力してくれたのだった。
「ハイランドとの最終戦以来……なのかな。元気だった?」
「……あ、はい!! 元気です! ナチさんも元気そうでっ……!」
早口で言いかけて、マオは危うく舌を噛みそうになった。
何しろあまりにも意外すぎる人物との再会なのだ。常になく心がはやっている。
かつて赤月帝国と解放軍との間で長きにわたって繰り広げられた戦い――後に『門の継承戦争』と呼ばれるようになったその戦いと、帝国に反旗を翻した若きリーダーの名は、戦争が終結して3~4年のうちにも、伝説としてトランと周囲の国々にひろまっていた。
ナチ・マクドール――数多の困難を乗り越え、その果てに勝利をもたらした奇跡の存在――英雄とは彼のような人物のことを言うのだと。
伝え聞いていたナチという存在にマオもあこがれを覚えていた。そうしてその想いは、本人と出会ってからも変わることはなかった。
そんな彼との再会が嬉しくない筈がない。興奮気味のマオの声は、どうしても普段よりうわずり加減になる。
「あの時は本当にお世話になりました。きちんとお礼を言いに行こうって思っていたんですけど、なかなか機会がなくって……」
すみません、としょげるように頭を下げたマオを見て、ナチは宥めるように手を振った。
「気にすることはない。君はもうただの同盟軍リーダーじゃないんだ。このグリフォン国の最高指導者なんだもの。僕のことなんかにかまけている場合じゃないよ。新しい国造りって本当に大変なんだから」
僕はそういった面倒くさいことが嫌いで、逃げ出しちゃったけどね――巫山戯めかして言って、ナチは舌を出してみせる。が、目の前の少年が複雑そうな笑みを浮かべたのを見て、あーあとため息混じりに額を抑えた。
「もしかして僕、まずったこと言っちゃったかな? なんだか君が緊張しているみたいだったから場を和ませようと思ったんだけど、どうやら逆効果だったみたいだね。きっとここにグレミオがいたら、そんなまずい冗談は言うなって怒られちゃう」
「うん、そうかも……」
この目の前の英雄を、あろうことか『坊ちゃん』などと呼び慕い、時にまるで実の親のように叱りつけたりもする金髪の従者の存在をマオは思い出して、くすくすと肩を揺らした。
そういえば、とマオは辺りを見回して首を傾げた。
「グレミオさんの姿が見えませんね。たしかバーバラさんが特製シチューのレシピを知りたいって言ってたんだけど、グレミオさん、教えてくれるかなあ? それにどうしてナチさんがここにいるんですか? 何かこちらに用事でも……?」
立て続けの質問にナチが苦笑する。
「ちょっと待ってマオ。そう次々と訊かれてしまったら、何から答えていいかわからなっくなっちゃうよ」
「あ、ごめんなさい」
慌ててマオは口を噤んだ。
「残念だけど、グレミオは今回一緒じゃないんだ。それと僕がミューズにきた理由はね、そうだな……」
少し考え込むようにしてから、ナチはにこっと笑った。
「レパント大統領から頼まれて、ちょっとこちらを視察しに来たんだよ。ここ一年ばかりのうちにめざましい発展を遂げた君の国に、レパント大統領はかなり興味を覚えたようでね。本当ならば自分で訪問したいと思っているようなんだけど、なかなか時間をつくれないでいるらしいんだ。それでヒマをもてあましている僕に、かわりに見てきて欲しいってさ」
「なんだか大変そうですね」
同情するようにマオが頷き返すと、ナチはどこかこそばゆそうな表情で空を見上げて、小さくため息を吐いた。
「どうかしました?」
「いや、君って本当に素直だなあ……って思って」
「え、そうかな?」
きょとんと返す返事に、またもや笑いたそうにナチが口元を緩ませた。
「まあいいや。とりあえず僕をシュウさんのところまで連れて行ってくれないかな? そこで連れが待っている筈なんだ。ああ、そういや彼も君に会いたがっていたっけ……」
「連れ……って……?」
ナチと一緒と聞くと、どうしてもグレミオ以外思いつかないマオは、不思議そうに首を傾げる。
「会えばわかるよ」
悪戯っぽく笑って見せた少年は、促すようにマオの肩をぽんと叩いた。
「さ、行こう」
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幻想水滸伝 Wリーダーの冒険 (2主人公=マオ・1主人公=ナチ) 続き物です。※バッドエンドからはじまるハッピーエンドが裏テーマ。失われたものは回帰します。全てが完全とはなれなくとも…