2 餓鬼・
美しい満月を流れ星が切り裂いてから長い月日が流れた。
しかし、どんなに時が流れようと人間が闇を恐れる心がなくなることはない。
人間には「恐怖遺伝子:DUP25」と言う遺伝子が存在する。この恐怖遺伝子は、太古から人間に受け継がれ恐怖の記憶を刻み続けている。
この遺伝子に縛られた人類の歴史は、闇(恐怖)との戦いの歴史と言ってもいいだろう。
闇を恐れ穴蔵で震えていた人間は、偶然にも炎という小さな光を得た。その炎が僅かであるが確実に闇を削れることを知った。小さな光を得た人間は、全ての闇を削れるのではないかと幻想を抱き科学を発展させてきた。そして科学の力は着実に闇を削ることに成功したが、それは束の間の安らぎでしかない。それでも人間は喜び、今も科学という魔法を使い続けている。
そして人類は、光を得たことで新たな闇を作り出してしまった。光の強さが闇を深くしていることに気付くことができなかったのだ。
深い闇が世界に影響を与えることを知りもしないで……
追いやられた闇が人間の体内に巣くうことも知りもしないで……
人の闇が作り出す恐怖を知りもしないで……
光を灯すことは現代社会において当然の行為、無意識の行為になっている。世界は光を溢れさせているのだ。
しかし、光りで包まれた都会を離れると夜は暗く、闇が深く支配している場所も多い。
この山間の土地も、都会とは比べ物にならない程光りは少なく、山肌を沿うように蛇行している道路には街灯がまばらに立っているだけで、光の届かない場所ではなにも見ることができず漆黒の闇が続いている。
それは町外れでも同じであった。山を背にして民家が建ち並んでいるが、裏に回ると闇が大きく口を広げ、僅かに山のシルエットが見て取れるだけになっていた。
闇の中を風が吹き抜けていく──
山から吹きおろす風に乗って人の声が聞こえてきた。声は闇に吸い取られそうになりながらも、風の助けを借りて漂っている。
山と町を別けるように作られた道路を越えた奥。
なぜこんなところから人の声が聞こえてくるのだろう。街の灯りも届かない闇の世界に、人がいるとでもいうのだろうか。いや、これは本当に人の声なのだろうか、闇から迷い出てきた人ならざる者の声なのではなかろうか。
だが、それは確かに人の声だった。闇にかき消されそうになるうめき声。耳を澄まして聞いてみると、その声は女のようであった。いや、女と言うには声が若く、幼さの残る少し甲高い声質から少女と言った方がいいかも知れない。
声をたどり山に入っていくと直ぐにシルエットを確認することができた。地面に倒れている少女の影は悶えるように体をくねらせ、まるで喘いでいるかのようであった。
しかし、そんな艶めかしいシーンを想像するにはどうもおかしい。雲の隙間から漏れる月明かりで僅かに浮かび上がるシルエットには、少女の体の上に覆い被さっているはずの人影が見えないのだ。
少女は一人自らの体を慰めているのか……
いや、その考えも間違いのようである。少女は一人ではなかったのだ。
少女の胸元には小さな人影が蠢いていた。それを人と呼んでいいのかもわからない。しかし、それは確かに人の形をしていた。体長は25センチ程度、とても人と呼べるような大きさではない。
それではいったいなにが少女の胸に乗っかっているというのだ。
「ウグッ……ハアァァァ……」
少女の声が大きくなった。しかし、これを官能的な喘ぎ声と言っていいのだろうか? それではやはり苦悶の声……どちらとも取れる声を上げながら少女は身悶えている。
「キキキキッ、どうだ! 精気を吸い取られる快楽は。死に至る快楽は、まさに絶品だろう」
耳障りな甲高い声が聞こえてきた。その声は、小さな人影が発しているのだが、この醜悪な声をなんと例えればいいのだろう。
その時、月を覆っていた雲が途切れ、月明かりが少女の艶めかしい姿をうっすらと照らし出した。スカートは捲られ、ブラウスも引きちぎられており、小さな胸が露わになっている。それはまさに幼さの残る未成熟な少女の体であった。そして月明かりは、その未成熟な胸元に乗っている小さな人影をも照らし出した。
「キキキキッ、人間の、特に若い女の精は格別だ……」
少女の胸に乗り、いやらしい笑い声を上げているのはやはり人ではなかった。その醜悪な顔、やせ細った手足。多くの文献や巻物に描かれている鬼。それはまさに餓鬼の姿であった。
これは現実の出来事なのだろうか。少女を襲っていたのは、性に飢えた男ではなく。血に飢えた鬼だったとは……
餓鬼とは血肉を喰い荒らすと言われている鬼。その鬼が、何故肉を喰わずに、人間の生命エネルギー〈
餓鬼は少女の少し膨らんだ胸に牙を立て、その小さな躰で精を吸っていく。
「アウッ……ハアアァァ……ダメ……もう……わた……し……」
少女の体から精気がなくなっていくのがわかる。艶やかだった肌はどす黒く変色し、顔には深いシワが刻み込まれていく。その変化は体全体に広がり、体は見る見る痩せ細り数秒でミイラと化してしまった。
「アアァァ……ダメッ……もう……ダメッ……」
そんな姿になっても少女は生きていた。自らの精を吸われる快楽とも苦痛とも取れる感覚にとらわれながら身悶える。しかし、これを生きていると言っていいのだろうか、もし、自分がこんな姿になっていることに気付いたのなら、少女は自らの死を望んだことだろう。
「キキキキッ、後少しでお前は死ぬ。キキキキッ、最後の精気、味あわせてもらうぞ」
再び少女の変色した肌に牙を立てた餓鬼は、残り少なくなった精を容赦なく吸い取っていった。
「あっ……がっ……た…………け……」
少女は言葉にならない言葉を残し、無惨にも生命の炎を消されていく。少女は最後になにを言いたかったのだろう。しかし、その答えを知っている少女の瞳は、輝きを失い既に抜け殻であることを物語っていた。
「プハァァ。キキキキッ、美味かった。でも、まだ足らねぇ、もっと喰いてぇ……」
その小さな体で、少女一人の生命を食い尽くしてもまだ足りないとは、なんという食欲を持った鬼なのだろう。
そんな、餓鬼の姿を見下ろすように男が近づいてきた。少女の艶めかしい声を聞きつけ、なにも知らずに餓鬼の餌場に近づいてきてしまったのだろうか。この男もまた少女と同じ運命をたどろうとしているのだろうか。
男はどんどん近づいてくる。
餓鬼に気が付いていないのか? いやそうではない。餓鬼の姿を捕らえているにもかかわらず近づいてくるのだ。
「相変わらずだな
完全に干からびてしまった少女の傍らに人影が近づいてきたことを餓鬼は全く気付いていなかった。だが驚いている様子もない。
それもそのはず醜と呼ばれた餓鬼には、その人物が誰だかわかっているのだから。
「大きなお世話だ
「ふん。醜いものは醜い、と言ったまでだ」
その声、その体格から少年のようだが、月明かりは木々に遮られ足下しか照らし出しておらず、顔を確認することはできない。しかし、少年は餓鬼を「醜」と呼んでいた。そして、餓鬼も「怨」と……
これはどういうことなのだろう。この少年も鬼の仲間──
「キキキキッ、なにを言ってやがる。邪鬼の貴様にそんなことを言われたくないね。貴様の本性もあまり変わらんだろうが。それよりも怨よ。貴様、良くそんな人間の格好をしていて大丈夫だな」
「怨」と呼ばれた少年が、月明かりが差し込む場所へ移動すると不適な笑みを浮かべる。こんな闇夜だというのに黒いサングラスを掛けているのでハッキリしないが、顎が細くかなり美形であることが伺える。
「この体、結構気に入っていてな。それに俺は、もう少しうまく食事を取ることはできないのかと言っているんだ」
「人を喰うのに上手も下手もあるものか、俺は喰いたい時に喰えればそれでいいんだよ。そもそも貴様が頼むから人間界くんだりまで来てやったんじゃねぇか。それがどうだ。人間界に出てきて一週間、まともに喰ったのは今日が初めてなんだぞ。もっと喰いたくなるのも当然だろう! なぁ怨、もっと喰ってもいいだろ」
なんとおぞましい会話なのか、やはりこれが鬼の考え方なのだろう。常に欲望に忠実で、人を食物としか思っておらず、喰らうことのみを考える。いや、それは人も鬼も同じなのかもしれない。人も食物になる動物の気持ちなど考えないのだから……
「貴様に期待をしたのが間違えか……だが、そう頻繁に人を殺されては俺が動きづらくなる。既に奴らのテリトリーに入っていることを忘れるな」
「キキキキッ、そんなことは貴様に言われなくてもわかってるよ。それよりも、なんで一気に攻め込まねぇんだ。さっさと頂いちまえばいいだろう」
そう言いながら怨の体を駆け上がる。醜が肩の上に乗ったのを確認すると怨は町に出る一本道を歩き出した。
「本気でそんなことを考えているのか。本当に餓鬼とは、喰らうことしか頭にないようだな」
「キキキキッ、大きなお世話だ。じゃあ、なぜ俺なんかを頼ってきたんだよ」
「お前を頼ったわけではない。それに、あそこには強力な結界が張ってある。それが、邪魔して入りたくとも入れないんだ」
「じゃあ、どうやってお宝を頂くんだ」
「奴らが使うのを待つのさ、結界から出るのをじっくりとな」
いったい鬼達はなにを狙っているのだろうか? 結界の中に隠されている物とはいったいなんなのだろうか?
醜は、怨のそんなのんびりとした考えに、少し不満を感じていながらも、逆らおうとはしなかった。力関係はハッキリしている。逆らったところで餓鬼が邪鬼に勝てるわけがない。
しかし、餓鬼の中でも特に口の悪い醜が、このまま黙っているわけもなかった。
「キキキキッ、邪鬼ともあろう鬼が、随分のんびりしていると思えば、結界が怖くて攻め込めねぇとはな。キキキキッ」
「黙っていろ。それよりとっとと姿を変えたらどうだ」
「ヘイヘイ、わかりましたよ。キキキキッ」
怨の苛立った声に醜は楽しそうに笑った。人を好き勝手に喰らうことができない鬱憤を減らず口で解消しているらしい。
その時、鋭い視線が飛んできた。
「姿など変える必要はない」
後僅かで山道を出ると言うところで冷たい声が突き刺さる。
「ギッ……」
その声に驚いた醜は、トカゲに姿を変えると怨の胸ポケットに逃げ込んでしまった。しかし、醜はともかく怨はその声に驚いた様子もない。
「なんだ貴様は、まさか〈
怨の視線の先には、長い髪を風になびかせ、般若の面をかぶり白の羽織袴に身を包んだ男が月明かりに美しく照らし出されていた。
〈狩人〉と言う言葉を発した途端。醜の体がポケットの中で震えだす。先程までの威勢は何処へ行ってしまったのか顔を覗かせることもしない。
「怨……まずい、まずいぞ。早く逃げた方がいいんじゃないか」
「慌てるなよ醜。なんのためにあんな目立つような喰わせ方をさせたと思っているんだ。俺はお前と違って頭を使っている。ちゃんと考えてのことだから黙っていろ」
ジッと般若面の男を見つめながら、醜を黙らせると細い笑みを浮かべた。この〈狩人〉と呼ばれた男がここへ現れることを始めからわかっていたという口ぶりだ。
鬼と人間、どう考えても鬼の方が強い。それなのに、何故醜はこんなにも脅えているのか、鬼よりも強いなにかをこの男が持っているとでも言うのか……
月明かりに照らされる般若面の男の手には、白鞘に収められた日本刀が握られていた。そしてゆっくり日本刀を抜くと月の光を浴びせるかのように上段に構える。
その構え、全く隙が見あたらない。しかし、怨はその刀を見ると舌打ちをした。
──そう簡単には持ち出さんと言うことか。それとも俺様を舐めているのか……
冷たく輝く刀を見て怨は、当てが外れたと言うように不満そうに顔を歪めた。
「〈
〈天叢雲剣〉古事記に出てくる伝説の三種の神器。その力を持ってすれば鬼を倒すことも可能だろう。だが、般若面の男が構えている刀は〈天叢雲剣〉ではなかった。刀からは言いしれぬ
「貴様ごとき、これで充分」
そう宣言すると般若面の男は地を蹴り、怨との間合いを一気に詰めた。
地を蹴るスピードのなんと早いことか。それは人間の出せるスピードなどではない。10メートル程の距離を一瞬で詰め、日本刀を上段から振り下ろす。その剣筋にはなんの迷いもなく、人の姿をした怨を一刀両断にしようとしていた。この男もまた怨と同じ鬼なのか。そう思わせる程の身のこなしである。
振り下ろした一刀が、怨の頭をとらえようとした刹那、怨の体が揺らぐ。そして、渾身の一刀は空を切った。
剣筋を読んでいた怨は、軽くサイドステップをしただけでかわしていた。まさに、体をすり抜けたのかと思わせる程の体裁きであった。
「チッ……」
般若面の男が、返しの反撃に身を構えるのだが、考えていた反撃は返って来なかった。反撃をするどころか、邪鬼は振り向くことなく逃走していた。
「次に出会う時にはちゃんと〈天叢雲剣〉を用意しておくのだな。貴様の本当の力を解放しない限り、俺様に勝てると思うなよ〈月の狩人〉よ」
般若面の男も、直ぐに後を追うのだがスピードは互角で距離を詰めることはできない。しかし、逃走する怨の前方には、別の人影が立ちはだかった。それは、巫女装束に身を包んだ二人の般若面の女だった。
巫女達は符呪を地面に貼り、印を結んで
「東海の神 名は((阿明|あめい) 西海の神 名は
「百鬼夜行を退ける
「ハハハッ、その程度の力で、俺様を止められるとでも思っているのか」
怨はスピードを緩めることなく結界に突っ込んでくると光の網が輝いた。
一瞬動きを止めたのだが、怨の勢いに耐えきれなくなった結界は弾け破られてしまう。
「きゃっ」「きゃっ」
結界が破れると怨は二人の巫女をはじき飛ばしそのまま逃走した。
「なにをやっている。この役立たずが」
少し遅れてやってきた般若面の男が、憎々しげに二人の巫女に罵声を浴びせ、怨が逃げていった方向を見つめる。
そして、はじき飛ばされた痛みで呻く巫女など気にもせず呟く。
「こんなところまで入り込んでくるとは……奴らの狙いはやはり」
男は、般若面を静かに外すと長い髪をなびかせ僅かに欠けた月を見上げるのだった。
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人間を捕食する醜悪な鬼。そのエサ場に突如として現れた般若面をかぶった男。しかし、鬼は戦いもせずその場を逃げ出してしまう。鬼の真意とはいったい……
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