昔の男か今の女か、と問われればあたしは迷わず前者を選択してしまうんじゃないかと思う。別に杏子のことが好きじゃないとか、そういうわけじゃない。あたしは胸を張って佐倉杏子のことが好きだと言えるし、愛してると言い張れる。それには何の間違いもないし言えない理由だって何も無い。けれど、それでもあたしはどちらかを選べといわれれば上条恭介を選んでしまうのだろう。それが至極当然のように。杏子だってきっとそれを何も言わずに受け入れる。きっと最初から何もなかったかのように。
時々あたしのほうが不安になってしまう、杏子の執着のなさが。
あたしが何をしていたって――たとえばまどかに抱きついてみたり仁美によからぬ言葉を囁いてみたり――これといった興味を示さない。僅かにあたしのほうを見ただけで、あとはそ知らぬ顔をしているのだ。怒ったような顔も、傷付いたような顔も見せない。ただ無関心なふうを装って、何も言わずにいる。嫉妬心というものが欠けているんじゃないのかとつい、思ってしまう。よくよく考えてみればあたしだって同じようなものなのだけど、杏子が誰かと親しげにしていれば少し、胸が騒いで冷たい態度をとってしまう。それくらいの嫉妬心というものはあるし、だからこそ杏子にも同じような反応を求めてしまうのだ。
それが最低なことだとはわかっていても。
あたしがまだ完璧には忘れられていないことを、杏子だって薄々と勘付いているはずなのだ。もしかしたら、それのせいなのかも知れない。杏子が一切の心の弱りをあたしに見せないのは。それでいて、ずっとあたしの傍にいてくれる。気紛れにも付き合ってくれるし、ちゃんとあたしのしたいことをわかってくれる。けれど、たまに大声で罵って嬲って欲しいとも思ってしまう。あたしがマゾだとかそういうわけじゃなく「どうしてあたしのことだけ見ないんだよ!」と、そう言ってあたしの罪悪感を少しでも拭って欲しい。何も言わずにいられれば、ひた隠しにしているような、そんな気分に陥ってしまうし要するにあたしはこの恭介への気持ちから解放されたいのだ。随分と自分勝手だとはわかっているのだけど。
「……さやか」
眠そうな杏子の声がした。
長い間自分の考えに耽っていて、杏子が隣にいることを忘れてしまっていた。別段杏子の声が強かったわけではないのに、ついびくりと身体を縮めてしまう。それを悟られないようにあたしはさり気無さを装って身体を反転させると、杏子のほうに向き直る。声と同じように、眠そうな杏子の表情がそこにあった。いつか、寝転んでると自然と眠くなって来るんだと言っていたことを思い出す。
当たり前だけれど、杏子には今あたしが考えていたことは伝わっていないようだった。それを確かめ、安堵する。けれど部屋が仄かに暗いので、本当のところはどうだかわからない。それでも声とおぼろげに見える表情があたしにそう錯覚させた。
「寝る?」
訊ねると、「寝てもいい?」と返って来る。寝ていいも何も、眠いなら勝手に寝てしまえばいいのに。それに今までだってあたしと杏子は並んで布団に寝転がっていて、これから何をするつもりもなくあとは眠るだけだったはずだ。いつもより少し早く布団に入っただけで。それとも杏子は、何か別のことを考えていたのだろうか。あたしたちが全てを求め合うような行為でも、すると思っていたのだろうか。けれど何も行動を起こさないあたしにそう尋ねたのかも知れない。あたしだってその気がないわけじゃないし、したくないとも思っていない。そういう行為がどういうものなのか、具体的にどうするのか、あたしはちゃんと知っている。それなりの知識はある。だからこそ好奇心とか、そういうものもあるし純粋に杏子としてみたいとは思う。けれどだめなのだ。今の今まで、杏子とそういう行為に走ったことはなかった。「勝手にしなさいよ」とあたしは苦笑しながら答えた。
「……何考えてたのって、聞きたくってさ」
どきっとした。
杏子が寝返りをうち、さっきのあたしのように背を向ける。「あんたがこっち向くの待ってたんだけど」
静かな、静かな杏子の声。いつもどおりの。だけど、あたしはその声を、息を潜めて聞いていた。その声に籠る杏子の気持ちを、思いを、何を考えているのかを知りたくて。生憎あたしには声だけで人の気持ちを汲み取るような力はないのだけど。
「何って」
「言えないようなこと?」
あたしは答えに窮した。杏子がさらに畳み掛けるように尋ねてくる。わからなかった、どうして突然杏子がそんなことを言い出すのか。どうして杏子がこんなふうに何かを知りたがるのか。いつもの杏子なら、こんなにしつこく聞いてこない。あたしが答えに詰まると、目を逸らし「ま、いいや」と言って黙り込む。あたしは時々その優しさが憎らしかった。けれど今はそれがとてつもなく良いことのように思える。
ばれたような気がした。
恭介のことを、考えていたということが。実際にはそんなことはないのだろうし、ばれたってそれはあたしの望んでいたことのように思える。けれどいざ杏子にそれを知られるとなると、あたしは何も言えなくなる。「ごめんね」も「違うの」とも何も。
「……それは」
「……」
杏子の背中。小さな小さな背中。何度も後ろから抱き締めた、あたしよりも強い背中。その背中が、杏子の身体が、あたしの返事をじっと待つように動かない。ちくたく、ちくたくと脇に置いてある目覚まし時計が変わらず動いている時を示しているのに、あたしは時が止まったのではないかと一瞬思った。何秒か経った後、シーツの擦れる音がして杏子が再びあたしのほうを向いた。
「ま、いいけどさ」
杏子の表情は、少し疲れたような笑顔だった。いつもあたしに見せる、笑顔だった。胸の奥がちくりと痛む。それでもあたしは何も言えず、うんと頷き目を閉じた。杏子の唇があたしのそれと重なる。短い短いキス。「おやすみ」と囁かれ、杏子は天上に向き直った。あたしもまた、目を閉じる。目蓋の裏に映るのは杏子ではなく、あいつの横顔。それをかき消すようにあたしは布団の下に手をいれてまさぐった。杏子の手に当たると、躊躇う間もなく掴み取る。だらんとした力の無い手。眠ってしまった杏子はこんなにも弱い。普段の杏子の手の力強さが思い出せないほど。あたしはただ、その手をぎゅっと掴んだ。握り返されなくても、今はこうして杏子とつながっていなくちゃいけない気がした。
◆
酷い雷の音で、目が覚めた。枕もとの時計を見ると、午前二時を少し回ったところだった。どうやら数時間程度しか眠っていなかったようだ。どうりで頭が重い。あたしは上半身を起こすと、呆とする頭をふるふる小さく振った。いつのまにか、杏子と繋いでいた手は離れてしまっていた。一瞬、嫌な考えが頭を過った。けれど隣を見ると、杏子はすやすや寝息をたてている。あたしはバカらしいとは思いながらもほっとする。杏子の額にかかった前髪をそっと払い、立ち上がった。すぐには眠れないような気がしたし、何より喉が渇いていた。あまり音をたてないように、静かに歩き台所に入る。冷蔵庫から水を出し、グラスに注ぎ一気に飲み干す。冷たく身体の奥を通り過ぎていく感覚が心地よかった。それから水を元に戻そうとしたとき、ふと真っ赤な林檎に目を止まった。また杏子が勝手に拝借してきたものらしい。以前はよく注意していたのに、今じゃそういえば許容してしまっているということを思い出す。それはあたしも悪いことをしているという意識があるせいかも知れなかった。
「……一個、二個、三個」
低い声で、呟く。冷蔵庫に入っている林檎の数。どれも真っ赤に熟れていて美味しそうだった。林檎は全部で5つあった。あたしは躊躇いながらもそのうちの一つに手を伸ばす。掴み取った林檎は、その中で一番小さなものだった。お金を払ったものじゃなきゃ食べない、と。そう決めていたはずだったのに、あたしは知らず知らずのうちにそれを齧っていた。水洗いもせずに、そのままの林檎を齧っていた。かりっと小気味いい音がした。
美味しい。
けれど、ただそれだけだった。それを齧ったところで、あたしの気持ちが変わるわけでもないし何か変化が起こるわけでもない。一口、二口と食べすすめたってそれは同じだ。だからあたしは一口だけ齧ると、齧った林檎を元の位置に戻した。そのまま、冷蔵庫をばたんと閉める。更なる罪悪感のようなものが、あたしを包んだような気がした。けれどまた扉を開けて齧る気にもなれず、あたしはそのまま台所を出ようと振り向いた。
「……起きてたの?」
杏子がいた。
起きたての眠そうな顔ではなく真っ赤な目をした、杏子がいた。あたしはその目を見て、酷く驚き狼狽した。どうして杏子がそんな目をしているのかわからなかった。目が赤い理由が病気やそんなものじゃなかったら、あとは泣いていたということしか残っていない。
杏子が泣いていた。
そんなわけ、ない。けれど目の前にあるのはその事実。杏子はあたしの声を聞くと一滴、二滴と。ぽろぽろ水滴を零し始めたのだ。泣くのはいつもあたしのほうだった。それが悲しさからのものでも悔しさからのものでも、嬉しさからのものでも杏子は受け止めてくれた。いつもあたしは受け止められる側だった。だからどうやって杏子の言葉の変わりに涙として溢れる感情を受け止めれば良いかわからなかった。
「杏子、あんた……」
ぽろぽろ。ぽろぽろ。杏子は何も言わず、一定のリズムを保ちながら声にならない感情を流し続ける。まるでそれしかできないように。あたしが泣いているとき、この子はどうしたっけ。そんなことを頭の片隅で考えた。考えて、ちゃんと思い出すよりも先に身体が動いていた。杏子を抱き締めてから、ようやくあたしの思考が追いつく。そうだ、杏子はあたしを抱き締めて、落ち着いた掌でずっとあたしの頭を撫でてくれていた。杏子が、幼い子どものようにあたしのパジャマの裾を掴んだ。それだけで杏子はあたしのために泣いているのだと察した。
「……好き」
溜息のように出たのは、ごめんねでもありがとうでもどうしたのでもなんでもなく。そんな言葉だった。杏子は声を漏らさないようにあたしの胸で泣き続けながら、首をふるふると振った。何が違うのか、何がだめなのか。けれどあたしの口も止まらなかった。何度も何度も「好き」と繰り返す。こんな姿を見せてくれる杏子のことが、唐突に愛しいと思ったのだ。だから同じ愛の言葉を繰り返す。「好き」「好き」「愛してる」その度に杏子は首を振る。「そんな言葉が欲しいわけじゃない」と。
「じゃあ……」
なんと言えばいいのか。杏子の髪を優しく梳きながら、あたしは尋ねようとした。けれど杏子の言葉がそれを遮った。「どうして嫌いって言ってくれねえんだ」言葉遣いは荒くても、声は弱弱しい。
あたしは聞き返す。杏子が同じ言葉を、さらに弱い声で繰り返した。
あたしが杏子のことを嫌いになるなんて、ありえないのに。
寧ろ、嫌いになってしまいたいのは恭介だ。いっそ殺したいほどあいつのことが憎いと思ってしまえれば。
「……もう、壊れそうなんだよ」
小さな、小さな。それこそ零れるような、杏子の声。
あたしの心臓がずきりと音を立てた。恭介とのことが、頭を駆け巡る。ずっと平気そうな顔をしていた杏子の表情も。杏子は嘘を吐くのが上手だ。だから鈍感なあたしには、ちゃんと言葉にしてくれなければわからない。わからなかった。杏子が無関心を装っていたのは、恭介のことに気付かず何も知らない振りをしていたのは、それが杏子なりの自己防衛だったんだろうか。何にせよ、あたしがこんなにも気付かないうちに杏子を酷く深く傷つけてしまっていたのは事実だった。
どうしたら杏子の涙を止めることが出来るのか。償っても償いきれないほどの傷を、杏子に負わせてしまったことはわかっている。あたしの身体にも痛いほどの罪悪感が犇いている。ただ、それをどうにかする方法が知りたかった。
「……杏子」
名前を呼んだ。そのまま、顔を上げた杏子の唇を奪う。涙でしょっぱい味がした。口の中に残る林檎の味と、杏子の涙が混ざり合う。あたしは勢いに身を任せて杏子の着ているシャツをまくりあげると胸に触れかけ。そこで、止まってしまった。唇が離され、あたしは手をぐったりと下ろした。
杏子に拒まれることを恐れたからでも、その先に進む勇気がなかったわけではない。あたしは、未来が怖かった。杏子を安心させるためにも、恭介を忘れるためにも肉体的な関係を持ったほうが早い気がするし、きっとあたしは今度こそ、杏子しか見えなくなるだろう。だけど、だからこそ怖かった。未来が、怖かった。その後にいつか絶対訪れるであろう別れが怖かった。たとえそれが永遠の別れじゃなかったとしても、別れが怖いのだ。傍にいられなくなることが、傍にいてくれないことがとてつもなく。想像しただけで震えてしまうほどに。恭介のことをただの思い出に出来ないのは、あたしが怖がりだからだ。思い出にしてしまったら、あたしは本当の本当に杏子に入れ込んでしまうことがわかっているから。あんなに身の裂かれるような思いはもう、二度としたくないのだ。
ここでもまた、結局あたしは自分のことを最優先に考えている。杏子の涙を止めたい理由だって、ただ自分が辛いだけだからで、ずきずきと痛む心臓をおさめたいからで。
本当に、あたしは最低だ。罪悪感や自己嫌悪や、杏子への想いや恭介のことが頭をぐるぐると回り、あたしももう、動けなくなる。あたしの苦しみなんて、あたしの辛さなんて、受けて当然の罰だというのにそれに耐え切れず、あたしも泣いていた。杏子と一緒に、泣いていた。
ごめんねも言えずに。
ただ、杏子を傷つけてしまうとわかっているのに「好き」と繰り返しながら。
本当の本当に、杏子のことを想いながらそう言えればいいのに、と考えながら。
きっとあたしたちは、朝になるとまた何もなかったように笑い合うのだろう。
笑い合って、手を繋いで、キスをして。
そしてやっぱり、昔の男か今の女か、と問われればあたしは迷わず前者を選択してしまうんじゃないかと思う。
胸がずたずたに引き裂かれるような痛みを感じながら、あたしは迷わず杏子ではなく、恭介を選んでしまうのだと思う。
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杏子×さやか→恭介、若しくは杏子→さやか×恭介を“きょうさや”という。