No.257197

幸せな一日

草香祭さん

続き物3話目。知り合って数週間目、ほのぼの。なかなかほもりませんすんません。

2011-08-03 16:06:13 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:709   閲覧ユーザー数:685

■幸せな一日 1

 

 

「ラファエル、傷の手当てかい?」

「ああ。なかなか癒えなくてね」

 親しく話しかけてきたその天使は、肩の傷口に手の平をかざすラファエルを見て、眉をひそめた。

「やはりその傷はおかしいよ。主にお伺いを立てて見ちゃどうだい?」

「でも、大したことはないしさあ。痛みはするけど、我慢できない程じゃないんだ」

「とは言ってもね。その傷をつけられてから、何年になる?」

 確かにその天使の言う通り、この傷を受けたのはもう随分と昔のこと。まだ悪魔や力の強い魔族達が、地上の覇権を狙っていた頃の話だ。それなのに長い年月を経た今でも、傷口は時折、思い出したかのようにはぜ割れ、新たな血を吹き出すことがある。

「ねえ、ラファエル。主に祈るべきだよ。傷を癒やしていただけるかもしれないし、それが無理でも、きっとお導きを下さるだろう」

 

 その傷のことを、決して嫌ってはいなかったのだ。じくじくと傷んで鬱陶しく思うこともあったが、不思議と心底から疎んじた事はなかった。傷の痛みが、自分の存在の証拠。肉体を持たずとも、ここに在るのだという証左。きっと心の奥深くで、そんなふうに感じていた。

 しかし周囲はそう思わない。ラファエル自身ですら、把握しているとは言い難かったその奇妙な感情を、ただ身体のことを心配してくれる心優しい天使達に、理解しろと言う方が難しい。

 なかなか動こうとしないラファエルの代わりに、天使達は祈りを捧げてくれ……そしてある日、神託があった。

 

「人の子として生きる?」

 託宣が下った天使は、嬉しそうにラファエルに告げた。

「そう。人は羽根を持たないだろう? 人間の肉体という、羽根を持たぬ殻に包まれることで、魂を慣れさせる。そして傷を完全に塞ぐんだ」

「なるほどねぇ……」

 心が覚えているからこそ、傷が消えない。だからこそ、一度記憶をリセットする必要がある……さらに詳しく話を聞いてみたら、どうやらそういう理由も含まれているようだ。

 心が動いた。何百年も膿み続け、親しみ続けたこの傷と離れることよりも、前から興味のあった人間界で生活が出来ることの方に心惹かれた。

 何よりラファエルは退屈していた。

 魔界はここ数百年大人しい。人間界も一頃に比べれば随分落ち着いており、天使の手を患わせる大規模な戦争も減っている。

 天界は平和すぎて、熟れすぎた果実の香に包まれているようだ。平穏な生活を愛さぬ訳ではないが、今の自分には物足りない。羽根を失い、天軍を辞した後は、様々な職を転々とした。何をやってもそつ無くこなしたが、退屈は常につきまとっていた。

 人の身体に宿り、人としての生を得るのも、しばらくの間ならば悪くはない――

 

◇◇◇

 

「ラファエル様! ラファエル様ぁっ!」

 神殿の屋根の上でうたた寝をしていたラファエルは、自分の名を呼ぶ愛らしい声に目を覚ました。

「ミカエル? ここだよ」

 身を起こして下を覗き込むと、彼の教え子になる予定の少年が、緑の芝生の上からラファエルを見上げている。真昼の光が宝石のような碧い髪を輝かせていた。

「ラファエル様、見てください! 天使学校から教材が届いたんですっ!」

「へえ、良かったねえ」

 ラファエルは微笑むと、軽く羽ばたいて少年の前に降り立った。

 ミカエルの白い頬が、軽く上気している。彼の部屋からここまでは距離があるから、きっと走ってきたのだろう。ラファエルに一抱えもある教科書の束を見せて、心底嬉しそうだ。背負った物の重さのせいか、笑みを浮かべることなどついぞない彼だけれど、今日はいつもより顔つきが明るい。 

「ほら、こんなにたくさん! 歴史の教科書に、これは武術と剣術の本、ラファエル様の持たれる地上人類学の教科書に、それにこれは――」

「天使マニュアル」

 一番上に乗っていた薄いピンクの冊子を、ラファエルは取り上げた。

「これが基本で、一番重要な本だ。大事にしなさい」

「はい!」

 ミカエルは顔を引き締めると、真剣な顔で頷いた。

「ミカエルは良い子だね~」

 天使マニュアルを本の上に戻して頭を撫でてやると、少しくすぐったそうに首をすくめている。

 ――今日も触ることが出来た。

 心の片隅で安堵しながら、ラファエルはそっと手を離す。

「制服は一緒に届かなかった? 制服姿を真っ先に見せてくれるかと思ったんだけどな」

「届いたんですが、その……」

 ミカエルはほんの少し頬を染めて、恥ずかしそうに俯いてしまう。

「どうかしたの?」

「い、いえ、その……タイが上手く結べなくて」

 顔を覗き込むと、ミカエルは目を逸らしてしまった。

 たったそれだけのことで恥じ入っている姿が可愛くて、思わず笑ってしまった。

「なあんだ。それなら僕に言ってくれたら、教えてあげたのに」

「いえ、そんなことにまでお手を煩わせるわけには!」

「遠慮しなくていいんだよ。それより、朝ご飯は食べた?」

 ミカエルはあきれ顔で唇を尖らせる。

「ラファエル様、何を仰ってるんですか。もうお昼ご飯が近いんですよ」

「あれぇ、そうだっけ」

「もう、ラファエル様は朝寝坊なんだから」

 頭を掻いたラファエルを見て、眉を寄せる姿が可愛い。口調も最初に比べれば大分くだけてきた。この二週間ほどで、少しずつではあるが、ミカエルはラファエルに慣れてきているようだ。

「じゃあ、お昼は一緒に食べようか。今日は僕も空いてるから」

「はい……でもあの。前から思っていたんですが、僕に付き合われる必要はないんですよ?」

 ミカエルは首を傾げてラファエルを見上げている。

 天使に囲まれて育ったミカエルは、天使が物を食さずとも生きていけることを知っている。

 確かにラファエル達天使は、食事をする必要はない。自然界の気を取り入れるだけで存在を保つことが出来る。天界の食物であれば口にすることも出来るし、そこから気を得ることも出来るが、さほど意味のある行為ではないのだ。

「僕がそうしたいからそうしているだけ。それにひとりで食べるのは味気ないだろ?」

 片目をつぶると、ラファエルは空に舞い上がった。

「じゃ、また後で、君の部屋でね。僕はそれまで昼寝してるからー」

「……もう」

 呆れたような溜息混じりの声に、ラファエルはくすくすと笑った。

 あんな事を言ったが、食事を共にしているのは、殆どラファエルのエゴだ。歯止めをきかせないといけないという自覚があるから、口実のある時にだけ共に過ごして、バランスを保っている。

 しかしそれも、もうしばらくの話だろう。数日後には、天使学校の入学式を控えている。彼が入寮してしまえば、食事を共にする機会は減る。その分、いくつかの授業を除けば、ミカエルの個人教授として彼を担当することが決まっているのだから、一緒に居られる時間は増える。

 ――ここが人間界なら良かったのにな。

 ラファエルは神殿の屋根の上に寝ころんで瞼を閉じる。

 ここが人間界だったら、毎日、ミカエルのことを家族に話して聞かせるのに。小さなテーブルを四人で囲んで夕飯を食べながら、自分が受け持った生徒がいかに可愛いかを報告する。

 ミカエルがどんなに真面目で熱心か。どんなに自分の話をよく聞いてくれるか。

 それと、からかい甲斐があることも話さないと。何でも鵜呑みにしてしまうから、ついつい彼には意地悪を言いたくなってしまうのだ。

 この間も、天使学校に入ったら飛ぶ練習のために、地上五十メートルの塔の上から毎日バンジージャンプだなんて言ってみたら、真剣な顔で話を聞いていたっけ。

『もう。お兄ちゃん、最近その子のことばっかり』

 思い出し笑いをしていたら、甘えん坊だった妹の拗ねる声が、はっきりと耳に聞こえた気がした。唇から笑みが消えていく。

 ――思い通りにはいかないね。

 ラファエルは空を見上げた。白い雲がひとつふたつ浮かんだ虹色の空は、人間界の青い空とは随分違っている。

 何事も、思い通りにはならない。自分はもう人間ではなく、あの団欒に戻ることは二度と無い。

 これはきっと罰なのだ。あまりにも安易に人間になり、何の罪科もない彼らを悲しませたことへの――

 

 ◇◇◇

 

 ミカエルは教科書を大事に抱えたまま、神殿の前庭を通り抜け、その少し先にある丘まで遠出した。煉瓦で作られた緩やかに蛇行する道を辿り、道が森に呑み込まれる寸前で右手に出る。そうすると遙か下方に天使学校を見下ろす広場に出た。

 ここはついこの間、ラファエルが教えてくれた場所。神殿に十数年暮らしていたミカエルが、ただ、通り道の横にある空き地としか思っていなかった場所だ。

『ほら、ここから見える赤い大きな建物があるだろう。あれが天使学校だよ』

 どこかに立ち止まって景色を見ることなんて殆どなかったから、こんな所から天使学校が見えるだなんて、少しも知らなかった。

 天使学校のおおよその位置は知ってはいたが、部外者絶対立ち入り禁止の聖域だ。学校とは別に試験会場が設けられていたくらいだから、行ったことがなかったのだ。

 ラファエルと一緒に居ると、新しいことや今まで知らずにいたことが、次々と目の前に現われてくる。

『景色が良くて気持ちいいねぇ、ミカエル』

 ラファエルはいつも楽しそうに微笑んでいるけど、あの時もミカエルの名を呼んで笑っていたっけ。

 ……本当に変わった天使様だ。

 

 ミカエルは柔らかに繁った草の上に腰を下ろすと、膝の上に教科書の束を置いた。それから、一番大切だと教えてもらった天使マニュアルを、そっと開く。

 最初のページを開くと目次があった。薄い本なのに章が多い。適当に開いてみると、本の半ばほどなのに、いきなり十四章が出てきた。さっきちらりと見た目次によると、十四章は殆ど終わりの方だったはずだ。不思議に思ってページを遡ると、本の最初は十章で始まっていた。十章以前はどこに行ってしまったのだろう?

 落丁なのかと慌ててもう一度目次に戻ると、目次にはちゃんと一章から十章までの項目が書かれている。続けて開いたら、今度は目次の次のページに一章の頭。どうやらこの冊子、見た目は一見薄いが、中には奇跡の力による仕掛けが施してあるようだ。

 ――すごいなぁ。

 ミカエルは天使マニュアルをぱらぱらと捲りながら、胸を踊らせる。この本を見ただけで、これから特別なことを教えてもらうのだという気分になった。

 ランダムに出てくるページが面白くて繰り返し捲っていたら、第十二章が目に飛び込んだ。天使の兆候、と章題が書かれている。

 天使の兆候……どんなことなんだろう?

 興味を引かれて、ミカエルはページをめくる。

『天使がその天使に近付いた証しとして、以下のような兆候が現われる。即ち、その頭上の輪が段階を経て、発光、回転する。外部からの刺激に対し、拒絶反応を引き起こす。』

 ミカエルは無言で、幾度かその文章を読み返す。それから膝の上に、こつんと顎を落とした。

 ……やはり輪っかが無いと、天使にはなれないのだ。

 無意識に髪を掻き上げていた。ミカエルの頭上には、十三年間付き合ってきたあの小さな輪は存在しない。祈れば戻ると言ったラファエルの言葉を思い出して、恐る恐る心の中で戻れと呟いたことも幾度かあったが、結局駄目だった。

 ――僕ひとりじゃ無理だ。

 ノエルか、もうひとりか。どちらかを天上界に連れて来られたらいいのに。一番良いのは、三人が揃って天使になり、それから融合を果たすことだろう。だが三人のうちふたりが天使になることが出来れば。もうひとりも自然と天使になり、融合するだろうと、以前神殿の天使が教えてくれた。数が多い方の状態に、残りのひとりも導かれるのだそうだ。

 ミカエルは自分の輪が落ちてから幾度か、神殿の水盤の間でラファエルに頼んで、ノエルの姿を見せてもらった。

ノエルの頭上にはちゃんと光輪があって、いつも淡い光を放っている。

 何度も何度も確認して、その度に胸をなで下ろす。

 大丈夫。まだノエルが光輪を持っている。だから天使になる可能性は残っている。もうひとりが輪を残していれば、ミカエルの輪が無くとも天使になれるはずなのだ。

 でも急がなければ。もうひとりの状態は分からないし、ノエルだっていつ光輪を落としてしまうとも限らない。

 例えば自分の家族が偽りのものであると気付いて。例えば寂しさに耐えかねて。例えば、自分のことを大嫌いになってしまって。

 ……それとも、ノエルはそんなことにはならないのだろうか。彼女は光で無垢だから。

 ――学ばなきゃ。

 ミカエルは唇を噛んだ。

 天使学校に入って、天使として必要な事を学びたい。一分でも早く。それが自分の役割だ。

 顔を上げたミカエルのはるか眼下には、天使学校の瀟洒な校舎。もうすぐ入学するはずなのに、あそこはとても遠く見える……。

 

 太陽が中天にのぼり、鐘の音が正午を告げた。うきうきとミカエルの部屋を訪ねたラファエルは、ノックした扉から出てきたのが、彼の生徒になる少年じゃなかったことに肩を落とす。

「あれぇ、ミカエルは?」

「まだ帰ってきていませんよ」

 多分本日の世話係なのであろう長い金髪をなびかせた天使は、穏やかな口調で答えた。テーブルの上には、既に食事が二人分、用意されている。

「どこに行ったんだろ。約束は守る子なのになあ」

「遊んでいて時間を忘れているのではないですか。子供にはよくあることですよ」

 気長にお待ちになったらいかがですかと言って、天使はおっとりと微笑んだ。

 ――実の親のようにはいかないか。

 ラファエルは湯気の立つ料理が置かれたテーブルに手を付いて、軽い苦笑を浮かべる。

 ひとりか二人、少数の誰かが親のように責任を持って彼の養育に当たっていれば、あるいは違っていたのだろう。だが天使達はそうしなかった。博愛の精神を持つからこそ、結果そうなってしまった。

 愛情が無いわけではないが、彼らのそれは、親が子に抱くように、執着的に深い訳ではない。天使達は鷹揚にミカエルに接し、だからこそ見逃してしまうこともある。

「ちょっとその辺を探してくるよ」

「心配性ですね、ラファエル」

 くすくすと笑う天使を置いて、ラファエルは部屋を出た。

 心配性……そうかもしれない。だが、遊びにうつつを抜かして時間を忘れるくらいの余裕があれば、彼は光輪を落としたりなぞしなかった。

 

 

 

 

■幸せな一日 2

 

 ラファエルは神殿の外に出ると、つらつらと歩きながらミカエルの気配を探った。

「あんまり遠くに行ってなきゃいいけどな……」

 何しろ一度は、天界から落ちかけたこともある子だ。あまり遠くでなければ、意識を巡らせるだけで見つけることは可能だが、万が一人間界にでも落ちてしまっていたら、そうはいかない。

 だが幸い、ミカエルの姿はすぐに見出すことが出来た。水盤の水面に浮かぶ映像のように目で直に見るわけではないが、心の目はミカエルの気配を辿り、その姿を脳裏に映し出す。

 ミカエルは山を下って行くつづら折りの道の途中で、しゃがみ込んで何かを探している様子だった。ちょうど今ラファエルが立っている、丘から続く道の上だ。あの黄水晶の大きな瞳に、こぼれ落ちそうな涙が浮いている。

 ――ミカエル?

 一体何があったのだろう。ミカエルは泣かない子だ。光輪を落としたときですら、顔を強ばらせて地に沈みはしたが、泣かなかった。顔を歪め、瞳を潤ませることはあっても、涙をこぼしたところは見たことがない。

 最近になってようやく、明るい顔を見せてくれるようになったミカエルの、今にも泣き出しそうな顔に胸が痛む。

 あの場所まで瞬間移動しようかと精神を集中しかけて、ラファエルは木立の影にそっと置かれた物に気が付いた。

 純白の布包みだ。端がほんの少しめくれて、中身が覗いていた。そっと解いてみると、ミカエルが持ち歩いていた教科書の束だった。一番上に乗っていた天使マニュアルだけが見あたらない。

 そういえばさっき見たミカエルは、今日の朝まで纏っていたローブの肩布を外していた。 きっと教科書が重たかったから、汚さないように肩布で包んでここに置き、天使マニュアルだけを手にどこかへ向かったのだろう。天界には泥棒をする者などいないし、今日は雨が降る様子もないから、それはおかしくはない。多分ほんの短時間の散策のつもりだったのだ。

 でも、一体どこへ?

 ミカエルから少し離れた場所へ顕現する。そこから先は、おどかさないように歩いて近付き、そっと声を掛けた。

「ミカエル」

「――!」

 ミカエルはそれでも十分に驚いて振り返り、慌てた様子で目元を拭った。

「ラファエル様……」

「どうしたんだい、こんなところで」

 ミカエルは顔を上げて天を仰ぎ、太陽の位置を確認すると、ラファエルに深々と頭を下げた。

「ごめんなさい。お昼ご飯の時間、過ぎてたんですね……」

「いやあ、それはいいんだけどね。一体何があったの?」

 ミカエルはラファエルから逃げるように顔を背けた。その視線は、さっきまで彼が入り込んでいた灌木の辺りを彷徨っている。

「ミカエル?」

「……何でもないんです。神殿に戻ります」

 ラファエルの横をすり抜けて、坂道を上がろうとしたミカエルの額を、ラファエルは片手で押しとどめた。

「わっ」

 目を塞がれる格好になったミカエルが、焦り顔で後ずさる。ラファエルはすかさずミカエルの前に身を屈め、肩に手を置いて、正面からミカエルを見た。

「ミカエル。天使になるための大事なことを教えてあげよう」

「ラファエル様?」

「天使は嘘を吐いてはいけないんだ。だから君は、僕に本当のことを言わなければならないよ」

 咎められたと感じたのかもしれない。ミカエルはただでさえ色の白い肌を紙のように白くして、表情を無くしてしまっている。

「ちゃんと本当のことを話してごらん。何でもないことはないだろ? 君がそんな顔をしているのには、訳がある筈だ」

 ミカエルは無言でラファエルを見上げていたが、俯くと拳をぎゅっと握りしめ、首が折れてしまいそうなほどに、深く俯いた。ラファエルは辛抱強く、彼が話し出すのを待つ。しばらくすると、ラファエルの手の下で、小さな肩が小刻みに震えはじめた。

「……ごめんなさい。ぼく……ぼく、お昼をご一緒してから、またひとりで探そうと思って……」

「探し物があるのか。何を無くしたんだい?」

「……天使マニュアルを」

「あれま」

 諸々の状況を鑑みて、もしやそうかとは思っていたのだが、やはりか。ミカエルの身体が一際大きく揺れた。

「だいじに、しろって、ラ、ラファエルさまが、おっしゃったのに……っ」

 ――泣いている?

 胸がどきりとした。声は途切れ途切れだし、しゃくりあげるような息づかいは苦しそうだ。俯いている顔は見えないのだが、泣いているとしか思えない。

 そう思うと、無性に顔が見たくなった。突然胸に湧き起こったおかしな衝動を何とか堪えながら、ラファエルはそっと問いかける。

「どうして隠そうとしたの。叱られると思った?」

 ミカエルは頷く。

「そんなことで叱ったりしないよ。悪いことをしたわけじゃないんだから」

「それだけじゃなくて……ぼく、いけないこと、したから……」

「いけないことって?」

「……天使学校に、い、行ったんです……。立ち入り禁止だって、知って、たのに」

 おそらくミカエルは、自分が通うことになる憧れの学校を、一足早く覗いてみたかったのだろう。入ってはいけない場所だと知っていながらも逸る気持ちを抑えきれず、大事な天使マニュアルを手に、胸を高鳴らせてこの道を走った……。その挙げ句にこの結果じゃ、落ち込むのも無理はない。

「ぼく、何度もここを往復して、探してみたんです。だけど……でも、どこにもなくて」

 震える声。 ……顔が見たい。

 ラファエルはとうとう堪えきれなくなって、そっと腰を下ろすと、ミカエルの顔を覗き込んだ。

 だが、すぐに拍子抜けする。 泣いているかとばかり思っていたのに、そうではなかった。泣き出しそうに目を潤ませているが、涙はこぼしていない。随分強く噛んでいたようで、小さな歯の跡が、緊張しすぎて乾いた唇の上に残っているのが痛々しい。

 指先で唇をなぞられたミカエルが、たじろいで顔を上げる。

「ラファエル様?」

「……泣いてもいいのになあ」

 ラファエルは苦笑すると、立ち上がって、ミカエルの身体を両手に包む。

「どっちにしても、そんなに気に病むようなことじゃないよ。一緒においで。探し方を教えてあげるから」

 

 歩くと言い張るミカエルを抱いて空を飛び、途中で教科書も拾って、神殿に戻った。水盤の間に入って、戸惑うミカエルを立たせる。

「もっと早く使い方を教えてあげれば良かったね。そう難しいことじゃないんだよ。ほんのちょっと気の巡らし方を知っていれば、簡単なんだ」

「天使様じゃないと使えないと思ってました」

「勿論ミカエルにはまだ、遠い過去のことや遠くの出来事は見られないだろうねぇ。でも、あんなにご近所で、ほんのちょっと前のことだしねー」

 ラファエルはミカエルの背後に立つと、彼の左手をそっと掴んだ。

「水の上に手を伸ばして」

 緊張した面持ちで、ミカエルは言われた通りに、水盤の上へ左手を伸ばす。ラファエルは右手でミカエルの目を覆った。

「目を閉じて。それからイメージするんだ。……眉間に光がある。その光が身体中を巡る……首を通って……肩……それから――」

 瞼から手を離してひざまずき、ラファエルは背後から回した指先を、ミカエルの身体の上で滑らせる。額を起点に胸部をくだり、臍の上を通って、その下三センチほどの場所で止める。そこが体内では一番気が集まる場所だ。そしてまた流れ、足の先まで。もう一度遡って、剥き出しの腕を、肩を。

 光の通り道を、触れるか触れないかくらいの位置から指先でなぞり、ミカエルの身体に教えていく。

「最後にこの左の手の平だ。そこから光が出る、それが『気』だよ。知りたいことを念じながら気を放てば、水盤はその想いに同調するんだ……」

 集中を乱さないようにと耳元で静かに囁いたら、ミカエルがぴくんと跳ねた。

「ミカエル?」

「な、なんでもありませんっ」

 何でもないとは言っているが、顔が真っ赤だ。ラファエルは腰に手を当て、目を据わらせる。

「ミカエル~? 天使になる者は嘘を吐いてはいけないって」

「え、えっと、嘘じゃなくて、ただちょっとくすぐったかっただけなんですっ!」

 恥ずかしそうな顔で言われて、思わず笑ってしまった。

「なあんだ。ミカエルはくすぐったがりだなあ」

 

 ほんのしばらく練習しただけで、ミカエルはすっかり気の出し方を覚えてしまった。驚くほど勘と物覚えがいい。集中力にも目を見張るものがあった。

 水面には、山道を駆け下りていくミカエル自身の姿がちゃんと映っている。まだ鮮明さには欠けるが、大したものだ。

 ラファエルであれば、天使マニュアル自体のありかを即座に映し出すことも可能だが、ミカエルのやり方に任せた。遠回りでも、自分の手でやらせなければ練習にならない。それでも一応、気が乱れたときにはすぐに誘導出来るよう、水盤の縁に腰掛け、ミカエルの右手を握って待機している。

 話しかけても返事が出来るほどの余裕が出来つつあるのを見越して、水面を見下ろす横顔に問いかけた。

「僕に相談してくれて良かったのになあ。何ですぐに言わなかったの?」

 ミカエルは、本当は答えたくはないと思っているのがありありと分かる顔で、小さな声を出した。

「……だって、せっかく教官になってくださったのに、がっかりなさるかもしれないから」

「どうしてそういう話になるんだい?」

 訝しむラファエルを横目でちらりと見た後、ミカエルはすぐに、恥ずかしそうな顔をして水面へ目を戻す。

「大事にしろって言われたのに、そんな簡単な言いつけも守れない生徒じゃ……」

 多分無意識にだろう。ラファエルに握られるまま、ただ大人しくしているだけだったミカエルの手の平に、僅かな力が籠もっている。……まるで、どこにも行かないでくれと言うように。

 小さな手の、もどかしいくらいの力。

 ――まずいなあ。

 ラファエルはミカエルから目を離し、口元を手の平で覆った。

 これはまずい。可愛くて仕方がない。気持ちを落ち着けないと、力一杯に抱きしめてしまいそうだ。

「がっかりなんてしないよ」

 そう答えて、抱きしめる代わりに、握った手に力を込め返した。

 落胆するどころか、日増しに可愛くなっていくのに。本当に、ここに人間界の家族や友人達がいたら、すぐにだって自慢したいくらいだ。

 水面に浮かぶ映像は、天使学校の校舎に近付きつつある。ミカエルの足でも、急いで山を下れば三十分もかからないだろう。神殿から天使学校は、案外近い。

 映像のミカエルの傍に天使学校の煉瓦塀が現われ、彼の足はますます速まった。はっきりと顔は見えないが、全身から喜びが溢れている。

「ここまでは、ちゃんと持ってたんです。それから校門のところに行って……」

 ミカエルは校門の門柱に隠れて、閉ざされた門の鉄柵の隙間から、中を覗き見ている。門柱からそっと顔を覗かせては引っ込めて、を繰り返しているのが初々しい。

 ミカエルは何度かそうしただけで満足したのか、今度は柱に寄りかかって、おもむろに天使マニュアルを開いた。

「これは何をやってるの?」

「その……、えっと、こうしたら、天使学校の生徒になったみたいな気分になるかなって……」

「……っ」

「笑わないでくださいよっ!」

 吹きだしたラファエルを見て真っ赤な顔をしているからには、格好をつけていたという自覚はあるらしい。

「ほらほら、水面が乱れてるよ」

 慌て顔で水盤に意識を戻すミカエルと一緒に水面を覗き込むと、映像のミカエルも慌てた顔をしていた。マニュアルを背中に隠し、右往左往している。

「この時ちょうど、天使学校の人が来たんです。夏休みで誰も残っていないと思ってたのに」

「居残り組は多少なりといるからね」

 気まずかったのか、その場を離れようとするミカエル。光輪を持つ天使学校の生徒は、光輪を持たぬミカエルを、通りすがりの天界人とでも思ったのだろう。天使の雛を育てるために存在する天界人は、基本的に大人ばかりで、子供はいない。だから訝しむような顔はしていたが、軽く会釈をすると横を通り過ぎ、門を開けて中に入っていく。そして門は、僅かに開いたまま放置されていた。

「僕……ここで中に入っちゃったんです。わざとじゃなかったんですけど」

 ミカエルの声は暗い。

 確かに、映像の中のミカエルは、吸い寄せられるように門に近付き――そして、隙間からほんのちょっと敷地を覗き見ただけで、踵を返した。

「……入ったって、これだけ?」

「はい」

 ミカエルは自責の念にかられた深刻な顔をしているが、水盤を見る限り、履いているサンダルの半分も入ってない。

 そもそも、入学予定者のミカエルが校舎に入ったところで、咎められるような事でもないだろうと思っていたラファエルは、苦笑して肩を落とした。

「君、色々気にしすぎ」

「そうでしょうか」

「そうだよ。――ま、天使マニュアルのありかは分かった気がするけどね」

 映像の中では、己のしでかしたことに慌てたミカエルが、大急ぎでその場を離れている。門柱の脇に落ちた天使マニュアルのピンクの表紙が、ぽつんと映し出されていた。それから、門に近付いてくる誰かの足も。

 

 

「今度から落としても大丈夫なように、名前でも書いておいたら?」

「はい、そうします」

 ラファエルに連れられて、天使学校までマニュアルを取りに来たミカエルは、大事そうに小さな本を抱え、真剣な顔で頷いた。

 ミカエルの天使マニュアルは、親切な居残りの生徒に拾われて、拾得物として学校に届け出されていた。ミカエルがマニュアルを落としたことに気付いて、学校まで探しに来ても無かったのは、そのせいだ。

「でも、本当に中に入らなくても良かったのかい?」

 落とし物を取りに行くのだし、教官になる自分も一緒。何より入学予定者なのだから、入っても誰も文句は言わないと再三言ったのだが、ミカエルは頑として、首を縦に振らなかった。ラファエルがマニュアルを受け取ってくるまで、映像で見た姿と同じように、門柱に寄りかかってひっそりと待っていた。

「いいんです。入学式までもうちょっとだし」

 ミカエルは校門から中を覗き見て、それでも十分に嬉しそうな顔をしている。相変わらず笑いはしないのだが、普段よりも目が輝いていた。

 まあ、クリスマスプレゼントにしたって、誕生日プレゼントにしたって、事前にもらうよりは当日にもらった方が嬉しいものだ。多分ミカエルにとっては、入学式のその日に、堂々とこの門から入る方が喜びも増すのだろう。

「さて、戻ろうか。お腹も空いてるだろ?」

 ミカエルはきょとんとラファエルの顔を見上げる。

「お昼ご飯のこと忘れてました」

「仕方ないなあ」

 言いながら、抵抗される前に小さな身体を抱き上げた。

「歩いて帰ると遠いから、飛ぶね。ちゃんと捕まってて」

 ミカエルは目を白黒させて腕を振り回す。

「ラ、ラファエル様、僕は歩いて帰りますから、お一人で先に戻って――」

「だーめ。ご飯もとっくに用意されてるんだから、作ってくれた人に悪いだろ。さっさと帰らなきゃね」

「で、でも、重くないですか?」

「ちっとも。だから君は、ちゃんと食べて早く大きくならないとー」

 ふわりと飛翔すると、ミカエルの細い腕が遠慮がちにしがみついてきた。淡い色の髪からは、この間ラファエルがプレゼントしたシャンプーの、花のような香りがする。

 時々はこうやって、何か失敗をしでかしてくれるといいと思ってしまうのは、教官失格だろうか。でもその方が、思う様、構うことが出来るじゃないか。

 

 その日はそれから、タイの結び方を教えた。基本的に覚えが良くて優秀な癖に、妙なところで不器用だ。ミカエルはタイもまともに結べないことをえらく恥じている様子だったが、制服姿は可愛かったし、ぺたぺたと触りたい放題だったので、ラファエルにとっては楽しいばかりだ。

 そもそも、マニュアルを落としたことに始まったこの日は、ミカエルにとっては気が気ではない一日だったのかもしれない。だがラファエルからすれば、触れる言い訳がたくさん転がっていて、なかなか良い日だった。

 後はもう、傍に家族がいれば、なにも言うことはないのに。

 ラファエルはその夜も、水盤に向かって苦笑する。

 ――思い通りには行かないね。

 

<終>

 


 
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