No.280454

千早の2/14

姑獲鳥さん

千早の作る初めてのバレンタインチョコ。
千早が試行錯誤をする姿は素晴らしいと思うのです。

2011-08-21 03:03:15 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:600   閲覧ユーザー数:586

 

 ――結局寝不足だ。

 悶々とする、という行為には慣れていない。どんなことでも悩んでも仕方ないと思うし、結果は嫌でもついてくる。その結果というものは今まで自分が積み重ねてきたものの形であり、力及ばずに悔しくなることはあれど文句を言うこともない。自分の努力が足りなかっただけなのだ。

 才能だって別に平等に振り分けられているとも思わない。容姿から声から歩幅から、人間なんて不平等なのだ。勿論どうしようもない部分というものはあると思うが、どうにかなる部分が人より劣っているからという理由で諦めるのは、仮にその才能があったとしても伸びることなんて無いだろう。先駆者など見渡す限りにいる。

 ――頭は冷静に働いているのにな。

 悶々としているのに頭だけは正常に機能している。そして正常に機能していることが正常でないことに気付いていない。

 如月千早はここ数日大草原の真ん中に一人で立っているような、そんな感覚に襲われていた。それはある種の開放感であり、希望に充ち溢れてもいるが、どうしたらいいのかわからない絶望でもある。この場では自分を信じて先へ進んで歩くことこそが努力なのだが、融通のきかない千早は必死に風を読み鳥が飛んでいく方向を気にして行き先を探し、形の変わったそれに気づくことができない。

 千早は時計を確認する。デジタルの時計は六時四十分を表示していた。目覚ましを止めてから十分たっているが、今の千早にとってはそれは重要ではない。ましてや時刻の下に表示されている六度という現在の気温も関係ない。問題はその気温の横に表示されている日付、二月十三日というリミット一日前の表示、ただひとつだけだった。

 

 その悶々は学校にまで尾を引いていた。

 元々友達も多い方ではないし、クラスメイトも私がアイドル活動をしていることに気を使ってかあまり話しかけてこない。この学校生活を他人がどう言うかは知らないが、千早にとってそれが日常でありそれ以上でもそれ以下でもない。

 だからいつもなら何も思うことはないのだが、この二、三日は何故か周りの目が気になった。

 誰と話すこともなく一人で窓の外を見ていることをなんと思われているのだろう。

 形式的とはいえアイドルとして活動していることに、生意気だとか調子に乗ってるだとか思われているのだろうか。

 普段ならそんなことを考えたってしょうがない、の一言で済むことが、イヤに気になる。そして千早はそこで思考停止をする。

 千早は人の心と言うものに入り込むのが怖かった。怖い、というより拒絶をしていると言った方が的確かもしれない。

 人の心を理解するには自分をさらけ出さないといけないという。そうして相手はやっと警戒心をとくらしい。しかし、自分をさらけ出したら相手の警戒心はますます増え、固く殻を閉じるかもしれない。千早は自己否定されることに恐怖を感じていた。

 家庭環境が良くなかったせいかもしれない。両親の不仲に耳をふさぎ自分を守るために城壁を築くと、安全が確保されたその中には人が集まり街が生まれる。その絶妙なバランスの上に成り立ち旧来的に閉鎖されている街の空気と言うのは、ほんの一人の侵略者によって容易くかき乱される。だから城下町の住人、すなわち千早の心は城門を開けてはいけないことを本能的に知っている。

 ――どうして最近こんなことばかり考えてしまうのかしら。それもこれも――

 音無さんのせいだ、と千早は逆恨みをする。そしてバレンタインを恨む。さらにはプロデューサーもついでに。

 今までバレンタインなどは瞳の端っこにわずかに映る、なんでもない行事のひとつだった。気にしてない、という言葉を使うことも無いくらいどうでもいい風習だった。

 しかし今年は違った。千早は高校生であるとはいえアイドル活動をしている立派な社会人なのだ。一週間ほど前、音無小鳥に「社長はまあいいけど、お世話になってるプロデューサーさんくらいは――ね?」と言われたのが千早の苦悩の始まりだった。音無さん曰く社会人は社交辞令としてお世話になっている人にちゃんとチョコを渡さねばならないという。

 最初はそんなもんなのかと素直に受け止め当日事務所に行く前にどこかの店で、最近ではコンビニですら立派な包装をされたチョコが売っているとテレビで言っていたから、それでも買っていけばいいかと思っていた。

 それだけなのだ。

 それでいわゆる社交辞令というものは通過できるのだ。

 だが――千早は一応バレンタインデーが好意をもつ人にチョコを渡す、という内容を含んでいることを知っていた。

 そんなことなどどうでもいいと思っていたはずだが、生まれてこの方プレゼントなんて渡したことのなかった千早は過剰を意識せざるを得ない。それが体の中で跳ね回ってコントロールできない感情の原因だった。

 心に振り回されていると時間が過ぎるのが早く、学校が終わるまでの時間はいつもより短く感じられた。今日は新譜についての取材が入っている。特に集合場所を聞いてないときはとりあえず事務所にて待機ということになっているため、千早は自宅とは逆方向の都心へと向かう電車に乗り、765プロへと向かった。

 

 ビル街から少し離れた古いビルの二階が765プロである。社長が言うにはここからそろそろ移転するらしく、君の活躍のおかげだ、などとお世辞を言われたが、千早にとっては電車で一本で行けるかということだけが重要なことであり、広くなろうが綺麗になろうが別にどうでもいいことだった。

 ドアを開けると、入ってすぐ左手にある応接用のソファに、三つほど積まれている大きなスーパーの袋の中身を物色している春香の姿があった。バタンとドアを閉じた音で春香は千早に気づきビニール袋から視線を上げる。

「あっ、千早ちゃんおはよーっ!」

「おはよう春香。そんな大荷物どうしたの?」

「チョコの材料だよ!亜美と真美に話したら一緒に作ることになって、そしたらそれを聞いた雪歩もやよいも一緒に作りたいっていうから、いっぱい材料買ってきちゃった!」

 春香は両手に持った板チョコを見せる。

「そうなの」

「うん!流石に事務所の給湯室じゃ狭いから亜美と真美の家で作ることになってるんだけど、もしよかったら千早ちゃんも一緒に作ろうよ!」

「私はこれから仕事だから――」

 そっか、と春香は申し訳なさそうに笑う。

「千早ちゃんウチの事務所で一番の売れっ子だもんね。ごめんね、無神経なこと言っちゃって。お仕事、頑張ってね!」

 春香は三つの袋を一気に持ち上げ、それじゃ私行くね、と重くなった腕を腰まで上げドアノブに手をかけた。

「春香」

「ん?何?千早ちゃん」

「その作ったチョコって誰に渡すの?」

 春香はその姿勢のまま振り向くと少し悩むような表情を見せた後にあっけらかんと答えた。

「別に私は誰に渡すとか決めてないんだよね!なんていうか、お菓子作るのが好きだから作ろうとしただけで――渡すのはプロデューサーさんと社長くらいかな?」

「そう――悪かったわね、引き止めちゃって。それじゃ、行ってらっしゃい」

「うん!千早ちゃんもお仕事頑張ってね!」

 千早は春香の後ろ姿を見送る。春香はいつでも純粋だ。いつも結果を前提に行動をしている千早には春香のその真っ直ぐな生き方は羨ましく感じられる。

 春香のバレンタインへの軽いスタンスを見てさっきまでの自意識過剰な肩の荷が少し軽くなった千早は、社交辞令だ愛だ恋だ以前のバレンタインということだけではない、単純なプレゼントを渡すということについてふと考えた。

 ――私はプロデューサーにいろいろなものを貰ったのに、私は何一つお返しをしていない。

 千早がプロデューサーに会ったのは一年前のデビュー直前のことだった。いかにも新卒、というぎこちないスーツの着こなし方をしていたのを千早は鮮明に覚えている。

 それからの一年間は紆余曲折という言葉では表現できないほどの困難や衝突の日々であった。だがプロデューサーはどんな時であれ、今以上に思春期の真っ只中で感情をセーブすることのできなかった千早に呆れることなく優しく、付き添い続けた。

 ――多分、あの時出会ったのが他のプロデューサーだったら、今私はここにいない。

 千早はそう思うと少し胸が痛んだ。多分、プロデューサーが他の誰かのプロデュースをしていれば、仕事でいちいち生意気な態度で突っかかったりされることもしなかっただろうし、女の子は季節の行事を大事にするからもっと楽しく仕事をすることができたかもしれない。少なくとも私のような鉄面皮ではなく楽しい時は笑うくらいのことはしただろう、と千早は思う。

 ――そういえば、私はプロデューサーの誕生日すら知らない。

 この一年の芸能生活を思い出せば思い出すほど千早は自分がプロデューサーに依存していることに気づくのに、反対に自分は何一つ恩返しをできていないことにも気づく。

 こんなことをプロデューサーに話せば、千早のランクが上がっていくことが十分すぎる恩返しだよ、とでも言うことは容易に想像がついた。一年中一緒にいれば人の気持ちにあまり興味のない千早でも、流石にわかる。

 ――こんな時でないと――多分私は何もできない。

 だから。

 だからこそ、と千早は、今回のプレゼントに感謝の意を込めようと決心した。チョコ程度では足りないのは重々承知だが、千早なりのプロデューサーへのせめてもの罪滅ぼしでもあった。

 ――手作り、か。

 多分それが今自分にできる最大の感謝なのだろう、と千早は思い切って携帯電話を開いた。

 

 二件入っていた取材も移動をあわせて三時間ほどでつつがなく終り、プロデューサーの車でスタジオを後にした。

「いつも通り家まで送っていいのか?」

 ハンドルを握っている悩みの元凶が、後部座席の千早に聞く。千早は携帯をいじっている手を止めないまま返事をする。

「はい、お願いします」

 信号待ちの停車中、プロデューサーがバックミラー越しに千早を見る。

「千早が電話以外で携帯をいじるのなんて珍しいなぁ。なにかあったのか?」

『今仕事が終わったわ。今から家に来れる?』

「私だってたまには携帯くらいいじります」

 プロデューサーはそうだよな、と笑う。ほどなくして千早のマナー設定の携帯が震える。

『大丈夫だよ!千早ちゃんの家ってたしかF駅だよね。三十分くらいかかるかな?そこまでは一人で行けるから、駅まで迎えに来て☆(・ω<)』

『わかったわ。多分私の方が先につくと思うから、改札で待ってるわね。』

 スタジオから二十分ほどで自宅のマンションに着き、プロデューサーと別れた千早は駅へと向かった。直接駅に向かってもらってもよかったが、春香にあってるところをみられたとしたらつまらないな、くらいのいたずら心は千早だって持っていた。

 千早が改札に着くと、そこにはもう春香の姿があった。あれほどあった荷物も、どうやら小さい紙袋ひとつに収まっていた。

「ごめんね春香、またせちゃって」

「ううん、私も今ついたばっかりだから。そんなことより――」

 春香はカバンの中からサングラスを取り出し、千早に渡す。

「ほら、こんな人の多いところでそんな普通の格好できちゃ大騒ぎになっちゃうよ!」

「春香――サングラス持ち歩いてるの?」

「なんか、芸能人になった、って感じがするから――」

 えへへ、と春香は笑う。

 善意とは言え、手渡された顔の半分を覆うかのような大きなサングラスをかけることを流石に躊躇った千早は、とりあえずそれを頭の上にかけてみた。

「似合う似合う!」

 目的から外れても春香は素直に思ったままを言う。

「さあ行きましょう。早くしないと春香の終電がなくなっちゃうわ」

 千早は春香を連れ先程の自宅へと戻った。

 都心にほど近い十五階建てのマンションの三階が千早の自宅である。どうやら家人はいないようで、千早は靴を脱ぐととりあえず電気をパチパチとつけていく。中はリビングを含め四部屋あり、如月家の血筋なのだろうか無駄なものは一切置かれておらず、まるで人の住んでいないモデルルームのような部屋である。

「さあ、早速始めましょう」

「ちょっと時間かかっちゃうかもよ?おうちの人が帰ってきたら迷惑になっちゃうかもしれないけど、大丈夫?」

「ええ、気にしないで。どうせ今日は誰も帰ってこないと思うから」

 春香は理由を問う言葉を飲み込み、少しの罪悪感を感じた。

 一瞬の間を慣れたように千早が埋める。

「ああ、気にしなくていいわよ春香。うちはそういう家なの」

 そっか、などと言えるわけも無いが多分何も気にしてないようにするのが優しさなのだろうと春香は感じ、素直に「わかった」とだけ返事をした。

 春香は慣れた口ぶりで千早に指示を出す。湯煎をして簡単なトリュフを作るだけなのだが、生まれてこの方家庭科の授業くらいしか料理をしたことのない千早は一つ一つの動作がどことなくぎこちない。しかし春香は優しく横で見守り、めったに見ることのない千早の悪戦苦闘する姿を微笑ましく見ていた。

 そして小一時間ほどで歪だがまさに手作り、といった形のチョコが出来上がった。

「これで――大丈夫なの?」

「うん、これで固めればもうできあがりだよ!」

 千早は手の甲で額の汗をぬぐう。

「慣れないことはするもんじゃないわね」

「そんなことないよ、上手だったよ!」

 春香は手際よく使った道具を片付け始める。そして千早の顔を見て、満面の笑みで言った。

「これでプロデューサーさんに告白できるね!」

「は!?春香何言ってるの!?」

 千早は目を丸く見開いて、間髪入れずに否定する。

「そういうのじゃないのよこのチョコは!普段お世話になってる気持ちというか、感謝というか――」

「へえ、そうなんだ。じゃあいつするの?」

「何言ってるの春香!し、しないわよ!だいいち私はプロデューサーのことなんて好きでもなんでも――」

 手を使ったオーバーなアクションをとりながら全否定する千早を、春香が洗い物をしながらクスリと笑う。

「そっか、じゃあ私の勘違いだったね。事務所で初めて会ってからずいぶん経つけど、バレンタインのために準備する千早ちゃんなんて考えられないなって思って、そういう事かと思っちゃった」

 春香は驚くほど早くキッチンを片付け、駅までの道は覚えたからと言って一人で帰っていった。本来ならば千早も駅まで送るくらいのことはするはずなのだが、頭の中を余計な物がグルグルと回転しておりそこまで気が回らなかった。

 自分でどうにかなる範囲でうまくいかないことが起こるとイライラする。完璧主義ともとれる性格ではあるが、所詮自分自身が思うようにならないと癇癪を起こす、単なる子供なのだ。それを自己分析できているからこそ、余計にタチが悪い。

 好きという感情は何なんだろう、と千早は考える。

 たしかに、好きな歌手はいる。作家もいる。両親だってあの時までは好きだった。じゃあプロデューサーはと聞かれたら、今までの序列に並ぶように好きに入るのだろう。しかし、そこに並ぶ好きと春香が指した好きに天と地ほどの差があることくらいはさすがにわかる。

 ――もう、堂々巡りだ。

 翌日は土曜、千早にとっては完全なオフだった。時刻は朝の十時を回ろうかとしている。

 千早が家を出ようとしたまさにその時、カバンの中から携帯が鳴った。液晶には天海春香と書かれていた。

「もしもし。千早ちゃん、今からチョコ渡しに行くの?」

「ええ、ちょうど今から行こうと思ってたところよ。多分、いや、絶対休日出勤しているから」

「あ、あのさ、さっき亜美と真美から今から渡しに行くって電話があったからさ、渡すなら午後のほうがいいかなーって思うんだけど」

「別にいいわよ?いなくても机の上に置いて帰ればいいだけだし」

「と、とにかく!テレビの占いでも千早ちゃんの星座は午前中は運勢が悪い、絶対に事故に遭うって言ってたし!だから、午後まで家を出ちゃダメだからね!絶対!!」

 そう言い終えると千早の返答を待つことなく、春香は電話を切った。

 ――なんなのかしら?

 電話をかけ直してみても通話中のようにツーツーと切れるだけでつながらない。このまま出てしまおうかとも思ったが、意味が分からないとはいえ春香の言葉を裏切るのもあまりいい気はしない。

 仕方が無いので千早はリビングのソファに戻って今度発売されるライブDVDの映像チェックをしていると、いつの間にかウトウトと眠ってしまった。

 

 ピンポーン

 インターフォンの音で千早は目を覚ました。寝ぼけ眼で応答用のカメラを見ると、そこには――プロデューサーが立っていた。

「プ、プロデューサー?なんでここに!?」

「いや、春香から電話があってな、何か悩んでるみたいだからすぐ行ってあげてって言われて――わ、悪いんだが早くロックを開けてくれないか?さっきからちょっとトイレに行きたくてな」

 千早は笑いながらも切実な声でお願いをするプロデューサーにとまどいながらもとりあえずロックを開ける。すると間もなくプロデューサーが家に上がり、一言挨拶するとトイレへと駆けこんでいった。

 ――春香、なんで!?

 よくわからないままに今、同じ空間に存在するプロデューサーに対して千早はパニックに陥る。

 ――もう嫌だ!

 先日から何一つうまくいかない。唯一信頼できるはずの自分の脳が混乱しっぱなしで、意識の制御を拒否し続けている。

そもそもなぜ混乱するのかがわからない。イレギュラーなことが起きたからなんて言い訳にもならない。思考の中に少しでもチョコというワードから絡むと条件反射で頭がどこかへ飛んでいきそうになる。

「いやー、危なかったなっと」

 その元凶はすぐにトイレから出てくる。

 千早はこの不快な気分から別れを告げるため、カバンの中のチョコを引っ張り出してプロデューサーへと突き出した。

「多分春香が余計な気を利かせて私の家にこいと言ったんだと思います。私としては社交辞令としてこれを渡そうと思ってただけなので。仕事に戻って大丈夫ですよ」

 プロデューサーは案の定、物珍しそうな目でそのチョコを見る。

「あ、ありがとう千早。まさか千早がくれるなんて思ってもみなかったよ」

 千早が予測していたとおりの言葉を発する。

 そして予測していない言葉を続ける。

「これは最後のいい思い出になるなあ」

「――最後?」

「ああ、実家を継ぐために帰ってこいって話が出ててな。まだ辞表は出してないんだが社長に話は通してあって、来週末にもこの仕事の引き継ぎを始める感じになるかもしれないんだよ」

「な、なんでそんな大事なことを言ってくれなかったんですか!」

 千早は大声を上げて憤る。

「い、いや、一応何度か言ったぞ?実家が跡継ぎでもめてて俺が引っ張り出されそうなんだよってな感じで」

「そう――でしたっけ――」

 今、急速で記憶をたどるとたしかに会話をした覚えはあるが、そんなこと意に介していなかった。そして、これほどまでにプロデューサーに気を使っていなかったのかと、千早は自分に罪悪感を感じる。

 急に目の前の人がいなくなる、それは今まで何度も味わった。だからそれに特別な感情を持ったって仕方がない。起こりうる事象はいつかは起きるのだ。仕方がない。拒否する権限は会話を受ける側にはないのだ。仕方がない。

 仕方がない。

 仕方がない――。

「それじゃ、俺は事務所に戻ろうかな。チョコ、ありがとな」

 そう言ってプロデューサーが立ち去ろうとした瞬間、千早の口から声が漏れた。

「い――」

 それに気づいたプロデューサーが振り向く。

「いかないで!」

 千早はボロボロと大粒の涙をこぼしていた。千早のそんな姿を初めてみたプロデューサーは、当然のことながら焦る。

「どうしたんだ千早!きゅ、急にこんなこと言ってごめんな!?」

 涙が言葉を促したのか、言葉が涙を促したのかはわからない。

 しかし、その二つが重なった瞬間、千早の心の中にそびえ立っていた厚く頑健な壁が割れた。

 自由になった感情と思考はお互いを激しく行き来して、すぐさま心をあるべき姿へと戻した。

 全てはこの一言のために。

「私はプロデューサーが好きです」

 

 
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