No.289829 Little prayer(1)Ewhoit 前編(3)虎華さん 2011-08-31 23:16:29 投稿 / 全1ページ 総閲覧数:1726 閲覧ユーザー数:1724 |
3.幼き銀月と風知る楼は再び交る
はっ、とした時には夢から目は覚めていた。白い天井が視界に入る。
頭の下には、枕にしては硬すぎる感触。視線を下げれば腹には焦げ茶色のタオルケットが掛っていた。
ここは、どこだ。
変な夢はさておき、記憶を探る。
そう――僕は任務でスラムに来ていた。
そこで先輩騎士が一人のリトルプレイヤーの少女に暴行を加えているところを発見した。
阻止しようとして、二度もボコボコにされた。肩は銃で撃ち抜かれた。今も激痛とまではいかないにしても、痛むことは痛む。そのあと額にも狙いを付けられて、死ぬかと思ったら不思議な現象を目の当たりにしたんだ。
目の前まで迫った銃弾が半分に割れたり、先輩騎士の首が次々飛んだり。あの野郎共は生きてるんだろうか。
そこで記憶は途切れている。多分意識を失ったのがそこだろう。
まだ僕がこうして生きているってことは、誰かが助けてくれたはずだ。が、今周りには誰の気配もない。
とにかく自分の現状を知らないことにはどうしようもない。
「…………」
起き上がろうとして、まったく体が動かないことに気づく。
おかしい。肩は確かに痛むけれど、ボコボコにされたのは主に顔周辺で、後遺症が残るほどにはやられてないと思ったけれど。
なんだか不自然に感じて、体を捻るだけ捻ってみると、タオルがずり落ちて、その原因が分かる。僕は愕然とした。
「な、なんだよコレ……」
タオルに隠れていた腹には、縄が張りついていた。それはもう重病患者が暴れるのを抑えると言わんばかりに何重も、ぐるぐる巻きに。なるほどこれでは動けない。
動けば肩は痛むし、どうしようもないからとりあえず黙って誰かが来るのを待つことにした。すると、ほどなくして、戸が開く音がした。
「あら、ようやく起きたのね」
少女の声だ。抑揚の無い、無感情な声だと思った。
その声の主はトントンと足音を響かせ、起き上がれない僕の視界に、ヌッと突然顔を出した。銀色の髪が、さらりと頬に触れた。
「君は、あの時の」
そう、僕が死にかけた時に居た、銀髪の子だ、とすぐに分かった。黄色がかった琥珀色の眼でまじまじと観察され、なんとなくどぎまぎする。
「な、なんだよ……?」
「ふぅん、もう止血はしてるのね」
「痛っ!」
ポンと肩を叩かれ顔を顰めると、ジト目で睨まれた。
「軟弱者。男なんだからこれくらい我慢しなさいよ」
「…………」
どうやら肩の傷口を覆ったガーゼを変えてもらっているようだった。ロープで拘束されていることに多少の理不尽を感じつつも、僕は黙って天井を見つめていた。やがて終わったのか、
「はい終了」
バシッと音がするくらい強く叩かれた。素手なのに、傷を狙われたせいで刺すように痛い。
「~~~っ」
「本当に軟弱者ね、まったく」
「そりゃ傷叩かれたら誰だって」
「うるさい」
頬を力いっぱい引っ張られた。こっちは動けないのをいいことに何するんだこのやろう。
反論すればまた何かしてくると思い、心の中だけで毒を吐くことにする。
黙っていると、少女はなおも至近距離で僕の顔を見回してきた。
「な、なんか僕の顔についてるか……?」
「別に。本当にあなたが私達を殺せるとでも思ってただけよ。ちょっと叩いただけで痛がるし。ま、あいつらは首ごと撥ねたから痛いって感じる前に死んじゃったけど。ミャーに怖い思いさせたことを考えたらもっと痛みつけてやった方が良かったかしら」
「首を撥ねる、って……どういうことだよ」
頭に引っかかった物騒なワードを訪ねると、少女はさも当然かのごとく続けた。
「あんた見てなかったの? あんたと同じ服装した男達のことよ。私が殺した」
殺、した?
こんな無垢な少女が? 僕がボコボコにされるほど屈強な奴らを?
「はは、何を冗談言って」
「冗談なんかじゃないわ。だって私、リトルプレイヤー、だから。あんたもよく知ってるでしょ?」
「は……」
少女がニッコリと微笑む。
しまった、聞かなきゃ良かった。
そうだよ、あのミャーとか言う子がリトルプレイヤーなんだから一緒に居た彼女もそれに近しい存在であることはちょっと考えればすぐ分かった話じゃないか。下手に相手の素性を聞くようなことをしたおかげで墓穴を掘った。
彼らは自分達の身分が割れることを極端に嫌う。それは世論から容赦なく浴びせられる、偏見と排斥によるものだ。当然の結果とも言わざるを得ない。そして、それがばれたときにどんな行動を取るか、訓練校で耳にタコができそうなくらいに繰り返し言われた。
身構えようにも、今の僕はまな板の上の鯛。何かされたら、抗いようがない。
背中に大量の汗が滲むのを感じながら、僕は聞き返した。
「ぼ、僕をどうするつもりだ」
すると、予想外にも彼女は「はぁ?」とでも言いたげな、怪訝な面付きで僕を見てくる。
「別に何もしないわよ。まぁどうせ、リトルプレイヤーはすぐ気に入らない人間を取って食うとでも思ってたんでしょ。いっつも人間はそう、別に私達はちょっと違うことができるだけで、本質的には変わらないわ」
「そ、そうか……それは、ごめん」
そう言われて、少しだけ安堵する。いきなり殺されるかと思ったけど、それは回避したようだ。よく考えれば、あの瀕死の状態からここまで運んでくれたのも彼女かもしれないし。
何かを探しているのか、部屋をうろうろし始めた彼女に一応聞いてみることにした。
「あの、君」
「シュカ」
「は?」
「私の名前。君って呼ばれるのは昔を思い出すから嫌なの」
「ならシュカ、僕を助けてくれたのはき……シュカなのか?」
君、と言いかけてなんとか留まる。
「ここまで運んだのは私。でも助ける意思があったわけじゃない。あの猫みたいな耳つけた子、居たでしょう? あの子が頼むからその代わりをしただけよ。……やっぱりリトルプレイヤーなんかに介抱されるのは嫌だった?」
「いや……その、ありがとう」
「え……」
「だから、感謝してるんだよ。僕にはやらないといけないことがあったんだ。騎士になって早々死にかけた――いや、多分死んでた。けどシュカのおかげで今は生きてる」
「助けられたのが、リトルプレイヤーだったとしても?」
僕は首を横に振った。あんまり動かないけど。
「そんなの関係ない。人助けに差別するほど僕は愚かじゃない」
「…………」
「だからさ、ありがとう」
僕を上から見下ろすシュカにそう言うと、シュカの顔がぶわぁっと赤くなる。
「べ、別にあんたの為なんかじゃないわ! 勘違いするとまた肩殴るから! ……それに」
「それに?」
「やっぱりあんたみたいな軟弱者に呼び捨てにされるのむかつく! 様つけて呼びなさい、シュカ様って。はい、復唱」
ムカッ。なんだそれ。
人が殊勝な態度を取ってるって言うのに。見た感じ年下のくせに。
「はいはい、分かったよ。シュカ」
「だから様を付けなさいって!」
「分かったって、シュカ」
「あんたバカにしてるでしょ……!」
「いいや、バカになんてしてないぞ? シュカ」
「うぅう! もう知らない!」
「っ痛ってえええええ!」
ガツンと傷口を殴られた。肩を抑えようにも手は縄の下。ああちくしょう。
「ふん、偉そうな口を利くから悪いのよ」
「だって見るからに年下だろ……。上背小さいし」
「何か言った!?」
「チビだって――あ痛ぁ!」
ま、また傷を……! これはちょっと洒落にならないくらい痛いぞ。
目の前には顔を真っ赤にしてぷるぷる震えるシュカの顔があった。近い、顔が近い!
「も、ももももう一度言ってみなさい……! その肩、一生上がらないようにしてあげるから」
それはマズイ、かなりマズイ。
僕は話題を無理やり変えることにした。
「そういえば……リトルプレイヤーって各自能力が異なるんだろ? シュカはどんな能力なんだよ」
「……話題の逸らし方がヘタクソね。それで答えてもらえるとでも?」
う。それはごもっとも。
「まぁ、いいけど。ちょうど目の前に題材もあることだし」
「へ?」
目の前って、僕しか居ないんだけど。
「1回しか見せないから、ちゃんと目開けてなさいよ」
カチャン、と音がしてシュカが何かを持ち出した。手に握られたのは、果物を向くのにちょうどよさそうなくらいの刃渡りを持ったナイフ。
「ちょ、ちょっと待った! 僕に何するつもりだ!?」
「こら、動かない。暴れると間違って体が微塵切りになるかもしれないわよ」
「み、微塵切りって……」
ああ、やっぱりリトルプレイヤーってのは訳が分からない。普通人に向けてナイフ持って微塵切りとか言わないだろ……! 往来で口走れば、即通報。運が悪ければ鉄格子の部屋に横縞の服を着せられて入れられるかもしれない。
動くなと言われたから縮こまって待っていると、シュカが妖しい表情で僕を見つめる。
「ふふ、何怖がってるのよ。ま、さっきのお返しができるからいいけど」
「やるなら早くやってくれ!」
はいはい、と言ってシュカはナイフを構えて目を瞑る。……本当に大丈夫か?
緊張したまま、何が起きるのかを待つ。1秒、2秒、3秒……。
いつやるんだ、ともう一度声を掛けようとする寸前、それは起きた。
シュカは何もしてない。ナイフを僕の方に向けて、やや左右に動かしてはいるけど、空中を彷徨うだけで何かしている様子は見られない。
それなのに、僕の体に巻きついた縄が一本、また一本……と切られて床やベッドに散らばっていく。僕の体自体に痛みはなかった。
かまいたちが舞った後のように、縄は切れていった。やがてシュカがナイフを降ろす。僕の体には、断ち切られた縄だけが、草臥れたミミズみたいに数多散らかっていた。
体が自由になったのを確かめながら起き上がり、
「すっごいな……何が起きたんだ」
ふぅ、とシュカが一息つく。
「これが私の機能――瞬間切断。縄は切れてたけど、私が切る瞬間は見えなかったでしょ」
「ああ」
「『私がナイフを動かす直前』から、『縄を切った直後』までの瞬間を『切った』の。この瞬間は、私以外に認識することもできないし、触れることも当然できない。正確には、認識できるできないじゃなくて、意図的にしてないんだけど。ま、時間を切るっていう解釈でいいわ」
「へぇ……」
端的に言えば瞬間移動だってできるわけだ。
ん? しかし……ということは、だ。
「あいつらも、この力で?」
僕を縛った縄を細切れにしたように、首を飛ばして。
「そうよ」
頷いたシュカの表情は、まるで夏にぶんぶんと飛び回る蠅を叩き殺した後みたいな、なんでもないものだった。それを見て、沸々と心の奥底に何かが湧いてくる。
「でもさすがに、殺すことはなかったんじゃないか」
あいつらはどうしようもないくそ野郎で、死んでしまった方が身のためだ……とそんなくらい思っていたけれど、いかに中身が無くとも人命は人命だ。肩書きは殉職と言えど、その当人が何の罪意も抱かないのはいくらなんでもおかしい、おかしすぎる。
「せめて捕縛するだけでも良かったはず……通報すればあいつらも処罰されただろ。正当防衛なのかもしれないけれど、あれじゃ殺人って言われても何も言えなくない、か」
僕は何気なく口にした。
それはシュカにとっては、何気ないことだったのだろう、辺りの空気が一変した。
「あんた、何も分かってないのね」
途端の冷たいトーン。
さっきまで僕の肩を遊び半分で殴っていた少女とは別人と思えるほど。いや、別人だ。
思えば奴らがこの子に倒された時に感じたあの殺気と同じものを纏っていた。目線だけで心臓を掴まれて、それを潰されようとしている圧迫感。
「な、なんだよ……本当のことだろ」
迫力に押されて、やや立ち上がりかけていた腰がすとん、とベッドに降りる。見上げたシュカの眼は、猛禽類のそれに似ていた。
「やっぱり人間って誰も同じ。リトルプレイヤーってことが分かっただけで、理解されないのね」
寒気が止まらない。
月の光も太陽の光も届かない、黒い海の奥深くで、見えるはずもないのに見えてしまった何かに、知らずと心が怯えているのが分かる。
「私達がなんでこんな辺境に住んで身分を隠しているのか分かってる? 普通の街になんか住んだら、すぐにあんた達がやってくる。何もしてない、ただ生きてるだけで害悪扱いされて、捕まったらおしまい。人体実験にされるか、見せしめに殺されるだけよ。そんなことをする奴ら相手に、じゃあ私達は黙って逃げ続けておけ? 馬鹿言わないで。私達は好きでこんな体に生まれたわけじゃない。全ては捨てられた孤児のなれの果てであって、能力だって使い手次第。協調しないのはあんた達じゃない……!」
リトルプレイヤーはシュカが言うように社会の日蔭者だ。
禁忌のように、言葉そのものを嫌う人だって居るし、ニュースでリトルプレイヤーが殺されたことが報道されど、弔いの気持ちを持つ人は何人居るだろうか。半数はそれを日常として受け流し、残りの半数はむしろ喜ぶ、そんな感じだろう。実際、訓練校ではそうだった。
破壊が全てじゃない。それは誰しも考えれば分かる。だがそれは国民感情に既に刷り込まれてしまった。
そして僕もまた、彼らには負の感情を持つ者だ。
「じゃあ、なんで僕の親は死ななければならなかったんだ!?」
自分では激昂したつもりで、しかし声は震えたものしか出ない。それでも続けた。
「僕だって親の居ない孤児だ。拾われて、騎士学校に入った。親はリトルプレイヤーに殺されたって聞いてる。僕は記憶が無いから、どんな惨い殺され方をしたのかは知らない。ただ、少なくとも僕の親は一般人だった! 何の罪もない人を殺したのは誰だ!?」
「知らないわよそんなの! ……私には関係ないわ。私はただ、私とその仲間を狙うやつが居たら殺すだけ。あんたもそうすればいい。自分の親を殺した犯人が憎ければそいつを殺せば気が晴れるかもね。なんなら同族の私も手にかけてみる?」
「っ、それは」
面と向かって言われ、口どもった。
スラッシャーはどっかに行ってしまっているが、懐には二十を超える短剣がある。
至近距離だ。僕が短剣を抜いて投げるまで、0.3秒しか掛らない。やろうと思えばやれる。
「どうしたのよ、やれるものならやってみなさい!」
かたかたと手が震える。
やれやれやってしまえ、と頭の中の黒い自分が言う。
やっても誰も責めない、と白い自分が呟いた。
どっちも同じ答えじゃないか、という突っ込みをする余裕はなく、ただ僕はその思考に抗う意思を、首を左右に振って示した。
「……やらないよ。今ここでシュカに刃を向けたところで、僕の気は絶対に晴れない。それどころか、僕がやることが、世の中で殺人を犯してるリトルプレイヤーと同じになってしまう。そんなの、本末転倒だ」
頭の中にラインハルト大将から直接言われたことが浮かんでいた。
「もちろん、まだ犯人が生きてるなら、そいつは僕の手で捕縛して、法の下に断罪はしてもらう。その結果死刑になるなら、僕はそれでいい。リトルプレイヤーは憎いと思ってる反面、全員が全員そうじゃないことは、目の前に居る女の子が証明してくれたし」
「…………そう」
それを聞いたきり、シュカは何も言わなくなった。僕もまた、口を閉ざす。
沈黙が空間を支配して、重くのしかかる。
何か言って欲しい、いやむしろ僕が何か切りだすべきなんだろうか。
思ったけど初対面の相手に我ながら思い切ったことをしたもんだ……、騎士道は常に礼儀礼節を惜しまず、紳士的であるのが第一なのに。
「あの、さ」
ひとまずこちらからこの重い空気を切り崩しに掛ることにした。すると、
ぐるるるる~。
紳士的の欠片もない音が、自分の腹から鳴った。
「う」
「………………」
「あ、いや。これは……その」
なんて空気を読まないんだ僕の腹!
心の中でついた悪態に抗議を唱えるかのようにまた、二度三度小さく音を鳴らす。
「……ぶ、ぶはっ! あはははははは!」
「わ、笑うなよ!」
「だ、だってさ……! あは、は……あ、涙出てきた」
そういえば、任務に出る朝のご飯は軽くしか摂ってなかった。昼に食べられるように持ってきていた軽食も手を付けていないから腹が空くのは当然の話だけども……。
「はーあ。なんだか間が抜けちゃった。ヤメよヤメ。私だって本気で言ったわけじゃないわ、カマを掛けてみただけ。これでホントにあんたが向かってくるなら、その場で八つ裂きにしてたけど……その心配はないみたいだから」
そう言うとシュカは僕の隣に腰かけて、ふふ、と微笑む。
「僕を試したのか?」
「別に。まだあんたを認めたわけじゃないし。っていうか人間なんて大嫌いだからそうそう許す気にはならないわ。だから、私はあんたを暫く監視下に置かせてもらう。仲間の所に帰られたりでもしたら、面倒だしね。異議は?」
「ないわけじゃないけど、ノーと言ったところで帰してはくれないんだろ」
「返答はイエスかはい、の二つだけ。ま、それはともかく」
一旦僕から目を逸らして、どこか中空を見つめる。
「あんたがミャーを助けてるところを自分の目で見ちゃったからね。今日の所は勘弁してあげる」
「そ、そうか……」
有り難く思った方がいいのか、そうでないのか、不思議な気分だ。
なんとなく顔を上げづらくて床に視線を落としていると、さらにシュカが訪ねてきた。
「あっ、そういえばあんたの名前聞いてなかったわね? 教えてよ」
「ああ……フラウ、だ」
改めて名前を聞かれるのも変な気分である。
「…………。フラウ、ね……」
シュカは、どこか物憂げな表情のまま、何か考え事を一瞬だけしていたようだった。が、それも短い間で、突然立ち上がった。その勢いで、安そうな敷布団から細かい羽毛が跳ねる。
「そろそろ時間ね、行かないと」
「……どこ行くんだ?」
尋ねても、当の本人はそれを無視して、部屋の出口へと歩いて行く。そして振り返り、
「何ぼさっとしてるのよ。あんたも付いてきなさい」
「いや、だからどこに行くのかをだな……」
人の話を聞かない子なのか? と心中文句を漏らすと、ちょっと怒ったような顔をしてこっちへ戻ってくる。そして僕の手を無理やり引いて、言った。
「どこかの誰かさんが、お腹を鳴らしたから探しに行くのよ」
「で、その探しに行くってのはなんだ? 海に魚でも取りに行くのか? 畑持ってるとか」
普通何かしらの食事を取るんだったら、探しに行くとは言わない。食材がなければ買いに行くのが基本だ。そんなことはお子様でも知っている。
自給自足の手段を持っていれば探す、っていうのは適当なんだろうけど、街を歩いたらすぐ分かる通り、この街は石畳とコンクリートで舗装された土地であり、畑なんて見かけなかった。スラムではそんな舗装があるわけないので赤茶色に濁った土があるが、見るからに何かが育ちそうな気配はない。雑草ですら疎らにしか生えてない、ということは何か植えても数日のうちに枯れてしまいそうな気がする。
僕の疑問にシュカは、面倒くさそうに答える。
「そんなの持ってるわけないわ。純粋に探しにいくだけよ」
「そうは言ってもな……川もないみたいだし想像が」
「もうすぐだから着いたら分かるわ」
言われて、渋々口を噤む。
ちなみに情けないことに、僕はシュカの後ろを、カルガモのヒナみたいにちょろちょろとついていっている。シュカの背が僕よりだいぶ小さいせいで、何も知らない人が見たらそれこそ少女に迫る変な青年の例として扱われそうな体だ。
しかし、ちょっと離れて歩こうとすると、
「迷子になりたいの!? 迷ったら放って帰るからね!」
と言われ、せめて横に並ぼうとすれば、
「あんまり近づかないでよ馴れ馴れしい」
と怒られる。
理不尽に思いつつも、なにせ僕らが進んでいる道は本当に道なき道といった感じで、瓦礫が不規則に積み上げられただけの立地だ、しかも側壁を利用して好き勝手に人が住んでいるので、めちゃくちゃ入り組んで迷路そのものにしか思えないくらい、迷いやすそうだった。
実際、くねくねと曲がっている所が続けば1メートル離れただけでシュカの姿が見えない。そして慌てて追うと、曲がった先でぶつかってまた怒鳴られた。
そんなやりとりを繰り返し、幾重の分岐を進む。
さっき尋ねた時の「もうすぐ」から大分時間も経った気がして、もう一度尋ねてみようと思った時、ようやく目の前の視界が大きく広がり、広い敷地に出ていた。
シュカはふぅ、と軽く息をつく。
「着いたわよ」
「ここが、か?」
灰白質の、海岸の砂浜みたいな色の地面に積まれた、視界いっぱいの良く分からないものの山、山、山。
山は規則正しい大きさで十数個連なっていて、一個だけでも普通の住宅より大きいかもしれない。よくみると左側に行くほどやや黒ずんでいて、一番右端にはトラックと思われる車両と、スラムに住む人達だろうかが多数群がっていた。トラックの積荷部分が山に降ろされると同時に、人もそちらへ動いているところを見れば、あのトラックに何かあるのだろうか?
「ああ、もうあんなことしてたから出遅れちゃった。これじゃなかなか良いもの手に入らないかも」
「良いものって?」
「ほら、フラウも早く来て。早く行かないと無くなっちゃう」
そう一声だけ掛けて、シュカは一人トラックに群がる衆に混じっていく。
この場所と、シュカの言葉の因果関係がまったく掴めず、頭の上に疑問符マークを並べつつも、これ以上怒られるとなんだかふがいなくなりそうで、シュカの後を足早に追った。
そしてトラックと、人の集まる地帯に近づいた時、ようやく山の正体が分かった。
「ああ、なるほどそういうことか……」
その理解は、どちらかというと落胆に近いものだ。
青色のトラックからポンポンと投げられているのは水色のポリ袋。すなわち、家庭用のゴミ袋なわけだ。トラックの持ち主は回収業者らしい。
投げられ、新たな山の糧になっていくポリ袋を、群衆が奪い合って、獲得した者が次々に袋を無理やり引きちぎっている。当然中からはゴミが出てくるのだが、自分の手が汚れるのも構わず、一心不乱に何かを探しているようだ。
そしてシュカはというと、小さい体躯を生かしてスルリと人ごみの間を抜け、まだ手の付けられていないポリ袋を両手に一つずつ持つと、ずりずりと引き摺りながら戻ってきた。誰も気づいていない早業だ。今なら泥棒にもなれそうだ。
「もう、何突っ立ってるの! 男なんだからちょっとは手伝いなさいよまったく……」
「いやいやいや。手伝うも何も何すりゃ良いのか言われてないし。ていうか、これはなんだ? あとこの人達。僕にはどうみてもゴミ置き場にしか見えないんだけど……」
反論すると、げしっと脛を蹴られた。痛い、すごく痛い。
「うるさい。あんたに食べさせてあげようと思って連れてきてやったんだから、ほら早く手伝いなさい」
脛を抑えて蹲る僕に差し出されたのは、片方のポリ袋。
「えー……これってまさか」
「まさかもへったくれもないの。日が暮れてからじゃ探せないでしょ」
えー、まじかよー……と心の中で反芻する僕をよそにシュカはその場に座り込んでゴミ袋を開いて漁り始めた。なんとも言えない家庭臭がすぐに漂ってくる。まだ新しいせいか、腐臭でないのがまだ救いか。
しかし彼女を始め大勢がこれを求めにやってくるということは、それなに掘り出し物があるのかもしれない。この街は富裕層も少なからず見られるし、簡単に物を捨てる人が多いなら、スラムの住人にとって有難い物はあるのだろう。
僕は意を決して、ポリ袋を開いた。
僅かな時間で別れを告げた、クソったれた詰所生活では偶に当番で出しに行くことはあっても、当然その中身を凝視しようと思ったことなんて一度もない。初めてのことだ。
しかし、結構緊張した割には中は案外普通だった。
日付の過ぎた新聞や破れたシャツ、果物の皮など……おぞましい物は何一つない。その代わり、シュカの望むであろうものも無かった。
「おい、特に何も目ぼしいものはなかったぞ」
未ださっきの袋を掻き分けているシュカに言うと、袋を持ったままやってきて、ずいと顔を近づけてくる。
「本当に? ちゃんと奥まで見たの?」
「ちゃんとやったって」
「ちょっと貸してみなさい……ほらー、あるじゃない」
僕が中を調べていた袋をひったくったシュカは素手で中身をごそごそとやって、何を見つけ出したのか、僕を糾弾するようなジト目で睨んできた。差し出されたのは、さっき見つけた果物の皮だ。綺麗に一本繋がった、リンゴの皮とやや皺の寄ったミカンの皮だ。
「それ、皮じゃないか。食べられるわけないだろ……痛い!」
また脛に蹴りが飛んできた。
「何すんだよ!」
「うるさいわねー、これは当たりなの。分かった? 皮が食べられないとか言ってるおぼっちゃまには分からないだろうけど、栄養豊富なんだから。はい、やり直し」
無情にも再びポリ袋は僕の手に。
どうやら僕が微かに期待した、意外性というものは微塵ほどもなかったらしい。
シュカが自分の分の袋から見つけ出してはビニールに詰めなおしているものを見ても、何かの皮だったり色がまずおかしい飲料だったりする。
ちょうどトラックが走り去って行く横で新しい袋の解体に勤しんでいる人達もやはり同様のことをやっているのを見れば、どうやらここではこれが日常なんだと理解せざるをえないことに落胆するしかなかった。
本当に、どうしてこうなった……。
それから十数分ほど、もはややけくそ状態に中身をひっくり返してみたり詰めなおしてみたりしたものの、結局僕の袋からは最初の皮以外何も出てこなかった。
「ふーん……ま、そんなものかしらね。残念、残念」
そしてこの言われようだから、本気で自分が何をしに来たのか悲しく思えてくる。
だが、僕とは裏腹に、シュカは意外と多くのモノを発見していた。
「これとこれはまだ大丈夫。うん、大漁じゃない」
所々破れた青のビニールシートに広げられた物。端っこで申し訳なさそうにリンゴとミカン(の皮)が縮みあがっている横に並ぶのは、まだ半分くらい入ったジャム瓶、芽の生えたじゃがいも、明らかに誰か齧った跡がある食パンなどなど。腹立たしいけど文句を言えない。
「さてと、お腹も結構すいたでしょ? ここで食事摂るわよ」
「はいはい……」
よっこらしょ、とその場に腰を下ろした。もうどうとでもなれの気分だ。
今更ながらなんで僕はシュカについてきたのか。普通に詰所に帰れば事情が事情だけにもしかしたら処罰の対象になるかもしれないけどなんとかなったはずだ。その前にシュカが帰してくれるかどうかは微妙な所ではあるけれど、隙を見て逃げ出しても良かったのに……。いや、でもさすがにそれは騎士の名折れか。でもそれじゃどうするんだこれから。
「はい、これはあんたの分」
考え込む僕の元に、半分にカットされたパンと、紫よりは黒に近いジャム、それに炙られた果物の皮……後はなんだかよく分からないものが置かれた。皮はライターで炙ったらしい。なんか、見てくれによっては囚人の食べ物みたいで泣きたくなってきた。
「……どもっす」
「態度が悪い!」
「いてっ」
頭をはたかれる。ことあるごとに暴力を振るう癖があるのはなんとかならないのか。
「はい、それじゃいただきます」
「いただきます……」
形だけの手を合わせ、まずはなんとかイケそうなジャムをパンの耳に付け、いざ口へ――
「…………」
味を確かめるように舌にジャムを乗せ、仄かな酸味で大丈夫だと確信、咀嚼を重ねる。
そう咀嚼、咀嚼……。
「……がはっ!」
「ちょっと何なの!? 汚い!」
なんだこれ。
口に入れた瞬間、異様にどろっとした液体なのか固体なのかも分からない物が口内を蹂躙していく。おまけに、最初感じた酸味が強くなり、もはや酸味ではなくただの『酸』のように感じる。少なくとも、栄養源として摂取していいものじゃないってことは、すぐに理解した。
「こ、こ、これはなんなんだ……? 食べ物じゃないだろ……」
思わず吐き出した勢いでむせていると、シュカは問題ない、といった涼しい顔をした。
「ああ、ハズレを引いたの。たまに――2,3日に1回くらいはあるわ。でも我慢すればいけないことはないし、粗末にしちゃダメでしょ」
僕は愕然とした。
さすがにこれは無理だ。人間慣れればどうにでもなる、郷に入りては郷に従え、なんて格言っぽいものはあるけれど、こんなの慣れる前に死んでしまう!
ならば、まずはここを離れなければならない。どこか違う場所で、何か食べられる物を……。
そう思い、立ち上がったところで、案の定呼び止められた。
「ちょっと、どこ行くつもりなの」
針の刺すような視線が飛んでくる。それに、憮然を装って返した。
「街に戻る」
「まだちょっとしか口付けてないじゃない。さっきはあんなにお腹すいてそうだったのに」
その、ちょっとしか口を付けていないパンを僕は地面に叩きつけた。
「こんなの食べられるか! ちょっと食べただけで宇宙の底が見えた感じがしたぞ!? 正気か、なんで平気そうな顔してんだよ!」
「は~!? 人が親切に色々してあげてるのに何それ! ……街に戻るなんて言って、本当は逃げるつもりなんでしょ。ダメ、そんなの許さない」
「基地に帰れるなら帰りたいさ、そりゃ! でも違う、街に行くのは代わりに食えそうなもの探すためだって分かってくれよ、本気でこのままじゃ餓死しちまう!」
「ダメったらダメ!」
ぐぬぬ、この聞かん坊め!
「だったら」
「なに、まだ何かあるの?」
「だったらシュカも、一緒に街に来ればいいだろ!」
「きゃあ――」
ブルーシートに座ったまま僕を糾弾していたシュカの手を引っ張ってむりやり立たせた。一瞬可愛らしい悲鳴を上げると、慌てたように手をぶんぶんと振り回す。
「やぁ、ちょっとなに!? 離しなさいよこの変態!」
「いーや、離してやるもんか。さっきまで年上相手に調子こいた態度取ってたからな」
「なに強気になってるのバカ! いいからさっさとこの手を離しなさい! 離せ! 変態! ロリコン!」
「人聞きの悪いこと言うな! 誰かに聞かれたりでもしたら……あああお前ら見るな、こっち見んなしっしっ!」
シュカの金切り声を聞いたのか、ゴミ置き場から撤収する子供達数人が、僕の方を無言のままじーっと見ていた。僕と視線が合うと、途端に蜘蛛の子を散らすようにばたばたと逃げて行った。
「ほら、僕だってあんま変に見られたくないんだから早く行くぞ」
手を引っ張り、さっきトラックが帰っていった方角へ道を進めようとすると、
「嫌! も、もうほんとに……やめなさいってば……」
シュカが駄々をこねる。足で踏ん張ってその場に留まろうとしているさまが、なんだか大型量販店で目当てのものを買ってもらいたい小児に似ていた。無論、僕は強引に引っ張って行った。
途中、
「ねぇお願い。ほんとやめないと大声で助け呼ぶ、から」
「今ならまだ間に合うから! 斬りつけられてもいいの!?」
と背後から言われたが、僕は聞き耳を持たないことにしたというか、何か食べたいの一心しか無くて頭を働かせていなかったから、特に応答もしなかった。結果、何もされることなく街の入口に戻ってきて、シュカはただ、
「うぅ……ばかぁ」
と、しょんぼりした顔をするだけだった。
そこから一歩入ればスラムと街の境界。
夕方前の街は、商店屋台が石造りの道に迫り出して並び、老若男女溢れ返っていてなんだか美味しそうな匂いも少々漂ってきていた。
お腹は、標的が近くにあるぞとばかりに、痛みを持って知らせて来て、もうちょっと黙っててくれと叱りたくなる。騒ぐ腹に変わって、シュカは街に入る直前から抵抗を止めて黙りこんでいる。背中にしがみつき、まるで街中の視線から僕を盾にして掻い潜るように、小さな体をさらにちぢ込ませていた。正直歩きにくい。
ただ、文句よりも腹の虫を収めるのが先。
一応、ポケットの中には在校中貯めに貯めたやや豊富な貨幣が入っているから多分足りないことはないだろう。思えば、最初から買っておいてもよかった。
とにかく、数ある商店の中から目的の店を探さないといけない。
僕より土地勘があるかもしれないシュカはさっきから黙ってなにもしようとしないから、聞いても無駄だろう。
ちょうど店を開け始めた八百屋であろう店主のオヤジが近くで準備をしていたから、そのオヤジに尋ねてみることにした。
「すいません」
「おぅ、らっしゃい……騎士さんかい。すまねぇが俺っちんとこはまだ開店してねぇのよ」
僕の格好は出撃した時のまま変わってないから荘厳に見えたのか、口調の割にかなり畏まった身振りをされる。
「いえ、準備中の所失礼します。ここの近くですぐに食べられる場所、分かります?」
オヤジは、うーん、と顎鬚に手を当てて暫く唸ったあと、
「メシが出てくるってのはちょっと知らねぇなぁ。ただ、そこの曲がり角を左に行ったところのデッケェ店なら、野菜以外はなんでも揃うと思うぜ。あ、ちなみに野菜ならウチの店が一番だからな! はは!」
と、終始にこやかに教えてくれた。
「ありがとうございます。野菜が必要になったら寄らせてもらいますね」
お辞儀を返すと、オヤジはええってことよー、と言いながら店の奥へ消えていった。
言われた通りの場所へ行けば、確かにかなり大きい商店があり、人の密度も他とは比べ物にならないほど、買い物客に溢れていた。
中に入ればさらにその密集度は上がったが、僕は気にすることなく売り場へ向かった。
適当にハムやチーズやパンを見繕っていると、背中をぐいぐいと引っ張られる。
「? なんだよ」
「……できるだけ早くしなさいよね」
「はいはい」
本当はもっといいものを見たかったが、なんだかさっきからジロジロと、周りの群衆から見られている気がしてならない。後ろを振り返ると別にそういうことはないのだけれど、なんというか他人のヒソヒソ話が自分を対象にしている気がする、というようなものと同じ感覚だ。
それもあって、言われるがまま清算レジへ。
ここでもちゃんと金は払っているのにもかかわらず、何故か店員から怪訝な目つきで凝視された。お釣りもなんか投げ捨てるように渡されたし。サービス不足で訴えてやろうか。
ともかく、戦利品は手に入れたのだ。これで飢え死にだけは避けられる。
と、店を出て一息、安心した時だった。
僕(とシュカ)の周りを、ぐるりと群衆が囲んでいた。
「…………え?」
思わず間の抜けた声が出てしまう。
あからさまな敵意は感じない。何か珍しい動物を見つけたような、奇異の目線。隣同士相談するようによそよそしく会話をし、僕にとっては凄まじく気味の悪い、異様な雰囲気だった。
が、何かしてくるといった感じではない。たぶん、単に珍しく思われてるだけだ。さっさと去ってしまえば問題ない……。
「ちょっと、通りますよ」
強引に列を掻き分け、視線とは目を合わせずに通り抜けようとした。すると、
「おい、やっぱり……あの男の人の背中にくっついてるやつって、スラムのアレだろ」
「まじかよ?」
徐々に勢いを増していく喧騒。
どうやら、ターゲットは僕ではなく、背後のシュカに向けられていたらしい。
それは、次の言葉ではっきりと理解した。
「やっぱり! そいつ、リトルだ!」
ざわっ、と空気が震えた。
いままで躊躇っていた群衆が、一斉に敵意――いや、殺意を向けてきたと、そう感じた。
「なんでこいつがこんなとこに居るんだ! はやく出て行け!」
「何かしでかすつもりだ、注意しろ!」
「警察はなにやってんだ!」
飛んでくる罵声に、僕は立ちつくすことしかできない。上着越しに、微かな振動があったけれど、気にする余裕はなかった。
そんな僕の近くに居たおばさんが、声をかけてくる。
「ちょっと兄ちゃん! はやくそいつから離れな! 何されるか分かんないよ!」
「い、いや、僕は別に……わ、ちょ!」
手を引っ張られて、群衆の中に引き摺りこまれた。背中についていたシュカが離れて、多くに囲まれた中、一人真ん中で孤立した。
「いまだ! 投げろ!」
誰かの一声で、ありとあらゆるところから何かが投げられ、シュカ目がけて飛んでいくのが見えた。
そのうちの二、三個がモロに当たって、地面に転がり落ちる。
赤い、レンガの欠片だった。大きさから言って、大人でも頭に当たっていいものじゃない。
それがシュカの細い体躯を打って、ずしゃ、と硬いコンクリートにシュカは倒れた。
その隙。
大人の男たちが周りに群がり、手に棒を、黒く長い棒を各々、地面に向かって打ちつけ始めた。
鈍い音が数回続いた。
昼に見た、大人の騎士数人を相手に力を振るい、僕を蹴ったり叩いたりした強気の彼女の姿はどこにもなかった。目の前に繰り広げられる情景は、ただのイジメだった。
それを暫く呆けたように見ていて――やっと我に返った僕は、おばさんの手を振り払い、一人の男の肩を掴んでこちらを向かせた。
「ちょっと、さすがに……やりすぎでしょう! 大の大人が、一人に向かって!」
でも、僕の言葉に男は、はぁ? と首を傾げた。
「やりすぎもなにもねぇだろ。ってか、あんたも騎士じゃないのか? こいつらはそもそもあんた達の管轄だろう?」
他の男達も、そーだそーだ、と口を揃えた。
「そ、それは確かにそうですが……」
男達の注意が僕に向いた。その瞬間、ちら、とこちらを見たシュカは、
「――っ!」
群がっていた人だかりに突っ込み、避けたところから抜け出し、逃げた。砂埃がぶわぁ、と舞った。
「待てぇ!」
「逃がすな、追え!」
それを、二人ほどが追っていく。ただ、それ以外の者は唐突に興味を失くしたの如く、ばらばらに去っていく。追う様子はない。まるで、ちょっと事件が起きたらしいから野次馬に来た、そんな程度の、顔つき。寸前まで、罵声を飛ばし興奮していたのが、だ。
僕の周りに居た男達も、声をかけたおばさんも、既に居ない。
「ちっ……」
舌打ち一つ、虚空に飛ばす。
もう、街の民衆に構っている暇は無い。いま僕に出来ることは、シュカを追うことだ。
僕もまた、群れる市民を掻き分け、走った。
***
群衆から逃げた銀髪の少女は、未だ街を駆けていた。
顔には、レンガによって傷ついた紅い線が幾重にも走り、白い肌と対照的である。腕は痛々しい打撲痕が残り、大人の体重が掛った足はどこか異常を感じさせた。
やがて街の終端へたどり着き、後ろを振り返って何も居ないことを確かめてから、足を緩めた。
こうなることはシュカ自身、分かりきっていた。
この街は、リトルプレイヤーへの迫害がより強い場所である。
それはかつて街が壊滅したのが、一人のリトルプレイヤーによるものだから。当時そのことに根強く関わっていたシュカは、誰よりも知っていることだ。そしてそれは、数年の時を経て復興した今も、市民感情に深く残っている。
スラムという寝床はあれど、銀髪に異色の目をもたらされれば、当然のことだったのだ。
だからこそ今まで、民衆の暮らす街へ足を踏み入れたことは無かった。
が、結果的に彼女は街へ入った。
あの男――フラウの、思ったより力強い握力に抗えなかったわけではない。
シュカは自分の足元、流れていく灰色の土を見ながら思う。
どこか、守ってもらえるとでも思っていた? あの大きな背中に。
ぶんぶん、と頭を振ってその考えを捨てる。
「それは、絶対に、ない」
昔同じようなことがあった。
苦楽を共にして、大きな背中に自分の心を預けた。
それは、もっともっと大きな力によって引き裂かれてしまったけれど。
その背中と、フラウの姿をどこか重ねていた?
「ない、もん……。あいつは、違う」
あの自分を守ってくれた少年はもう居ない。
この街で自分を見つけてくれた少年はもう居ない。
頬に一筋の雫が走った。
「ぐすっ……もう、無理だよっ……。待てないよおっ……」
その場に崩れ落ちた。細い指の先を、土が覆った。
「どこに居るの……? 私を迎えに来てよ……!」
記憶の彼方に沈んだ誰かに。
名前の思い出せない、大事な誰かに。
だが、その叫びは届くことはない。
唯一それを聞いていた空が、薄く曇っていた雲から、
サー……と、消えるような霧雨を降らし始めた。
白いワンピースが点々と濡れ、その点が繋がり線となって、やがて肌に貼りつく頃――
じゃり、と濡れた土を擦る、靴の音がした。
***
「ちっくしょう」
街をくまなく探し、走り回った。
しかし、未だにシュカの姿は見つけられていない。
街自体はそんなに複雑な構造をしているわけではなかったから、容易だと思っていたけれど。
既に陽は沈みかけているし、なにやら雲の様子も怪しい。すぐに雨が降ってきそうな雰囲気を醸し出していた。
誰かに聞くことも考えたが、一瞬でそれは愚かだ、と振り払った。
さっきの光景を、かなりの人数が見ているのだ――
銀髪で……と言った瞬間、はぐらかされるのはちょっと考えれば分かる話だ。
「ああもう……どこに居るんだよ!」
シュカがあんなことになったのは僕のせいだ。
自分の空腹だけを心配して、この街の感情がどうなっているか、考慮に入れるのをすっかり忘れて強引にシュカを連れて来てしまった。
それに、囲まれた時、僕は何もできなかったじゃないか。
民を守るのが騎士の心だ、と教えられたのをまったくできていなかった。
赤紙をもらっても、所詮はまだヒヨッコだったと、そういうことだ。
コンクリート造りの壁を、自身のふがいなさに殴りつけた。
「だから、まずは見つけないと……!」
思い当たる場所はいくつかあった。家に帰ってるかもしれないし、またあの収集場に行っているかもしれなかった。けれど、僕はその正確な場所を知らない。この暗さと雨を心配すると、ヘタに動いて迷うわけには……。
思わず空を仰いだ。
白い糸みたいな物体がふよふよ泳いでいるのが見えた。昼と同じだ。
産卵を目的に川下りをする海の魚みたいに、それらすべてが一様に同じ方向へ競うように流れている。
僅か数ミリの太さしかないそれに、僕は導かれるまま歩いていた。
僕が追うと、そいつらはスイーっと逃げて、僕がペースを緩めると、早くこいよ、とばかりにその細い体を曲げて手招きしてきた。なんだか上から目線で物を言われているようで、腹のたつ糸だ。糸かどうかはしらないけど。
風が舞っていた。雨がパラパラと落ちてきた。そう遅くないうちに本降りになりそうだ。
それを見越したのか。いままで僕の前を先導して隊列を組んでいた糸達は、突然左右にばらけて、雨から逃げるように、サッと薄く、消えて行った。
「お、おいおい……どこいくん、だ!?」
舞っていた風が、急に途絶えて静まったかと思うと、直後。突風が、僕の背を押した。
「ぬわっ、な、なんだ?」
勝手に足が前に進む。まるで見えない巨人の、透明の手に押されているかのよう。つま先で踏ん張っても無駄だった。
街を奥に、スラムへ。
灯りがない分、視界が危うくなるほど暗い。このまま壁に激突でもしたらどうしよう――とそう頭の先に走ったところで、巨人の手――もとい突風はおさまった。
その、家と家の間、狭い隙間に……やや濡れて肌色の透けた、白いワンピースの銀髪少女が居た。
「……やっと見つけた」
遠目から見れば、白い塊にしか見えないそれに、一歩、二歩と近づいた。
そっと手を伸ばして、肩に置いた。
「探したんだぞ」
「…………」
黙ったまま、顔が上を向く。僕と目があった。涙が両頬に川を作っていた。
「……お」
「お?」
「お、遅い……」
「ご、ごめん」
背後でびゅうぅ、と風が過ぎて行った。シュカの、長い銀髪が揺られてぶわっと踊った。さらさらと余韻を残して元に戻るそれは、僕の指に絡みつく。
「待ってたのに。……意外と足が遅い」
「いやいや、足は関係ないだろ」
「言い訳は見苦しい」
「はいはい、分かった分かった」
それから、シュカは倒れるように、頭を僕の胸に預けてきた。すん、と鼻を鳴らして、「う~」と唸るとばしばし僕の肩を叩いた。傷口じゃない方だ。僕は黙って叩かれた。
「あのさ」
「……なに」
肩パンチが止む。
「僕、シュカに謝ろうと思って。あんなに嫌がったのは、街に入るとああいうことになるからだったんだよな……ごめん。全然気付かなかった」
「別に、いい……もう、慣れたし」
小さな身体がふるっと震えた。雨が段々と強くなってきた。シュカのワンピースはもう、白というよりは透けて見えた肌色の方が強い。密着している分、目のやり場に困った。
「どこ見てるの。変態。ロリコン」
「ばっ! べ、別にどこも見てない!」
「嘘」
「嘘じゃない。……大体、見るほどのものもない癖に」
「うるさいっ」
げし、と蹴られた。身長差のせいでちょうど脛にクリーンヒット。い、痛くなんてないぞ。
げし、げし。
続けて蹴られた。けれど今度はむしろ、猫の肉球に踏まれたような、柔らかなものだった。蹴りながら、シュカは僕に抱かれ続けた。小さかった。冷たかった。
やがて、弱々しくながらシュカは立ち上がった。僕に背を向け、震える声で言った。
「帰る。もう、あんたの監視はやめにすることにしたわ……だから、私につきまとわれたくないなら、さっさとここを出なさい。あんたが仲間のとこに帰っても……もう気にしないから」
「えっ……」
それから無言の圧力を背中から発して、スタスタと歩いていってしまう。
言われたことを直に受け取れば、僕は晴れて自由の身、ということだった。
このスラムを後にし、詰所へ帰ることができる。もちろん、午前中の出来事については報告するついでにどんな処分を受けるか分からない。最悪謹慎処分さえ出されるかもしれない。それでも、元の鞘に戻れるということは今よりもきっと状況はよくなる、はずだ。
しかし、僕の気分はどうも釈然としなかった。
今までリトルプレイヤーを憎んで憎んで、四年を訓練に費やし、ついでに一カ月無駄足を踏んで、ようやく実戦に配備されて。
僕はきっと多くの敵を斬って行くんだろうと思っていた。
現実は、初めて会ったシュカという少女によって、全然違う視点を知ったということだ。
ただ一つの出来事だけれど、それが自分に大きな変化をもたらし始めている。むしろ、もう影響を受けている。そう感じていた。
まだ新しい絵具パレットに、白だけを使い続けても、パレットは汚れない。
その白い絵具の詰まったパレットに、黒色の絵具を1滴たらせば。
途端に白は、灰色へ染まっていくだろう。
そして、一度黒い染みを作ったパレットは。
洗剤を使ってもなかなか落ちない黒を作る。それと、おんなじ。
黒を知らないパレットは、純粋なままで居られるが、黒を知ってしまったパレットは、それから白だけが存在する世界に戻ったとしても、黒を求めずに居られるだろうか?
僕は、この新しい「(せ)色(か)」(い)を知ってしまった以上、このまま帰ってもいいんだろうか?
徐々に姿を小さくし、角を曲がりかけていたシュカを追いかけ、肩を掴んだ。
「僕は、帰らない」
「は……!?」
「帰らない、って言った」
シュカは振り返らない。僕の方を見ないまま、顔だけを俯かせた。
「なん、で……」
「責任。取らせてくれよ」
この「(せ)色(か)」(い)を知ってしまった責任。
あの状況を生んでしまった責任。
守れなかった責任。
僕より遥かに強い、一小隊よりも多分もっと強い、そんな彼女に対して『守る』なんておこがましいかもしれない。でも、何かしたかった。
「なんで私に関わるの……? もう放っておいてよ。どうせ私は孤独。誰も助けには来てくれない。軽々しい同情なんて要らないわ」
「同情なんかするもんか」
「じゃあ……」
「言ったろ。僕は、リトルプレイヤーが嫌いだ。それは変わってないんだ。違う視点を知ったから、一方的な感情じゃないけど。これまでは、僕がシュカに見られる形だった。だけど、今度はその逆だ。一騎士として、僕はシュカを監視する」
シュカは顔を上げた。呆れたような、もっと言うと、バカにした顔だった。
「バッカじゃないの」
「痛~~~ッ!」
ガツ、と音がするくらい、本気で脛を蹴られた。
「私よりずっと弱いくせに。叩かれただけですぐ痛がるくせに。足遅いくせに……生意気」
か細い声だった。
「生意気でもなんだっていい。もし邪魔だったら斬られてもいい」
「……マゾ?」
「違うわ!」
軽く咳払い。前に回り込んだ。
「だからさ。近くに居させてくれよ。……もっと、知りたいんだ」
「は……」
ぽっ、と頬が紅くなった。
「っ……ば、バカバカ! 何言ってんのこんな時に! も、もう知らない!」
「あ、おい……」
僕の脇下をすり抜け、シュカは再び去ろうとする、が、
5メートルほど走ってから、足を止めた。小さい声で呟いた。
「……ついてくるなら、勝手にすれば。ただ、死んでも責任は取らないから」
それを僕は、許容、と受け取った。
***
「――ふむ」
「これでよろしかったですか?」
「よろしい。下がってよいぞ」
「……失礼いたしました」
六畳一間の指令室。
深くもなく、浅くもないちょうど45度に保たれたお辞儀をして退室する秘書を目線で見送ったあと、報告書に目を落とした。
作戦としては昨日早朝に伝令したものである。さすがに、この国は昔から純情気質があり仕事が早い。確実性と俊敏性を備えた、これで冷徹なタテ社会で無ければ世界一幸福な国だろうに、と思いふけるのはラインハルトの癖だ。
作戦内容は、とあるターゲットの抹消。
結果は失敗。
隊のうち遂行に当たったとみられる人数は不明、少なくとも一小隊がターゲットの発見と戦闘を行った形跡あり。その隊が他に報告する義務を怠ったか――それ以外の隊は対象を発見できず。
KIA、五。
MIA、一。
KIAは戦死、MIAは行方不明を表す。
作戦に当たっていた他の隊は全員引き返させた。
結果だけ見れば、最悪のものである。ターゲット一人に対して、五人の兵を失い、一人は見つかることなく戦地で行方不明なのだから。
しかしラインハルトは、笑っていた。
KIAになった名簿の中に、最も重要な者は入っていない。
そしてその者の名前はMIAに入っていた。
思い描いた通りだ――。
唇の両端が軽く上がる。
「まずは種が芽を出した。あとは雨さえ絶えなければ茎が伸び、蕾は膨らむだろう。肥料は要らぬ。ツツジの種がツツジの花を咲かせる運命は決まっている……ここまで来れば、早急に事を運んだ方が良、か?」
騎士団に参謀は居ない。
名ばかりの中将や他の配下は多数居るが、そもそも騎士団は戦う対象が限られる。自衛隊とはそこが違う。作戦は全てトップが下す。つまり、ラインハルトに一任される。
数分ほど、中空を仰ぎ思考を固めた。
そしてすぐさま、部屋隅の電話を手に取る。
「――あいつを呼んでくれ」
それだけ言って、すぐに切る。
ほどなくして、呼びつけた者が部屋の戸を叩いた。
「入れ」
「失礼します」
金髪の幼い少女だ。だが小さな体躯に秘められた能力は他の無能共と違ってケタ外れに強いことを、ラインハルトは知っている。
「単独で作戦を与える。日時は――」
ラインハルトの捲いた種が動き出す。
世界を激変させた獣を、終焉に導く種が。
***
シュカの隠れ家(?)に帰ってから寸刻。
タイル床に打ちつけられる水音をすぐ近くで聴きながら、包丁をまな板の上でふるいつつ、鍋に調味料を放り込んだりそれを味見したりしていた。つまるところ料理。
相当ボロな小屋だけれど普通にキッチンが設置されているのは驚いた。シンク周りが埃でびっしりと覆われていて、使われていなさそうだったから磨いて使えるようにしたのだ。
しかも幸運なことに、飲み水がちゃんと出る。スラムといえど、意外と捨てたものじゃない環境だ。窯に薪があるので火も起こせた。
ふと、数メートル横にあるガラス戸に目が行く。着火式ランプで照らされた向こうからは、隙間から漏れてくる湯気と、それに紛れて動く薄い影が見えた。
ちょっと前に降りだした雨でずぶぬれとまではいかないにしても薄着のシュカは全身濡れていて、帰るなりそそくさと風呂場へ向かった。そしてその間、僕は遅れに遅れた昼食を作っているという塩梅だ。
湧いた微量のスープに買ってきたチーズを適当に投入。もう片方の湯入りの鍋には卵が入っている。もう少しで茹であがるはずだ。
焦げ付かないように、ヘラ(のように見える木の板)で混ぜる以外はもう特にすることがなくなった。
暇を持て余し、キッチンの周りをうろうろと徘徊する。特に意味はない。
と、足に何か引っかかった感じがした。ずる、と前に滑ったから布類だろうか――
目線を落とす。と、
「ぱ、ぱん……っ!」
断じて言おう。あの小麦から精製される、主食にもよく用いられる穀物ではない。
綿や絹、合成生地などで作られ、中には勝負なんとか、という極めて際どいもある、アレのことだ。
それが、ヘラ(のような板)を片手に持った僕の足元に、突如として現れた。もうひとつ断わっておくと、僕のじゃない。
簡潔に言うと、僕のものじゃない布物の下着が……誰が落としたのか、置いてあった。で、それに足が引っ掛かった……。白と水色の線が入った、ソレが。
思わずガラス戸の方を見てしまう。持ち主かもしれない当の本人は、まだシャワーを浴びている。
どうする!?
一、気にしないでそのままにする
ニ、気付かれないようにそっと元に戻してやる
三、懐に隠す
いやいや、三はありえない。常識的に考えて……。
妥当なのが一番、それだとシャワーから帰ってきた時はその、はいてないことに……。
「…………っ!」
いかんいかん、邪な妄想を一瞬膨らませてしまった。騎士たるもの常に冷静でないと。
ということは消去法でニ番なわけだ。
すると、キュッという蛇口を捻る音がして、シャワーの水がタイルを打つ音が止まった。
ぺた、ぺたと足音。それから少しおいて、
「あ、あれ……どこやったっけ……?」
と、困ったような声。
間違いなく、ここに落としたせいで持ってきたはずの物が無くて、困惑しているようだった。
さすがに手渡しするわけにはいかない。
せめて戸の近くに置いてやろう――
がらり。
ガラス戸が開いて、シュカと目がばったり合う。やや沈黙。
平坦な上半身には白いタオルが巻かれていた。
「な、なに、何やって……」
片手でタオルを押さえ、口をパクパク。って見とれてる場合じゃない弁解を……
「あ、いや違う! こ、これは違うんだ! そこに転がってたから近くに置いてやろうと」
「どこが違うのよ! っこの……ヘンタイヘンタイ! 死んじゃえ~~~!」
「ごふっ……!」
本気のグーパンチが、顔面に直撃。鍛えてるはずなのに、一撃でKOされた。能力なんかなくても、リトルプレイヤーは強かった。
でも僕、何か悪いことしただろうか……?
昏倒しつつ、そう思った。
それから目を覚ましたのは一時間くらい立ってから。
罵られながら、さっき作りかけたフォンデュを食べ(シュカにかなりの量を食べられた)、全てたいらげる頃にはもう夜遅い時間。子供はもちろん、大人も床につかなければ明日に支障が出る、そんな時間だ。
それに倣い、僕もシュカもベッドに入っていた。
――ただ一つの違和感を抱えて。
台所でチーズの焦げ付いた鍋を、ようやく洗い終わった辺りの事だ。
シュカはベッドに腰かけ、長い銀髪をじっくりじっくり手入れしていた。ブラシを使って上下左右。どの方向に梳いても、川の流れのようにさらりとブラシは通る。
別に見とれていたわけじゃないが、そこではたと気づく。
「……そういえば、この部屋ベッド一つしかないよな」
ブラシを止めたシュカが、何を今更といった風に、
「私一人しか住んでないんだから当然でしょ」
と答える。確かに当然の話なのだが。
「っていうことは僕は……」
「あんたの寝床なんて用意してるわけないでしょ。居候なんだから床よ床」
場所はそこね、との如くベッドから薄いタオルケットが1枚放り投げられた。スペースとしてはまぁ十分寝転がることができるくらいにはある。
「だよな……はは」
ちょっとは期待したものの、勝手についてきている身分、そう強く言えるはずもない。
黙って薄いシートの上に寝転がる。ひんやりとした冷たさが背中からじわじわと伝わってきた。
「痛っつ……」
冷たい上に硬い。肩は止血しているが傷口が完全に塞がったわけじゃない。硬い床で寝がえりを打つと、痛みが走った。
「……ねぇ」
「うん? どうした?」
既にベッドに入っているシュカからの声を、横たわったまま耳だけで聞く。大分疲れているようだ、体が重い。
「肩、痛むの?」
「まぁ銃で撃たれてるわけだしな」
あの向かってくる黒点を忘れられるわけがない。急速に自分に向かって死が迫る瞬間だ。1フレームごとに分けて絵に描いてみろと言われたってできる気がする。それだけ鮮烈な映像と痛み。それを受けて寝たきりどころか走り回れるんだから人体は侮れない。
などと体の丈夫さについて無駄な感心をしていると、ふと柑橘系の香りがふわ、と漂った。
うすら目を開ければ、視界にはシュカが座っていた。なぜか正座。長い銀細工みたいな、ややカールされた髪を床に垂らし、両手は腿の上。
「その……こ、こんなこと言うのは不本意だけど……っ。あんたが怪我してるから言うんだからね! 普通なら絶対絶対絶っっ対、思いもしないし最大限譲歩して、だけど!」
「? な、なんだよ」
凄い剣幕。顔が真っ赤になっている。
「だだっ、だから! ……使ってもいい、って」
「え?」
「ベッド! 一緒に使ってもいいって! 言ってるの!」
……そんな急展開があって、僕ら二人、互いに背を向けて小さいベッドの上、横になっていた。
狭い。とにかく狭い。
縦幅はまだしも、横幅は僕の片腕分プラス少し余る程度にしかない。あまり幅を寄せると背中越しに容赦ない足技が飛んでくるから、僕は半身でなるだけスペースを確保できるようにする。それでも二人が重ならないように寝るには無理がある。ときおり肩と肩がぶつかって、柔らかい、女の子特有の感触が残った。
枕はタオルを丸めたもので代用したけれど毛布は一枚で共有。この時期に空調も無しで風邪をひくことことなんてありえない気温だし、毛布は別に良いと言ったら、
「怪我人は黙って」
と無理やり毛布を被せられたのだ。だが、その分どうしても密着せざるをえないし、どこかが触れるたび、何かと緊張してしまう。
「……いやらしいこと考えてたでしょ」
「かっ、考えてない」
「嘘つき。これだから男って」
そういいつつそんな男を自分のベッドに上げたのは君です。
だけど僕もそういう疚しい気持ちがまったくないと言えば嘘だ。だって、女の子と同じ布団に包まって何も思わない方がどうかしてる。それに、後ろ姿で見ても、窓からの月灯りに反射する白く透き通った肌と銀の髪は、惹かれずにはいられない。人間離れした容姿を間近で見るだけで、心臓が高鳴るのはそうおかしいことじゃない……と思う。
「ん……」
するりと背中になにか当たる感覚。
「……背中、広いのね。なんかむかつく」
「別に腹は立たないだろ……」
「あんたみたいな軟弱で軟弱で軟らかくて弱いやつが自分より背中広いってだけでむかつく」
「なんでだよ――うひぃっ!」
何か冷たいものが背筋を通っていった……まるで氷をシャツの襟の所から入れられたような。
「くすっ、なにその声。ちょっと指で撫でただけじゃない」
「撫でただけって、それが問題じゃ」
「あ、もうこっち向くなぁ! ……ただでさえ狭いんだから」
反撃してやろうと体を反転させようとしたら怒られた。自分は僕の方を向いてるのにか。なんて自分勝手な。
それからもなお、ぺたぺたと背中を触ってくる。
「……セクハラで訴えるぞ?」
「なによ。年端もいかない女の子と同じベッドで呑気に寝てる少女趣味を棚に上げる気? 逆に訴え返してやるから」
ふふん、とシュカが鼻で笑った。くそ、反論の余地が無いのが腹立たしい。実際、知り合いにこんなとこ写真に収められでもしたら僕の人生谷底へまっしぐらだ。
「や、やっぱ僕床で寝るよ――」
「ダーメ」
「うあっ」
起き上がろうとして、腕に抱きつかれた。しかも怪我している方の腕だ、むやみに動かせば傷が開くかもしれない。なんと姑息な。
「意外と腕も太いのね……ごつごつしてる」
「訓練してるからな……」
もう諦めて、黙って腕を弄ばれることにした。つんつんされても気にしない。すーっと、手から肩へなぞられても気にしない。気にしないぞ……。
数分後、攻撃は止んだ(攻撃というにはいささか幼稚で、裏腹に精神的なダメージをもたらすものだったけど)。その代わりに小さく細かい息遣いが、すぅすぅと聞こえてきた。
「寝た、のか?」
反応はない。今なら抵抗もないはず。こっそりと、床に戻ろう。
……という僕の作戦は1秒で掻き消えた。なぜだか腕が動かない。
横目で確認すると、ちょうど僕の腕の横に、シュカの整った寝顔があって、そのシュカの両腕によって捕捉されていた。
「こうして黙ってると、ただの可愛い女の子なんだけどな……」
見た目からして、フランとそんなに変わらない。彼女がいつからこんな生活を送っているのかは知らない。だけども、もし彼女が普通の人間と同じ生活ができていたのならば――
きっと、学校に通い、友達を作って、思いっきり遊び、笑う、そんな日常にありふれていたかも、しれない。
ラインハルト大将から、赤紙を貰った日に言われたことを思い出した。
「もしリトルプレイヤーそのものが、誰かによって操られているだけの存在なら、騎士は剣を振るわなくてもよくなる、か……」
言われた時はまったく意味が分からなかった。今だって、判然としないところは多くある。
けれど、それが分かった時は、シュカ達は日常に戻っていけるんだろうか。
それが叶うなら、僕は――。
夕方からずっと振り続いていた雨はいつのまにか止んでいた。部屋の中は、シュカの寝息だけを響かせていて、他にはなにもなかった。静かな空間だけが、それを包み込むようにして見守っていた。
僕はそのシュカの寝息をメトロノームのようにして……いつしか眠りに落ちた。
***
<In the dream phase 3>
とある野原。
幼い僕と少女は、温かい日差しの中。風に揺れる柔らかそうな芝生に腰かけ、二人座っていた。周りは、特になにもない。その野原は高い所に位置しているのか……遠くには小さい街並みが見える。
ここ1カ月で、僕が見る夢はパターンを増した。
自分に記憶が一部無くなっていることを気付いた日から数年の間見続けた夢は、いつも見知らぬ少女に腕を抉られ、足を撃ち抜かれ、体中からトマトよりも赤い赤い体液をだらだらと情けなく流して、これまた見知らぬ不愉快な男に単身向かって行く直前までのもの。
それが変わったのはいつからだ。よく覚えていない。
二つ目のパターンは確か、黒ずんだ、破壊された町で、一つ目の夢の少女とよく似た幼い女の子と会話しているやつだ。
そして今日のは、そのどちらでもない。今までの二つは何か悲壮感漂う景色だった。それだけで何かが違うと推察する。ましてや僕は、幼少時代の僕を視点とした夢以外は見たことが無い。それは良く言えば嫌な教官から追い立てられたりあるいは猛烈に叱られたりするような悪夢を見ずにすむと言うことなんだけども、食堂がいくら最高級の味を誇っていたって毎食ビーフカレーでは飽きる。それと一緒で、夢だってたまには他のものを見たい。
と、そう願った所で夢は止められない。
録画された映像を再生する時に、一時停止機能や早送りや巻き戻しが無いかのような理不尽。叩き起こされでもされない限り、一方通行の映像を僕は見続ける。時に空中から眺め。時には少年からの視点で眺め。今日は、前者だ。僕は中に浮きながら、その映像を夢に見る。
僕の隣の少女は、前に見た破壊の夢の女の子のようだった。若干成長したのか面影がやや大人っぽくなってはいるけど多分同一人物。
もしそうでなければ僕は短い間にとっかえひっかえをする軽い男だということになってしまう。それは今の自分の性格から見て認めたくはない事実だ……。
「また、長い間ここ空けないといけないかもしれない」
幼い僕は神妙そうな顔でそう言った。
「私も一緒に……」
「ダメだ」
「やっぱり。いつもそんなこと言って連れてってくれないんだもん」
ぷう、と少女は頬を膨らませる。
「それは危ないから……」
「本当に? もしかして誰か他の女の子に会いに行ってるとかじゃないの。む、浮気の香りがする」
「してないよ!」
「じゃあ証拠は?」
「それは……ない、けど、さ」
僕は口どもった。それを見逃さなかった少女は、ニカッと太陽のような笑顔を綻ばせた。
「――じゃあ! 私と、浮気しない誓い立てよ!」
僕の顔を覗き込む。かなり近い。
「誓い……って、どうすればいいのさ」
「方法は簡単。口を閉じて、ちょっと顎を引いて……で、目をつぶって」
「こ、こう……?」
「そのまま30秒くらい動かないでね。絶対」
「う、うん」
目を閉じた。数瞬。少女の輪郭が、少年のものと重なる。
キスだ、と一瞬で理解した。少年の目が、驚きに見開いた。
少女は気にせず続ける。少年に寄りかかり、草原の上に押し倒した。
やがて行為が終わって、少女は少年を解放する。いたずらっぽい目つき。けらけらと、嬉しそうに笑った。一方の少年は、どこかバツの悪そうな表情で、恥ずかしいのか頬を薄い紅に染めていた。
「ふふー。これでもう浮気なんてできないからね。***は私のもの。私は***のもの。何が起きたって、離れないから」
「……浮気なんてしないのに」
「こういうのは心がまえがじゅーよー、なの。まだ誓いは終わってないよ? さ、言ってよ」
「何を?」
少年はきょとんとしていた。それに、少女がポカリと頭を叩く。
「痛いよ」
「ほんとでりかしーないんだから。誓いって言ったら、『愛してる』でしょ?」
少年を見つめて、少女が言う。
その瞳には、微かに不安が踊っているようだった。
「ねぇ、言ってよ」
「……してるよ」
「聞こえなーい!」
「愛してるよ! ***!」
「よくできました」
ニッコリと、少女は笑った。少年の頭を撫でながら。
それを少年は、「やめろよー」と言いながらも、手をどけることはしない。
本当に幸せな空間があったのだ、と思った。
空の彼方……向こう奥には、黒い黒い雷雲が迫っているのが見えていた。今は快晴だがもしかすると、雨が降りだすかもしれない。強い風を伴うかもしれない。雷が二人の間に落ちるかもしれない。
そんなことを思わせる、不吉な雲が迫っていた。
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前編(2)の続きです。