No.265588

伯爵家の幽霊

コバルトの短編小説新人賞でもう一歩を貰えた作品です。キャラ設定とかが気に入っているので、リメイクして再投稿したいなーとか思っています。

2011-08-08 22:35:39 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:274   閲覧ユーザー数:272

 

 紫の双眸を動かせば、辺りは薄暗く誰もいない。誰か一人は必ず側にいるはずなのに。

『ねぇ、誰かいないの?』

 発した声は咳でかすれておらず、普段通りの高いものだ。それでも誰もイリアの元にはやって来ない。

 もう一度呼びかけたが無駄だった。

 人を呼ぶのは諦めて自分から行った方が早そうだ。そう思い、ベッドから起き上がった……のだが、布団がかけられていない。古びたソファの上にイリアは眠らされていた。驚いてもう一度よく辺りを見渡して愕然とする。

 所狭(ところせま)しと置かれた用済みとなった家具。ひび割れた骨董品。布に包まれた絵画。それらを軸に張り巡らされた蜘蛛(くも)の巣。床には(ほこり)がじゅうたんのように敷き詰められていた。

 この部屋にイリアは見覚えがあった。

 屋敷の物置だ。年の離れた弟と共に探索と(しょう)してよく出入りしていた。しかし、何故自分がここに連れてこられたか検討がつかない。

 ジャリ、と金属がぶつかる音がした。緋色の鎖が漆黒のドレスの(すそ)から覗いていた。布越しに左足首を触り、足かせの存在を確認する。

 一体、何でこんな物が自分の足に?

 一人頭を抱えているとドアが音を立て開いた。ひょっこりと顔を出したのは、イリアの弟だった。紫の眼が不安気に部屋を覗く。

『テオ!』

 弟の顔を見て、イリアは自然と笑顔を浮かべた。病で臥せって以来、合わせてもらえなかったのだ。

 肝心の弟は何故か全身を震わせ、何やら驚いている。イリアはそれを自分の声のせいだと思った。

 本来なら自室で寝込んでいるはずなのだ。まさか物置にイリアがいるとは誰も思わないであろう。

 もう一度弟の名を呼んだ。

『テオ、私はここだって』

 見えるように大きく手を振った。弟の顔色はみるみると青ざめていく。首がぎこちなくイリアの方に向かれた。

目が合った瞬間、弟は悲鳴を上げた。

『ちょ、ちょっとテオ。どうしたの?』

 訳が分からず困惑したイリアを残し、弟は泣きながら物置から飛び出て行った。開けっ放しのドアから遠ざかっていく弟の絶叫が聞こえた。

『待ちなさい、テオ!』

 ここまで露骨に怯えられると身内とはいえ、さすがに頭に来る。

 ソファから飛び降り、イリアも物置から出る。階段を駆け下りていく茶色の頭が見えた。

 廊下を突っ走り、ドレスを掴んで滑るように階段を駆け下りる。鎖がイリアの疾走を妨害したがそれでも、途中で呼吸が乱れた弟に追いつくことが出来た。

 弟の顔は赤紫に変わり、階段を踏みしめる足は傾いている。イリアは弟の目の前に立ち、指を突きつける。

『久々に会うのにその態度は無いでしょう』

「く、来るな! 化け物!」

 弟の発した言葉にイリアは目を丸くした。

 いつも自分にべったりだったあの弟が。

 凍りつくイリアを置いて、弟はさらに逃げようとして足を滑らした。

「う、うわっ」

『テオ!』

 転がり落ちていく弟をイリアは捕らえようと手を伸ばす。

 イリアの手は確かに弟の腕を掴んだ……はずだった。イリアの指は弟の腕をすり抜けて虚《こ》空《くう》を切った。

『ど、どうして?』

 もう一度手を伸ばすが、もう遅い。派手な音を立てて弟は下まで転がり落ちていった。

 その音に使用人達が飛び出してきた。倒れている弟の姿に彼らは血相を変えた。

「坊ちゃま! 大丈夫ですか」

 抱き起こす老執事に弟は掴みかかった。弟の目は血走り、口の端から泡が出ている。

「化け物が僕を追いかけて来るんだ!」

「はぁ?」

 眉をしかめる執事に弟は苛立ちを見せた。イリアの方を指差し、必死で訴える。

「ほら、あそこにいるじゃないか!」

 しかし、執事はおろかその場に居合わせた人間は首を傾げた。

「何もいませんよ」

「そんなことないっ。本当……本当なんだ」

 目に涙を溜めて弟は言うが、彼らは信じようとはしない。

「坊ちゃま。前々から申しておりますが、そのような戯言ばかりおっしゃるのはお止めください」

 逆に(さと)され、弟は執事から身を離した。立ち上がって困り顔の彼らを睨みつける。

「違う! 嘘なんかじゃないっ、本当にいるんだ!」

 下の騒動をイリアは黙って見つめていた。

 自分の姿が見えてないというのは本当のようだ。それは執事の困惑具合から分かる。

 そして、改めて使用人達の顔を見渡してイリアは気付いた。彼らはイリアが知るものより、老け込んでいた。見知らぬ顔ぶれも多々存在している。

 そして泣き叫ぶ弟。彼はこんなに短気な性格ではない。控えめで自己主張が乏しいと称されていた。

『どういうことなの』

 震えた声がイリアの口から漏れた。

 しかし呟きは彼らの耳まで届かない。階下の騒ぎは一向に収まる気配はない。

 一方的にまくしたてる弟を大人達は曖昧な笑みで(なだ)めるばかりだ。

 誰もが途方に暮れかけた、その時だった。

「何だ、この騒ぎは」

 まるで雷が落ちたように彼らの体が強張る。

 護衛の人間を三人引き連れて、細身の男が堂々と入場してきた。きっちりと固められた茶色の髪。鼻の下に(たくわ)えられた髭まで手入れが行き届いている。服にもシワ一つもなく、彼の性格を現していた。

 何より鋭いのはその眼光だ。真冬の湖畔を思わせる紫の瞳は凍てつくような視線を放つ。

 彼を見た瞬間、イリアの足かせが縮んだ。食いちぎろうとする勢いでイリアの足首を締め付ける。あまりの痛みにイリアは脂汗を浮かべる。

 大人達は一斉に男に向かい、頭を下げた。

「申し訳有りません、旦那様」

 執事が代表して謝罪した。しかし、男の口元は緩まず、ますます強く結ばれた。

 男は弟を見ていた。

「マティアス」

「……はい、父上」

 弟は蛇に睨まれたかのように硬直していた。その後ろ姿はわずかに震えている。

 痛みと戦いながら、イリアはここで少年が『弟』でないことに気付いた。

 男はイリアの父親では無い。イリアの父は体型が丸く背も小さい。顔立ちも柔らかなものだ。階下の男とは何もかも真逆だ。

 冷たい予感がイリアの背中を撫でた。

「また今日も下らない騒ぎを起こしたのか」

「違います」

 マティアスの言葉に、男の細い眉がピクリと動いた。遠目にいるイリアでさえ彼の機嫌が悪くなるのが分かった。

「何がだ?」

「幽霊を見たんです。僕と同じくらいの年の女の子でした。僕のことを『テオ』と呼んでいました」

 マティアスの言葉に周りの大人たちが反応した。皆、一様《いちよう》に信じられないことを聞いた顔つきだ。

 男がマティアスに近づいた。

「ち、父上」

 渇いた音が響いた。そのすぐ後にマティアスが倒れた。辺りにざわめきが起こる。

「愚か者め」

 吐き捨てるように男が言った。マティアスは頬を押さえて父親を見上げている。まばたきの拍子に彼の目じりから涙が落ちた。

「本当に救いようがない! 何が幽霊だ」

 再び手を上げようとした男の手を、執事達が止めた。

「お止めください、テーオバルト様!」

 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃がイリアを襲った。

 テーオバルト。弟の名前だ。

 だがその名を持つ男はあの大人しかった弟の面影は無い。髪と瞳の色が一致する程度だ。

 彼はまるで古の魔物そのものの形相で執事達を叱り付けている。

「お前たちもマティアスを甘やかしすぎだ。よりよって姉上の命日にこのような悪ふざけを……」

 イリアの周りが急激に色あせていく。

 自分を幽霊と呼ぶ少年。様変わりした使用人たち。弟の名で呼ばれる男。命日。

 嫌な予感が確信に変わっていく。

 ふと視線を自分の足元にずらし、イリアは息を飲んだ。

 うっすらと透けた漆黒のドレスのスカート。足は完全に見えなくなっていた。緋色の足かせが足の位置を示すように浮かんでいる。

『嘘……』

 知らずに全身が震え始める。

 己の装束も喪服だということに気付いてしまった。がくりと、イリアはその場に崩れ落ちた。そして悲鳴を上げる。自身を支える小さな手のひらも半透明だった。

 目を閉じ、叫ぶ。

 夢なら覚めろと。

 イリアの混乱もよそに、階下の人間たちは話を進めていた。

「いいか。今後このような悪ふざけを起こすというのならこちらにも考えがある。マティアス。お前をこの屋敷より追放する」

 テーオバルトの言葉に異議を唱えたのは執事だった。主人の足元にすがり、必死の形相で懇願する。

「どうかお許しを。坊ちゃまも悪気があったわけでは……」

 執事を振り払い、テーオバルトは我が子を一睨(ひとにら)みした。

「分かったな、マティアス!」

 それだけ言うと、彼は踵を返し去っていった。送れて護衛達が彼に続く。

 緊迫した雰囲気も彼らが連れ去り、残された者達は安堵の息を吐く。

 額に浮いた汗を拭き取り、執事が周りを見渡した。

「君達は持ち場に戻りなさい。坊ちゃま、お部屋に行きましょう。頬を冷やさくては」

 そう言うと彼はマティアスの手を引いた。

「……でも、本当にいるんだ」

 マティアスは呟き、うずくまるイリアを見上げた。

 

 行き交う人たちはイリアを気に止めない。階段の中央部を陣取っていても、誰も声をかけずに仕事に勤しむ。

 ぶつかっても衝撃は無い。イリアの体は空気と同じだ。彼らの進行を妨げず、すり抜け

させるだけだ。

 足首の痛みはいつの間にか消えていた。

 もうイリアは泣いていなかった。焦点の定まらない目で、生者達の動きを眺めていた。

 やがて窓から差し込む日の光は赤いものに変わり、屋敷内の照明が灯された。階段を使用する者達の数も徐々に減っていく。

 途方に暮れていると足音がイリアに近づく。

「おい、幽霊!」

 マティアスだ。悲しみに疲労していたので、イリアは彼を無視した。

 当然マティアスは怒り始めた。地団駄を踏む音がイリアの背後で響いた。

「黙ってないでこっちを向け! 知っているぞ、お前は悪霊だろう」

『誰が悪霊よ!』

 侮辱に怒りを覚え、振り向き怒鳴ろうとしたところで声を発せなくなった。

 マティアスの首元には大きな十字架が三個。左手には生のにんにく。右手には酒瓶。頭は何故か包帯を巻いて、その間に手鏡が挿されていた。

『何なの、その格好?』

 呆れた声が口から飛び出た。するとマティアスは腰に手を当てふんぞり返った。

「悪霊を払う道具だ。恐ろしくて動揺しているのだろう。さぁ、神の力にひれ伏せ」

 目を輝かせ、マティアスは酒瓶のコルクを外す。軽快な音を立ててコルクが外れ、強いアルコール臭が周りを漂う。

 続いて聖書の一説を唱えだす彼にイリアは手を振る。

『私は悪霊じゃないから、無駄だけど』

「黙れ、命乞いなんか……聞か、な……」

 口元を押さえ、マティアスはその場に座り込んだ。

『だ、大丈夫?』

 心配して駆け寄れば、マティアスの鼻や頬は赤く染まり、瞳も潤んでいた。

「お、おにょれ。このようにゃまじゅしゅをちゅかうとは」

 呂律(ろれつ)が回らない舌で責められて、イリアは深々とため息を吐いた。

『蓋を閉めて。酔っ払っただけでしょう』

「そ、そうなにょか?」

 のろのろとマティアスは言われた通りにコルクを閉めなおす。それでもまだアルコール臭は消えない。

 しゃがみこんだマティアスを介抱しようとイリアはそっと彼の背中に手を伸ばした。しかし、イリアの手はマティアスの背を通り抜けて彼の体を貫通した。

 死者であることを思い出して落ち込む。が、苦しげに唸るマティアスを見て、すぐに気を持ち直す。

『水を飲みに行こう。少しは楽になるわ』

 何とか立ち上がったマティアスを水飲み場まで誘導する。千鳥足の彼の手を牽きたかったが、今のイリアにはそれは出来ない。歯がゆい思いで廊下を進む。

 深夜になり、灯りも最小限まで抑えられている。しかし、イリアの目は昼間と同じように屋敷内を見渡せた。

 マティアスを休ませつつ、何とか水瓶のあるところまで到達した。酔いが覚めてきたのか、彼の足取りも確かなものになる。

 冷えた水を木製のコップに注いで、飲み干す彼を見守る。

「……お前、悪霊じゃないんだな」

 すっかり信用した眼差しで、マティアスはイリアを見た。そのあからさまな変わりように思わずイリアの口から笑みが零れ落ちた。

『そうよ。それと私の名前はイリア』

「伯母上と同じ名前だ」

 驚くマティアスにイリアはそれが自分だと名乗り上げた。

「でも、伯母上は亡くなったと……」

 悪いと思ったのか、マティアスは慌てて口を押さえた。イリアも自分の顔が強張っているのに気づいた。

「ごめん」

 謝るマティアスにイリアは首を振る。

『いいから、少しここで休んでから寝室に戻りなさい』

 マティアスは頷き、目を閉じた。静かに呼吸するその姿は在りし日の弟によく似ていた。

 イリアは彼の目元にかかった前髪を撫でる真似をする。透けた指が触れた時、マティアスの口から寝息が漏れた。

『風邪を引くわよ』

 小さな笑みを浮かべたその時、足かせが急にイリアの足を締め付けた。痛みを感じるのと同時に扉が乱暴に開かれる。

 驚き振り返ると、闇に照らされた人影が倒れるように部屋に飛び込んできた。

 刃物を押し当てられたかのように足首が痛む。声を押し殺して、イリアは息を潜めた。

 人影はイリア達に気付かず、ふらふらと酒樽に近寄った。蓋を乱暴に開け、袖口が濡れるのも構わずに持参したグラスの中に赤ワインを(そそ)ぐ。グラスから溢れるほどの酒を、彼は喉を鳴らして一気に飲み干した。

 口の端から漏れたワインを腕でぬぐい、再び彼はグラスに酒をなみなみと入れた。

 鼻頭は赤くなり、目から理性は完全に消失していた。その姿は昼間に見た厳格な当主の姿からかけ離れていた。

 身を縮め、イリアは弟を見つめる。無駄だと分かっているが、一応マティアスを背にして彼を隠す。姿が見えないと知っていても、背中から冷や汗が流れ落ちる。

 散々酒を(あお)り、テーオバルトは呟いた。

「姉上……!」

 震える手で注がれる酒は、口にわずかしか入らずに全て服の染みと化す。それでも彼は酒を飲むのを止めない。酒を注ぐ速度もどんどん早くなる。

「ごめんなさい、姉上」

 嗚咽(おえつ)(こぼ)し、彼は浴びるように酒を飲む。

 その哀れな姿にイリアは戸惑う。弟は繰り返し繰り返し、亡き姉に許しを求めている。

 やがてその繰り言も小さなものへと変化していく。荒かった呼吸も穏やかなものへと変わっていった。口髭を濡らす酒が頬を伝って床で水音を立てた。

 痛みに耐えながらゆっくりとイリアは彼に近寄った。老いた弟はシワまじりの(まぶた)を閉じ、深い眠りに落ちていた。乱れた栗色の髪はところどころに白いものが混じっている。

「本当だったんだ」

 愕然(がくぜん)とマティアスが呟いた。

『起きていたの?』

「少し、前から」

 立ち上がり、恐る恐るといった足取りで彼は父の元まで進んだ。酔いつぶれた父を、紫の瞳は困惑の色で見下ろしている。

「前に執事達が言っていた。父上が時々何かに取り付かれたように酒を飲むと」

 目の前で起きた出来事をまだ信じられないといった様子だ。

『どうしてこんなことに……』

「理由は聞いてない。伯母上は何か知らないのか?」

 尋ねられてもイリアには心当たりが無い。

『とりあえず、貴方はもう寝なさい。夜も遅いし』

「父上はどうする?」

 人を呼ぶにも遅すぎる時間帯だ。小間使いや部下達を呼んだとしても、何故マティアスがこの時間に起きているのかと咎められるだろう。

 ちらりと柱時計を見ると見回り当番が動く時間だ。よほど不真面目な者では無い限り当主を放っておくような真似はしないだろう。

 それよりもこんな場所に長い時間いたら、マティアスが風邪を引くかもしれない。

 そう思い、イリアはマティアスを寝室に案内させた。足かせは弟から離れると締め付けるのを止めた。まるで呪いの品だ。

 廊下を歩き、見回りに見つからぬよう階段を上がれば見慣れた扉があった。かつて弟が使っていた部屋だ。

 部屋に入ってベッドにマティアスを寝かせる。布団の上から弟にしたようにマティアスの胸を静かに叩いた。

「母上みたいだ」

 少し嬉しそうにマティアスは言った。母の居場所を聞いてみると今は別荘に居るという。

「先月妹が生まれて、それで父上が母上と妹を連れてったんだ」

『妹の名前は何ていうの?』

「知らない。会わせてくれないんだ、父上が。お前は妹を不幸にするって言うから」

 その言葉にイリアは手を止めてしまった。だが、元より振動は無いのでマティアスは気付いていない。もうほとんど開いていない目でイリアを見つめている。

「僕……妹に会いたいな。絵本を読んであげたり……一緒に宝物を見つけ、たり……」

 完全に眠ってしまったマティアスを起こさないよう、慎重にイリアはベッドから離れた。

 閉ざされた扉は何の障害もなくすり抜けられた。改めて自分が幽霊だと思い知らされる。

 来た道を引き返して弟の様子を(さぐ)る。黒ずくめの部下達が弟を介抱していた。

「旦那様、しっかりなさってください」

「嫌だ。私は、私は姉上に会うんだ」

 子供のように泣きじゃくる当主に部下達は困ったように顔を見合わせていた。

 弟の涙と共に足かせがイリアを傷つける。

 イリアはある決意をした。

 

「あったよ、伯母上」

 埃まみれの衣装棚の中から、マティアスは菫色のドレスを取り出した。イリアがよく来ていた物だ。幸いにも虫食いや色あせた様子は無いようだ。

 慎重に古びた家具を通り抜けて、マティアスはイリアの元まで戻ってくる。

『じゃあ、髪はこれで代用しましょう』

 茶色に染まったモップを指差すとマティアスは顔をしかめた。

「嫌だなぁ。それにすぐばれると思うけど」

『大丈夫。酔っているんだから、気付かないわよ』

 自信を持って答えてもマティアスの表情は冴えない。

『妹と母様に会いたいんでしょ?』

 その言葉で突付くとマティアスは口ごもって頷いた。

 こっそりと物置を出て、ドレスとモップをマティアスの部屋のベッドの下に隠した。決行の夜は六日後。テーオバルトが妻と娘に会いに行く日だ。

 

 そして決行の日、深夜。二人はこっそりと寝室を抜け出した。

「足元が寒い物なんだな」

 照れながら、マティアスは足元を眺めた。頬にかかるモップを耳の後ろに払う。

『似合っているわよ』

 イリアが褒めるとマティアスは怒ったように眉を吊り上げた。

 遠目から見れば、今のマティアスは生前のイリアそのものだ。ドレスは幼い体を包み、体の線を隠す。モップはよく櫛でといだおかげで柔らかな猫毛のように見える。

 慣れない服を着たおかげでマティアスの足取りは遅れたが、無事水飲み場まで到達した。イリアの足かせが締め付けを開始し始める。

 こっそりと部屋を覗けば、前と同じようにテーオバルトが酔いつぶれていた。

『始めましょう』

 イリアの合図でマティアスがテーオバルトに近寄った。

「……テオ、起きなさい。テオ」

 静かな呼びかけにテーオバルトは身じろぎをする。彼は瞼を擦り、マティアスを見て絶句した。

「あ、姉上……!」

 恐ろしいものを見たように、彼の目は限界まで見開かれた。間髪(かんぱつ)入れずに次の台詞をマティアスに喋らした。

「どうして、貴方が謝るの? 私は怒っていないわよ」

「う、嘘だ」

 うろたえた口ぶりで、テーオバルトは手で顔を覆った。

「だって、僕が姉上を殺したんだもの。僕があの時、川に靴を落とさなかったら、姉上は死ななかったんだ!」

 しゃっくりまじりに彼は告白した。そしてまた謝罪を繰り返す。

 イリアの脳裏に在りし日の記憶が弾けたように蘇った。

 寒い日だった。家族と川辺にピクニックに行き、イリアはそこで川に溺れた。弟の靴を拾うために。

 すぐにイリアは助け出されたが、風邪を引いてしまった。そして、治ることなく……。

「だから、僕と妹を引き離したの?」

 マティアスが自身の声で尋ねた。テーオバルトは涙を零しながら、何度も頷く。

「そうだよ! 僕に似ているから、きっと僕と同じことをしてしまうから」

 酒気帯びた息を吐き散らしながら、テーオバルトの懺悔は続く。祈るように手を組み、変装した我が子に頭を下げ続ける。

 戸惑ったようにマティアスがイリアの様子を伺ってきた。気遣うように小声で(ささや)く。

「伯母上は父が許せない?」

 イリアは首を振る。

『許すも何も、怒ってなんかいないわ。事故だったのだから』

 嘘偽りではなく、本心でイリアは答えた。弟を憎む気持ちは元より無い。それよりも今、目の前で嘆き悲しむ弟の姿を見るほうが心を痛めた。

『マティアスはテオを、父親を許せるの?』

 問うと、マティアスは視線を反らした。紫の目がわずかに濁った。

「少し許せそうにない。……でも、父上も可愛そうだ」

 哀れみの目で父親を見る。幼子が親にすがる様にテーオバルトは謝り続けていた。威厳に溢れていた顔も涙と鼻水でぐじゃぐじゃになっていた。

 マティアスは跪き、節ばった父の手を取る。

「もういいよ。怨んでなんかいないから」

「本当?」

 見上げるテーオバルトにマティアスは微笑みを向けた。

「だから、自分や周りを責めないで」

 その言葉を聞いて安心したようにテーオバルトは頷いた。そして、ゆっくりと瞼を閉じた。後は静かな寝息が彼の口からこぼれた。

 赤子のような寝顔だった。

 何かが砕ける音がした。それは、イリアを咎めるように痛めつけていた足かせが粉々になった音だった。

 

 夜が明け、イリアはマティアスにある場所を案内させた。

 屋敷の裏に並ぶ、先人達の墓標。その中で比較的新しい墓石があった。

 イリア・ヴァンデミル。十五歳。

 そう刻まれていた。名前の下には没年が彫られている。

 この下にイリアの体が眠っているのだ。

「父上が置いたのかな」

 小鳥を(かたど)ったガラス細工の小物を見て、マティアスが呟いた。彼も手にしていた緋色の花束を添えた。イリアが好きだった花だ。冬に一日だけ咲く儚い花。

 イリアは墓石に触れる。無機物からじんわりとした心地よさが、懐かしさが伝わる。

 隣に立つマティアスは黙ってその様子を見ていた。

 会話は無く、雪を乗せた北風が二人の間を通り過ぎた。

 足音が聞こえた。小走りに二人の下へと辿り着いた老執事は、汗の浮いた額も拭かずに喋りだす。息切れしつつも彼の表情は歓喜の色に包まれていた。

「坊ちゃま、旦那様がお呼びです」

「父上が? 何で」

「奥様とお嬢様にお会いに行かれるそうです。坊ちゃまもご一緒にと」

 マティアスは一瞬驚いたが、みるみる内に頬を薔薇色に染めた。瞳は真夏の湖畔のようにきらめく。

 その様子を見て、イリアは祝福した。

『良かったわね』

「ありがとう!」

 あらぬ方向に礼を言うマティアスを執事は不思議そうに見ていた。が、何かを察知したのか屋敷でお待ちしていますと告げて去っていった。

 再び二人きりになると、マティアスは遠慮なくイリアに話しかける。

「伯母上も一緒に行こう!」

 しかしイリアは首を振る。

『私はここにいるわ』

 不服そうに口を尖らせるマティアスはあれやこれやと理由を付けてイリアを誘う。イリアはそれらを全て断った。

 イリアの意思が固いと知り、マティアスは諦めた。

「じゃあ伯母上、僕行ってくるから」

『ええ、帰ってきたら妹のお話聞かせてね』

 はにかみながらマティアスは頷き、駆け出していった。その後ろ姿が完全に消えるまで、イリアは手を振った。

 目を閉じ、空気を吸う。冷たさの中に、春の香りを感じる。

 全てが終わったのだと、誇らしい気持ちで目を開く。細い木々に雪がまるで新緑のように積もっていた。

 太陽の光を浴び、イリアは両手を広げる。

 彼女を縛る思いはもう何も無い。

『ここに、いるから』

 イリアの声だけが広い墓地に響いた。

 

 季節は巡り、再び冬になる。

 イリアの墓前には緋色の花が咲き誇っていた。

               〈了〉

 

 

 
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