No.265973

記憶の行く末

不条理、夢十夜、どっちつかずであるかもしれない。

2011-08-09 00:53:11 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:511   閲覧ユーザー数:506

 ……ここはどこだろうか。深い眠りから目が覚めると、私は知らない……部屋、にいた。ぼやけた視界をこすり、クリアにすると、ここがどんな所かゆっくりと理解した。しっくいで固められた部屋。十数本もの鉄格子。通路のようなところを挟んで、向こう側にも同じような部屋がある。

 起き上がろうとして、膝を曲げて立とうとしたが足首に違和感があった。周りを見ていた視界を足元へと移す。そこには鉄で出来た足枷が括られていた。鎖で両足がそして、壁と繋がっている。よくよく見ると、手には手錠がしっかりと掛かっていた。ここは、まごうことなき牢屋だった。

 何故、私はこんなところにいるのだろう。

 ……私?

 私は、私だ。ここにいる私以外、私は存在しない。

 名前は? 性別は? 出身は?

 全て分からない。覚えていない……? 私はいつから私がここにいるのかさえ分からない。目を覚ます前にどこにいたのか分からない。ここがどこなのかも分からない。

 分からない。理解できない。飲み込めない。不明。曖昧。朦朧。全てが。

「ハア……ハア……」

 汗がぼとり、と顎を伝って床に落ちた。私が私だと、はっきりと分からないことがこんなにも恐ろしいことだったのか。汗は止まらない。汗に長髪が張り付いて、辟易する。しかし、そんな感情も一瞬に消え去って、恐怖の感情が洪水のように私の心に押し寄せてくる。

「…………」

 頭を壁に打ちつけて、無理やり現実に生きているということを思い出させる。死んではいない。生きている。痛みによって血流は上がり、動悸も激しくなる。自らの体の内部が動いているのを実感した。

 しかし、何故生きるのか分からない。生きる必要がない。

 しかし、何故死なないのか分からない。死ぬ必要もない。

 私は生きるべきなのだろうか。死ぬべきなのだろうか。私の心に向かって問う。分からない。

 死んでいるように生きたくない。生きているように死にたくない。ならば、生きがいか、はたまた死にがいか。その双方のうちのどちらかを私の心の中に植えつけなければいけない。

 このままでは、私自身が私ではなくなってしまう。一刻も早くアイデンティティを形成しなくてはならない。

 余程悩んだが、答えは出なかった。この暗い無機質な部屋で、一体何を望めばいいと言うのだろう。こんな部屋に幽閉されたままでは、正常に考えることなど不可能だった。私は冷たい鉄格子の外側の世界に答えを見出そうとした。

 でも、駄目だ。鉄格子なんてものは、外からしか何も出来ないようになっているのだ。というよりは、私がいる部屋に与えてはならないものを絶対に与えない。例えば、娯楽用品。脱出のために使えると思われる数々の品々。いや、いっそ木の葉でも、生ごみでもいい。何か、何かさえあればいい。何にもないのは嫌だ。空っぽなんて嫌だ。

 私にはこの漆喰の部屋の住民がもうすでに死んでいるのではないか、と思えてきた。私と向かい側の部屋には誰もいなかった。壁に繋がれた足枷だけが、ただひっそりと在るだけだ。

 あちらの部屋から私の部屋を見れば、ここから見ているのと同じような映像ではないだろうか。ここは空っぽの部屋で、実は私は幽霊で……。そんな突拍子もない幻想を一瞬想像した。創造した。

 窓はあったが、壁からは少ししか離れることしか出来ないので、首をひねって空を見ることが出来るぐらいであった。今は夜だ。私が起きたときは、窓を眺める余裕などなかったが昼だったような気がする。

 この牢屋から出ることは、本当に出来るだろうか。ずっと私がここで寝食をしていたのなら、出ることは難しいだろう。しかし、死ぬことはないことになる。それはつまり、どこかで食事をする時間があったということ……誰かが食事を持ってくるということだ。

 それが誰なのかは分からないが、その誰かにすがるしかないだろう。

 私が誰であったのか。何をしていたのか。その来るかも分からない誰かに、どんなことを質問しようか思いを巡らせていた。

 しばらくすると、足音が聞こえてきた。規則正しいリズムで地面を擦る音がする。食事を持ってきてくれたのだろうか。例えそうでなくても、私は私以外の人がこの世界に存在することを知って安堵した。その足音は、私の牢屋の前で止まった。私は顔を上げた。鉄格子を透視するようにして、その人物を眺めた。

 端正な顔立ちの男。身なりの整った黒い制服。そして、手元には食事を載せたトレイがあった。トレイを鉄格子の下のわずかな隙間から差し入れると、何も言わずに去ろうとした。私はそれを必死に引き留める。

「ま、待ってください」

 男は驚いたように、歩みを止めると私の元へと戻ってきた。

「……目が覚めたのか?」

「私は誰なのですか。なぜ、こんなところにいるのですか。ああ、誰なのかと言ったのは、私は記憶がないのです。私は誰なのか、教えて頂きたいのです」

「…………」

 男は黙っている。私の言っていることが本当なのか、思案しているようだった。やがて男は口を開いた。

「それは本当か。嘘ではないか」

「ええ、本当です。しかし、信じなくてもよいのです。私はきっと罪人なのでしょう。前の私が何をしたにせよ。今の私が罪を受けることに間違いはないのだと思っています」

「……いいだろう。……お前は死刑囚だ。今は、お前一人だけだ。名前は――」

 そのあとに出身、経歴などを含めたことも聞いたが、どれも聞き覚えのない名詞だった。それでも、私に名前があったことを知ることが出来たのは大きな救いだった。しかし、死刑囚ということは生きることは叶わないだろう。私が生きがいを求めることは無意味な行為になり、死にがいを求めることが生きがいとなった。

 ……ショックではない、と言えば嘘になる。それでも、死んでいるように生きるよりはよかった。それを教えてくれたこの男の慈悲に感謝する。

「ありがとうございます。ありがとうございます。最後にこれだけ教えてください。……私は一体何をしたというのでしょう。死刑になるまでの重罪とは一体……」

「…………」

 沈黙。私は男に少しでも近づこうとする。私の足枷の鎖が音を奏でる。近づくことは出来るが、男に触れることは出来ないし、男から触れることも出来ない距離だった。

「……人を殺した。ただ一人」

 私はその事実を予測していたとはいえ、衝撃は大きなものだった。何と言うことだろう。私は殺人者だったのだ。……私は存在したときから咎を持っていたのだ。なんという不運。でも受け入れるしかない。思ったところで結果は変わらない。

「では……誰を、誰を殺したというのですか」

 無作為に人を殺した狂気の殺人鬼であって欲しくはなかった。

「……お前の夫だ」

 夫。私は婚約していたのか。しかし、なぜ婚約するまでに慕った相手を殺すようなことをしてしまったのだろう……。

「なぜ、なぜ私は殺してしまったのですか……」

 答えが返ってこないのが分かっていながら、男に問うてしまう。

「…………」

 やはり沈黙だった。私はもう聞くことはないという意志を表そうとした矢先、男が口を開いた。

「……真実を言えば、あれは事故だった。……私の弟が死んだのは事故だったのだ」

 ……事故? 弟?

 疑問点が二つも浮かび、まだ質問を終えることは出来ないと考え直す。

「あなたは、私の夫の兄だったのですか?」

「……ああ、そうだ。以前のお前のことはよく知っている」

 なんたる偶然か。それとも、必然か。どちらでもいい。私はこの因果に何かを感じずにはいられなかった。

「事故だったとは、どういうことなのでしょう……」

「あれは、殺人ではない。事故だった。お前は夫を毒殺したという罪になっている。しかし、本来は違う。お前の祖母が間違って料理に毒となるモノを混ぜてしまったのだ。それを殺人と、世間は捉えてしまった。そこで、お前に白羽の矢が立ったのだ」

 ……私は困惑した。確かに、私が殺人を犯していないという真実を聞けたのは良いが、世間では、ここでは、私が殺したというのが事実となってしまっているのだ。どうすれば、免罪を証明できるのだろうか。私が、その方法を考え試行錯誤していると、男は言葉を紡いだ。

「……しかし、お前の死刑を止める術はない。いや、なくなってしまった」

 それは、証明が不可能ということなのだろうか。

 死ぬのか、私は。免罪で。死。なんなのだろう。このどうしようもない憤りは。目が覚めた時のように、鼓動が激しくなる。その感情が顔に出ていたのか、男はまた声を発し続ける。

「……すまない。すまない。私があれさえ、止めていれば……」

「あれ、とはなんなのでしょう。私は何か他の大罪を犯してしまったのですか」

「罪ではないし、お前の意志ではなく、国の意志によって行われたものだ。しかし、取り返しはつかない」

 男……戸籍上では儀兄にあたるのだろう。男の言っていることがよく分からなかった。

「どういうことでしょうか」

「この国では、死刑囚は二人以下にしかならない。それは、世間が知ることではないが。私はこの国の内部に近い人間だ。だから知っていた。知っていたのに止めることが出来なかった私は恨んでくれても構わない。いや、いっそのこと恨んでくれたほうが私は救われる」

 二人以下にしかならないということは、向こう側の牢屋とこの牢屋しか使われないということだろう。それは三人目が出る前にどちらかを処刑するということか。今は私一人しかいないから、少しの猶予はあるということだろうか。

「あなたは恨むことなどありません。私が恨んでもあなたは救われない。それは、あなた自身気付いていることではありませんか。

 ありがとうございます。私のことは分かりました。それでは、この国のことについて教えていただきたいのですが……」

 男は、私が問うた時に口を動かそうとしたが、私がそれを止めた。そしてこの国のことについての疑問……疑念を晴らそうと質問をした。しかし男は手の動作で駄目だという意志表示をしたあと、言葉をそれに続けた。

「駄目だ。もう時間がない。分かってくれ。私は、ただでさせお前とは交友があった関係なのだ。これ以上ここにいては、私が肩入れしているのではないかと思われて捕まることになるだろう。そうならないためにも、この続きは明日だ。明日の夜。もう一度私はここに来るだろう。それまで、どうにか待ってくれ」

 男の時間のリミットが迫っているのだろう。長居することは疑惑を増加することに繋がる。まだ、この程度の時間ならば、言い訳も通じるということなのだろう。

「わかりました。また明日、私の刑が執行されることがないように祈って待っています」

 私の中で、生きがいが一つ形成された。この国の真髄を掴むこと。それができて心が落ち着いた。死刑囚が休まる監獄の中で、という絶望的な状況ではある。しかし私が誰だか分からずに、一人でどこかの街中で右往左往するよりは、囚われたこの中で自分という存在を認識出来ることのほうがまだよかった。

 きっと、それは記憶を無くさないと理解されないのであろう。記憶を無くせば、どんな人間だって認識を改めるはずだ。何故なら、記憶を失った私がそうなったのだから。私だけがこんな風な考えを持つわけがない。窮地に陥れば人が最終的に選択するものに大差はない。生への執着、絶望からの死。それは本能であって、不回避の代物。

 ……私は死ぬ。今日は死ぬことはきっとないだろうから、明日か。分かっていることはもうすでに死は近くにあるということだった。死期……を悟るとはまた別か。寿命によって死ぬわけじゃない。刑罰によって私は死ぬ。殺されるとも言える。

 そういえば、死刑とはどうやって行われるのか私はまだ知らなかった。

 今は、男が持ってきてくれたトレイの中の食事を頂こう。トレイの中には皿が三つ載っていた。一つはパンだ。四角形のパン。トーストではなく、ふわふわとしている。そのパンに隠れるようにして、チーズの切れ端が入っていた。他の皿には、それぞれスープ、サラダが入っている。スープは見る感じではコンソメのスープ。タマネギが浮かんでいる。サラダは緑色しかない雑なものだった。ドレッシングもかかっていない。刈り取って水で泥を落としただけのレタスとアスパラ。

 私は手錠の鎖を下の皿に当たらないように注意しながら、食事を取った。サラダを食べ、パンを食べ、スープを飲む。このサイクルを繰り返しているうちに皿は空になった。最後にコップに入っていた少量の水を口の中を洗うようにして飲み込んだ。

 けっして美味しいとは言えない食事だったが、文句を言う立場に私はいなかった。記憶はなくても知識はある中途半端な位置にいる私。十全な私はもういない。前の私の記憶を取り戻す……そんなことは、どちらでもいい。すでに私は私として形成されつつある。そこに元の記憶が加わって、元に戻ってもよかった。

 私が私であることに代わりはない。しかし、記憶がないと不便だ。ここがどこの国なのか分からない。制度も知らない。法律も。固有名詞は知識からも没落しているのだろうか。確かめる術はないため分からないが、とにかく明日が来るのを待つことにした。格子で出来た窓……というよりは孔から外を眺めても月は見えず、靄がかかっているようであった。夜空はまるで私の心のように暗闇色で、静かに止まっていた。

 

 朝、漆喰の感触が冷たく、寒さで目が覚めた。凍えるほどの寒さではないが、気に障る寒さだった。……服はボロきれのような布を纏っているだけだから、ほとんど直に空気を浴びている気分だ。横に寝ていた体を起こし、朦朧な視界を正す。窓から外を眺めると、曇り空が広がっていた。時刻は分からないが早朝ではないようだった。昨日の夜あったトレイがなくなっている。誰かが回収したのだろう。新しいトレイはなかった。それにしても、この部屋の中には何もない。ただ命を繋ぎ留めて置く場所にしか使われていない。

 気を紛らわすものがないというのは、それだけで人にとっては拷問なのではないか。私はこうやって物事を頭で時間をかけ、ゆっくりと過ごすことに亀裂が生じていないため今は問題ないが、普通の人ならば瞬く間に異常となってしまうだろう。

 しかし、私もあの男が来てくれるまでは、推論を常に考察するしかない。どうしようか。とにかく、夜までの間は時間を潰さないといけない。それに適した行動は……やはり睡眠だろう。起きていても労力を使うだけだし、睡眠をとり時間を潰すのが最も効率的だ。食事も取らなくてもいい。私は睡眠をとることにし、今度は体を倒さずに、壁を背にして眠りについた。

 眠りから覚めると、昼間を過ぎているようであった。新しいトレイがあった。想像通り昼飯が用意されていた。メニューが何か変わっていると思っていたのだが、何も変わらずにデジャヴを体験した。昨日の記憶と映像と目の前に繰り広がれる映像が重なって、現実の映像のみが最後に残る。変化したのは床の色だけ。夜よりも明るく、あの小さな窓からとはいえ、光が差し込んできているからだった。昨日のように、サイクルを作って食べる。食べ終わるとやはり、やることはなくなってしまう。

 この部屋を観察するのがいいだろう。人の腕の長さは大体七十センチだから、この部屋の広さを測定してみよう。簡単に腕を伸ばして計ってみた結果、大体の大きさは二メートルということが分かった。これは図っていないので分からないが、高さもきっと同じだと思う。奥行きと横の広さは多分等しいから、そのルールに従うならきっと高さも同じはずだ。

 それが終わると、壁の硬さを確かめた。手錠の部分で壁を殴れば痛くないだろうと思いやってみたが、直接は痛くなくても間接的に振動が伝わり、鬱血してしまった。手錠にも壁にも傷は一つもつかず、ここが強固なものであることは分かったのでよしとしよう。

 そして、昨日は気付かなかったのだが、奥の壁と床の重なる部分に穴が開いていた。近づいたらそれが何かは分かったので、上から眺めて自分が通ることなど出来ないのを確認して、観察を止めた。動くと、足枷と足首との間に少しばかりの空間が生じているので、動くたびに擦れて痛みが伴う。その痛みを味わうのは懲りたし、痛みを忘れるためにも思考の旅に出ることにした。

 私の元の家族。もう二度とあうことはないだろうが、名前だけしか分からない。顔も分からずに死んでいくのか。なんて悲しいことだろう、と言われるのだろうか。きっとそうだろう。しかし、私は悲しいと思うことすら出来ない。

 それは悲しむべきこと? 分からない。私という概念から外れた位置から私を見て、判断するならば、哀れかもしれない。それでも私自身が悲しいと思わないなら悲しくないのだ。自分で考えていても矛盾しているのは分かるが、自分の記憶に矛盾は生じてはならないが、自分の思考になら生じてもいいのだ。思考に論理は無関係なのだから。

 ああ、駄目だ。不意に足元に地獄が待っているかのような不安に駆られる。私の今居る牢屋が、地獄の穴から垂れている一本の蜘蛛の糸のような気がしてくるのだ。一時(いっとき)は地獄から離れられる。地獄から逃れられるのだから、その時間だけでもそこは極楽だろう。地獄極楽とはこのことか。ただ、所詮は蜘蛛の糸。永遠の契りを交わした赤い糸のように千切れないものではない。いずれは地獄に逆戻りだ。そればかりか、地獄の底に体中を打ちつけられることになる。地獄から離れているほど、強く鈍く。

「…………」

 声もなく自嘲をする。なんて卑屈なのだろう。

 ――無実を証明して普通の生活に戻ればいいじゃないか。

 いや、それは無理だ。あの男がもう出来ないと言っていた。それはどういうことなのだろう。そのことについて考えないようにしてきた。それも限界だろうか。自分がこのまま死んだらどうなるのか分からずに、この世界の中で溺死するような映像を想像してしまう。それは行き過ぎた妄想なのは分かっていても、振り払えない。懐疑をしてしまう。

 早く、早く私に真実を教えてくれないだろうか。男が来るのを待つしかない。一体どれぐらいかかるのだろう。昨日起きた時と窓から見える空の色で判断してみる。昨日よりはまだ明るい。

「早く、早く……まだですか……まだなのですか……」

 そんな言葉を呟いても男は来なかった。どのぐらいの時か分からないが、幾つかの時が流れ、私が疲れきっているところを見計らっているかのように、昨日と同じトレイを持って天使のように現れた。

「さあ、早く昨日の続きを教えてください……何があったというのですか」

「分かった。気持ちは察する」

 男はトレイを床に置いて私の牢屋のほうへと押し入れる。そうして昨日と同じように喋りだした。

「お前はこの国について何も知らない。その通りであるか」

「はい、その通りです。記憶を失った私は、無知そのものでありました」

「では、この国のことから教えよう。この国は、昔のある国の法典をもとに社会規約が作られた。それは、とても簡素な法典だった。詳細に表すことのほうがよほど難しい。だから、これを守らないことは、それ故に難しい。国民全員が熟知していることだからだ」

「そのルールとは一体なんなのですか……」

「『目には目を、歯には歯を』……やられたら、同じようにやり返しなさいという太古の教えだ」

「それが、絶対に守らなければいけないもの……?」

 私は不意の言葉に面を喰らってしまった。そんなものが、一番大事なのか?

「ああ、それがこの国のルールだ」

「それじゃ、牢屋などいらないではありませんか。そこでやられた人がやり返せば良いのでしょう?」

 そうだ。どんなに暴行を加えても、やり返すのだから牢屋などいらないはずだ。

「……牢屋はこの国に二つしかない。この牢屋と私の裏にあるあの牢屋だ」

「二つ……?」

 ……昨日聞いた情報を思い出す。

 ――この国では死刑囚は二人以下にしかならない。

 何か、とてつもなく嫌な予感がした。まだかろうじて靄を被ってくれているそれの正体を私は解き明かそうとしているのだ。聞かぬべきではないか。これまでとは全く違う見解が浮かぶ。いや、しかし……考えているうちに男は答えを明白にしていく。

「この国では、死刑囚が二人以下にしかならないといったのを覚えているか」

「はい、確かに昨日聞いたのを覚えています」

「それは何故か、気付かないか」

 そこまで来たのならば、そのまま答えを言って欲しかった。

 二人以下にしからならない。つまり、三人目が出来ない。一人目はこの世から去る。

 三人目が出来たときに、私は死刑になるということだ。

「三人目が出来たときに一人目である私が殺されるから……でしょう」

「…………」

 男は沈黙してしまった。それは肯定を意味する……。私は他に死刑になるような人が出ないことを祈るしかないのか。

「……違う」

 男は確かにそう言った。私は考えるのを止めて、男の言葉を待った。

「三人目は絶対生まれない。二人揃った時点で刑は執行される」

 そうすると、私の命はあと一人がここに来るまでということになる。

「二人揃った時点で、だ。『目には目を、歯には歯を』……死刑囚は死刑囚によって殺される……」

「は……?」

 死刑囚を死刑囚が殺す? そんなものは刑と呼べるのか?

「それがこの国のルールだ」

 男はそう言い切った。死刑囚が死刑囚を殺す。命には命を? 命を奪ってしまったら、それを取り返す命はもうそこにはいないから。殺されるべき人間が、殺されるべき人間を殺す。こうすることによって『目には目を、歯には歯を』が永遠と繰り返されるのを防いでいる。

「そうでしたか」

「……全て事実だ。お前が考えないようにしている可能性もすでに起こったこと。因果は成り立っている」

 考えないようにしていること? それは、私がすでに……紛れもない殺人者だということ。

「やめて、やめてください」

「いずれ分かることだ……ゆっくりと受け止めてくれ。……本当にすまなかった」

 男はそう言うと、立ち去っていった。トレイを残したまま。

 こんなもの、いらない。私が、私が殺した。人を。誤認ではなく、事実となってしまった。この国のルールによって。どうやって? どうやって殺したのか。記憶にない。当たり前だ。記憶喪失じゃないか。私は。そんなことさえ、どうでもよくなってくるような、なんなのだろうこの感情は。どこにぶつければ晴れるのか。

「ハア……ハア……」

 眠りから目覚めたときのように、あのときの私と今の私が混同する。こんなものを無くす方法など何処にもない。記憶から取り除きでもしない限り。私はこの前の私が何をしたか分かってしまった。やろうとしてやったのではないが、そうすることしかなかったのだ。これまで普通に生きてきた私。きっと殺すのも無理やり行われたのだろう。その光景を想像したら、たやすくイメージを浮かべることが出来た。

 首だけを台の上から出し、固定されている私と同じ服の人間。両手足が塞がれ、目と耳も塞がれている。私はなにかの儀式にでも使うような剣を持っている。それを振り上げた常態で私は黒い制服の人間から開放される。これを振り下ろして殺せということだ。床に剣を落とすことは出来ない。そんなことをしたら立場が逆転することを聞かされているからだ。腕も疲れてきて、考えるのにも嫌気が指してきたとき、私の腕はすんなりと首を通って落ちていった。呆気なく首を貫通し、ごとり、と人の首が床に落ちる。噴水のような飛沫を体に浴びて、それで終わり。

 鮮明にイメージすることが出来た。それは確かに私が見た映像だったからだ。なんとなくではあるが、私の元の記憶から断片を拾ってきた。そんな気がした。

「ハア……ハア……ハハハ。アハハ」

 ワラって誤魔化すことが出来るわけではない。それでも何故だか、どうにも犯しくて、おかしくて。私も前の私と同じように記憶を無くしたかった。どうにか無くせないものか悩んで、私は無理やり眠ることを選択した。床に容赦なく頭を打ちつけた。

 

 目が覚めたとき、首が痛かった。体のほかの部分はしっかりと支えがあるのに、首の部分だけないという異様さ。そういえば、昨日の夜は食事を取らずにいつの間にか気を失っていた。食事を取らなかったのは何故か覚えていない。視界を開いても、視界は瞼を閉じたときとほとんど変わらなかった。何事だろうと思い、体を動かそうとするが体は固定されているようであった。それでも、じたばたと抵抗していると、運よく視界が開けた。最初に見えたのは壁であり、漆喰で出来たものだった。下にある床も同じように漆喰。しかし、私はどこかの台に載っているようであった。そして、首を横に回して周りを確認すると、振りかざされた剣が目に入った。それを起因にして、頭に浮かぶ数々の記憶。写真が点滅するように脳内を駆け巡っていく。

 これが私の人生か。神の慈悲などなく、国のルールによって殺される。もう生きるのは諦めている。意思の力が弱かったのか。個人の意思は大衆の意思によって押しつぶされるのか。次に生まれるときは、ルールなどない大自然の中の動物にでも生まれ変わりたいと思った。弱肉強食の世界。そこに意思はない。しかし、理不尽の溢れる世界だ。

 それでも今の私には、この抗えない虚無感よりは遥かにマシに思えた。

 


 
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