おやすみのキスを済まし、彼女を寝かしつけ、モルヒネを用意する。彼女は普通の女であることを最後まで拒絶し続けた。だから最期もこういう形で幕を閉じなければならない、と言い張っていた。
けれど彼女はやはり怖いと思ったのか、眠ったままの意識がない状態で、ことを終わらせたいと言っていた。そしてそれは数日前に話し合って決めたことだ。
しかしモルヒネを用意し、いざ彼女の寝室へ入ると彼女は目覚めていて僕にこう言った。
「……ああは言いましたが、やはり最期の瞬間はあなたの顔を見て終わりにしたいと思います、ひとりぼっちは寂しいですから……」
いつもと変わらない調子のように思えた。それをこちらに気を遣っていると思うと、自分の甲斐性のなさに少し腹が立った。
彼女は長いこと独りで生きてきた。世話をする者は居たそうだが本質的には孤独そのものだった。つい一年ほど前に僕と一緒になるまでは。
「そっか……でも、それでもいいよ。今の僕にはもうそれくらいしか、君の願いを叶えることができないしね」
あくまでも平静を装う。なぜなら彼女もいつもと変わらない落ち着きを持っていたからだ。
椅子をベッドの近くへ運び、彼女からよく見える位置に座った。
「うふふっ……」
彼女が微笑みかける、僕は目を逸らしたくなった。この笑顔を記憶してしまったら、もうその笑顔以外を覚えられなくなると思ったからだ。でも、僕は目を逸らすことはできなかった。死を前にしても彼女は以前の輝かしい笑顔をしていたからだ。
「……僕は、僕は君の夢を叶えさせてあげたかった、その手伝いをしたかった、そしてなによりも君と頂点を獲りたかった……っ……」
あまりにも惨めな気持ちになり、つい唇を噛みしめる。
「僕が中途半端な力しかなくて君をこんなふうにさせてしまった、悪いのは全部僕なんだよ……」
彼女の死を前に混乱した。彼女にモルヒネを打つのはもう決めたことだし、それを打つのは僕なのに。
彼女が僕の顔を覗き込み言う。
「夢や……夢や目標、使命を達成できなくても私は、私は幸せ者です。あなたに出会えたこと、あなたと過ごした日々、その全てが幸せでした」
その言葉を聞き、泣き出しそうになった、言われた僕のほうがよっぽどの幸せ者だった。そして涙は見せられまいと椅子から立ち上がる、足元がおぼつかない。
「カーテンを開けてもらえませんでしょうか、今の時間は月がよく見えるでしょうから……」
少しふらつく足取りでカーテンを開ける。彼女の言ったとおり、月がよく見えていた。時刻は午前二時頃になっていただろう。
「いい月です、満月ではありませんがあなたと出会ったあのときの夜を思い出します」
あのとき彼女は月を見ながら泣いていたっけ。今はあのときとは違い穏やかに思える。
しばらくのあいだ静寂がこの場を支配していた。
「……そろそろいいでしょう。もうだいぶ満足しました。ですが最後に一つだけ、一つだけわがままを聞いてはくれませんか」
なんだろうか。僕の顔はもう十分に見ただろうし他に何をしたいのだろう。わからない。だけど叶えられるなら叶えたい。そう心から思った。
「僕に叶えられるものであれば、なんだって叶えましょう」
そう言うと彼女は少し俯(うつむ)き、短く間を置きこう言った。
「キス……キスをしてくれませんか、私に。あのときのような……キスを最後に……」
「……っ! ……えっ……!」
予想外のわがままだった。
せめて間抜けな声が出ないようにつとめた。
それは僕もしたかった。けれど、僕はするべきではないと思ったからだ。でも叶えられることなら叶えると言った手前断ることはできないし、なによりも僕も本心では最後に彼女にキスがしたかった。
そして改まり、なるべく紳士的な態度を取り繕ってから僕は彼女にこう言った。
「お安い御用です」
ベッドにいる彼女のもとへ近づく、あのときと変わらない微笑みで僕を見つめている。それを見て僕は当時を思い出し、少し照れ臭くなった。少しずつ顔と顔の距離を狭めていく、もう拳一つ分といったところで彼女は瞳を閉じた。
あのときと変わらず少し緊張しているようだった、そう思うと僕は少し躊躇(ためら)いがちになった。あのときの僕らはこのキスのあと、一か八かの賭けにでたのだ。まぁそれは失敗をして、今のような状況を作り出してしまったのだが。
それはともかく少し不安だった。しかしその瞳を閉じた彼女の顔はあのときと変わらず魅力的で、僕はまたその魅力に吸い込まれていった。
長く、情熱的でお互いを求め合う。まるで前戯かのようなキスだった。お互いに忘れまいと一心に舌を絡め吸い、歯茎を舌で撫であい、息が切れるほどだった。
「はぁ……はぁ……」
「……もう、心残りはありません。さぁ、やってください」
逆にこっちに心残りができてしまった。しかし彼女との約束は破るわけにはいかない、それはもう決めたことだから。
「……わかりました、それでは……打ちますよ……」
彼女の腕に注射針を刺す、あまり痛みを感じない細い針とはいえ彼女の顔は少しばかり歪んだ。心が苦しかった。そしてゆっくりと彼女の中へモルヒネを送り出す。
「あなたと出会えて私は本当に幸せ者でした」
僕を見て彼女は最期にそう言った、もうこれで解放されるんだといった安堵の表情だった。その直後、彼女の瞼は閉じられた。僕は彼女の寝室を後にした。二度も言われるとは思ってもみなかった、心に穴が空くというのはこういうことなのだろう。
それから居間のソファに座り込み、もう涙を流すのはこれっきりだという勢いで泣いた。
数時間後、もうすっかり朝とも昼ともとれない時間になっていた。
彼女の寝室へ行き、彼女の生死を確認する。苦しまずに終われたのかなと独りごち、警察に自首をした。
「女を一人、殺しました」
住所を告げ、しばらくもしないうちに警察がやってきた。連行される中、僕は彼女の腕の注射痕がなにか別のものに誤解されないようにと願った。
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うまく届かないんだ