ここはきっとソーダのボトルの中だ。
市子は天井の外で輝いているであろう星々を思うと我慢ならなかった。天井のスクリーンに映し出されている星の群れは、紛い物だ。市子は拍手の大群の中で、自分がソーダの中の泡の一粒に等しい存在であり、また宇宙に漂っている無数の星たちとも近しい存在である、などという空想に耽っていた。
だからこそ外で勝手気ままに輝いている星たちを思うと、外に出ずにはいられなかったのだが、自分が今日ここにきた目的を見失うわけにはいかない。自分の好奇心の強さは度を越しているな、と頬をぱちりと叩いた。
もしも一時の情熱で外に出れば、せっかく手に入れた記念すべき第二百六十回コミックマーケットのサークル参加の機会を無駄することになるし、またもしもこのドームの天井を突き破って外に出たならば、市子は物理法則に従って宇宙の塵と化すだろう。塵と化す瞬間くらいは派手な音が鳴るだろうか、いや、振動を伝える媒介が恐ろしく少ない宇宙空間で、そんな派手さを期待するのは間違いだ。
市子が、主観で、星に最も近づくためには、開会を喜んで拍手を繰り返すしかない。
「随分嬉しそうね」
「まあねー」
ぱちぱちと勢いよく市子が手を叩いていたので、隣に座っていたアリアが苦笑まじりに呟いた。
「初めてじゃないでしょうに。サークル参加」
「いやあ、なんかこう、宇宙のエネルギーを感じて」
「それ、地上で言ったらあんまり冗談にならないらしいわよ」
「ああ、そうねえ」
月と、そして地球の周りを周回するステーションの数々に人々が移住し始めて、もうすぐで六十年が経とうとしていた。もう少ししたら、宇宙で生まれて地球の表面を一度も踏むことなく死亡する人間の存在が当たり前になるのかもしれない。
かくいう市子は、地球に行ったことがある。
目的は、目当ての同人誌を買いに行くためと、そのついでに親戚に会いに行くためだ。病院などは全てステーションに揃っているため、滅多なことが無い限りは地球に用は無い。安くなったとはいえ地球、もしくは他のステーションとの往復にかかる料金は一年間バイト代を貯めて往復できるかできないか、といったところ。
ロケットの技術が発達していけば、これからも旅費は安くなり続けるだろう。
「おー、きたきた」
地球と比べると、はるかに規模の小さい同人イベントであるため、地響きが聞こえたりや阿鼻叫喚の地獄絵図が見られるということはない。
それでも今日までここ、ステーションドームで同人イベントが存続し続け盛り上がっているのは、人々の日ごろの努力などもあるが、それ以外に、ここ数年で賑わいの核を担っている存在があるのだった。
入場してきた一般参加者の列の九割の人間が、一斉に一箇所へ向かって競歩で進む。このステーションドーム内は宇宙ステーションの中でも珍しく重力があるステーションだが、それでもドーム内で大人数が走り回ると命に関わる可能性がある。そのため、ここでは地上のように無茶な移動を試みる輩はいない。
静かに、迅速に、無駄な動きを省いてルールの中で目的地を目指す。
予断だが、徹夜組なども見たことがない。
ドーム内は地上に比べるとはるかにルールが厳しいらしい。
人々が向かった先には、不動の、宇宙中でトップと言っても差し支えないサークルがある。
サークル名「全角すぺーす」、作家「こすも那羽人」。
毎回毎回、新しいイラスト、小説、音楽CDを、毎回新しい衣装によるコスプレで頒布するという、冗談みたいなキャラクター。男装から女装までをこなし、男声から女声までを出すという、漫画でもありえない身体を持つ人間。
性別、不明。
年齢、不明。
経歴、不明。
ある日のイベントに彗星のように現れて、流星群のように次から次へと伝説を打ち立てていく。
地上の数多くの会社からオファーがきているらしいが、その全てを蹴って宇宙ステーションでの同人活動にこだわり続けているという変わり者。
その、那羽人の元に人が怒涛のごとく押し寄せる。
売り子は本人のみで、列の整理にはスタッフが向かっているが、サークルそのものの回転数は遅い部類だ。普通大きなサークルならば売り子を二人は用意するところを、全角すぺーすは徹底的に那羽人一人体制を崩そうとしない。
売り子一人に対して来場者のほとんどがその一点に向かうため、あっという間に長蛇の列となってしまった。
もはや名物であり、見慣れた風景の一つと言ってもいい。
一部では「わざと列を伸ばしている」だの様々な誹謗中傷も飛び交っているが、こうして遠目から見ているとコスプレをしているせいもあっていまいち本人がなにを考えているのか分からない。一度だけ興味本位で並んで本を買ったこともあるが、やはり定番の機械のような動作にくわえて申し訳程度に「ありがとうございましいた」と添えられた徹底した売り子ぶりは、どこか開き直った風にも見えた。
三十分ほどすると、「全角すぺーす」で買い物を済ませた参加者が方々に散らばり始め、ようやくイベントらしい活気が全体に浸透し始める。
市子も何部かを売り、イベントの醍醐味である緊張感と心臓の鼓動を存分に楽しんだ。
ステーションに住んでいる人間の多くは、平均的に見て地球上で裕福だった家庭が多い。
市子の家もそれに類する家庭を地球上では築いていたらしいが、それは市子の祖父や祖母にあたる人物の代の話である。市子が生まれたのはステーション内にある病院であり、そのステーションは日本とアメリカが共同で所有しているステーションであったため、市子は国籍を選ぶことが可能だった。
市子の母親が選んだのは、アメリカ国籍だった。市子も、それに反対しないまま十八歳を迎えた。
星を眺める余裕もなく、市子の視線は目の前のバンパーに注がれていた。バンパーと言っても、ステーションを物理的に守るバンパーは、ステーションを覆うようにして伸びており、市子の視界にその全景が入ることはない。十層以上の構造からなるバンパーの表面にはセラミックスが敷き詰められており、三百六十度真っ暗な宇宙空間で、その白がざらりと浮き出て見える。
市子が後ろを振り向くと、宇宙にまき散らされているあらゆる熱線、塵などを防ぐカバーが、ステーションを庇うようにして鎮座していた。大抵の物理的障害はこのカバーによって弾かれる。バンパーと名はついているが、実際にバンパーが防ぐのは紫外線や赤外線などの有害光線で、塵や隕石などはカバーで防いでしまう。逆に、バンパーに直堰隕石などが当たるようなことがあれば、軽くて内部で地震を感じる程度、重い事故ならばステーションが維持できなくなる可能性もある。
カバーの補修作業は専門の社員が行っており、市子のようなアルバイトでは手を出せない。だからこそ、カバーによってステーションの安全は保障されている。
市子の仕事は、バンパーの様子を写真に収めることだ。異変などがあっても、市子には判断する力も権利もない。
給料はとびきり良いが、危険は伴う。
と言っても、市子が生まれてから、同じようなステーション外で行われるアルバイトで死人が出たことはただの一度もない。だから、市子も親に止められたりすることなくこのアルバイトを続けていた。ステーションの補修は人手が足りていない状態だったため、面接は合ってないようなものだった。
ステーション内に戻り、カメラを提出した市子は、更衣室でいくらか旧式の船外作業服を脱いだ。最新のものは身体のラインや間接を考えて作られているため動きやすいが、市子が来ていた船外服は何十年も前に人が月に降り立ったときのものとほとんど変わらない。最新のものでも抑えるべき要所は当時とほとんど変わらないが、同じスペックを維持するために必要な体積が大幅に削減されている。
技術向上の歴史は、小型化の歴史と言ってもいい。
補修専門企業のブースを出ると、ステーション内を行き来するためのメインストリートに出た。
メインストリートと言っても、恐らく自動車が一台通れるか通れないかくらいの道幅しかない。一度だけ地球の街に出たことのある市子にとって、自動車が行き交う大通りは星が行列を作る天の川のようにも見えた。それに比べて、この見慣れた通路は、恐らく、地球の人間が見たら配管のようだと思うかもしれない。
書物の市場のほとんどは地球が中心に開けているため、市子が好きな小説なども、書かれている内容のほとんどは地球のことである。一度でも地球の街を見たことがあり、かつ幼い頃から母親に沢山地球の話を聞かせてもらっていた市子には想像しやすいが、このステーション内にはそんな地球の物を想像することができない人間も沢山いるのかもしれない、と思う。
メインストリートの全長は二キロ以上あり、歩いて行くとステーション内をぐるりと一周することができる。
イベントなどのときに使用されるドームと、外から船が発着する港は、市子が歩いている場所からはすぐ近くだった。市子が住んでいるステーションにはそういったドームや補修施設、他、企業の研究室などが多く入っており、居住スペースは極端に少ない。従って、他のステーションと比べると人口密度が少ないというのが特徴だった。
だから、ステーション内の人間は大体顔を知っている。
前方、緩くカーブした道の先に現れた人間を見て、市子は首を傾げた。
見覚えのない人間だった。
他のステーションから仕事などで訪れる人間がいるため、見慣れない人間を見るのは珍しいことではないが、首を傾げた理由は、別にあった。
何をしているのか、近付いてみなければ分からなかった。
絵を、描いていた。
床に、壁に、天井に。
つらつらと、絵を描いていた。しかも、どこから持ち込んだのかは知らないけれど、クレヨンで。
恐ろしく、上手かった。
ステーション内の淡白なグレイの壁に、木々が伸び、水が跳ね、その中心で、目が大きく奇抜な髪の色をした少女が微笑んでいた。スカートのめくれ具合があざとく、胸元の隠し方が幻想的で非現実的だった。
アニメ―ションを切り取ったようだった。
どこかで見たことのある絵柄で、それがこすも那羽人のものだということに気がつくのに大した時間はいらなかった。
「あの、もしもし」
「……はい?」
男が顔を上げた。
絵に負けないくらいに目が大きく見えるのは、もともと大きいうえにとてつもなくまつ毛が長いからだろう。男だと思ったのは声が低かったからと、Tシャツにジーンズという格好だったからで、顔だけを見ると男性か女性か分からない。
そうとしか、思えなかった。
「あの、サークル「全角すぺーす」の、こすも、なうとさん?」
「……そうですが」
額に浮かんでいた汗が吹き飛んだ気がした。
アルバイト後の疲れなどどこ吹く風だ。目の前に、宇宙を股にかけた同人作家がいる。今更ながら、宇宙まできて同人作家ってどうなんだろう、などと考えはしたけれど細かいことは気にしない。
「な、何をしてらっしゃるんでしょうか」
「絵を描いているんですが」
いまいち会話が噛み合っている気がしなかった。
「なんでこんなところで描いているんですか」と聞こうとしたときだった。
「時間だ」
那羽人が立ち上がった。手は、何種類ものクレヨンを使ったせいで何色とも言い難い色で汚れていた。
「時間?」
「船の時間だ」
那羽人は落としてあった鞄を拾い上げて肩にかけると、早歩きで歩きだす。港の方角だった。
「船? 今日のこの時間は船は出てませんよ?」
一般市民が乗れる船が発着する時間は決められている。宇宙ステーションで個人が船を持つことはいまだに許されていない。
「あるだろう」
「ないです」
「あるんだよ。とっておきが」
「とっておき?」
「サジタリウスだ」
耳を疑った。「サジタリウス!?」星間連絡船だ。研究職の人間が、未開の宇宙へ旅立つための船。その船に乗る人間は未だに宇宙飛行士と呼ばれている。何十年も前からの、古臭い呼び名だ。
「どうしてですか。というか、一般人はサジタリウスには乗れませんよ」
「乗れるか乗れないかじゃない。乗るんだ」
「どういう……」
「逆に聞く」
那羽人が振りかえる。市子を見た。
どきりとした。いまだに異性なのか同性なのか分からないその顔だちに、市子は見惚れるしかなかった。石英ガラスの蒸留器具で洗練した、美しい清水のような顔だちだった。
「なぜ、宇宙に出てまで枠組みに囚われているんだ」
「え?」
「俺が、サジタリウスに乗って何をしにいくと思う?」
「……分かりません」
「まだ誰も到達したことのない場所に行って、誰も描いたことのない絵を描きにいくんだ」
「はあ?」
「まだ、この宇宙ステーションができる前から、今まで、今でも、俺の考えてることは全く変わっちゃいない。誰も描いたことのない絵を描く。そのために、歌だって歌ったし、言葉だって勉強した。いや違うな、絵という枠組みすらも狭いのかもしれない。誰も経験したことのない人生を作りたくて、俺は、生きてるんだ」
少年のような顔をしていて、我慢しきれないと叫び出すかのように再び歩き出した那羽人を追った。市子がついてきているからなのか、そうでなくともその言葉が止まらないのか、那羽人は発着場を目指して歩きながら言葉を吐き出し続ける。
「地球上に、俺が行って満足できる場所はすでにないと思った。だから、宇宙に来た。そして、宇宙で、抑えきれない自分を吐き出し続けても、それでもまだまだ足りなかった。だから、行くんだ。果てを目指して。進み続けるんだ」
「あ、あの……」
常軌を逸したその姿勢をあまりにも平然と貫く那羽人の姿は、まるでそうすることが当然であると言っているようで、市子は一歩引きながらも心のどこかで那羽人の言葉に共感しそうになっていた。
那羽人の発する言葉のどこの部分が琴線に触れていたのかは分からないけれど、確実に、どこかを刺激されていた。
「昔から、大好きだったセリフがあってね。マクロスってアニメ知ってる? それの何作目だったかな、それに、「抱きしめて、銀河の果てまで!」ってセリフがあるんだけど」
待て、……この男、いくつだ。
マクロスの名前は知っている。七十年か、八十年以上前のアニメだった気がする。
「名前は知ってますけど、セリフまでは……」
「そうか。残念だ」
「あの、こすもさん」
「なに」
「こすもさんって、おいくつですか」
「九十三歳」
「嘘ですよね」
「本当だよ。整形したからね」
那羽人は、振り向いて微笑んだ。顔に浮かんだ皺は、間違いなく少年のそれだった。
ただし、整形していなければ。
「ずっと夢だったんだ。宇宙に行くのが。そして、幼いころに好きだった絵を今でも描き続けてる。これはもう、宇宙にいくしかないじゃないかって、ね。だけど宇宙に来ても人間はやっぱり枠組みを作って、その中で生きようとしている。俺は残念ながら、そういうのは性に合わなかったんだ」
港についた。
確かにサジタリウスは止まっていたけれど、一般市民が乗れる船ではない。
「何がなんでも乗る」
「無茶ですって」
案の定、警備員に止められた。
「乗りたいんだ」
「無理だよ」
「今すぐ乗らないと、破裂しそうなんだよ」
「……何が破裂するんだ」
警備員が不信感を露わにする。薬品か何かでも持っているのかと険しい表情になるが、那羽人の答えはけろりとしたものだった。
「この俺の、情熱が」
市子も、警備員も、固まるしかない。
この男は、正真正銘の馬鹿のようだった。一世紀近くもかけて、人生を積み重ねて、ひたすら馬鹿を極めたのだろう、と思った。
「無理なものは無理だ」
「そこをなんとか」
「できるわけないだろう」
「あの」
市子の声に、那羽人が振り向いた。
「協力できるかも、しれません」
市子が事務所に入ると、ひやりとした空気が頬を刺した。
「失礼しまーす」
市子の背後から那羽人の能天気な声が続く。那羽人を連れてきたのは、補修企業の事務所だった。
「で、用はなんだ」
事務所の一番奥に座っている男が、市子の父親だった。
そして、事実上のステーション補修の責任者でもある。
「この人に、サジタリウスの補修を教えてあげられない?」
「はあ?」
市子の父親、啓二は、喉の奥の奇妙なところから声を出し、思わず咽た。市子が背後を盗み見ると、那羽人も同じように驚いて目を見開いていた。
「……だめ、ですか」
「つまり、僕がサジタリウスの補修を覚えれば、補修要員として乗せてもらえる、と」
「かなあ、と」
那羽人は、二秒ほど考えて、あっさりと顔をあげた。
「乗った。社長、お願いできませんか」
「……俺は課長だ」
「……課長、お願いします」
「そう言われてもなあ……」
「お父さん、お願いします」
「その言い方は辞めろ」
那羽人は懐から小さなカード入れを取り出すと、自慢げに市子の前に出た。市子を介さずに直接交渉しようという態度に今度は市子が驚かされる。
「資格なら沢山持ってますよ。運転免許に危険物取扱者に初級シスアドに船舶免許と無線とそれから」
「あー、いらんいらん! ……サジタリウスに、乗りたいのか」
「はい」
「犯罪でも企ててるんじゃあるまいな」
「そんなわけないでしょう。大体、あんな輸送するだけのしょぼい船すぐ撃墜されつちゃうじゃないですか。そんなの奪ってどうするんですか」
「まあ、なあ」
啓二はしばらく机にずしりと体重をかけて考えていたが、つっと顔を上げた。
「明日、履歴書持ってこい。それで決める」
「えー、今日乗れないんですか」
「当たり前だ馬鹿野郎!!」
危なっかしさしかない那羽人の挙動に部外者の市子のほうがはらはらとしてしまう。本当に、九十年間この男はいったい何を見てきたのだろうかと思う。
そして、――これこそが、枠組みの外で生きるということなのだろうか、とも思う。
「西暦二千二十七年東京大学卒業!?」
翌日事務所に、啓二の驚愕の声が響いた。
「はい」
「と、年上、か……」
「はい。あ、お気になさらず」
「あ、ああ……、で、アニメーターやったりスタジオミュージシャンをやったり、か。なんともまあ破天荒な……」
「どうもどうも」
「その顔になったのは?」
「五、いや、六年前ですね」
「理由は?」
「男にも、女にも、なりたかったので」
啓二は頭を抱えた。
サジタリウスに乗りたいという意気込みは聞いたが、果たして本当にこの人物を人類の代表として送り出していいものかと頭を悩ませた。
「他に整形箇所は?」
「声帯と眼球をいじってます。他はいじってません。あ、永久脱毛を整形というならそうかな。顔面と、足と、腕に全身脱毛かけてます」
「そうか」
「アソコはそのままですよ。見ます?」
「誰が見るか!! 落とすぞ!!」
「すいませんでした調子乗りました」
那羽人をお茶とともに別室に隔離し、啓二は市子を呼び出した。
「おい、お前あいつとどういう関係だ」
「どうもこうも、道でばったり会って、サジタリウスに乗りたいっていうから。そのままほっといたら平気で実力行使とかに出そうだったし」
「う……む、なんとなく想像はできるところが嫌だな……」
「私だって、自分が正しいことしてるとは思ってないけどさあ、放っておけなかったんだもん」
道端で一心不乱に絵を描いている人間を放置できるほど、達観しているつもりはない。
ステーションの中にいると朝や夜といった感覚は地球よりも薄くなるが、人類が地球を飛び出てからまだ日は浅く、従って人々は皆、朝、昼、夜という枠組みの中で生きることをよしとしている。
その方が、身体の循環、サイクルという意味では都合がいい。
いつか、そんな枠組みを必要としない人類が生まれる時もくるのだろうかと考えながら、今日も、市子は眼を覚ます。
ステーション内には、窓というものがまず存在しない。
管制棟などの一部には存在するらしいが、市子は見たことがない。わざわざ透過性の高い高硬度のガラス、もしくはプラスチックを使用して窓をつくるということは、負うリスクの方がはるかに大きいからだ。
また仮に外が見られたとしても、外は一年中暗闇と星しか存在しない世界だ。その景色から時間の流れを感じることのできる人間は存在しないと思う。従って、ステーション内では光量や色彩などを変化させることによって時間の流れを感じさせている。時計も随所に置いてある。
市子がベッドから起き上がる。
天井に仕掛けられたLEDの光源はフィルムを通して柔らかい黄緑色を部屋に注いでいた。色調から、現在の時刻を予測する。
時計を見ると九時三分前だ。大体予測と一致する。
着替えて顔を洗い、パンとジュースで簡単な朝食をすますと、デスクに座ってパソコンを起動した。
両親は甲斐甲斐しくも休日出勤に出ているようだった。デスクトップに置いてある宿題のファイルが視界にちらついたが、市子が開いたのはペイントソフトだった。脇によけてあったペンタブレットを目の前に持ってきて、さらさらとラフ画を描き上げてゆく。
ちっとも納得がいかない。
描きだされた人物は、空っぽの表情をしていた。
そう見える原因の何割かには、きっと那羽人の絵を見てしまったせいというものがある。彼の絵は、表現するということに関して貪欲な絵だったと、今にして思う。
少女が見つめる方角には月があった。
少女が横たわっている木はやせ細っていた。
描かれた花はその一本たりとも群れていなかった。
少女が持っていた紙片は風に煽られることを頑なに拒んでいた。にもかかわらず、少女の視線は月に注がれていた。
何を思って那羽人があの絵を描いたのか。
少女が見上げていた月に辿り着いたとき、那羽人は何を思ったのだろうか。
何を思ったのか――答えはもう聞いている、さらなる果てを目指したいと言っていた。
宇宙に来てもまだ、那羽人は満たされないのだ。
表現することも何もかも、那羽人は満たされていない。
その点、自分の絵が空っぽな理由が市子にはよくわかる。
市子には、那羽人と違って目指す場所がないのだから。
表現したいものがないのだから。
ただ気ままに、誰かが作り出した表現を模倣して、それで自分を慰めている。那羽人とは根本的に、立っている場所も理由も違っている。
那羽人は今日もサジタリウスに乗るために訓練を受けに行っているはずである。
自分は狭い部屋の中で、気がつけば、その筆の動きすら止めている。
夜と思しき時間だった。
道に小さく咲いている光の粒は、青や紫を示していた。腕時計を見ると十時を過ぎていた。
那羽人が描いた絵まで辿り着く。脚元に描かれた草木は踏み散らされて、霧がかかったように歪んでいたけれど、壁に描かれた少女と月は、全く色あせることなくそこに存在し続けていた。
その距離を縮めることもなく、壁は並行に続いている。少女はいつまでも月を見つめ続けている。
「セカイ系っていうらしい」
背後からかかった声にどきりとした。
その声はどこまでも澄んだ女性のものだった。
振りかえると、鮮やかな緑色の髪の少女が立っていた。衣装もどこか派手で、マンガから抜け出てきたかのような、蛍光色の黄色を着ている。
「……誰?」
「俺」その声は那羽人のものだった。思わず一歩下がると、那羽人は市子を鼻で笑った。
「何をそんなに驚いてるの」この声は、女性のものだった。けれど、那羽人のものなのだろう。
「言ったでしょ、声帯もいじってるって」
「確かに、言ってたけど」
「まさか九十歳を過ぎて女性になれるとは思ってなかったけどね」
「そんな整形、聞いたことない」
「以外といるぜー? 地球には」
「そうなんだ」
地球の印象が少し変わった。もっと保守的な場所かと思っていた。宇宙なんていう場所に飛び出した自分たちのほうが、独創的かつアグレッシブな人間なのではないかと心のどこかで思っていた。一度地球に訪れたときは、あまり沢山の場所を見る機会がなくて、つい京都だとか、ありふれた観光地を見て回ってしまった。
そういう歴史的に積み重ねられて作り上げられたものが宇宙にはないから、そちらに意識がいってしまい、地球で生きている人にまで関心がいかなかった。
今にして思えば、惜しいことをしたのかもしれないと思う。インターネットで地球の情報は入ってくるが、興味がなければ入ってくる情報も雑音にしかならない。
その点、目の前にいる那羽人はそのまま、興味を湧かせる塊だった。
「セカイ系って、こすもさんのことですよね」
「俺の、絵のことな」
何年か前から、二千年前後に描かれた絵や小説を学術的に分類する動きが生まれていた。
一般的に若者と称される年齢のキャラクターが、世界観を顧みるSF的観点から物語に向かう、その姿勢が描かれたものを、人々は「セカイ系」と呼んでいる。セカイ系という言葉が生まれた当時の人々はもう少し違うニュアンスで使っていたのかもしれないが、現代のセカイ系の定義はそれだ。
そういう意味で、常に回帰と開拓を同時に描くこすも那羽人は、セカイ系の技術者なのだった。
那羽人が作り出す絵も、小説も、音楽も、全ては自分の立ち位置と、目指すべき道筋の二つから語られる。
一貫した世界観が、そこにはある。
「どうして、そういう絵ばかりを描くんですか」
「好きだから」
あっけらかんとした解答に、市子は苛立ちを覚えた。適当に流しているようにしか見えなかった。
そんな市子の表情を見て、那羽人は柔らかく微笑みながら、息を吐いた。
「根底にあるのは、理想への渇望だよ」
「理想への、渇望?」
「俺は、目立ちたがりなんだ。誰もしたことのないことがしたい。以前言っただろう。「まだ誰も到達したことのない場所に行って、誰も描いたことのない絵を描きにいくんだ」って」
確かに、言っていたような気もした。
「いくら描いていても満たされないんだ。少しまえに、それが、地球で描いているからだと気がついた。地球上で何枚絵を描いても、それがどんなに売れても、売れなくても、それはただの絵描きでしかない。しがない絵描きの生涯でしかない。俺が本当になりたいものはなんなのか、考えた。絵描きになりたいのか、ミュージシャンになりたいのか、小説家になりたいのか、……違った。多分、きっと、自分は地球上でどんな売れ方してもきっと満足しないだろう。売れなかったらと思うのも恐いんだけどな。自分がすたいこと、表現したいものはあるのに、それを出すことを認めてもらえず、地球上で全ての人間が何も満たすことなく死んでいく。それには耐えられない。だから、俺はそうだな、一番になりたいんだ。世界の一番端に一番最初に行って、多分、一番すごいことをやりたい。そのために、生きてる。そのために、果てにいく」
那羽人は、壁に描いた少女に触れた。汚らしい指先で、宝石にでも触るように、少女をやさしく撫でた。
「だから、枠組みの外に行きたかったんだ。そこで、自分が今まで見てきたものとこれから見るものを擦り合わせる。全く新しい、自分だけの枠組みを作る。そうして初めて、俺は自分がやりたいことを見つけられる気がした。満足のいく人生の最終形を探しに行く。そのために、宇宙の果てに、誰も到達したことのない場所に行くんだ」
「自分の国を作りたいんですか?」
「そう言い換えても間違いじゃないかもしれないね。ただ、そうするには地球上には、枠組みが増えすぎた。今から全く新しいものを地球上で作るのは事実上、不可能だと思う。そういう意味では宇宙ステーションは素晴らしいと思ったけどね。全く新しい枠組みの中で生きる一つの方法だと思う。ただ、実際にきてがっかりした。この宇宙に数多打ち上げたステーションの中ですら、人々枠組みの中にいる」
「私たちが人間である以上、ルールは必要です」
「そうだ、確かに、ルールは必要だ。ひょっとしたら、俺は、人間を辞めたいのかもしれないな」
自分のコスプレ姿を見て、那羽人は乾いた笑いをもらした。その、人でなくなりたいという感覚は分からないでもなかった。
「来週には、サジタリウスに乗れるらしい」
「そんなに早く?」
「無理を言って、お願いした。我慢できないんだ」
そんな無理が通るという意味では、ある意味でこのステーションは枠組みの外にある。
しかし、それでは那羽人は満足できないのだ。
「市子は、いいのか」
「は?」
「枠組みの中にいることに、不満を覚えないのか」
「そりゃあ」
覚えたことがないと言えば、嘘になる。
さっきも考えた通り、人間を辞めたいと思ったことはあるし、人々の行動に憤りを覚えることは山ほどだ。
けれど、外へ飛び出ることを望みはしない。それはまだやりたいことがないからだろうか。それとも、市子そのものがそういう人間なのだろうか。答えはどこにも見つからない。
「分かりません」
「そうか」
那羽人と分かれて部屋に帰ると、パソコンをつけてニュースを読み始めた。
地球のニュースだ。
今までは、興味がなかった。
一面どころか、記事のタイトルにすら滅多に目を通さなかった。
興味を持って記事を読んで行くうちに、あることに気がついた。
それは、那羽人の言葉を頭から信用することが間違いであるということだ。
自分は、地球のことを全く知らなかったのだと、気がついた。
何が、枠組みか。
胸の奥にエンジンがあり、火がつき、咆哮したかのような鼓動が起こった。胸の内から何かが突き上げるようにあふれ出てくる。
セカイは、市子が思っていたよりもずっと苛烈だった。
自分が生きてきた世界が、実験室のフラスコの中だったのだと気がついた。
生まれた悔しさは、自分の矮小さと無知さの自覚が積み重なって出来上がったものだった。
国が生まれ、滅び、その枠組みの中で人々が争い続けている。
自らの考える理想の枠組みをお互いにぶつけ合い、小川が合わさって大河となるかのように、一つの大きな流れを作ってゆく。そうしてできあがる大きな枠組みが国を生み、その大きな枠組み同士がまたぶつかり合い、泡と消える。そして散らばった者たちが新たな枠組みを生みだし、そしてまたぶつけ合いながら巨大になってゆく。その連綿としたサイクル、回帰と開拓の繰り返し。
ステーションにいる限り、想像できなかった世界が地球上にはある。
地球という巨大なステーションは、矮小なステーションの中でこもって生きている人間には想像もできないほどの熱と引力で渦巻いている。
なぜ、自分は地球に生まれなかったのだろうか。
なぜ、那羽人は地球を出たいと思ったのか。
地球は、こんなにも巨大で強大なのに。
「地球に行きたい」
市子の引く線に、表現が宿る。
生まれて初めて、市子は模倣することを辞め、大海に足を踏み入れる。
「辞めておけ」
那羽人が言ったが、それを聞く気はなかった。市子の表情を見て、那羽人もそれを認識した。那羽人が「宇宙へ行く」と言ったとき、きっと那羽人はそんな顔をしていたし、那羽人の周囲の人間は今の那羽人と同じ気分だっただろうと、思ったからだ。
当然、市子の両親は渋い表情をしたが、ステーションから地球へ還る人間は実際問題として増えている。地球からステーションへ行こうと考える人間は、増えも減りもしない。いつも、一定の目的をもった人間だけがステーションに集まる傾向が強い。だから、少しずつステーションの人口は減っているのだが、何年かに一度、大規模な宇宙開発計画と称して人員が送り込まれ、あらたなコミュニティを形成するため、ステーションの人間がついえることはない。
人々が宇宙を夢見つづける限り、ステーションという枠組みが途絶えることはない。
そんな中で、市子は、地球に帰りたいと激しく渇望し始めた。
ある日の、午前十一時のことだった。
市子と那羽人は、そろってステーションを後にする。
お互いに背中を向けて、二人はどこまでも離れ続ける。
午前や午後など、時間という数字上の概念はステーション内では大した役には立たないが、地球に降りれば否が応でも必要になる。
そういう意味ではステーション内でも変わらず人間の文化を貫き通した、脈々とした生き方に感謝する気持ちも芽生えた。
ステーションで集めた本やマンガは全て処分することにした。自分が今までに描いた絵なども、全て破棄すると決めていた。
それが、地球に旅立つ市子の決意だった。
旅立つにも関わらず、地球に帰るという意識が強いのがなんとも不思議だった。
全ての人類にとって、地球とは、帰るべき場所なのだ。
それは、宇宙で生まれようが関係ない。
「じゃあ、またね」
市子が言うと、那羽人は笑って手を振った。さすがにキャラクターのコスプレはしていなかったが、「これもコスプレだ」と喜んでツナギを着ていた。
「これ、やるよ」
「なにこれ?」
「百年以上前の同人誌。あんたが死ぬ頃にはお宝かもしれないぜ」
複雑な思いだった。ついさっき同人誌を全てゴミ箱へ送った市子に対する当てつけか何かだろうか。
「じゃあ、またな」
「うん」
お互いに、「また」がないことなど知っている。
それでもまたという言葉を使った理由は、市子自身もよくわからない。ただ、その方がいい気がした。
宇宙の果てに行きたいといくことに理由がないように。
地球に帰りたいと願うことに理由がないように。
選んだ言葉は、大切だけれど、特別な意味なんてなくてもいいのかもしれない。
那羽人の姿が、サジタリウスの中に消えたのを見て、市子も歩き出した。一般客が乗る船が目の前にある。
イベントの際には沢山の人間が乗り込みダイヤも増えるが、普段の船はただひたすらに静寂の中に溶け込んでいる。
地球を目指して、歩き出した。
最果てがどこにあるのかは、未だ見えないままだ。
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オリジナル短編。ファンタジーのつもりで書いてはいます。設定などめちゃくちゃな部分があるかもしれませんが、楽しんでいただければ幸いです。