頭を支えている場所は、いつも使っている枕とは違い、眠り以上の心地よさを孕んでいる。
そして、包み込むような温かさを放っている。
とても懐かしい感覚。
――やわらかい
「あら、お目覚めのようね。あなた、飲み過ぎたのよ」
発せられた声に目を開くと、そこには見慣れた天井と、ゆらゆらと行燈の灯りに照らされたさとりの顔があった。
「もう少し楽しく飲めると思ったのに…残念ね」
さとりは僕の頭上でそう呟いて、片手の杯を音もなく呷った。
杯の底がよく見える。
それは僕の頭が、横座りをしたさとりの腿の上にある所為なのだろう。
所謂膝枕というものである。
しかし、なぜさとりに膝枕をされているのか。
「さっき言ったでしょ。あなた、飲み過ぎたのよ」
そうだ、僕はさとりと二人で飲んでいたのだ。
いつもペットがお世話になっているからと、彼女が地底で造られた酒を持ってきたのは、まだ日が高い時間だった。
今日はバレンタイン、女性が男性に物を贈る日である。
山の巫女が言うには、チョコレートを渡し、愛を告白する日らしいのだが、
幻想郷ではチョコレートを手に入れる手段が極めて少ないので、あまり浸透しなかった。
それでも、日頃の感謝を込めて物を贈る行事として定着はしたようで、現にさとりはこうして店にやってきたのである。
贈り物を受け取りすぐに帰せばよかったのだが、つい長話をしてしまい、気付いた時には日が完全に沈んでいた。
さらに雪まで降り始めたので、彼女を一晩泊めるついでに地底の酒を二人で味わうことにしたのだ。
さとりが杯の底を此方に見せながら、再び音もなく酒を呷る。
覚醒したのだからそろそろ起きるべきだ。
しかし、その意識は身体を動かそうとしない。
彼女の膝枕の心地良さをもっと味わいたいという心と、気持ち良く回る地底の酒の酔いがそれを上回っているためだろう。
いつもなら酔い潰れるはずのない酒量であるのに、なぜさとりの枕から動けないのだろうか。
地底の酒はいつもの酒より相当強い物なのかもしれない。
それにしても、こんなに気持ち良く酔ったのはいつ以来だろうか。
そうだ、あれは友人に――
「あなたの記憶を再現したわ。
……ごめんなさい、あなたが……うなされていたものだから」
そう言うと、さとりの笑顔に少し影が入る。
さとりには相手の心を読む能力以外に、相手の記憶を再現する事ができると聞いたことがある。
今のこの気持ちの良さは、再現されたもののようだ。
「そう、あなたが友人と飲み明かした時の記憶の再現。
なかなか子宝に恵まれなかったあなたの友人に、ついに娘が生まれた……その時のね……」
そう呟いたさとりの顔は、影を映したままだった。
心や記憶を読む能力。
読めてしまう能力。
「いや、気にする事はない。おかげで懐かしい思いができたよ」
うなされていた僕を見兼ね、過去の中でも印象の良い記憶を再現してくれたのだろう。
さとりの能力であり、今彼女がうかない顔をしている原因でもある。
この力の所為で忌み嫌われてきたのだから。
しかし、僕はそのようなことを気にはしない。
さとりに心を読まれるのはすでに承知の上であり、言葉に出さずとも思考が伝わることは楽…かえって好都合だ。
僕がどのような悪夢にうなされていたのかは判らないが、苦しむ僕を救ってくれた相手に、嫌悪の感情を抱くわけがない。
まあ、多少は知られたくない事象も存在はするが……
「魔理沙からだまし取った、剣の事とか?」
「だまし取ってはいないが、その話は止めてくれ。
そういった嫌がらせをされると、酔い潰れたという事実も、実は君の能力による再現かもしれないと、疑わしくなるよ」
「まあ、酔い潰れてたのは本当よ。
私が態々あなたの泥酔した記憶の中から、最善と思われるひとつを選んで想起してあげたのに」
さとりはあきれ顔を膝の上に向ける。
彼女の顔に先程まで貼り付いていた影は、もう見当たらなかった。
僕が言い返した言葉は、言うまでもなく冗談だと、さとりには伝わっているだろう。
しかし、僕の冗談に含まれている感情を伝えるには、声に出すことが最善のはずだ。
「……ありがとう」
「……こちらこそ」
どうやら僕の感情はしっかりと伝わったようだ。
そろそろ起き上がり、また地底の酒を味わうことにしよう。
――そう思うのだが、酔いの所為か、想起された懐かしい記憶の所為か、僕は頭を持ち上げることができないでいる。
「二日前、お空に私の膝枕はお燐よりかたいって思われたのよ。
あなたの反応からして、気にすることはなさそうね」
小さな子供をあやすように、さとりは僕の頭にやわらかい手を添えた。
悟られまいと別の選択肢を思い浮かべたのだが、どうやら彼女には敵わないらしい。
気恥ずかしいことだが、僕はもう少し、さとりのやわらかい枕を堪能したいと思っている。
それを悟られてしまった僕は、さとりの双眸を直視ことができないので、彼女のもうひとつの眼を見ることにした。
普段無機質な眼差しを送る眼は、揺らめく灯りの所為か、やさしくこちらを見詰め返しているように見えた。
「殿方の枕になったことなんてないから、少し照れくさかったけど…思い切ってやった価値はあったようね」
「……そうかい。それにしても、膝枕とは……なかなかいいものなんだね」
「あなたの膝はしょっちゅう、誰かに使われているのにね」
「貸し出しているつもりはまったくないのだが。
……そういえば、誰かに膝枕をしてもらったのは、いつ以来だろうか……。
もう随分昔だった気がするよ」
目覚めた時のあの懐かしさは、この枕の所為だったのかもしれない。
「……あなたがまだ幼い頃のようね。
あなたにとって、生きることがとても苦しかった時期……」
「……たしかに、あの頃は苦しい時期だった。
でも、今思い浮かぶのは辛い記憶ではなく、その頃を支えた明るい思い出ばかりだよ。
膝枕をしてもらった記憶も、僕を支えてくれた思い出のひとつさ」
――あの、やさしさとあたたかさにつつまれた、いとおしく、はかないきおく。
「そう、それなら……」
さとりはお互いの視線が重なるように、首を傾げて言葉を続けた。
「その頃の膝枕……再現しましょうか?」
――いとおしく、はかないきおくの、再現。
とても魅力的なお誘いではあるが……。
「気持ちだけで十分だよ」
「あら、どうして?」
「思い出というものは総じて、事実よりも美化されているものだからね。
記憶がそのまま思い出になっているとは言えないものさ。
それに――」
「待って、それ以上は……言わないでいいから」
僕の言葉を遮るさとりの顔は、地底の酒の力以上に赤みを帯びている。
「心が読めているんだ。口に出しても同じだろう?」
「だって………恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしいことかな?
僕は昔の思い出の膝枕より、今の君の膝枕の方を堪能したい、と言うだけなのに」
「……んもう」
さとりはぷいっと顔を横に逸らした。
彼女の横顔から見える頬は、先程よりさらに紅潮していた。
少しやりすぎたかもしれない。
そう思ったが、僕の頭を撫でるさとりの手からは、
やさしさが感じられるので大丈夫だろう。
僕はやさしく此方を見詰めている、ひとつの眼に笑顔を向けた。
もうしばらく、このやわらかくてやさしい枕を、堪能させてもらうとしよう。
オワリ
オマケ
「香霖! ハッピーバレンタインだぜー!!」
カウベルが悲鳴を上げた後、店内に響き渡ったのは魔理沙の声。
あの小さい足からは想像もできない足音を連れ、魔理沙は僕達のいる部屋へと向かってくる。
足音らしき音が襖の前に着くと、彼女の道を遮る襖は、勢い良く左へ平行移動した。
「魔理沙、もう少し静かに来てくれないか?」
「あら、こんばんは」
「……なんだこれは!」
満面の笑みで侵入してきた魔理沙は、僕とさとりを見比べるように頭を二度上下させた後、目を丸くして僕に噛み付いた。
「なんだと言われても――」
「膝枕よ」
「膝枕は見れば判る。なんでさとりが此処にいるんだ!」
わたわたと忙しない魔理沙。
あまり暴れると帽子に載っている雪が落ちるので止めて欲しい。
というか、店に入ってくる前に掃ってくれと以前忠告したことを忘れないで欲しい。
「私が此処にいるのは、日頃の感謝を込めて……ってところかしらね」
そう言ってさとりが僕の頭を撫でると、魔理沙の帽子から雪が落ちた。
「……とりあえず、さとりがいる理由は判った。
そんなことより、いつまでその格好を続ける気だ?」
「いつまでって、彼の希望で枕になっているだけだから、そういわれてもねえ。
もしかして、羨ましいの?」
「なっ!?」
心が読めるのに『もしかして』という言葉はおかしいと思う。
さとりの膝の上なので、彼女の表情は窺えないが、魔理沙の顔を見れば、さとりが挑発していると窺い知れた。
「二人ともやめないか。ところで魔理沙は何をしに来たんだい?」
「……これを渡しに来たんだよっ!」
勢い良く飛んできた四角い物体を何とか受け止める。
ピンクのリボンを纏った白い箱。
なにやら甘い香りがする。
「……義理チョコだぜ」
魔理沙はこれを届けるために態々雪の中を来てくれたのだ。
労をねぎらうくらいはするべきだろう、畳の上に雪を落としたことには目を瞑るとして。
「態々ありがとう。もしよかったら、膝枕を代わろうか?」
――屋根の雪が、ずり落ちた。
「……もういい、帰る」
魔理沙はそう呟いて襖を勢い良く閉めると、来た時よりも重い足音を引き連れて、再びカウベルに悲鳴を上げさせた。
目の前に残ったのは、魔理沙の贈り物と、畳の上の溶けかけた雪。
一体何がいけなかったのだろうか。
魔理沙も膝枕を堪能したかったのではないのか。
「さすがにそれはひどいと思うわよ」
「僕は何がひどいのか、皆目見当がつかないよ」
「……本当にそう思ってるから余計に質が悪いわね。
それよりいいものもらったじゃない、本命チョコ」
「これは義理チョコだ」
「どうしてそう思うの?」
「魔理沙がそう言ってただろう?
僕の能力もそれを証明している。
もしこれが義理チョコ以外の何かだとしても、これを作った魔理沙がそう名付けた時点で、この贈り物は義理チョコになるんだよ」
僕がそう説明すると、さとりはなぜか溜息を吐いた。
「あなたはもう少し女心を知るべきよ。
そうね、なんなら……」
三つの眼は僕をじっと見詰めている。
まるで僕を責めるような視線で。
「気付いてもらえない少女の気持ち、再現しましょうか?」
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はじめまして、姫街道といいます。 以前書いた文章ですが、TINAMIに登録した記念として上げようと思います。