蝶々になれるなんてありえない。あたしはどこまでいっても蛾でしかない。陽の下を気侭に舞うなんて、そんな自由は許されていないのだから。
蛾には蛾の面子ってものがある。蜜を吸う口がないのだから、あたしらはただ飢えて死ぬのを待つしかない。だからその短い時間の中で、必死になって男を探す。男だけを求めるあたしらを、きっと蝶々は滑稽だと思うだろう。だけど、あたしらにはそれしか与えられていない。なのにそれ以外の何を求めろというのか。
ひらひらと舞うだけでひとの目を惹き魅了するなんてそんなこと、あたしらにはできっこない。あたしらは暗闇の中で男の残り香をただ追い、必死にまぐわうだけだ。
美しさは罪だ。だから蝶々はその存在自体が罪なのだ。あたしらは蛾だというだけで嫌われ、爪弾きにされ、踏み潰される。だけど、あたしら蛾が一体なにをしたというのだ。蛹から空に飛び立ち男を探すだけなのに、なんの罪があるというのか。
蝶々はただ気侭に舞い蜜を吸い、ひとを魅了する。それは罪ではないのか。あたしらはただ、飢えるより前に男に抱かれたいだけなのに、命をつなげたいだけなのに。
命をつなげることが罪というのならば、あたしら蛾を全て殺すがいい。連綿と継承してきたそれが罪だというのならば、あたしらほど罪深い存在はいないのだろう。ならば殺せ、殺し尽くしてくれ。
蝶々はその存在自体が人を癒すのか。口があるのかないのか、羽根が美しいのかどうか、その程度の違いしかないのに。
随分前からあたしは、夜の街で身体を売る自分は蛾だと思っていた。生きていく為にしている行為だとはいえども、ひとはそれを認めてはくれない。この行為が警察に知られれば、あたしは捕まってしまう。そういう罪深い行為をしているのだ。
だけど、生きていく為に繰り返す行為が罪なのかどうかという考え方は、実は自然的ではない。
喰う為の殺しが罪ではないのならば、生きる為に身体を売る行為のどこが罪なのか。あたしは今でも分からずにいる。
あたしと同じように身体を売り生きてきた親友が、先日性質の悪い性病を煩い死んだ。だけど彼女は死ぬと分かっても、自分のしてきた行為を後悔していなかった。胸を張って生きてきたからではない。後悔のしようがなかったのだ。
蛾には蛾なりの事情がある。蝶々が気侭に陽の下を舞い蜜を吸うように、蛾は必死に男を探している、それだけなのだ。
あたしは彼女のように達観はできない。あたしは今でも蝶々が憎く、そして彼女らに憧れてしまう。
飛ぶだけでひとの目を惹き愛されるなんて、蛾には絶対にできない。決してありえない。そしてありえないからこそ憧れるのだと。
そしてあたしも今、飢えて死のうとしている。まぐわうことでだけ命をつなぐあたしたちは蛾。だから、それは仕方がないことなのだろう。
小さく咳を一つ、咳を抑えたてのひらにはべっとりと血が付いた。あたしも彼女と同じく、性質の悪い病気を貰ってしまったらしい。
蛾なんてそんなものだ。蜜を吸う口がないのだから、遠かれ近かれ必ず飢える。飢えたその時、蛾は死ぬ。命をつなぐ為にただまぐわうあたしらは、ただそれだけの存在なのだろう。
街角に力なく座り込むあたしの前に、ひとりの女の子が座った。じっとあたしを見詰めて、そして不思議そうな顔をしている。
こんな夜中に一体なにをしているのだろうか。そんな疑問が脳裏を過ぎったが、考えても無駄だ。何よりももう、あたしは何も考えたくない。
女の子はあたしの口元に手を伸ばし、その小さな指先で溢れた血に触れた。そしてそれをじっと見詰める。そしてあたしの顔を覗き込み、小さく微笑むと何かを呟いた。
言葉にならない言葉だからこそ、伝わる想いがある。それはあたしにとっての救いの言葉だった。あたしはただの蛾だ。ここで飢えてもう死んでしまう蛾なのだ。蝶々のように陽の下を気侭に舞うこともできない、美しい羽根もない、蜜を吸う口もない。
女の子は優しくあたしの頭を撫ぜてくれた。とても透き通っていて綺麗な微笑を浮かべながら。
意識が遠くなっていく。同時に苦しみが消えていく。あたしは生きた。ただまぐあうことしかできない蛾だけど、あたしは精一杯生きた。
女の子が伝えてくれたことは、生きることはただそれだけで美しいということだった。
あたしはゆっくりと目を閉じた。
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あたしには蜜を吸う口すらない。原稿用紙五枚。