No.269284

あかとき

己鏡さん

2010年12月23日作。あかとき(明時)=変化してあかつき(暁)に。谷守(たにもり)=谷の管理人、造語。偽らざる物語。

2011-08-11 01:07:15 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:456   閲覧ユーザー数:452

 朝、いつもより早く目覚めた私は、寝袋をたたみ身支度を整えると、朝食もそこそこに次なる目的地を目指して歩き始めた。

 地平線に顔を出し始めた太陽が世界を赤く染めていく。一日の始まりを予感させるとともに、ふと過去の記憶を蘇らせた。

 

 三年前、はるか西の地で、とある谷に立ち寄った。

 近くの集落で話を聞いたところによると、地元の民からは「赤い楽園」と呼ばれている場所だった。

 これから寒くなろうという季節、私は谷守の住む小屋に向かって山道を歩いていた。

 色づいた木々に目を奪われ、休憩がてら立ち止まる。錘のように体のなかで固まっていた長旅の疲れも、融けるように消えていった。

 休み休みしながらしばらく歩き、ようやく小屋にたどり着いた。

 外から一声かける。すぐに若い女性が顔を出した。赤い楽園への案内を谷守にお願いしたいという旨を伝えると、すぐに小屋の中から谷守を呼んでくれた。

 谷守とは谷を維持するための管理人で、顔に皺の寄った老齢の男性だと聞いていたのだが、実際に私の前に姿を現したのは女性と同じ年頃の青年だった。

 はじめ怪訝な表情を浮かべていた谷守の青年は、あらためて案内をお願いすると、無言のまま頷いて小屋の中に戻っていった。

 あまりの愛想のなさに私は面食らってしまった。

「すみません、うちの人いつもあんな感じなので」

「いや、気になさらないでください。それはそうと谷守って意外とお若い方なんですね」

「彼の祖父が長らく務めていたんですが、先月亡くなりまして。子どものころから祖父のそばに付いて学んでいた夫が跡を継いだんです。すぐ仕度して出てきますから」と女性も小屋に入っていったので、ひとり外で待つことになった。

 谷守の奥さんに見送られ、私と男性は山へと入っていった。

 装備は万全。道のりは険しいものを想像していたが存外易しかった。前人未到の地というわけではなく、集落の者たちが狩りをするときに使う道を行く。

 谷を見渡せる丘に至るまで、谷守との間にほとんど会話はなかった。

 しかし、それでもよかったのだ。周りには紅、黄、明るい緑から深緑、幹の黒っぽい色まで鮮やかに映える光景が広がっている。退屈などしない。さらに谷守の行動を注意深く見ることもできた。彼は道に大きな石が転がっていれば脇へ移したり、ゆがんだ道しるべを建て直したりと、細かな整備をさりげなく行っていた。

 そのまま放置すれば人の残した痕跡はすべて自然に飲まれてしまい、一から切り拓きなおさねばならない。また、人の手を入れすぎれば元々あったものが壊れてしまう。

 自然と文明の均衡を保つのが彼の役目なのだ。

 ようやく丘にある小屋に着いたころにはすっかり周囲も暗くなっていた。

 急に日が落ちたかのように、昼から一足飛びに夜になったような感じだった。

 小屋で一泊することになった。彼はハナからそのつもりだったようで、ちゃんとふたり分の食料と水を携帯していた。幾分落ち着いたところでこちらが話しかけると、彼もポツリポツリと口を開くようになった。

 話を聞いているうちに彼の人となりがだんだんわかってきた。どうも彼には、まだ自分が青臭い若造であると自嘲しているような節があった。

 祖父の跡を継いだもののこれから先が不安らしい。自分に自信がないから、他人と接するときにも口数少なく、ぶっきらぼうになっていたようだ。

「気にすることはない」と私は言った。青い果実もいつかは熟す。緑の葉は雨風にさらされながら、いずれその彩を変えていく。時を経てこれまでの軌跡を振り返るまで、確実な道など見えはしないのだから。

 谷守が私の意見をどう受け止めたかはわからない。ただ、明朝になれば私が望む世界が拝めること、わざと一泊するために、到着を遅らせるべく回り道をして案内したことを告げ、こちらがぽかんと口を開けているうちにさっさと寝袋にもぐりこんでしまった。

 

 早朝。彼に促されるままカメラを持って外に出た。

 そこには見たこともない世界が広がっていた。

 わが視界を埋め尽くす赤、紅、朱。

 どこまでも赤い谷。

 まだ朝露を含む紅葉が朝焼けに照らし出されて、しっとりとした赤い絨毯のように彼方まで広がっている。時折覗く黄色や緑の葉が微細なまだら模様を織り成し、紅の絶景を引き立てていた。

 ここにきてようやく、谷が夕焼けでなく朝焼けを取り込む方角に広がっていることに気付いた。

 私は一心不乱にシャッターを切った。

 まさに「赤い楽園」。

 谷守はこの谷が楽園と化すわずかな時間を知っていて、私を導いてくれたのだ。

 ちらりと横目で彼を見やると、視線に気付いたのかニッと笑ってみせた。

 まだ谷守としての暁に立つ彼も、やがて年と経験を重ねてこの谷の樹木のごとく色づくことだろう。

 いつの日かふたたびこの地を訪れることがあれば、そのときにはファインダー越しの楽園に彼の姿を重ねようと、私は静かに心に誓った。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
2
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択