No.269307

エピタフ

己鏡さん

2010年12月27日作。原題=「エピタフ」。掲載時に一時「風のエピタフ」としたが元に戻す。エピタフ=墓碑銘(死者を偲ぶ詩)。偽らざる物語。

2011-08-11 01:24:47 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:551   閲覧ユーザー数:547

 彼女の遺書を見つけたのは五年前、この地で夏を過ごしていたときのことだった。

 古本屋の棚に眠っていた詩集は薄汚れていて、しばらく誰も手に取った形跡がなかった。

 どうして挟まったのか、誰が挟んだのか。

 茶色く変色して所々破れた一枚の紙に、自分が死んだら「風が集う場所」に埋葬してほしいと丁寧な字で綴られていた。

 名は「風の精」とだけ記されていた。

 その彼女の墓の前に、私はまた立っている。

 誰かが手入れすることもなく忘れ去られた小さな墓標には、「風の精」という名とともに、彼女の真の名が細い線で彫られていた。

 私は持参した掃除道具で彼女の墓の周りを掃き清め、墓石を湿らせた布できれいにぬぐう。墓標の周りだけ石畳ではなく土がむき出しなので、雑草が伸びている。すべて抜いて袋に詰めた。

 そこは普段からあまり人の立ち寄る場所ではなかった。入り組んだ細い道の先にあるわずかに開けた交差路で、道は六方に分かれている。周囲は家々の壁に囲まれていて、空き家ばかりなのか人の気配はなかった。

 私もはじめ、こんなところに墓があるとは思いもしなかった。

 

 五年前、遺書を見つけた私は何か心にひっかかるものがあって、風が集う場所とはどこなのか、町の人に訊いて回ることにした。

 ほとんどが「知らない」という答えだったが、なかにはそれらしい場所を教えてくれる人もいた。また、お年寄りの中には、この遺書を書いたであろう女性のことを覚えている人も何人かいた。

 老人たちがまだ子どものころ、この町に病身の若い女性が住んでいたそうだ。

 彼女はいつも一人だった。血縁者や恋人、友達、隣近所の知り合い。どれもいなかったらしい。彼女は家の外に出ることもほとんどなく、週に一、二度、食料品や日用品などを誰かが家まで届けていた。また、たまに医師が彼女の家まで往診に行くところを見たという。

 なぜ彼女の周りには誰もいなかったのだろう。何かしら禁を犯した罰か、それとも感染症でも患っていて隔離されていたか。いずれにせよ、彼女の話を口にするだけで大人たちに怒られたというから、疎外されていたことに間違いはない。

 いつも独りで淋しくないのだろうか。

 純真で優しい子どもたちは、何度か遠巻きに彼女の家の様子を伺ったそうだ。すると彼女はいつも、窓辺に置かれたベッドで本を読んでいるか、遠い空を眺めていたという。

 彼女がいつ亡くなったかは、誰も覚えていなかった。

 私は墓を探すことにした。

 どのような理由があったのかわからない。だが、亡くなってなお孤独では、あまりにも哀しいと思ったからだ。

 彼女を葬った人は、おそらくもうこの世にはいないだろう。また、遺書のとおりに埋葬されたとも限らない。とにかく探してみるしかなかった。

 私は町で一番賢いと噂される一匹の猫を、花屋の主人から借りてきた。

 猫という生き物は総じて寒い季節には暖かい場所を、暑い時季には涼しい場所を見つけ出すのが得意だ。情報からおおよその見当をつけた一角で、「たのむぞ」と背をひと撫でして猫を放す。

 しばらくあちらこちらをうろうろと動き回り、ようやくその場所にたどり着いたときには幾分かの時が過ぎていた。

 そこはたしかに風の集う場所だった。

 周囲の高い壁が陽光をさえぎり、常にいずれかの道から風が吹いてきて夏場にもかかわらずひんやりと涼しい。

 昔、小さな祠でも立っていたのだろう。交差路の脇には半分崩れた石の壁と屋根が残っていた。その真ん中にぽつんと立つ彼女の墓標は薄汚れ、蜘蛛の巣がかかっていた。

 私は墓標の手入れをしてから、風に飛ばされぬように小さな花束を手向けた。

 灰となった彼女は、誰にも知られずこの下に眠っているのだ。

 彼女はまだ孤独なのだろうか……。

 いや、もう独りではないだろう。

 私は高い壁に切り取られた青い空を見上げた。ちょうど白い鳥が風にのって飛んでいくのが見えた。

 風の精の元には、いつだって仲間が集まってくる。

 彼女が安らかに眠れるよう、その仲間たちは目に見えぬエピタフを刻んで、はるか彼方へ吹き抜けていくのだ。

 私は肩にかけたカメラをそのままにして、立ち去ることにした。

 

 彼女の眠りを妨げてはいけない。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
1
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択