望むように愛し
良いように忘れ
飽きたので眠った
その間に季節はルビーの球のように転がり、眼を開いたときには何度目かの蝉が鳴いていた。
私はそれに感動しなかったが、私が感動したことに感動した者もいたようだ。
山あいに広がる水田をひと組みのレールが横切っている。雑草に持ち上げられそうな枕木と、頭だけは銀色の軌条。そのバランスは、のろのろと寂れているこの村によく似ている。
レールのそばには、錆びた客車が頓挫している。路線で使われなくなった車両の下回りを取り去り、ブロックをかませて地面に置いた無人駅だ。そこでは三人の少年少女が、駅前でジュースなどを飲みながら涼んでいた。こんな鉄道網の最果てのような地でも、コカコーラ・ボトラーズの赤い自販機は営業しているのだ。
空が酔いそうなほどに青い。蝉の声が反響し、染みとおり、彼らと無人駅を包み込んでいる。田と山々は目が眩むほどつややかだ。一度だけため息のような風が吹いたが、あとは猫じゃらしもそよがない。八月三一日の、穏やかで暑い昼下がりだった。
「明日から学校かぁ」
階段代わりのコンクリブロックに座った少年が、ふやけたそうめんみたいな声を出した。男らしく石鹸で洗ったスポーツ刈りの頭、グレーのドライシャツ、黄緑のラインが入ったジャージ、靴は黒地白ストライプに金ロゴのキャンパスⅡ。名前はリットー。リットーは大きく伸びをすると、パタンと仰向けに寝転んだ。
「遅刻するんじゃないわよ」
その左側に座った少女が慣れた口調で釘を刺した。彼女はコクウ。去年から伸ばしている長い黒髪、黒のタンクトップにエスニック柄の長いスカート。ハイカットの黒いオールスターを履いている。
「なあトウジ、宿題おわった?」
「十日前くらいに終わった」
リットーに応えたのは彼の右隣に座る少年。トウジは焦茶に近い髪をボブカットにし、白いシャツとベルトで留めたカーキのカーゴパンツに、モンベルのグリップオンサンダル。
「じゃあ」
「ダメよ」
リットーを遮ってコクウが声を上げた。
「何だよ」
「あんたどうせまたトウジに宿題見せてもらう気でしょ」
リットーはひょいと飛び起きた。彼がちょっと茶目っ気を出すと、コクウはすぐ突っかかってくるのだ。二人は真正面からにらみ合った。
「まだ何もいってないじゃねぇか」
「これから言おうとしてたじゃないの」
「へぇ、コクウは俺の考えてることが分かるのか。じゃあ俺が今何考えてるか当ててみろよ」
「いいわよ、的中させてやるわ」
コクウはぐっと力を込めて、リットーの頭を見つめはじめた。これで考えが分かったら凄いがそんなことはありえない。やがてコクウは、首振りの壊れた扇風機のような声で唸りはじめた。
その声に重なって、線路の鳴る音が聞こえてきた。一日に十六本しか通らない電車がやってきたのだ。
ぶるぶるとディーゼルエンジンを暖機させながら、電車、正確には気動車がガラクタ駅舎の向こうに停まった。ワンマンと偉そうに書かれたドアが開く。たまにでかいカメラをさげたバックパッカーが写真を撮りにくるときもあるが、村の人間以外がこの駅を使うことはまずない。
意識を元に戻すと、コクウはまだ考えていた。しかめっ面が進化しすぎてタラバガニのようになっている。リットーは思わず吹き出した。
途端、コクウが怒り出した。腕を弾くように伸ばし、リットーの首をガッシと掴む。
「が、何だ?!」
「唾飛んだ!」
「そんなことかよ!」
「謝れ!」
締めつけるな!
「ゴメン、ゴメン!」
「謝っても許さない!」
「理不尽な!」
「ジュースこぼすよ」
助けもしないでトウジが口を挟んだとき、三人の上に影が差した。
トウジがさっと立ち上がった。コクウも慌ててリットーから飛び降りて、二人揃って端によけた。どこから現れた誰なのか知らないが、とにかく助かった。感謝をしながら起き上がると、レンズの細いサングラスが見下ろしていた。
大人の女だった。達筆な草書のはらいに似た頬、才走った微妙な曲線を描く唇。そのベージュピンクとコーラルが、濡れたような黒のワンピースと鮮やかに対比している。ソリッドかつシャープで、触れれば手を切りそうな恐ろしさがある。見たことのない美しさに、リットーはどぎまぎした。
「良いわね、楽しそうで」
その印象そのままの声で、リットーは女性に話しかけられた。文字通りの意味とも皮肉とも取れて、サングラスの向こうの表情が想像できない。
リットーは飛び跳ねるように避けて、コクウとトウジに激突した。が、そんな事今はどうでもいい。
「あの!」
引っ込みそうな声をリットーは無理やり吐き出した。女性が振り向く。
「なに?」
「俺、リットーっていいます! この村の小六です! あの、あなたは!」
「アヅサよ。また会ったら、そのときはよろしくね」
アヅサは口元に微笑みをひらめかせると、ハイヒールの音を残してリットーの前を通り過ぎていった。
「すごい美人」
「あれ、三◯は越えてたよね」
トウジとコクウが何か言ったが、耳の穴をすり抜けていくだけだった。
見る間に稲のエメラルドグリーンに溶け込んでいくアヅサの姿を、リットーはひたすら見つめていた。生まれたころには見飽きていた田舎の景色が、アヅサという女性一人のために、まるで東京で観る田舎映画のワンカットのように輝いて見えた。水田をきらめくさざ波が駆け抜け、ワンピースをたなびかせた。
「リットーくん?」
「おーい、聞こえてるー?」
目の前でぱたぱた振られたコクウの指を追い払う。
「リットー?」
指の次はコクウの顔がぬっと出てきた。リットーが邪魔っ気なその顔をどけようとすると、心配げだったその表情がみるみる怒りに変形した。
「リットー!」
「うるさいな」
「うがー! 勝手にしろ!」
コクウは怪獣のような声を上げると、手近にあったトウジを鷲掴みにした。
「痛い! 痛い!」
「行くわよ!」
「リットーくん置いてって大丈夫なの?!」
「死にやしないわ!」
「分かったから離して! もげる!」
二人が去っていく。ようやく静かになったと、リットーはほっとしてあご肘をついた。
翌日、始業式の日。リットーは朝からずっと、少なくともコクウが見ていた範囲では、一貫して薄らボケっとして過ごしていた。今は放課後。リットーはほとんど白紙の宿題を提出して、先生に叱られにいっている。いつものパターンだと突貫工事で終わらせた宿題にやり直しを食らうので、今までなかった展開だ。それにトウジも、昨晩リットーに泣きつかれなかったことを不思議がっていた。
リットーのやつ、昨日会ったアヅサさんとかいう人のことを考えて、宿題など見向きもせずにうつつを抜かしていたに違いない。
間抜け面をぶら下げて先生に怒られるリットーを思い浮かべて、コクウは無性に腹が立った。
「なあ」
だから、強面の友達、タイショに話しかけられても丁寧に対応する気にはならなかった。
「知らない」
「昨日リットーのやつに何かあったのか? ボールぶつけても反応しねぇんだよ」
「女じゃないの?」
強面のタイショが目を輝かせた。
「マジで?! いやあ、あいつもついに目覚めたかぁ、良かった良かった!」
「あんたはからかうネタが欲しいだけでしょ」
「どうしたんだよ! 相手は? どこまで行った?」
強面のタイショの声はでかい。コクウはクラスじゅうの聞き耳がこちらを向いていることに気付いた。
「みなさん早く帰ってください! 人に隠れて噂話なんて陰険です!」
副委員長のソウコウが教壇に上がった。が、それがかえってみんなの野次馬心をかき立てたようだった。
コクウはあっという間に七人の友達に取り囲まれた。リットーと怒鳴っている副委員長のソウコウを抜かすと、これが村立秋津小学校の全生徒だ。六年生四人、五年生が二人、四年生と三年生が一人ずつ、二年生が二人で計十人。教室は三つに分かれているが、放課後は全員が、大抵高学年の組に集まっているのだ。
「手短にしなさいよ」
副委員長のソウコウも、好奇心には勝てなかったのかやってきた。
「噂話嫌いだったんじゃ」
委員長のシュンブンが指摘しようとして、慌てて取りやめた。副委員長のソウコウに睨まれたのだ。
「良くないよ、そういうのは」
トウジがコクウに耳打ちしてきた。
「大丈夫よ、みんなには口止めしとくから」
しかしコクウは耳を貸さず、昨日リットーの身に起こった出来事を、目一杯おもしろおかしく話してみせた。
すると、あっという間に終わってしまった。
「それで?」
物知りのカンロに先を促されて、コクウははっとした。考えてみれば昨日リットーがしたことは、年上の女性に見惚れたという、言葉にすればただそれだけのことなのだ。その当時のリットーを見せればその見惚れっぷりに笑ってもらえるかもしれないが、そんなことできるわけがない。
まだ起承転結の起しか聞いていないという視線に、コクウは縛りつけられた。
ええい、もうこうなったら、デタラメでも面白い話にしてやる。これはリットーへの、子供のくせして大人なんかを好きになったことの天罰だ。あいつも小学生なら小学生らしく、クラスの女子でも好きになっていれば良かったのだ。
「そんでリットーのやつ何したと思う?!」
コクウは腹をくくった。
「おっぱい揉んだ!」
わがままのゲシが食いついた。
「スニーキングよスニーキング。アヅサさんの後を尾けていったの! 私たちもつき合わされて!」
「なんかしたの?」
副委員長のソウコウがずいっと出てきた。
「してたら警察に突き出してたわよ」
「妙ですね、リットーさんがストーキングなどをするような真性の変態だった場合、被害者にまつわる何らかの物品を手に入れようとするはず」
物知りのカンロがぶつぶつと呟く。
「住所よ。住所をメモしたの! それで真顔でさ、『ラブレターの書き出しってやっぱり拝啓かなぁ』とか言い出すんだよ!」
そこでふっと声を出したのは眼鏡のウスイだった。
「あ、でもそれちょっとロマンチックかも」
「あの顔でかよ?」
強面のタイショに言われて眼鏡のウスイは想像し、小さく吹き出した。
これくらいが潮時だ。これ以上粘ったところで、感づかれる危険性が増すだけだ。コクウは手短にさよならを言い、この場から逃げ出そうと教室の戸を開けた。
しかしそう旨くいく話ではなかった。ぺらぺらの扉一枚を隔てたところに、あろうことかリットーが、青白い顔で立ち尽くしていたのだ。
「あー、どこから聞いてた?」
コクウは暑くもないのに、たらたらと流れる汗を感じた。
「全部」
「あっははは、怒ってる?」
茶目っ気を出してみたが何の意味もなかった。天井に届くほどもある宿題の束をリットーに投げつけられ、コクウはその下に生き埋めになった。
窒息しそうになりながらもコクウはもがき、やっとの思いで紙束の表面に這い出る。
「リットーは?!」
見回したが遅すぎた。リットーの姿はもはや無く、彼は走り去った後だった。
リットーは走り、人に出くわすと弾かれるように向きを変えた。この顔だけは絶対に誰にも見られたくなかった。
次第に彼は人のいない方へ、人に会わずに済む方へと転げ落ちていき、気がつくと森の獣道が消えるところで立ち往生していた。よく山で遊ぶリットーだが、ここがどこだかちっとも分からない。行き当たるまでの景色をまるで見ていなかったからだ。
村の周りでは林業をやっていたじいさんたちが仕事を辞め、立ち入れない山が増えていた。自分はその狭間に迷い込んだのだなとリットーは思った。帰らなければと後ろを振り向いたが、往路通ったはずの獣道が、今はどの向きに伸びているのかすら分からなかった。
リットーはドラマの主人公から現実の自分へ、意識が軟着陸する感覚を覚えた。確かに自分は一目惚れをバラされた。からかわれた。そのため夢中で逃げてきたわけだが、それがこれほどまでして表現すべき悲しみだったのか。どうして悲しんだのか。冷静になってしまった今では分からないし、考えている場合でもなかった。のたれ死にの危険がある。
リットーはまず、上り坂の方向を見極めた。山で迷ったときは無闇に降りようとするより、稜線に出て周囲の状況を確認したほうが安全だからだ。
そしてそのとき、リットーは木々の枝と藪の隙間に人工物を見かけた。何歩か進み、目を凝らしてみる。
「家、なのか?」
彼が立っていたのは、腐りきった廃屋の正面だった。木造二階建ての瓦屋根。すっかりやわらかくなった壁には湿っぽい草が茂り、二階の屋根は一部を除いて崩れ落ちている。建物の一角を倒木が一本、バキバキに押し潰していた。
リットーは人知れず身震いした。幽霊か、あるいはもっと直接的にやばいものの気配を感じたからだ。だが、この機を逃したらいつ周囲を見晴らせる場所に出られるか分からない。それに日は意外なほど低くなっていた。選択の余地はない。
リットーは足を忍ばせて建物に侵入した。
中にあったものは、破れた壁紙、倒れた柱、踏むとぐんにゃりとへこむ床、臭くもなくなった便所。幽霊や殺人鬼には今のところ出くわしていないが、それも時間の問題だと感じられる。つるっぱげの女の人が描かれた洋画のポスターを見たときなど、心臓が止るかと思った。
肝心の上への階段も、踏み板が抜けて使い物にならず、屋根のない二階から陽がさしているだけだった。
リットーはがっかりして、さっさと出ようと踵を返した。そうして少し乱暴に足を置いた瞬間、床を踏み抜いた。
リットーは恐怖した。ゴキブリ、ヤスデ、カマドウマ、無数のそういったものが自分を穴の中に引きずりこむ、そんな感覚に悲鳴を上げた。リットーは転落し、何かに一度ぶつかってから穴の底に突っ込んだ。
意識が途絶える。
そのころ秋津小では、生徒全員、いまだに待ちぼうけをくらっていた。言うまでもなく、リットーが帰ってこないせいだった。
「遅いね、リットーくん」
トウジがほとんど溜息でできた声で呟いた。机に腰かけたまま動かず、彼は待ち続けていた。
「あいつのことでしょ、どうせ明日になったら、全部忘れてただのバカに逆戻りしてるわよ」
コクウは苛立っていた。待たされることだけが理由ではない。リットーが一丁前に傷ついていること、みんな揃ってリットーの奴を心配している今の状況が、何となく、しかし極めて気に入らなかったからだ。
「でもよぉコクウ、なんであんなに尾鰭つけたんだよ」
強面のタイショが耳に小指を突っ込みながら聞いてきた。
「じゃあ『素』の話聞いたところで、タイショ食いついた?」
「全然」
「でしょ?」
「あのぉ、やっぱり大人に知らせた方が」
「あなたは口を挟まないで」
委員長のシュンブンが口を開きかけて、副委員長のソウコウが阻止した。シュンブンの役割は毎回こんなもんだ。
「でももう三時間だよ。いくらなんでも長すぎるよ」
眼鏡のウスイが、いつもよりもっと小さな声で呟いた。
「ああ! もう!」
コクウは机をバンと叩いて立ち上がった。こんな悪い空気をずっと吸っていたら酸素欠乏症になってしまう。自分が悪かったと認めるのは癪だが、背に腹は代えられない。
「知らせたきゃ勝手に知らせなさいよ! どうせあたしが悪かったわよ!」
そのとき、わがままのゲシが慰めるように肩を叩いた。
「これを機に反省するんだな」
殴りたくなったが、ゲシに泣かれると話がややこしくなるだけなのでコクウは破壊衝動を引っ込めた。この分はリットーを見つけたとき、奴にお見舞いしてやろう。
リットーは目を覚ました。ものすごくよく寝た朝のような感じで、自分が今まで気を失っていたということにしばらく気付かなかった。
彼の身体は腰ほどの深さまで堆積した猛烈に埃っぽいものの上に、斜めに突き刺さっていた。引き抜こうと両腕を動かすと、それが何か柔らかいもので出来ていることに気付いた。右手を突いているものは肉の棒の一端からもう少し細い棒がたくさん伸びている形、左手を突いているものは硬い球の表面に薄い肉の膜を貼り付けたような感触。リットーにはそこから連想するものがあった。
「うぐわぁあ!」
リットーは掴んでしまったそれらを放り投げ、のたうちまわって這い出した。
これは、人間の腕と生首じゃないか。リットーはバラバラ死体の山の中にいたのだ。
リットーは積み上がった肉塊の上を駆けずり回った。こんなものの上にいたら、一分と保たずに正気を削り取られてしまう。しかし逃げても逃げても死体の感触からは逃れられなかった。死体の床は地下室の床を覆い尽くし、もはや床そのものになっていたからだ。
リットーは不定形の悲鳴を上げた。
その時。彼は後頭部に硬いものの衝撃を受け、肉の床に突っ込んだ。
「うるせぇんだよ大馬鹿野郎!」
「ま、ま、ま」
だって、バラバラの死体だぞ。怒鳴り返したいが上手く言えない。
「その口にくわえてるもの、よく見てみろ!」
言われて気付いた。ダイブのときから、どうも口に何かが詰まっているような気がしていたのだ。引き抜いて目の前にぶら下げると、それは一本の脚だった。創面からワイヤーが垂れ、そこにミゾの掘られた球がぶら下がっている脛から下が一式。人間のものではなく、明らかにロボットの部品だった。ここに何メートルか堆積しているものも、全てそう。ここはロボットのゴミ捨て場だ。
ここでリットーは、はじめて何度か自分を怒鳴りつけた声に疑問を抱いた。振り向くと膝から上もちゃんと続いた脚が二本立っている。見上げていくと、それは天然パーマがボサボサの、埃まみれの少年になった。歳は見た目リットーと同じくらい。風化しかけたでかいTシャツを一枚着ているだけで、それ以外ズボンも履いていなかった。人間のようだが、肘や膝、手首などには継ぎ目があって、間にやはりミゾつきの球が噛んでいる。顔つきも何となく、人間とは違うように感じられた。
「あれ、ロボット?」
「犬にでも見えるってか。てめー目腐ってんのか?」
彼は自分の目玉の埃を拭きながら言った。ロボットのようだ。
そういえば微かな記憶を手繰り寄せると、ここに転落するときに何かちゃんとした人のようなものにぶつかっていたような気がする。その衝撃で、たまたま解体を免れたロボットにスイッチが入ったのだろう。
「ホラ、ボサっとしてねーで手貸せ」
「手?」
「ばーか、お前あそこに手ぇ届くのか?そこらへんのゴミ積んで、足場にすんだよ」
ロボットは天井の、ベキベキにあいた明るい穴を指差した。
二人は協力して、穴から地上へと這い上がった。抜けた屋根からこぼれる西日を浴びたとき、リットーはこのロボットがとてもムカつくことに気付いた。
今、ロボットはさほど珍しくない機械として携帯電話、とまではいかないもののトラクターかパワーショベルくらいには普及していた。社会に出回り始めたのは十年ほど前で、リットーも幼児期の記憶として、ロボット導入のニュースを微かに覚えている。
村でも、何人かのロボットがジジババの世話や家事手伝いとして働いていた。しかしそれらの皮はどれもパッと見で分かるほど人形然としていて、人間に見間違えるほど精巧なロボットを見たのは初めてだった。
もちろん人間をムカつかせるロボットと話すのも。
ロボットについて、リットーは消えかかった獣道をずんずん進んでいた。途中何度も分かれ道のように見える場所に出くわしたが、ロボットはその度に迷わず進む方向を決めた。
「そういやさ」
切り出したのはロボットの方だった。
「お前どうしてあんなところに居たんだ?」
脳裏に今日の出来事が駆け巡ったが、死んでも話さないぞとリットーは思った。このロボットなら絶対からかいにくるだろうし、ロボットは一度記憶したことを絶対に忘れないからだ。リットーはポケットの中のあて先のないラブレターを握り締める。コクウはたくさんの出任せの一つとしてラブレターのことを話していたが、これだけは事実にまぐれ当たりを起こしていたのだ。
リットーは迷わず話題を逸らしにかかった。
「ならお前は、お前、じゃ味気ないな。俺リットー。お前の名前は?」
「俺様は」
成功したかと期待したところで、ロボットは黙った。立ち止まり、振り返る。そしてリットーをじっと睨みつけた。
「なんだよ」
「貴様に名乗る名前は無い!」
リットーがあっけにとられている間に、ロボットは食らいつくような剣幕で繰り返した。
「名乗る名前は無いと言っているんだ!」
「どうしたんだよ、いきなり。故障か?」
「俺様が不良品だってのか?!」
「そうは言ってないけど」
リットーが引き下がると、ロボットも途端に怒気を引っ込めた。
「どうでも良いんだよそんなこと。ほら、先に進めよ。日が暮れちまうぜ」
「先にって、俺はお前についてきたんだけど」
ロボットはキツネに化かされたような顔をした。
「なに? 奇遇だな、俺様もリットーの前を歩いてきたんだ」
二人は見つめ合って動きを止めた。リットーは思考のためにいくらか沈黙し、ロボットもカリカリと音を立てて思考した。
「うそぉ?!」
「マジで?!」
二人で悲鳴を重ねた後、リットーは全力でロボットをぶん殴った。
「うお痛え!」
殴って何故いけない。日は向かいの山に遮られ、盆地はもうすぐ夕闇に沈むことになる。そうなればもう行動不能。身体一つで山の夜を越さなければならなくなる。最悪の事態を紙一重でかわせるという希望を、リットーはこんな一発ギャグでぶちこわされたのだ。しかもこのロボットのデタラメな案内のせいで、山のもっと奥まで迷い込んでいる可能性だってあるのだ。
「故障してる! お前絶対故障してる! なんで自分の家から村までの道すら分かんないんだよ!」
ロボットはいきり立った。
「だからっていきなり殴るこたぁねえだろ! こちとら精密機械だぞ!」
だがリットーも頭にきていた。
「どうしてくれるんだよ! 俺達完ッ全に迷子になっちゃったんだぞ!」
「なんで俺様が悪いことになってんだよ!」
「道案内はお前だろ?!」
「いつ誰が案内するなんて言った!」
「普通前歩くのは道が分かる奴だ!」
「は! お前は世界の普通なワケか! アメリカ大統領もバチカン司教もお前の普通で動いてるんだな!」
「お前の主人はこの俺だぞ! ロボットはロボットらしく主人に従ってろ!」
「いつお前が俺様の主人になった!」
「起こしてやった恩を忘れたのか!」
「スイッチ入れただけだろうが!」
「俺が見つけてやんなかったら、お前も他のロボットみたいに死んじゃってたんだぞ!」
「てめぇみたいに自分勝手な奴が主人になるくらいならハードディスクに穴空けた方がマシだ!」
「こっちだって! お前みたいな生意気ロボット、払い下げだ!」
「言いやがったな生ゴミ野郎!」
「言うか粗大ゴミ野郎!」
「てめぇなんか、野垂れ死んで熊の餌にでもなっちまえ!」
「お前こそ、電池切れで止まっても助けてやらないからな!」
都合のいいことに、すぐそこで獣道が二股に別れていた。二人はそれぞれに道を選び、歩き出す。同じ方向を選んでしまうという間抜けを犯すことはなかった。
が、その三歩目で、リットーは何か重いものが倒れる音を聞いた。ロボットが向かった方向からだ。二度と顔を合わせまいという決意をいきなり曲げるようで嫌になったが、リットーは物凄くむかついた顔を作って音の方を見た。悪い予感は的中した。さっきリットーの言ったとおり、ロボットは電池切れで倒れていたのだ。
リットーは迷った。あっちで電池を切らしているロボットはついさっきケンカした相手だ。自業自得のいい気味、見捨てられても文句を言われるスジは無いし、助けを期待するよりもまず謝ることを考えるべきだ。と考えるのが筋だ。リットーにとっての。だが彼の脚はロボットの元へ駆け寄ろうと凄い力で抵抗していた。情けない。脚が動くことはあのロボットを心の底から嫌いになったわけでないことの動かぬ証拠だからだ。
「おい、粗大ゴミ、ポンコツロボット!」
聞こえているわけもないのに悪口を言いながら、リットーはロボットの傍にしゃがみ込んだ。うつ伏せに倒れた身体をゆすると、ひっくり返って顔が見えるようになった。
リットーは初めて、ロボットの顔をじっくりと見ることができた。
なんだか見惚れてしまいそうになり、妙な考えを慌てて頭から吹き飛ばした。違う、それには理由があるんだ。リットーは自分自身に証明するため、不気味に眼を見開いたまま止まっているロボットの顔をいじくり回し、表情を変えていく。
やはり。浮かんできたのはアヅサさん、黒いワンピースのあの女性をそのまま幼くした顔だった。
「ラッキーだったな」
リットーは憧れの人と同じ顔になったロボットに語りかけた。照れるなと自分自身に言われた気がしたが無視をする。
「お前があの人と違う顔になってたら、俺はお前を迷わず放置したんだからな」
リットーはロボットの腕を肩に回し、担ぎ上げた。そう感じた瞬間、逆に引っ張られて尻餅をついた。重い。持ち上げる方法が分からないほどに重い。
そりゃあそうだ。相手はシリコンに覆われた鉄の塊なのだ。
だが、一度は決めたことだ。一旦帰ってから大人に運び出してもらうという手も考えられたが、絶対にやるもんかと否定した。こいつとの出会いを俺とこいつだけのものでなくすことは、何かとてつもなく大きな、一生かかっても後悔しきれないほどの間違いじゃないのか。そんな気がしたからだ。
リットーはロボットの下に身体をねじ込み、そこからしゃがみ、腰で重量を支えながら脚を伸ばすという手順を踏んでその鉄塊を持ち上げた。
「脚を伸ばせば、案外重くないな」
言ってみたが、それが空元気であることは考えるまでもなく分かった。このまま山をさまようなど、正気じゃできない。
「心中だな、こりゃ」
リットーは地面に足がめりこむほどの、重い一歩を踏み出した。
しかし着地の瞬間、リットーの視界はヒザカックンを食らったように沈み込んだ。ほんの僅かだけ曲がっていた膝が、重みに耐えきれず崩れ落ちたのだ。リットーは為す術無く山の斜面に放り出された。
二人は石っころのように転がった。止らない、止められない。リットーは途中顔面から木の幹に激突したが、それでも止らない。ただ痛いだけだった。枝をへし折り、落ち葉を巻き込み、土の出っ張りにぶつかって何メートルも跳ね上がる。一瞬無重力状態を体験した後尻から着地、滑走し、ようやくリットーの体は停止した。
そして、遅れて降ってきたロボットに押しつぶされた。
「いてて、背骨折れたかも」
もの悲しい気分になって呟いたとき、リットーは自分がアスファルトに尻をつけていることに気がついた。自分は山奥で遭難して、どことも分からない谷底へ転落したのではなかったか。
「あれ?」
しかし目の前に広がっているのは登山口の風景だ。「捜索隊」なる腕章をつけた山岳会のおっさんたちが、外灯の下から駆け寄ってきていた。リットーはもう一度、自分の決意と現状とを対比して呟いた。
「あれ?」
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