そして『彼』はゆっくりと目を開いた。
脳内で展開される思考。意識することなく「考える」ことが自分に、何故か強い違和感を覚える。
多少の齟齬をきたしながらも自然に紡がれていた論理的な嗜好は、しかしふいに破綻した。
体が動かない。
己の肉体を司る主観の欠如に、『彼』は少なからず驚愕する。
見開かれた視界が捉える、横たえられた体の真上に広がる天井。一切の穢れを許さない白、とでも言うべきか。作られてどれくらいの時が経つのかは知らないが、その歳月は他の介在を阻む絶対を冒すにはあまりにも短すぎたらしい。
時が経つにつれ、文字通り氷解するように指先に感覚が戻っていく。両手で拳を作れるようになる頃には全身の指揮系統が復活していた。
『彼』はこれまでもそうしてきたように、自分の意思で上半身を起こす。
場は体育館ほどもある巨大スペースの一角。姿は一つ、己のみ。
場を構成するのは床や壁をも侵食する統一された、白。
淡い照明にさえ眩しさを覚え、目を細めて見渡す――壁にはやや円に近い、しかし完全な円ではないおかしな扇形の切れ込みが、それこそ見渡す限りびっしりと刻まれている。どうやらその切り込みは引き出しの『棚』に相当するらしい。
――とすれば、『棚』の中には自分と似た境遇の人間が大勢詰め込まれているのだろうか。
「……っあ……あぁ……」
かすかに空気を振るわせたのは、声ですらない音。ひりつく感覚を覚えて喉に手をあてると、渇きもないのに接着剤で貼り付けられたような違和感が。
「まだ無理に喋ろうとはしないで。声帯を傷つけてしまう恐れがあるから」
声は天井から聞こえてきた。見上げるまでもなく、人の姿はない。
つまりは、監視されているという事だ――状況さえ把握できれば、身の振り方も自ずと定まる。どこへともなく半眼で、惜しげもなく敵意を振りまく。
「……無理もない」
案の定、こちらの意思は容易に相手に伝わる。
声はさらに部屋を出るようにと指示した。従う言われはないが、刃向かう意味もない。『彼』は脚を動かそうとして、今さらながらパンツ一枚はいていない己の裸身に羞恥心を覚える。下半身を両手で隠しながら立ち上がろうとして、
転んだ。
感覚としては長時間正座していていきなり立ち上がろうとした時に近い。久しく使役されていなかった四肢が自重に耐え切れず潰れたらしい事は理解できたが、といって羞恥心が消えるわけでもなく。
結局『彼』は道中をしゃくとり虫よろしく、腰と膝をへこへこ動かして這うしかなかった。
――誰にともなく浮かんだ殺意は、とりあえず最初に目に付いた人間にぶつけよう。
そう心に決めると、いくらか恥ずかしさが和らいだ。
見渡す限り扉らしきものは一つ。自動ドアのようには見えなかったが、手前まで辿り着くと見はからかったように扉が開いた。
扉の奥は小さな部屋。やはり一面白のタイルで覆われていたが、さして高くない天井には如雨露についていそうな逆さま漏斗形のシャワーが3本生えている。
どうやら洗浄室のようだ。精密機械などを取り扱う工場では、部屋に入る前にこういった部屋で洗浄を受ける必要がある、というのをどこかで聞いたことがある。
思う――可哀想に。この如雨露だって草木に生命の水を与える存在でいたかったはずだ。口さえあれば、間違っても自分は床を這いずる素っ裸の奇生体なんかに向けられるために存在しているわけではないと声高に設計者を糾弾していることだろう。
さらに入ってきた方とは反対側の扉が開いて、二本の枝が目に付いた。
枝と見えたのは人間の足で、見上げると視線が交わる。
白衣を羽織り、髪を後ろにかきあげた、眼鏡男。特徴を列挙して、まぁそんな存在。
「……何だい?」
見下ろす男の靴に頭突きをお見舞いしていた『彼』は、その言葉にピタリと動きを止める。
「殺意の代償と現状へのささやかな抵抗」
無表情で告げる。
「わかるようなわからないような……」
男の傍らについていたナース服の女性が水色の布切れを眼前に示す。手足が動かないのを腰の動きで伝えると、苦笑しながらその入院着に袖を通させてくれる。
下半身が隠れたことにようやく落ち着きを覚え、看護婦の肩を借りて立ち上がる。
「事情は……覚えているかい?」
当然だ。忘れるはずがない。
半眼の瞳を相手の視線にねじ込む。それだけで言いたい事は伝わるはずだ。
男は『彼』の反応に無言で返した。ふいに背中を向けて歩き出す。追従した。
窓一つなく、白一色に塗りこめられた廊下――ようやくここは地下だと直感する。調度品の類がまったく見られないのは単に管理者の趣味の次元だろう。
そうして案内された部屋は病院の診察室と大差なかった。男はまず椅子に腰掛けてから、『彼』に座るよう促す。従うと傍らに何故か看護婦が二人にこやかな笑みを浮かべて脇に立った。
「……で?」
矢継ぎ早に核心に切り込む。
「一ヶ月? それとも二ヶ月か?」
声に不安がこもっていたとしたら、それは無意識だ。
覚えている。記憶は確かに不安を根こそぎ廃絶するに足る力を持っている。
そう――それは確認でしかない。結論ではなく、過程の一途。
男の表情が歪む。刈り取ったはずの不安の芽が、促成栽培で一気に花を咲かせる。
見ると、看護婦達の笑みはさっきからぴくりとも動かない――そういう顔のお面なのだと言われても、多分『彼』は驚けない。
――否定しよう。今この瞬間の己のすべてを。
終わりなどでは決してない。
絶対に、意思は揺らがない。
それが単なる逃避に過ぎないとしても、在りし日に取りすがる事ができるのならば『彼』は躊躇わない。
約束は、果たす。
「……単刀直入に言おう」
男の声に、決意とも取れる決然とした意思が混ざる。
看護婦達が腰だめに構えたことは、死角になって見えない。
「法に則り、君が『CSI』適応処置を施されていた期間は――」
忍び寄る『現実』という名の戦慄。
それを具現化したのは、
――たったの、一言。
「――五十年だ」
反射的に身体が動いた。
握っていた拳で顎を模し、男の首筋に喰らいつく。気管を抑えて呼吸困難、などというレベルではない。勢いに任せて頚椎をへし折る必殺の一撃。
直前、驚くべき瞬発力で飛び掛ってきた看護婦達に腕を絡めとられる。勢いをそらされ、顎は男の髪を数本薙いだ。
力任せに看護婦達を振り払い、今度は拳を振り上げる。
数秒先の結果が見える。血に染まった拳。巻き起こる悲鳴、怒号、立ち尽くす自分、湧き上がる感情は――
拳を止める。違う。そんな事に意味はない。
そのスキを見計らい看護婦達は力任せに『彼』をベッドに寝かしつけた。抵抗の有無に関係なく、重しとばかりに体の上に馬乗りになる。
糸の切れた風船は危うい。
誰の手にも届かない高みへと上ることは、果たして羨むべき事なのか。
意思は途切れた。もはや不用意に『彼』の手をつかもうとする看護婦の腕を逆にねじ切る気力も湧いてこない。
「――方がない――だから。早―――願い」
断片的に届く言葉。それらはまったく意味を成していなかったが。
唯一聞き取ることが出来たのは、
「――可哀想に」
首筋に何かを打ち込まれ、全身から急速に力が抜けていく。
まぶたが重い。眠気に似たけだるさがじわじわと全身を冒していく。
忘れない。
絶対に。
この世界は――マガイモノだ。
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ある日突然、50年後の未来に放り出されたら。 そんなことを妄想しながら書いた小説です。