喪失、それから
1.
雅、小学校最後の初夏―
三四郎は夕闇の中を駆けた。震えていた。
ただ無我夢中の状態だった。が、そのうちに体の方が限界を訴えて動きが止まる。荒い息で少年は倒れるように膝をついた。
何も見えない。何も聞こえない。そんな状態で、ただ荒い息を繰り返していた……。
「どうしたの? 三四郎くん……」
鈴の音のような声に、びくりと三四郎は反応した。それはとても馴染みのある声で、―しかも今は一番聞きたくない声だったから。
逃げ出して、結局、いつの間にか一番落ち着く所に辿り着いてしまったのか。
「何か、あったのね」ややあって、静かにその声が察した。
アンナ=エーデル。
ちょうど近所に簡単な買い物でも、と門を出ようとした所だった。
「……とう」
「え?」
「……みはらし……とう。見晴らし塔」
いつになく小さな声で、荒い息に織り交ぜるように三四郎は繰り返す。
普段見たこともないその様子が、アンナの感性を悪い方向に刺激し続けた。……街のややはずれ、古びた貯水塔。柵や有刺鉄線なども巡らせてあるが、たいていの場合子供というのは抜け道を知っている。自由に出入りしているのだ。
「行ってよ……頼むから……」
「ちょ、ちょっと待って!」
するりと、アンナの手をかわして三四郎は走り出してしまった。たちまち少年の姿は迫る夕闇に見えなくなっている。
「どうして……」
やや季節はずれのカナカナの音が、その闇を演出する。
あまりに突然で、不可解で、不安にさせられる少年のふるまいだった。少なくとも、これほど何かに『怯えて』いる三四郎を、アンナは見たことがない。―そう、あれは怯えていた。何かをひどく怖がっている様子だった。
アンナは三四郎が残した言葉を同じ様に繰り返した。
「見晴らし塔……?」
……
十五分ほど歩けば辿り着ける。それが見晴らし塔と呼ばれる場所だった。見上げればかなりの高さもあり、これを登るのはちょっとした冒険のように思えた。子供たちにとっては魅力的な場所のはずだ。
が、今、彼女の関心は塔の上にはない。
闇は既にあたりを包んでいたが、明かりも用意せず、三四郎を見失った後にそのままここに来ていた。危険だとは思えなかった。
少年はこう言ったのである。「頼むから」……と。
アンナは周囲を注意深く窺った。
すぐに気づいたのは、うずくまる子供の姿があること―だった。
不安が確信に変わっても、アンナはうろたえたりはしなかった。表情にはかえって落ち着きが感じられ、ひょっとすると冷たい印象すら覚えるかもしれない。
そっと近づき、背中の微妙な上下から子供が生きていることを確認する。
次にざっと全身を見て、外傷の有無を―
「……う」少年が声を上げた。
「しっかり」励ますように、アンナは話しかけた。
「あ……はい」
意識はあるらしい。まずはせめてもの救いだった。
「あれ……ひょっとして……アンナさん」
「そう。アンナです。―政宗、くん」
……事実二つを目の当たりにしながらも、アンナは未だ受け入れられずにいる。
逃げていた三四郎。傷だらけで倒れている政宗。
政宗はゆっくりと起きあがろうとした。途中でそれができなくなったのは、どうにも全身がだるかったからだ。こういう経験は、あまりしたことがない。いや……鉄棒から誤って落ちてしまったとき、こんな感じになったかもしれない。
「大きなけがはないみたい。ただ、体がびっくりしてるだけ」
「アンナさん……おもしろいこと、言うなあ」
その割には少しも笑わず、歯をくいしばってようやく上体だけは起き上がらせた。やっぱり男の子だわ、と彼女は思う。
「何があったの?」
かなりの沈黙の後、ぽつり、と政宗が呟いた。
「……ケンカしたんだ」
「……」
「だけど……はは。こんなにこてんぱんにやられたのは初めてだと思う」
互角かどうかはともかく、決定的な決着が着かないままに引き分けるのが三四郎と政宗の常のことだった。
それが、今回は最後の方は何がどうなったのか、政宗自身が覚えていない。体中が痛く、重く、強い眠気に襲われたような気がして、それきりアンナに見つけられるまで―寝ていた気がした。
なにか喪失した印象のある政宗の口調に、アンナは蟠るものを覚えた。……が、とにかく
「立てますか?」今はそのほうが大事なことだった。
「はい。……つつっ」
返事とほとんど同時に、脇腹を押さえて少年は丸くなった。
「やっぱり痛むんでしょう? 無理、しなくていいんですよ」アンナは手を差し出した。
……けれど。
「アンナさん。こんなの、子供のケンカだから……」
「?」
「たとえ、立ち上がるのだけでも、手伝って欲しく、ない……」
痛みの中で訴えられた言葉は、少年の自負心そのものだった。
「……だけど―」
「大丈夫だから」
「でも、立てないでしょう」
「それなら寝てればいい」
正直な話、ここまでこの少年が頑固だとは思っていなかった。
小さなため息と苦笑。
「分かりました。好きになさい」
「……」
「だけど、私も、好きにさせていただきます」
「え……」
ふわりと、政宗の頭が持ち上げられ、アンナの膝の上に置かれた。
上からのぞき込むアンナの顔を、政宗は一度だけちらりと見た。しかしそれきり視線を逸らしてしまう。膝まくらにかえって緊張しているように思えた。
それが、だんだん膝上の重みが増してくる。
「……政宗くん?」
「はい」
「ケンカの相手、三四郎君……でしょ」
「……」
「どうして、ケンカしたの?」
政宗は答えない。
「政宗君……?」
耳を澄ますと、呼吸が寝息にと変わっていた。緊張が緩んで、たちまち眠りに引き込まれたのだろう。実はアンナの思惑通りと言えば、そうなのだが。
かわいいな、とアンナは思った。
もうしばらく、こうしていたい。そんな気にさえなっていた。
2.
政宗が学校を休んで三日になった。
三四郎も、どこか姉妹を避けているのか、姿を見かけない。
何があったのかはアンナから聞いた。あの後、彼女はあの細い体で少年をおぶって運んできたのである。子供とはいえ、中学生になる直前の男の子だ。かなりの重さのはずだったがアンナはそんなことは口にしなかった。
彼女は「すぐに仲直りしますよ、あの子たちは」とにこやかに笑っていた。いつものことを考えれば、確かにそれは間違いない。
「あら雅ちゃん、匠ちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは、おばさま。みやくんは元気になりました?」
帰る途中、というより帰るついでなので、二人は隣の御矢家の呼び鈴を鳴らしたのだった。
「あら、どうもありがとー」と、幾分、大げさな気もする反応。「うん。政宗、明日ぐらいから学校にも行けると思うから……。上がっちゃって二人とも」
体つきはほっそりとしているが、声は大きい。とにかく気さくな人だった。
二階の政宗は、パジャマ姿だったがベッドから体を起こして二人を待ち受けていた。
大きな机、大きな本棚。地図、古書、百科、辞典、雑誌……。元々父親の書斎であった場所をそのまま譲り受けた政宗の部屋は、どこか威厳に満ちた雰囲気がある。その中で、政宗所有の遊び道具がこぢんまりと存在を主張する。
「ほんっとに、俺の都合はどうでもいいんだよな。うちの母さんは」
やれやれという感じで、しかもそうは言いながらも不意を打たれないところが、政宗であった。……というより、母親の性格が息子の慎重さを自ずと育んだのかもしれない。
「元気そう」短く、匠が言った。というか匠の言葉は、いつも短い。しかし心なしか頬に赤みが増すのは、―つまりそういうことなのだろう。
「うん……ほんとは今日、寝てる必要なんかないんだ。けど念のためだってさ」
「元通りに、なる?」
雅が、唐突に口にした。
「え?」隣の匠が、驚いたように訊き返す。
しかし、政宗は理解した。
ただ、かすかな違和感を覚えはしたが。快活で、陰りなどみじんにも思わせることのない少女に成長した雅。なのに―
「今までと―同じさ」
「ほんとうに?」
「……」
なのに、こういうとき、彼女はどこか不思議な印象を与える存在だった。
雅は、簡単に嘘を見透かす。
胸元に手をやっている雅に、政宗は気づいた。首の銀糸を指に巻き付けて。その先には、雅が常に肌身離さぬ小さな十字があるはずだった……。
「ねぇ、お姉ちゃん。何言ってんの?」話に取り残されていた匠がせっついた。
「え? あ、あのね。仲直りのこと。―みやくんと、しろうちゃん」
「なんだ、そうなの」
納得したのか匠は、たちまち明快に断言した。
「みやくん、『勝敗は時の運、兵家の常』なんだからね」
……励ますつもりなのか、匠は小学生とは思えない言葉を使った。今度は雅が驚いた顔をする。
「そんな言葉、よく知ってるね匠……」
「でも、それは違う」穏やかに、しかしはっきりと政宗は否定した。
「え?」
「それは、強いやつがたまたま負けたときに、それを罪としないための言葉だろ?」
「そうなの?」きょとんとして匠は姉を見た。
「どうして私に訊くのよ」さすがに、雅も返事に困った。
「どんなに強いやつでも必ず勝つとは限らない。だから負けた時はそう言って相手や自分を励ますんだよ。……俺とは違う」
独り言のように静かに呟く。小学生とは思えぬ言葉に対して、小学生とは思えぬ解釈での返事だった。
雅の手が神経質そうに動いた。またもや胸元の銀の十字に。それで安心が見つかるかのように。政宗の、雅に対する不思議さは静かに蓄積されてゆく……。
「みやくん、練習しよ」真剣な顔で匠が政宗に詰め寄った。
「え?」思考が中断され、少し慌てた様子で少年は訊き返した。
「『百式』。絶対強くなれるんだから」
「ああ、あれか」
結局、政宗は熱心になれず、形をいくつか覚えた程度で興味を失っていた。
「一緒に練習して、強くなろ」
匠はまっすぐで、言い方も単純で率直だ。不器用だな、と少年から見ても思う。
しかし一生懸命で、何事にもひたむきだった。ひたむきすぎて時々危なっかしいところもあるが……。だからこそ、かもしれない。政宗は、そんな匠に『好き・嫌い』とは別の場所で愛着を強く感じていた。
「で、強くなって、どうする?」可笑しそうに政宗は笑った。
「もう一度、勝負するの」
「何でそうなるんだよ。ずっとあいつとケンカし続けろってのか、匠は」
「そうじゃないけど……」
うまく言えず、匠は口を噤んだ。そう言われてしまえばそうなのだが、匠が言いたいのはそれ以上のこと、のはずだった。
「仲直りするのには必要ないだろ? 会えば、それで済むことなんだから」政宗は大きく伸びをした。そしてにっこりと笑う。
「心配するなって。なんか、変だよ……二人とも」
「よかったね、お姉ちゃん。みやくん怒ってないなら、後はしろーが謝るだけだもん」
夕方、縁側に座って匠は言う。雅は庭に立って、夕焼け空を見ていた。
夏休みが近いせいか、何もかも輝いている感じがする。いつもと同じように夏がきて、秋、冬、春と。雅は中学に上り、一年遅れて三人が来る。新しい出会いがあって、新しい友達だってできるだろう。だけど四人は変わらない。……変わらないでいられるはずだった。
「お姉ちゃん?」
いつの間にか俯いている雅に、匠はもう一度声を掛けた。
雅はぼんやりとしていた。そんな風に見えた。
少し離れた所からだが、背伸びしてそっと雅の様子を窺ってみる。泣いているのかもしれない、とふと思ったからだ。
雅は、いつも身に付けている小さな十字架を両手で掬い上げるように手に取り、見つめていた。ただ、それだけだった。
しかしその行為に何の意味があるのか。
―気にはなっても匠は問うことすらできなかった。誰にでも、誰であっても、踏み込まれたくない領域があるような気がしていたから。子供心に、そう感じていた。
「匠。私たちには、何もできないのかな?」伏し目がちに少女は振り返って言った。
「え……」
その後の言葉は、雅の口だけがわずかに動いているのが分かるだけで聞き取れない。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんらしくないよ、元気出して」
まるで自分が年上であるかのように、匠は声をかける。
「……うん」
こんなとき匠がそばに居ることが、雅には嬉しかった。きれいな目で、夕焼けの光の中で、にこやかに匠は笑っていた。
「そうね、匠。……二人とも、わたしたちよりもずっと旧い友達だもんね」雅はそう言って、自分自身を納得させた。その言葉と共に、姉はいつもの姉に戻ったと匠は思った。
……
つい先刻、少女は自分一人に聞こえるような小さな声でこう呟いていた。
「ふたりともおたがいをうしなうのかもしれない」
政宗は、三四郎がどこにいるのか知っていた。
学校でもほとんど話さず、距離を置きたがっているのは分かる。しかしいつまでもそんなことができる訳もない。―あいつだって自分と話したいはずだ。と、政宗は思った。思ったというより、これは最初から知っているも同然のことだった。
学校裏の森。幾分太い幹を持つ樹。そこはほとんど知られていない場所。二人で見つけ、巧妙に隠してある道をたどらねば簡単には辿り着けない……。
「三四郎」
樹の上で寝転がる少年に対して、政宗は見上げて声をかけた。
「……来たか」
三四郎は飛び降り、軽やかに着地した。体格だけでなく運動神経にも恵まれた身のこなしである。
「悪かった」いつになく沈痛な顔で、真っ先に三四郎が口を開いた。
「あれはケンカだ。どちらがどうなろうと、別に謝る必要なんかないだろ」
「分かってる。そういう『約束』はしてる」
二人は二人なりに、お互い幾つもの約束をしていた。それは二人が「そうありたい」と決めた目標のようなものでもある。多分に子供っぽい価値観で定められたものだったが、彼らなりの『美徳』や『誇り』だった。
「だけど俺、まさかあんな風になるとは思わなかった。……自分で」
しばらく黙っていたが、樹を見上げて三四郎は言った。
「それは、俺もだ」敗者である政宗の口数は、自ずと少ない。
しかし客観的に見れば、二人の身長差は十センチ以上になるし、三四郎の体つきと政宗のそれは見るからに違った。互角であるはずがないのだ。
二人とも、錯覚していた、ということだろうか。こうなって初めて気づけたのだろうか。
「だけどはっきり分かった。……俺は、もうお前と勝負できない」
静かに政宗は言い出した。
「そんなこと―」反射的に言いかけて、三四郎は止まってしまった。
『ない』と、言えるだろうか。次にケンカになって政宗は俺に勝つのか。俺は、……政宗に負けるのか?
「分かったんだ。何もかもが違いすぎて……。重ねてきた努力も、力も」
政宗の口調は、三四郎には冷酷にさえ聞こえた。
「だから、もう俺はお前とケンカはしない」
「……」
あのとき、崩れるように前のめりに倒れた政宗を見て、三四郎は混乱した。眼前の光景が、信じられなかった。そして怖くなった。逃げ出した。
二重の過ちを犯している。
ひとつは、倒してはいけない存在を倒してしまったこと。
もうひとつは、その事実から逃げ出してしまったこと……
「待ってくれ」やっと、それだけ、口にした。
しかし政宗は、容赦がなかった。―自分にも、三四郎にも。
「俺はもう、お前の相手にはなれない」
そんなことがあるか、と怒りにも似た感情が突然三四郎に沸き上がる。お前が俺の相手になれないなんてことがあるか。お前以外に誰が俺の―
「何を怒ってるんだ、お前」不思議がって、当の政宗が訊く。
「お前が、そんなにふがいないやつだとは思わなかった!」
「負けるケンカをしたくないのが、ふがいないのか」
「何で最初からそう決め込むんだよっ」
政宗は溜め息をついた。
「結果は、もう出ただろ」
「一度や二度でっ」
「それじゃ、お前は自分が負けるって思ってるのか」
三四郎は絶句した。それは、感性全てが否定する想像だ。
「こんなこと、何度も言わせるな」政宗が少し俯いた。低い声で。
「……くそっ」
とにかく腹立たしさを覚え、それに任せて、三四郎は草原を蹴った。
「だいたい、なんでケンカにこだわるんだよ。俺たち、そんなにケンカばっかりしてたか?」
「……」
何か、言いくるめられている。そんな理不尽な感覚に捕らわれながらも、言うことは政宗が正しいと認めている。三四郎は気持ちが落ち着くまで黙っていようと決めた。
政宗も、それを待つかのように静かになった。さすがに長いつきあい、ということだろうか。
ややあって、三四郎は空を見上げた。気持ちを落ち着かせるときのしぐさであった。
「お前が言ってることの方が確かにまともだ。それは分かった」呟く。
「……」
「だけど、なんだろうな? 何か、違う。間違ってる気がする」歯噛みし、拳で自分の頭を何度もこづいた。
政宗は何も言わない。何故か三四郎が痛々しく見えて、何も言えなかったのだ。
やがて三四郎の拳が、徐々にゆっくりになり、止まる。
大きく息をついて、顔を上げると、いつもの顔があった。どこか悲しげでもあったが……
「よし。―とりあえず、……仲直りするか」
「うん……その方が、らしい」
やっと、二人は、いつも通りに笑った。いつも通りに時間を過ごして、いつも通りに帰った。
でもそれは、お互いがお互いをはっきりと失った日だった。
3.
そして、雅が卒業する時が来た。
小学校の卒業式というのは、結局の所別れらしい別れもない。来月からは別の場所に通い、他の小学校の子供たちと一緒になる。
だから悲しいと思う子供もあまりいない。むしろ新しい出会いにわくわくしている子供の方がずっと多いだろう。
雅は晴れやかな顔で言った。
「それじゃ、みんな。先に行って待ってるからね」
「……」
悲しむのは、残される側なのかもしれない。
匠は何も言えずに泣いている。家では必ず会うはずで、普段から学校にいる間はほとんど顔を合わせることもなく。いつもと変わらぬはずなのに、少年たちが呆れるぐらいに姉の卒業を悲しんでいた。
「匠。雅さんを気持ちよく送り出してあげないと」政宗は声をかけた。返事はない。
「一年経てば、いやでも一緒に中学校だろ」と三四郎。
「うるさい」
「……。何で、俺だけ?」いくらか演出つきで、三四郎は声をひきつらせた。
少ししゃくりあげながら、匠は心の揺れを言葉にする。
「今日は別に、悲しくなんかない。だけど、いつかみんなばらばらになるって思ったら……。とっても、悲しくて……」
三人は顔を見合わせた。
「でも、そんなの……当たり前だろ」躊躇いがちに、しかし容赦なく言ったのは政宗だった。
「おい」さすがに咎めるように、三四郎が声を上げかけた。もう少しましな言い方があるんじゃないかと思う。
「ほんとのことじゃないか」政宗は相手を見やり、次に再び黙りこくってしまった匠に視線を向ける。「みんな、そのうち離れ離れになるだろ? だから―」
こんな小さなお別れで泣くのなんて、やっぱり変だよ。
だが、この言葉はまるで口の中で溶けてしまったかのように、消え失せてしまった。
「そんなの、やだ」匠が泣きはらした目で政宗を見た。
「……」
むしろ、出てきたのはまるで違った言葉だった。
「だけど、一緒にいられる時間を、長くすることはできる、か」
「なんだよお前、結局匠の言いなりか」
からかうように言いながらも、最初からそうなるだろうなと三四郎は思っていた。昔から匠の泣き顔には弱いのだ。いや、それは三四郎も同じなのだが、なだめたり慰めたりするのは政宗の役だった。
「そんなんじゃない。ただ思いついただけさ」
……このとき、政宗の口調には少し拗ねたような語感が残っていた。
「何を」
「少なくとも、同じ学校に行ってれば離れ離れにはならなくて済むだろ」
「行ってるじゃんか」
「中学まではそうなるだろうけど、その先だ」
「ずっと、同じ学校に行こうっていうの? みんなで」理解した雅がそう付け加えた。
「私、そうする!」急に元気になって、匠は宣言した。
「……そうか。じゃあ、みんな、がんばってくれよ」
「なんでそうなるのよ、しろー」
「お前らの頭ならそんなの簡単かもしれないけど、俺はどうすんだよ!?」喚くように三四郎は返す。
確かに最近、三四郎の成績は下降傾向にあった……。
「しろうちゃん、そんなの中学校で幾らでも取り返せるわ」いつものように、穏やかに雅が逃げ道を断った。
「今からそんな事考えるくらいなら、少しはちゃんと勉強しろ」政宗が追い打ちをかける。
「雅や匠が女子高とかに行くってことも」
「考えてもないけど。女子高とか女子大とかって」
「……大学なんて、行くかどうかも分かんないだろ?」
「行くの」
こうなると、匠は『譲る』とか『退く』ということがない。
「……」三四郎は、何も言えなくなってしまった。
「そこまで先のことまで言わないさ。だけど三四郎、高校は一緒だ」政宗が三四郎の背中を叩いた。いつの間にか、「敢えて譲った結果、『高校まで』」という立場に追いやられている。狡いやつだな。などとさりげない政宗の言いようを小さく恨んだ。とにかく、これ以上、劣勢は跳ね返せそうになかった……
三人の視線が、一際背の高い少年へと集まった。
「分かった。行く」低く、さらに加えて暗く。三四郎は言った。
「しろうちゃん、四人の約束ね」
「破ったら、許さないんだからね」先刻までめそめそしていた匠が、打って変わって少年にプレッシャーをかけた。
内心困りきってしまった三四郎だったが、
(ま……いいか)とも思った。
四人が四人、通じ合えたような気がしていたから。
……
この時期、この年齢。季節の巡りも賑やかで鮮やかな彩りさえ感じられる。
少年と少女の体も心も成長してゆく。
雅は中学に上がって間もなく、髪を肩口までにした。姉妹そろって背中に流れ落ちる綺麗な黒髪が二人の特徴だったのに……
「校則って、そういうのに厳しいんだ」
初めてそれを見た時、政宗はしばらく言葉がなかった。思いついて口にしたのが、今の言葉だった。
「ううん、そうじゃないわ。匠とね、話し合った結果なの」
「……?」
「『お姉ちゃんといつまでも一緒なの、いや』だって」
「匠が、雅さんと一緒なの、いやって言ったの?」
……意外としかいいようがない。
なのに、それを雅は嬉しそうに話すのだった。
「あの子だって頑張ってるのよ」
何を頑張っているのだか。
「でもそれなら、匠の方が変えればいいんじゃないの? 剣道やってるんだし」
防具を付ける時に、わざわざ三つ編みをふたつ編んで頭の後ろで巻いて、ピンで止める。そういう面倒なことをいちいちやっているのだ。
「あいつなら、ショートにした方が似合うかも」何気なく呟く。
「みやくん」
雅は静かに、しかし妙に迫力を感じさせる声で言った。
「は、はい」
「絶対、あの子の前でそんなこと言っちゃだめよ」
「あ……そういうことか」
「え……分かっちゃったの!?」今度はびっくりして、目を丸くして政宗を見つめる。
「女の子らしくなりたいからってことでしょ? 今までとおんなじだと、どうしたって雅さんと比べられちゃうし」
「……それ、なんでだと思う?」内心どきどきしつつ、少女はさらに訊いた。
政宗は首をひねる。
「それは―なんで……って訊かれても」
答えが出ない様子に、雅はまず胸を撫で下ろし、そして悪戯っぽく笑った。「みやくん、六十点」
政宗は沈黙する。突然採点されて、しかも普段見慣れない点の低さにたちまち不機嫌になったのだった。
「でも、よかった。零点でも困るけど、もし百点だったら私の失敗だもの」
「?」
「ふふ、さすがのみやくんもまだまだね」
大人びてみせる雅だったが、こうしてはしゃいでいるのを見るとどっちが年上だか分からない。
その政宗も一応外観の変化はあった。ついに眼鏡をかけるようになったのだ。
……「ついに」というのは、今までも視力は悪化の一途をたどってきたのだが、ひたすら親の言うことを無視、かつ拒絶し続けてきたのだった。
「あんなのやだよ。重苦しいし、気持ち悪い」
不愛想に言い放つと、絶対に首を縦に振らない。
遠くを見やるときにはいつも目を細くして―
「まるで、みやくん、いつも怒ってるみたいよ?」
「しょうがないよ。見えないんだから」
普段とは違った大人げなさ。
「眼鏡、かけたらいいのに」
「……」
「みやくんならきっと似合うから」
その、雅の言葉であっさり陥落した。
……実のところは、こうしたきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。我が儘を言いながらも『我が儘だな』と自分で気づいている。そういう、自分さえ突き放した所で見つめる部分がこの少年にはあった。
ところが、これをかけてみればみたで、
「えー……。みやくん、見るからにマジメそう」匠はそう評した。
匠も政宗も、大きめの真新しい制服を着ていた。
もう一度春が巡り、彼らが雅に追い付いて来たのだ。それもたちまちのうちであった気がする。
「……。まぁ、逆に思われるよりましか」
「あ……怒った?」おそるおそる、といった感じで彼女は訊いた。
「そんなことないよ。ただ、なんか邪魔に感じる」
「私が?」
へんな反応だなぁ、と思いつつ、政宗は笑った。
「ばか。眼鏡が、だよ」
絵に描いたような「優等生」イメージが定着しつつある政宗だった。本人が一番不本意なのはその点なのだろう……。
一方、三四郎の周りには多くの人間がいるが、最近その種類が変わってきたように思える。
三四郎自身はたいした自覚もなく、今までとさして変わらぬ自分で通しているつもりなのだが、周囲は必ずしもそう理解してはいなかった。
部活の先輩とのいざこざで、しかもその相手を叩きのめしてしまったのが始まりかもしれない。背の高さを見込まれてバレーボールなど始めてみたのだが、二カ月もしないうちにそうした理由で辞めてしまった。
「あ……しろうちゃん」
少し遠くからそう呼ばれて、大げさに三四郎はずっこけてみせた。
「この俺をそう呼ぶのは雅、……先輩だな」
当然ながら、三四郎が一年生なら雅は二年生である。相変わらず快活で賑やかな少女で、何かと人気があった。クラブや部活動では美術をやっているらしい。
(まぁ、四堂のじいさまが絵描きだからな)数日前、朝礼の場で何かの賞を取ったとかで表彰されていたのを思い出した。
「雅先輩、お久し振りです」
「ばかなこと言わないで」
「……」
冗談なのか真剣なのか分からないが、雅は率直すぎる言葉を使った。「しろうちゃん、最近ケンカの話ばかり聞くんだけど……」
「『降り掛かる火の粉』、だよ」三四郎はそっけなかった。
「火の粉って、払うだけじゃなくて避けることだってできると思うんだけど」
「そういうことを始めたら、俺は俺でなくなる」
その言葉は、めったなことでは現れない三四郎の心底を垣間見せた。
「負ける訳にはいかない。―俺には、これしかないから」
それを聞くと、雅はもう何も言わなかった。ただ、胸元に一度手を当てて、
「やっぱり」と、小さく呟いた。
「え?」
確かに聞こえた。「やっぱり」という言葉を耳にした。
「雅―」
振り向いたが、雅の姿はもうなかった。
4.
秋を感じるにはまだ風も光も暑い。そんな日々が続いている。
(休みってのは、何度来たってどんなに長くたって、終わるのはあっという間だな)
三四郎はつまらなそうに考えた。小学校から今年で……数えて八回目の夏休みも、終わってみればまるで一瞬だった。
その日、匠、雅、政宗の順で朝礼台に立つ三人を見た。三四郎だけではなく、その日登校していたほとんどの生徒が彼ら三人を見たはずだった。
……内心、わずかながら複雑な気がしたが、三四郎はそれに拘るような矮小な人間でもない。
朝礼のとき、剣道の大会・女子の部個人優勝者として匠が。
美術のなんとか展の特賞受賞者として、雅が。
ここまでは予想通りだったのだが、その何とか展の入賞者として、政宗の名前も呼ばれたのだ。
(そういえばあいつ、こんな才能もあったよな……)ぼんやりと考える。
そうでなくても、英語の弁論大会で入賞だの理科の研究課題だのと、『御矢 政宗』を朝礼台の上に見る機会は他の人間に比べてずっと多かった。三四郎とは別の意味で、政宗の存在は校内に広く知られつつある。
人気も、一部にはあるらしい。正確には「一部の女子」ということだが……。本人はそういった類の噂や反応にはお構いなしだった。三四郎にはだんだん……政宗という少年の精神がどこか淡泊に、いや淡泊を通り越して冷淡にさえなっているように思える。
(俺が、ああいう場所に上る機会なんてあるかな)
そうすれば、また四人一緒か。だがそれは、あまりに無理な気がした。
何より、そこまでして四人一緒になる必要があるのか。
あいつらにはあいつらの道があって、それは俺もそうに違いない。今までがたまたま一緒だからって、これからもそうであるとは限らないだろう?
三四郎は徐々に、三人から距離を持つようになっていた。
「おめでと、匠。これで小学校から数えて三回連続ね」
朝礼が終わった後のこと。雅は妹に話しかけた。
凝り性の匠の剣道は、まるで際限を知らぬかのように上達を重ねている。それが自信につながっているのか、小さな頃に比べてずいぶんと活発な少女になった。
「お姉ちゃんの方がすごいもん」ありがたみもなさそうに、賞状の入った筒をくるくると放り上げながら匠は言った。「県で一番だもんね。お姉ちゃん、次は日本一になってよ」
「そんなの無理よ。絵は、勝ち負けなんかないから」
「賞はちゃんとあるじゃない。一番の賞とか……」
「ほんとうは、それが間違ってるのよね」
穏やかに、しかしはっきりと否定する。それが雅という少女だった。「絵は、見る人がその人にとっての価値を決めるの。それだけで充分」
そういうものなのかな、と匠は呟いた。物足りなさそうである。
「あ……みやくんも。おめでとう」
ここで思いだしたように、匠は後ろを振り返って言った。
「いいよ、別に。二人仲良くやってれば」
「そんな言い方、―しなくたって、いいじゃない」
荒げかけた声を抑える。相手が政宗のときの匠は、まるで『猫』だ。
それを見た政宗は小さく笑っただけで、後はなにも言わなかった。
(こういう賞は、たいした意味はない)
内心、そう思っていた。雅さんや匠の得たものには大きな意味がある。しかしこの中途半端な賞は、いったい何なのだろう。中途半端な能力の現れなのか、それとも本人そのものが中途半端なせいのか。
自分の器用さまでも否定するつもりはないにしても、それを評価する気には到底なれないのだった。
―そんな本人の思惑は、なかなか他人には理解されない。むしろしばしば歪んだ誤解の許になった。
「烏丸、あいつどう思う?」
「あいつって、誰だよ」
「御矢、さ」
「……」
昼休み、少年たちが校庭の日陰に座り込んでいた。どちらかといえば悪友と称される連中で、校内での問題にも事欠かない。
同じクラスであったり、部活が一緒の時に共に辞めてしまった仲間であったりする。
そして、別に呼びかけた訳でもないのに、三四郎を中心に彼らは集まっていた。結局、どこに居ようが、三四郎を一人で見かけることはほとんどない。
その彼らの中で、政宗のことが話題となった。今朝の朝礼が契機になったことは充分考えられた。
「イヤミな野郎だよな」相手が続ける。実に分かりやすい率直な表現だった。
「ちょっと調子乗ってんじゃねーのかって気もするけどよ」別の男子が尻馬に乗った。「いっつも『これが当たり前だ』って顔しやがって。ムカツク」
(たしかにそういう所はあるな)周囲の反感を冷たく受け取りつつ、三四郎は思った。
「けどよ、そこが女子に受けるんだよな」
「どこがいいんだあんなの」
「何だお前、ひがんでるのか」
「ちげーよっ!」
話が、徐々に逸れている気がする。
「B組の井村が御矢を―」
「なに?」
(……かわいい子だよな)
「そういう話ならD組の三島さんも実は―」
(おとなしめの子だ……)
しかし噂に上がる女の子の顔や名前がいちいち思い浮かぶあたり、三四郎もまめではある。
「……そういえば」
「ん? なんだよ」
「A組の四堂さん……も」
「あの剣道女が」
そう思っていたのはこの少年だけらしく、他の連中が驚き、あるいは怒りの目を向けたので沈黙してしまう。
「お前、四堂さんをよくそんな風に言えるな!」
「カッコいいじゃねえかあいつは」
(匠は意外な所で大人気だな)三四郎は内心、おかしくなった。
しかし確かに、匠は凛として「かっこいい」と思える所がある。思春期を迎えつつある少年らにとって、他の「女らしさ」を徐々に感じさせ始めた少女たちより単純に受け入れやすいのだろう。
「―で、四堂さん、御矢のことが好きだってのかよ」
「……」
「……」
「面白くねーな」
何やら、期せずして最初の話に戻りそうになっている……
「なんか気にいらねえ」
「ああ」
三四郎は何も言わなかった。同意も、否定も、しなかった。
「で、だ」最初に三四郎に話しかけた少年が意味深に言う。「御矢のやつに身の程ってのを思い知らせてやりたくてさ、俺は」
「いいな、それ。あの素っ気ない顔がどうなるか」無責任な、むしろ強がりでしかない賛同。
「やるか」
と、誰か一人が言い出せば、それに乗るのはかなりたやすくなる。
「どうだ、烏丸」三四郎にもけしかける声があった。
「……ふん」ずっと黙り込んでいた三四郎は、やはり簡単には口を開く気になれず、鼻で笑った。すっと立ち上がって、そしてようやく言う。
「好きにしろ」
「なんだよ、お前やらねえのか」相手は露骨に舌打ちした。
「俺は、そういうことはやらない」苦笑いで三四郎は言う。「お前らが決めたことなら、お前らが何をしようと止めねえさ。好きにしろよ」
「……。まぁいいか。それじゃ―」
「けどな」三四郎の話は終わってはいない。「俺と政宗は腐れ縁で、ガキの頃からのつきあいだ。あいつに何かあったら、―どうだろうな。俺ってそれほど冷たくねえし」
政宗なら冷たくなれるのかもしれないな。
と、ちらりと心に思わなくもなかったが、それは今この状況とは関係ない。そう思い直した。
周りの少年らは急に三四郎から奇妙な迫力を感じ取り、戸惑い始めた。「何かあったら」ではなく、「何かある前」に行動しそうな『熱さ』を、三四郎は持っているように思えたからだ。実例ならば色々と見せつけられているだけに、それが自分たちに向けられることを想像して心地よいはずがない。
「ま、やるつもりなら、別に俺は構わないぜ。そういうこった」
少年らの反抗心からすれば、そこまで言われては何かせずにはいられない。しかし、誰もが行動どころか口すら動かせなかった。
穏やかならぬ雰囲気の集団を、三四郎は一瞥する。それら反感のすべてを萎えさせるように……
そして、ややあって、言った。
「まぁいいじゃねえか。人のことなんてよ」
三四郎がいつもの調子に戻って明るく言うと、それきり誰も政宗のことを口にしなくなった。好きな音楽やらアイドルやら、先刻の続きで誰が誰を好きだとかいう話になってゆく。
三四郎はあまりしゃべらないが、やはり真ん中にいた。
(……くだらねえ)
少年は、表面はいつもに戻っているように見えたが、内側では不愉快さをどうしても打ち消せないでいた。まったく、くだらない連中だ。
そして、その輪の中に自分がいるのである。そう思えば自分自身もまたくだらない。
この腹立たしさは、半ば自らにも向けられたものだった。
……
それからしばらくしてのこと。
悪い噂が立った。校内での盗難があったという。
そして、犯人は三四郎ではないのかというのだ。
5.
三四郎が一人で無人の教室から出てきたのを見た人間がいる。
その後で、とある女子の財布がなくなっていたらしい。
それについて、勇気を出して三四郎本人に訊ねた生徒がいる。おそらくはそのクラスの委員長で、正義感というより義務でその役目を拒む訳にはいかなかったのだろう。何をされるか分からない、とびくびくしつつ……。
三四郎は一瞬怖い顔をしたが、すぐにやれやれという顔をして、
「俺は、やっていない」
とだけ答えた。
「だけど、あの日、あなたをここで見たという人がいるわ」
思いの外穏やかな反応で済んだのは、隣の女子の副委員長のおかげかもしれなかった。
「マンガを読んでたんだよ。確か、月曜日だったろ?」
「どうして、よそのクラスで読むのよ」
「うちは担任が小うるさいからさ。こっちで読ませてもらってる」
「……」探るような目、疑うような目で三四郎を見る。
「俺は、やっていない」
三四郎は、もう一度だけそう言うと勝手に二人から離れた。
話として、そこまでで終わるはずなのだが、どちらにせよ確証がないために噂となって生徒の間にたゆたった。それが「三四郎がやった」という話になってしまうのは、これは三四郎の不徳だろう。匠に言わせると「日頃の行いが悪いから」ということになる。―もっとも、彼女とて本気でそう言って突き放した訳ではなく、沈痛な面持ちで溜め息混じりに呟いたのであるが。
徐々に三四郎は孤立し始めた。三四郎は弁解も、誤解を解こうともしなかった。ただでさえ恐れられていた部分があるのだから、悪い噂にも自ずと凄みがあった。
改めて三四郎を糾弾しようという動きが、盗難にあったというクラス全体で起こったとき、全員が賛成するかと思われた中でただ一人拒絶する男子がいた。
「御矢君。反対するからには理由があるわよね」
その副委員長は、政宗に起立と発言を促した。
副委員長は委員長よりもはるかに行動力のある人らしく、今回の議題についても実に手際がよかった。しかし、最後になって一番意外な人物が静かに拒絶したのだ。驚き以外にも、作り上げた流れを壊されたことに対して腹立たしささえ感じる。
その副委員長―「鹿島 静香」相手に、
「ムダです」ひとこと、政宗は言ってのけた。
「どうして?」
「何も確証はない」
「だから、烏丸君の話を聴こうとしてるんじゃない」
「何を訊いた所で、結果が変わるはずがない」
「そうかしら? 烏丸君に訊きたいことだって、あれからいくつもでてきたわ。結果が同じかは分からないわよ」
「あいつの答えは変わらない」
あいつ? 静香は目を瞬かせた。
政宗の口許がわずかに笑ったのも見逃さなかった。ずいぶん親しみの籠もった『あいつ』だと思えた。
政宗は続ける。
「三四郎はやっていないとしか、言わない」
「御矢君に、なぜそれが分かるの」
「三四郎は、自分を弁護するための口は持たない」
澱みのない確固とした口調と、言葉そのものの潔さに少女は一瞬圧倒された。
「だから三四郎の言葉は、本当のことだ」
「詭弁だわ」その静かな圧力を拒絶するように、即座に静香は反応する。
(……何だよ、『きべん』って)クラスが小さくざわめく。
様子を見守っていた担任は、苦笑して二人に告げた。
「意見を言うときは、皆に分かってもらわなければなりません。もっと分かりやすく」老教師は穏やかだった。
「御矢君がそう信じていても、他の人はそうは思っていないわ」
静香は表現方法を大きく変えた。この方が分かりやすいだけでなく、皆の心情を汲み取ったものであったに違いない。
相手が無言なのは、それに反論できないから―ではないだろう。
その表情から、自然に彼女は続けてこう訊いていた。
「……御矢君はなぜ信じられるの?」
「三四郎は、卑怯者にはなれない」政宗は自分のことのように断言した。
「人の物を盗るようなやつじゃないし、それについて嘘をつくやつでもない。……でなければ、」
……後の言葉を躊躇うかのような間を置いたものの、少年が言えることは他にはなかった。
「そうでなければ、三四郎は、三四郎じゃない」
彼女は混乱しつつあった。相手の言っていることは理屈でも何でもない。
ただ「信じている」。それだけなのだ。
しかしそれなのに、今は理屈を話しているはずの自分の方が論拠を失っていくように思えた。
相手に「取り込まれる」。そんな危機感が、彼女の中で一層強くなる。
―それを振り払うかのように、彼女は言葉を発した。
「それなら、わたしたちの前で、わたしたちにも信じられるものを示すべきだと思うわ」
政宗はしばらく黙した。……今度は、今度こそは、何も言えないのかしらやや期待を持って彼女は考えていたが、
「最初から信じるつもりもないのに。どうして信じられるものを見つけることができる?」静かに、政宗は返した。
悲しいものでも見るような目で。
「な……」
逆に、彼女は答えることができなかった。
「わたしたちだって、信じたいと思っているし―」
「それなら、三四郎を被告席に立たせる必要もない」
「……」
結局、副委員長の提案は無効となった。
一連の話の経過はともかく、最後にとりまとめた担任の言葉で、
「どう落ち着くか興味があったが、先生は最初から認めるつもりはなかった」
と語ったのである。
『疑うことはたやすく、信じることは難しい。先生は、より信じることの大切さの方を知って欲しいと思います……今回、先生が一番言いたいのはそのことでした』
無理やり押さえ込むことがないのが、経験の為せる所かもしれない。
それだけでなく教師は後で副委員長を残して、『やり方はともかく、鹿島さんの真実を追及する気持ちも大切なことです』と孫を褒めるように語った。
静香は珍しく何も言わなかった。
単に、疲れていたのである。だから気づくこともなかった。この教師の言葉が、予め政宗との職員室での会話の中で決められていたということにも。
彼女の活発な行動を見て、少年は落ち着いて先手を打っていた。
(馬鹿みたい。何のためだったのかしら)
とぼとぼと、一人で帰路に着く。どの道結論が同じだったのなら、あんなに話し合う必要はなかったのではないか。最初から先生が言ってくれればいいのに。
「あ」
ふと見れば、彼女のすぐ前を「疲れさせた張本人」が歩いているではないか。
「御矢君、お疲れ様」
ほとんど皮肉である。
「? あ……。副委員長、いつもご苦労様」
意図したか否かは分からないが、これまた捉えようによっては痛烈であった。
さすがにむっとしたが、彼女は何も言わない。
「……帰る方向、こんなに一緒だったのね」
そう言ったのもだいぶ経ってからのことである。
「うん」政宗の反応は極端に乏しい。
「知らないことだらけだわ」
「お互いに」
「そう。―御矢君と烏丸君、あんなに仲がいいなんてこともね」
政宗は足を止めた。振り返る。
「やっぱり、納得いかないのか」静香を見つめて言った。
「ううん、そんなんじゃないの。ただ、御矢君……ちょっと意外だったから」それは本当だった。「烏丸君とのこととか、あんなに、友達のことで真剣になれることとか」
「……」
「気を悪くしないでね。見直したのよ、わたしは」
やはり、はっきりとものを言う人だなと政宗は思った。
「御矢君て、人のことなんてどうでもいいって人なのかと思ってたから」
かもしれない。と本人が思ってしまった。今度のことも、もしも「他人」だったら。自分は、いつものように、どこか冷めた感覚で目の前の出来事を見ているだけだったかもしれない。
今の方が、らしくないように自分で思えた。
「だから、今日は疲れたけど、そんなに腹は立たないの」
「そういえば、いつも怒ってる気がするね。鹿島さんは」
言ってしまってから後悔した。大人げないと、自分で思って嫌になった。
「そうやって怒らせたいわけ?」案の定、「鹿島さん」は発火してしまった。
「ごめん」
「うん。御矢君のそういう所、悪くないわ」
意外にもすぐに笑う。……思ったよりも難解な性格をしているらしかった。
いつしか、政宗の知覚は彼女の動作、声、話に集束してゆく。
「何しろ腹の立つことがほんとに多いんだもの。……みんなそのことは分かっているのに、文句を言うだけ。何もしないで」彼女の言葉には力と、強い意志が籠っている。「―わたしは違うわ。そうはならないつもりよ。絶対に」
「……」
同じクラスになって一年と半分以上。
政宗は、この言葉でようやく「鹿島 静香」を理解した。そんな気がした。「しっかりしている」との評価とは裏腹に「仕切り屋」だの「ケンカ屋」だのと陰口をたたかれることも多い彼女を……。
「話がそれちゃったけど」と、口調を落ち着けて静香は言った。「わたしだって、あんな風に言える友達がいればいいなって思うもの」
「鹿島さん」今度は正面に相手を見据えて、訊ねる。
「え?」
「結局、君は……どう思うの? あいつのこと」
捉え方によっては、何やら意味深な問いかけ。
静香は首を少し傾げて、わずかに考えて答えた。
「わたしは、まだ烏丸君のことよく分かってないけど」
「うん」
「だけど、御矢君が言う『三四郎』君なら、信じられると思う。……」
なんだか、気まずいような、嬉しいような、沈黙が降りた。
「……」
「……」
「あ」
「?」
「わたし、こっちだから。じゃあね御矢君」
唐突にそう言い残して、静香は政宗から離れていった。
万事が万事こういう人なのだろう。あっけにとられて、ただ政宗はその背中を見送るだけだった。
このとき、
政宗は「……おもしろい人だな」と思い、
静香は「おもしろい人たちね」と思っていた。
6.
三四郎に降りかかった盗難騒ぎは徐々に、静かに消えていった。―そもそも、本当に盗まれたかどうかもはっきりしない話なのだ。あの学級会以来、最鋭鋒だった「副委員長」が何も言わなくなったことも大きかったらしい。
三四郎としては、とりあえず変な話が収まってくれてやれやれだ、という所である。
「暢気なものね」その三四郎にぶしつけな声が投げられる。
端から見てそう言われるということは、おそらく、全身で暢気さを表していたのだろう。背後のその声に三四郎は振り向き、
「なんだよ、また『委員長』かよ」
うんざりした様子で声を上げた。
しかしその隣に別の少女がいるのをすぐに気づいた。
「って、あれれ? 雅さんも」と、今度は驚きの声。
「ずいぶんな差ね、烏丸君。―それにわたし、副委員長だけど」
鹿島静香はいつもの調子で訂正した。「……まあ、別にいいわ。四堂先輩」
「なに?」
「これが、三四郎君ですか?」
これ呼ばわりであった。
「そうね。しろうちゃんはこういう人だから」
雅は面白そうに二人のやりとりを見ていたが、そのままの笑顔で応じる。
「あはは、かわいい! しろうちゃん、ですか」
不名誉の後に、三四郎に襲いかかってきたのは「面目丸つぶれ」であった。
「雅さん、いいかげん、その呼び方はなしだぜ……」
さすがに中学に来て以来、何度となくそう言い、何度となく雅も頷いてくれるのだが、結局彼女は変わらないのだった。
「いいわね。わたしも『しろうちゃん』て呼ぼうかしら」
「やめろ。だいたい、お前が俺を呼ぶなんてことがあるのか?」
精いっぱいの強がりという感じの台詞だった。
「そんなの分からないわよ。最近先輩にいろいろ聞いてるし」
「雅さん。なんでこんなやつと知りあいになったの?」
「だって、元から知りあいだもの」
「『生徒会』って知ってる? 三四郎君」わざとらしく静香が言った。
「おう、さすがに名前ぐらいはな」負けじと、三四郎もわざとらしかった。
(そういえば、雅さんは―副会長、だったっけ?)
そして、この女は生徒会関連の何かをやっているのだろう。この性格なら分かる気がするが……
(……しかしまぁ、よく見ると)
まんざらでもない顔立ちだと思う。鼻はすらりとしているし、目も明るく活き活きとしていた。
「? 何よ」突然見つめられて、静香は不思議そうな顔をする。
「しろうちゃんはね、人を見る目があるから」雅は意味深な言い方をした。
「み、雅」思わず、久しぶりに雅のことを昔のように呼び捨てにしてしまう三四郎である。
「三四郎君。とりあえず、聞いておきたいことがあったから呼んだのよ」
お構いなしに、静香は自分の話を始めた。
「はいはい、なんだよ、副委員長」
「あのまま、泥棒扱いされていたら、あなたはどうするつもりだったの」
「てことは、お前はもう俺のことは泥棒呼ばわりしない訳だ」
相手が過去形を使っていることを聞き漏らさずに、ことさらに三四郎は確認してみせる。痛烈に皮肉ったつもりなのだろう。一番『泥棒扱い』していたのは彼女だったはずだから。
その言いようが少々癇に触ったが、彼女も負けてはいない。
「あなたが『三四郎』君ならね。烏丸君」
「はぁ? さっきもそんなことを言ってたな。もちろん俺は、三四郎だ」
「そう。―御矢君がいう三四郎君なのね」
その瞬間で相手の表情が一変するのを目の当たりにして、さすがの静香も少し後ずさった。
「あいつが、何か言ったのか」ぼそり、と低く訊く。
彼女は小さく深呼吸をした。この強烈な威圧感に耐えるためには必要なことだった。
「『三四郎は、自分を弁護するための口は持たない』」
よく怯えもせず、しかもよく覚えているものである。
「……」
「『三四郎は、卑怯者にはなれない』って。わたし、初めて聞いたの。何ていうか―ほんとうの言葉。嘘とか飾りとか、なんにもない、だからとても強い言葉」
「そんなの、分からないぜ。嘘かもしれない」口許だけで笑ってみせる。
「それは、あなた次第だと思うけど」
「……」
はぐらかしもまるで通用しない相手らしい。静香の論法にどこか感心しながら、少年はあきらめたようにため息をついた。
「……そうだ、な。俺は、卑怯者にはなりたくない。それだけだ」
結局、いつもの調子で話すしかない。しかしそれこそが三四郎そのものなのだ。
静香は、少し考えて、納得したように一人頷いた。
「なるほどね。なんとなく分かったわ」
「どう分かったってんだよ」簡単に分かってたまるか、という気持ちで少年は突っ掛かる。
「二人とも、思った通りってこと」
「?」
「もういいわ、三四郎君。わたしたち仕事があるから、それじゃまたね」
そう言い残すと、雅の手をとってさっさと廊下を進んで行った。
「そ、それじゃね、しろうちゃん。たまには遊びにきてね……」雅でさえ、慌ててそう言うのが精いっぱいであった。
一人とり残され、少年はかける言葉さえ思いつかずにいる。
「なんなんだ、あいつは」
奇しくも、政宗と同じように呆然と去り行く姿をみつめる三四郎である。
……
「お姉ちゃん?」
何かあった、と匠は思った。
いつも通りにクラブの練習を終えて学校から帰ると、雅が庭に一人で立っていたのである。空を見たり、庭の樹々を見やったり。縁側に座っているか、枳の前にぽつんとしているか。
それはどちらかと言うと、雅の精神が内側に向かっている状態であった。いつもなら、まずそんなことはない。しかし、稀にではあるが、雅はそんな風に「落ち込む」ときがあった。
顔には笑みを用意して、匠は姉に声をかけた。
「匠は変わらないね」
「え?」
それきり、雅は黙り込んでしまった。
「何かあったの? 学校で」匠の口調は自然と慰めるようになる。
胸元の小さな銀の十字。雅の左手の中で、それが燦めいている。
「しろうちゃんもね、みやくんも、変わってはなかった」
発せられた言葉は、二人にとって、常に心のどこかに居る少年たちのことだった。
「そう?」匠は、突然の話にも驚かない。ただ姉の言うことに小さく首を傾げた。
そんなことはない。
と、内心匠は思ったりもする。
三四郎はいつの間にか粗暴さだけが目立ち、その噂が一人歩きしてしまっていた。理解されず、されることを拒むようでもある。
政宗は、どこか孤立しているように思えた。ほんとうの孤独ではなく、集団の中にありながらも、自分を遠くに置くような……。
そして二人とも、それぞれがそれで良いつもりでいるように見えた。匠にはなんとなく寂しいものがある。
二人の「すごさ」を知っている自負があった。
小さな頃から二人と共にあり、周りの人が知らない二人も知っているつもりだった。悪いところだってある。しかし良いところは、それ以上にもっともっとあると知っている。
その匠の思い描くイメージからすれば、今の二人はどこか物足りなかった。
「二人とも、お互いのことがあんなによく分かっているのに。ただ、どんどん離れていくの」
「うん……かもね」
それは匠も感じていた。中学に入ってからというもの、ほとんど二人は一緒にいることがない。雅や匠と一緒にいる時間も極端に少なくなった。もちろん、それぞれに別の目的や行動があり、それに伴って交友関係も多彩に広がっているせいでもあるのだが……。
「なくしたものにきづきたくないから」
ぽつりと、雅は言う。
「……」
「きづいてもとりかえせないとおもっているから」
「お姉ちゃん、何をなくしたの? ……前も、そんなこと言ってたよね」
「うん……」
口を何度か動かしたが、結局、雅は何も言えず、―とうとう笑うだけだった。ただ、少し悲しげに。
「ごめんね、匠。匠に分かるように言えない」
そんなことない、と咄嗟に言おうとして、匠も口を動かすだけに終わった。
気付いていた。
姉が抱えているものを受け止められる自信が、なかった。
「いいよ、匠。ごめんね」雅は、そう言ってにこりとする。
昔なら、それで終わりになったはずである。しかし今度は匠が終わりにはさせなかった。
「だけど、このままじゃ、つらいんだよね……。お姉ちゃん」
「ううん」
あまりに自然にもたらされた返事が、かえって匠を困惑させる。
「つらいのは、私じゃないから」
「……みやくんたちだっていうの?」
「気づこうとしないだけなのよ」
「なんで、お姉ちゃんにそれが分かるの?」
「匠には、分からない?」
「……」
いつになく不思議なもの言いをする姉を、不思議そうに匠は見つめていた。
「分からないよね。やっぱり」もう一度雅は笑ったが、今度は少し翳った。少なくとも匠にはそう見えた。
事実なだけに、このとき匠は何も言えなかった。
「だけどいつかは」
雅は、独り言のように言葉を続けた。「きっと……」
「……うん……」
何も分からないまま、ただ頷く匠。
―陽差しは夏の余韻を残したままだったが、風はいつのまにか秋に変わっている。
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枳の庭【第二章】喪失、それから