漆黒の闇の中で、ぎょろりとした二つの眼がこちらを見ていた。威嚇するような強い視線に、直江大和は身動きすることが出来ない。
(憎い……憎い……)
背筋が寒くなるような、怨念の声が心を震わせる。逃げることも、抗うことも出来ない。次第に闇が膨張し、大和の身に迫ってきた。
「嫌だ……」
体を闇から遠ざけようとするが、足が床に張り付いたように動かない。迫る闇は、やがて無数の小さな虫のようにカサカサと蠢きながら、その大和の足に集まって来る。思わず、息を呑んだ。それは恐怖というよりも、強い嫌悪感だ。
蠢く小さな闇は、あの夏場に出没する黒い虫を思わせる。それが、大和を取り囲んでいるのだ。
「来るな!」
叫ぶ声が、吸い込まれるように消える。そしてそれを合図のように、小さな闇は大和の足を上り始めた。大和の全身に、鳥肌が立つ。逃げたいのに、逃げられない。
カサカサと、小さな闇は大和の服の中にまで入り込む。浸食するように、大和の体を足元から覆い隠しつつ、やがて首まで達した。
「姉さん……京……」
大和の心に、憎悪が染みこんでくる。闇が触れる肌から、突き刺すような憎悪が血流に乗って全身を巡った。そして、脳裏に蘇る光景――。
(あれは、竜舌蘭……)
何もない世界に、ぽつんと生えた竜舌蘭がある。そこから波紋のように、世界が広がった。現れたのは、累々たる屍だ。まだ新しいものから、すでに腐敗してウジの湧いたものもある。まるで、すべての生命が死に絶え、竜舌蘭だけが残されたかのような光景だった。
大和は強い吐き気に襲われ、頭の先まで闇に呑まれた。
重い一撃が板垣竜兵を襲う。
「チッ!」
舌打ちをして、よろめいた体勢を立て直そうとするが、視界が揺らいでバランスを保てない。ここに追撃がくれば、間違いなくやられる。
「負けられるかよ!」
久しぶりの、血が沸き立つような戦いなのだ。滅多にないこのチャンスを、無様に終わらせるわけにはいかなかった。足を踏ん張り、気合いを入れる。目の前には巨人の腹だけが見え、それが蠕動するように揺れていた。だが次の瞬間、その巨体が大きく横に傾いたのである。
(――!)
竜兵は、自分の体が倒れているのかと思った。だがそうではない。両足はしっかりとリングに着いており、横倒しになろうとしているのは目の前の巨人だった。何が起きたのか、それを把握するよりも早く、巨人が倒れ黒い影がその横に降り立ったのだ。
「何だ、てめえ……こいつは俺の獲物だ」
睨み付ける竜兵に、釈迦堂刑部が声を掛ける。
「やめときな。そいつには手を出さない方がいい」
「……俺じゃ、勝てないとでも言うのかよ?」
「そうだ」
ハッキリと言い切られ、竜兵は苦々しく顔をしかめた。肌を刺す殺気を感じれば、実力差があるのはさすがにわかった。だがそれでも、気持ちで負けを認めたくはない。
「やってみなけりゃ、わからねえぜ」
そう言い捨て一歩を踏み出そうとした竜兵に、姉の亜巳が一喝した。
「いい加減にしな!!」
その声で竜兵は踏みとどまり、怒りをぶつけるように巨人を倒した黒い影を睨み付けたのである。
溢れ出る殺気が視覚化されたかのような、黒いモヤに包まれていた。遠目では、それが男ということ以外、誰なのかわからないほどである。だが亜巳は、かろうじてその顔を認識することが出来た。
(あれは……)
今の顔は目つきが鋭いが、妹の辰子と一緒に居た人物を思い出す。
(辰が珍しく上機嫌で、のろけてた男だ。確か、大和とか言ってたね……)
あの時は、それほど強い男には見えなかった。芯は通ってそうだったが、とても竜兵の相手にはならないと感じたのである。だが今の大和は、まったく別人のようだ。いったい何があったのか、亜巳の脳裏に疑問が浮かぶ。
「亜巳」
刑部に呼ばれ、亜巳は考えるのを中断した。見ると、真剣な顔で入り口の方を見ている。近づく強い気配があった。
「また、誰か?」
「今はまずいな……お前たちと俺が関係あるとは知られたくはない。竜兵と一緒にここから離れろ」
「誰が来るのですか?」
「……川神百代だ」
その名を知らぬ者など、この街にはいないだろう。ましてや戦う者ならば、なおさらだ。だがなぜ、彼女がこの廃工場を目指しているのか? あの化け物たちの気配を感じたのだろうか。そんな亜巳の問いかけるような眼差しに、刑部は微かに笑う。
「あの黒い奴は、百代の舎弟だ。ガキの頃からいつも一緒にいて、俺が川神院に居る頃に何度か見掛けたことがある。以前、夜に出会った時は暗くてわからなかったが、今見て気付いた」
「川神百代の舎弟……」
「だが、ガキの頃はあんな感じじゃなかったがな。ともかく、急いで竜兵と行け」
亜巳は頷くと、巨人と大和の戦いを悔しそうに眺めている竜兵に声を掛けた。そして二人が裏から姿を消すとほぼ同時くらいに、百代が工場内に飛び込んで来たのである。
「大和ーー!!」
大和の気配を追い、やって来たのは東京湾を埋め立てて出来た工場地帯だった。その一角にある廃工場に飛び込んだ百代は、プロレスなどで見掛けるリング上にいる大和を見つける。何やら巨大な人間らしきものと戦っていた。近寄ろうと踏み出した直後、視界の端に知った人物を見つける。
「釈迦堂さん……」
「よう、久しぶりだな」
「どうしてここに?」
百代の問いかけに、刑部は笑ってリングの巨人を見た。
「ま、ちょっとした実験の最中だ。予想外の展開だが、こういうのも悪くない」
「実験? まさか釈迦堂さん、大和に何かしたんじゃ……」
一歩足を踏み出し、百代が訊ねる。
「おっと! そう殺気立つなよ。あの坊やには何もしてないさ。俺の実験は、あっちの巨人の方だからな」
「あれは何なんだ?」
「ふふふ、俺に聞くよりも爺さんに聞いた方がいいかも知れないぜ。あの坊やの事も、何か知っているかもしれないしな」
「何だと」
百代がそう言った時だ。ドンッと大きな音を立てて、巨人の体がリング上から吹き飛ばされて鉄筋の柱に激突した。柱は衝撃で曲がり、工場の屋根が一部崩れて傾いた。
「勝負ありか。まあ、思った通りだったが、楽しめた」
そう言うと刑部は百代に背を向け、裏の出口に向かって歩き出す。
「釈迦堂さん!」
それを止めようと百代が声を掛けるが、刑部は背中を向けたまま軽く手を上げ、歩みを止めない。
「俺の事より、あの坊やの心配をした方がいいんじゃないか? 新しい獲物を探してる。お前が相手してやらなきゃ、街に行くぜ。そうなりゃ、ただじゃ済まんだろうな」
「……」
「だがどうする?」
刑部は足を止め、顔だけ振り向き百代を見て笑った。
「殺す気で掛からなきゃ、止められそうもない感じだぜ」
「――!」
百代は顔を強ばらせ、ゆっくりと視線を大和に向ける。
(私が、大和を殺す?)
考えたことなどもちろんなく、想像すらも出来ない。だが確かに、目の前の大和の気配は一筋縄ではいかない強さがあった。
リングの上で闇の中から、敵を見るような眼差しが爛々と輝いていた。
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真剣で私に恋しなさい!を伝奇小説風にしつつ、ハーレムを目指します。
楽しんでもらえれば、幸いです。