突然の呼び出しに公園まで出向いてみれば、相手はまるで探検にでも行くような身なりをしていた。鬼道にしてみれば、ちょっとその辺りをぶらつく程度のつもりだったから、思わず「なんだその格好は」と尋ねそうになった。しかし、相手の一声がそれを遮った。
「お兄ちゃん、遅い」
春奈は鬼道の姿を見るなり、腰に手を当てて仁王立ちでふくれて見せるのだった。しかし、そんなものはただのポーズなのだと知っている。すまない、と軽く頭を下げれば、春奈はまるでこちらが謝ったのがおかしいことであるかのように一瞬目を見開くと、「いいの、全然」と笑った。
新しいデジカメを買ったのだと春奈は言った。少しずつ貯めていた小遣いとお年玉を合わせて、やっと買ったものらしい。それで、撮影の練習をしたいから被写体になってほしいのだと言った。
「新聞記者たる者、カメラの嗜みもなければいけないのですよ」
そう言って人差し指を立てる。何も自分でなくとも、と思ったが、逆に言えばわざわざ自分を選んでくれたというのは、兄としては喜ばしいことだ。
「で、俺は何をしたらいいんだ」
「うーん、じゃあ、そこに立ってみて」
植え込みを背にして立つ鬼道に、春奈がレンズを向けた。ぼうっと突っ立っていると指示が飛んでくる。
「ちゃんとポーズとってね」
「ポーズって……何のだ」
「それは自分で考えて、かっこいい感じの」
そう言いながら、春奈はすでにシャッターを切っている。新米カメラマンの注文はやたらに多い。手を挙げてみろだの、かがんでこっちを見上げてみろだの、花壇の前で回ってみろだの、恥ずかしいことを散々やらされた。もういいだろう、と言おうとしたところで、春奈がファインダーから目を離した。大方、うんざりしているのが顔にでも出ていたのだろう。
「もう、お兄ちゃん、全然だめ」
「何がだ」
「せっかく撮ってるんだから、もっと楽しそうな顔してよ。それに動きが固いよ。サッカーやってる時みたいに、自然にできないの?」
芸能人でもあるまいし、いきなりカメラを向けられて気の利いた表情をしろというのが無理な話だ。それに、鬼道家に引き取られてからというもの、写真といえば畏まったものばかりで、こんな風に砕けた雰囲気で写真を撮られることなどほとんどなかった。要は撮られ方を心得ていないのである。
「だったらサッカーをやってる時に撮ればいいだろう」
「そうじゃないの、今日は『天才MF鬼道有人のプライベートに迫る!』っていうコンセプトなんだから、普段のお兄ちゃんを撮りたいの」
もう無茶苦茶である。新聞記者ならそんな大事なことは初めに言うものだぞ、と思ったが口には出さなかった。だいたい何なのだ、そのコンセプトは。練習と言っておきながら、次の校内新聞の三面辺りにしれっと使われていそうだ。
本当はそんなゴーグルだって取っちゃっていいんだからね、と続けるので、それは普段の姿ではないとだけ言っておいた。そうすると、春奈はまたふくれて見せた。
「わかった、もういいよ。お兄ちゃんには期待できそうにないみたい。じゃちょっと見てみてください、音無カメラマンの腕前を」
春奈がデジカメを渡してくる。撮った写真を見てみろということらしい。受け取ってみたが、初めて見る型で、操作の仕方がよくわからない。
「どうやって見るんだ」
尋ねると、春奈はぱちりと一つ、瞬きをした。
「お兄ちゃんでもわかんないことがあるんだ」
「……悪いか」
「ううん、全然。ちょっと貸して」
春奈が体を寄せてくる。顔が近い。わずかに触れ合った腕から、体温が伝わってきた。柔らかい匂いが鼻孔をくすぐる。当たり前だが、自分とはまったく違う。他人の家に入った時の違和感に似ている。確かに血を分けた兄妹だというのに、まるで赤の他人のようだと感じる。それは、鬼道の中にある禁じられた感情を肯定するかのようにも思えた。しかし、それは錯覚だともわかっていた。
そっと、傍らの春奈に目をやる。淡いリップクリームの塗られた唇が無防備に光っていた。どうしようもなく、触れたい衝動に駆られる。しかし、触れることは許されない。あるだけの理性でもって抑えつけた。何か大きな塊を飲み込んだかのような気分の悪さが胸に残る。
鬼道の逡巡をよそに、春奈は平然とデジカメを操作している。先ほど取った写真を表示させると、鬼道の目の前に差し出した。二人の距離がより一層近づく。再び、あの匂いがふわりと漂った。心がざわつく。
「ね、どう?」
「よく撮れてるんじゃないか」
なるべく春奈の方を見ないようにして答えた。それが春奈には不満だったようだ。
「本当? ちゃんと見てる? 適当に言ってない?」
「そんなことはないさ。それより、春奈……ちょっと離れてくれないか」
春奈が怪訝な顔で首をかしげた。
「どうして?」
「どうしてもだ」
理由など説明できない。おうむ返しにおざなりな返事をすると、春奈は泣き出しそうに眉を下げた。
「お兄ちゃん、ひどい」
そう言って、腕にしがみついてくる。急激に鼓動が跳ねた。顔が燃え上がるように熱い。柄にもなく、動揺している。
「春奈」
「教えてくれるまで離れないもん」
「聞き分けのないことを言うな」
「真相を解明するのも、新聞記者の務めなんだからね」
冗談じゃなかった。真相というのはつまり、鬼道自身が春奈に対して抱いている感情のことであり、そんなものを今打ち明けてみれば、二人の関係がどうなるかなど明白だった。この感情が社会的にどんな意味を持つものなのかはわかっていたし、八年越しでようやく心を通わせた春奈との交流を再び手放すような過ちを犯すほど、鬼道は愚かではないつもりだった。
「…… そう怒るな。本当に、大した意味はないんだ」
春奈の気に触らないよう、なるべく柔らかい物言いをしようと努めた。しかし、ほとんど効果はなかったようだ。
「大した意味はないって、少なくとも何かの意味はあるってことだよね」
すかさず切り込んでくる。どうでもいいところで聡い。鬼道は内心舌打ちをした。
「言い方が悪かったな。何も意味はない」
それでもまだ、春奈は不満げに口を尖らせていた。何かを言いたそうにしているが、何も言わない。華奢な体が震え、一層頼りなさげに佇む。懸命に何かに耐えているようにも見えた。
「私には言えないってこと?」
「……そうだ」
「どうして?」
「言えば、お前を傷つけることになる」
悲壮感さえ漂うような口調で春奈が尋ねる。意味などないと否定し続ければいいものを、つい、余計なことを口走ってしまった。
「別に、傷ついたりしないよ」
春奈は、打って変わって穏やかに言うのだった。小さな手が、鬼道のそれに重なった。細い指を這わせるようにして絡ませてくる。深い青色の瞳が鬼道を見上げ、切なげに潤む。
鬼道は息を飲んだ。
知っているのだ。春奈は、鬼道の秘めた思いを知っていてこんなことを言うのだ。それはつまり、肯定のサインである。
「春奈、俺は——」
鬼道は恐る恐る手を伸ばして、春奈の肩をつかんだ。手が震える。まるで中毒患者だ、と自嘲の笑みがこぼれた。華奢な体を引き寄せると、春奈は期待するように目を閉じた。つい先刻見つめた唇が、今再び目の前にある。艶めきは先ほどと変わらない。しかし無防備さが消えている。今は確実に、何かを待っている。もはやためらう必要はないのだ。
そっと顔を近づけると、唇に触れた。柔らかい感触が、二人を取り巻く空気さえも変えていく。新しい時が、動き出した瞬間だった。
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鬼春ことはじめ的な話。鬼道さんがどきどきしている。(サイト初出:2010/09/30)