古明地さとりは、紅茶を飲む。音は鳴らない。
7月にさしかかろうとしている地霊殿の温度は、地底にあるとは思えない真夏日である。
空気の巡りが悪くサウナのようになり、遠くが揺れて見える。
地底に住まう、『最も嫌われた妖怪達』と言われていた面々でも、この蒸し暑さには敵わない。
そんな昼下がりに、それも普段は使わない大きなベランダに、白いテーブルとティーセットを用意させなければならない事に、さとりはため息をついた。
さとりは、水色のフリルドレスと薄ピンクのスカートという佇まいだったが、少しスカートの裾を普段よりあげている。
ベランダ履きのサンダルからも、さとりの小さな白い足がよく見える。
「いっそ刈りあげちゃおうかしら」と、ラベンダーの香りがする薄紫色の跳ねっけのあるショートヘアを指でつまむ。
第3の目と呼ばれる、種族独自の器官につながるハート付きのカチューシャすらわずらわしい。
見た目に幼いさとりだったが、その顔はずっと険しい。地霊殿管理者の風格がにじみ出ていた。
暑さの原因がさとりの部下(ペット)である、霊烏路うつほが管理している灼熱地獄後地にあることを知っている。
外界との交流が大分盛んになっていた地底界でも、地上界と同じぐらいの温度を保つように――と伝えたのはさとりである。
さとりは名前の通り、「心を読む程度の能力」が備わっているが、地底世界の構造を読む事は出来なかった。
外界の気温に合わせる事だけを、うつほはきっちりと行っている為、湿度や空気が逃げない事を知らず、ここより更に暑い灼熱地獄後でせっせと熱エネルギーを放出し続けているのだろう。
うつほには、一週間前に再調節を行うように、詳しく彼女の親友である火焔猫燐――皆がおりんと呼んでいる化猫の妖怪――に伝えた。
しかし、今日も運動をしないで十分に汗をかくことが出来る。
今飲んでいるお茶の準備も難なくこなしてくれるおりんが、これほど大事な命令を伝えそびれているとは思えない。
うつほはド忘れている。わかってはいるが、さとりには地底の最深部にあるうつほの管轄まで出向く体力はなかった。
何よりも、白い肌が焼けてしまいそうで嫌だった。
ティーカップとポッドでお茶を用意させていたが、そろそろグラスに変えるべきかな。
さとりはテーブルに肘をつきながら思案していた。
テーブル上には、ボウルに入った苺のハート柄クッキーと、黒い陶器のティーポッドが真ん中に置いてあり、
ポッドに対して真反対の白さのカップが三つ並べられている。
小さな銀縁の置時計がさとりの対面に置いてあるのは、意図的なモノだろう。
わざわざベランダにお茶の用意をさせたのは、今日は地上からの来客があるためだ。
山の麓にすむ、烏天狗の新聞記者達。『最もタチの悪い地上の妖怪』の中でも、とっておきに嫌な相手からの取材依頼である。
アポイントメントをとってきたとはいえ、烏天狗を安々と室内に入れる事は厳禁だ。
招き入れれば、地霊殿内部にある多くの重要な機関や地底界の秘密、今の地底界のサウナ化現象の理由をゴシップ記事にされてしまう。
果てはタンスの中まで隈無く撮られてしまうだろう。
「さとり様、今更だけど何もお茶菓子まで出してやることないのでは?」
おりんが言いながら、フローズンゼリーを机の上においた。座る人数分は持ってきていないようだった。
涼し気な青みがかかったゼリーで、ラムネを固めて作っている。
気泡が細かい粒を作り、見た目には少し不気味だった。
さとりの妹、古明地こいしが最近気に入ったため、冷蔵庫に常備しているものだ。
ティーセットの支度は済んでいるのに、おりんが気をきかせて持ってきたらしい。
おりんは今は人型になっている。化け猫の妖怪だが作業をする時は人型になっている。
赤髪に二つのお下げが、ゆらゆらと揺れて実に暑苦しい。元々火の中を住処にする妖怪だけに、気にならないのだろう。
さとりは微笑みながら
「ありがたいけれど、お客様の分も出さないと印象が悪いわ」と、指で数字を作った。おりんの猫耳がピクリと動く。
「優しすぎますよ、あんな図々しいのにここまで用意してやる必要なんてないのさ」
「邪険に扱えば、邪険に返ってくるものです。体裁良くするなら、抜け目があってはなりません」
「そういう事、山の連中には関係なさそうに思えますがね。あんな……」
「――ガサツで野蛮な連中に見えても、その心中はシタタカです」
心を読まれた――おりんは、反論せずに機械的にうなづいた。
さとりの能力であり、彼女が広大な地下世界の管理者足りえる力、心を読む程度の能力だ。
相手が何かを言う前に先立って結論づけてしまう。この力技で話を押し出す時は、非常に機嫌が悪い事をおりんは知っていた。
「――わかっているならば、あまり話が長くならないようにするのがいいでしょう」
おりんは、軽くため息をつく。
「仰る事はわかりましたが、天狗来てからでいいでしょう?元々、こいし様用に取り置いてるモノだから、あんまり量を出せないし……」
「――ああ、ゼリーだものね。そう簡単に溶けきりはしないと思うけれど」
お燐は手で顔を仰ぎながら置き時計を手にとった。
「後、10分ぐらいですね」
「少し早めにくるかと思っていたのだけれど、時間ぴったりに来るタイプなのかしら」
「遅れて来たら、私が地上まで送り返してやりますよ」
ふと、さとりはおりんが立ったままなのに気がついた。
少し考えて見れば、気をきかせてゼリーを持ってきた彼女に、ゼリーよりも冷たい反応で返してしまった。
かっかしていただろうか、と思いながらおりんを手招きし、イスの方に手を向けた。
「座っていいのよ?」
「え?いや、座ろうにも……」
「話がある、って訳ではないわ。むしろ、気を紛らわしたいの」
「あの、ええと……」
おりんが横目に一瞬、さとりの太ももを見る。心を読まずとも、おりんの魂胆がさとりにはわかった。
彼女はネコ化して、さとり撫でて欲しいのだ。
今は作業のしやすい人型になっているが、猫になっていた方がおりんにとっては本来気が楽である。
それにさとりは心を読めるからか、撫でるのがとても上手だ。地上の人間に一度腹を潰されそうになってから、よりそう思うようになった。
躊躇しているのは、この気温で猫を抱くというのは暑かろうというおりんなりの配慮らしい。
お客様がくるからではない。余程来客を好ましく思っていないらしいが、その点さとりも共感するものがあった。
厄介事が来る前から疲れていては仕方がない。お互いにに少し休憩が必要だろうと、さとりはおりんの手を取る。
「――ちょっとぐらい暑さが変わっても、気にもならないから。おいで」
9分30秒の間、黒猫を撫でてさとりはのんびりとしていた。
和やかな暑い昼下がりに、突風が吹き抜け、思わず目を閉じる。
ゆっくりと目を開けると、ベランダに腕組みをした黒髪の少女が立っていた。
烏天狗の人型の中でも、彼女は美人な方であろう。パッチリとした赤い目でさとりを見つめ、口を大きく開いた。
「毎度おなじみ、『文々。新聞』の射命丸文です!」
実に嘘くさい爽やかな笑顔だ、とさとりは感じた。
文の黒髪のセミロングの髪とフリルをあしらった黒いスカートは、まだ風で靡いている。
天狗の飛行スピードの早さは幻想郷随一と言われている。相当急いで飛んで来たのだろう、白いシャツは風を受けた為か妙にペッタリとしており、襟元の黒いリボンも乱れて少しみっともない。
天狗の特有の赤い頭巾も落ちていないのが不思議な位置を保っている。
首からかけている一眼レフが壊れていないのが不思議なぐらいだ。
もっとも、さとりとしては、是非壊れていて欲しいのだが。
文は身なりを気にせずに、爛々と赤眼を輝かせて、眼の色にそっくりな手帳をポケットから取り出す。
「ではでは、早速取材とまいりましょうか」
テーブルの上には見向きもせず、文は意気揚々と言ってのけた。
まず言う事があるでしょう、とさとりはため息混じりにつぶやいた。
「本当にギリギリの到着だったわね。何をしていたのかしら?」
「いやぁ、私も忙しい身でして……」
「――既に何十枚と写真を撮ってるのね。もう充分なんじゃないかしら?」
「あやや、そうでした。お見通しなんですよね」
「一度貴方の新聞を拝見していますが、普段ならそれだけで記事をでっち上げているでしょう」
「ご購読ありがとうございます!」ここに来て、始めて文の心象と言葉が一致しているのを、さとりは能力で確認する。
「読んでみた結果、貴方を館の中に入れてはならない事がわかりました」
書き始めていた手帳の動きが一瞬止まった。驚きの表情はしていない。
「端的に言わせてもらいます、取材拒否させていただきます」
「えー、困りますよ。今回の一面に抜擢する予定だったのに」
「そちらの事情もお察ししますが、こちらにも事情がありますので」
「……地霊殿の事情、とは?」
「――そういう野次馬魂がある限り、お話することはないでしょう」
「頑なですねぇ」
文はつまらなそうに頭をかく。頭巾がズレているのに気がつきかぶり直した。
困っているような仕草をしているが、文の心の内は冷ややかに地霊殿に入る方法を検討していた。
強行突破する気はないらしい――お互いの探り合いが続く。
「ともかく中に入れる事は出来ません。お話できる範囲の事であれば、この場で伺います」
「その為のお茶会セット、ですか」
「――なるほど、コーラの方がいいですか」
「あやや、えっと、何でもいいです」
しばらく立ち往生を続けていた文だったが、半笑いでさとりの対面に腰掛けた。
本当に地下の連中はやりづらいなぁ――と、嫌味たっぷりにつぶやいている。
文は微笑みながら、紅茶をすすった。風は微温くじめじめと、暑さを伝えてくる。
沈黙が続いたが、文は地霊殿に関する話題や疑問を心の中で投げかけるように思い浮かべる。
クッキーだけが、まるでカウントダウンのように、なくなっていった。
黒猫が欠伸をしている。さとりはおりんをそっと撫でながら、ため息をつくばかりだ。
一度だけ、さとりが「破廉恥な」と文を睨み返したが、あまりにも静かな対談は机の上にあったゼリーのような冷たさで終わろうとしていた。
「そんなに大事なんですか?」
突然、口を開いた文を訝し気な目でさとりとおりんを見た。
「それほど、地霊殿には大事な事情があるのですか?」
「貴方は自分の家にズカズカと入られ、写真をとられるのが好きなのでしょうね」
「それ以上したって構いませんね、面白ければ」
「そう……思考の決定的な相違です。大きな理由はなくとも、家にあげたくないというだけの事」
実のところ、今の地霊殿内部に入れたくない理由はハッキリしていた。
この地下の環境が異様な真夏日を繰り返している最大の理由、おくうの仕事ぶりを知られては困る。
普段の文の新聞はスポーツ新聞のような持続力で、誰も信じないような奇っ怪なサブカルを展開する。
つまり、真実味があまりにない。写真だけはしっかりとっているが、誇張表現が多いため信ぴょう性がなかった。長く尾を引かない、一刻の娯楽以上ではないのだ。
しかし、ここに真実味が加わってしまうのは、大分まずい。地下が暑いという事実は、誰もが感じている。
事実通りの報道でも、地霊殿としては体裁が悪い。その上で誇張表現を使ってスクープ!などと見出しをつけられでもしたら……
地霊殿の組織力は、殆どがさとりによる統括の結果である。もしも文が内部に入り告発した記事をみた外の妖怪達の対応など、さとり一人に出来るものではない。
更には、激情的なおくうやおりんが、記事をみたら何をしでかすかわからない。
おくうに至っては、この地底における最大の火力を有している。
おくうの暴走――想定してはいけない恐怖だ。
さとりは、つくづく『心を読む程度の能力』が自分の力で良かったと思った。冷静なフリが文に通用しているならば、このままシラを通しきろうと、さとりは判断していた。
文は、「なるほど」とつぶやいてから手帳のページをめくった。
異様に大きく感じられた紙の動く音。と、同時にさとりの体が強ばったのをおりんは太腿の上で感じ取った。
手帳に引っ掻くようなボールペンの書き音が、鬱陶しくなりつづける。文の手はタッチタイピングをするかのように、手帳の上を忙しなく動く。
おりんには、さとりのような心象操作能力は無い。それでも、ハッキリとわかった。
文はさとりを脅している。
動き続ける文のペン先とは対象的に、おりんを撫でる手は止まっていた。
ふと、文とおりんの目があった。文は、到着した時と同じ笑顔だ。他の目線を、一瞬上からおりんは感じた。
おりんが見上げると、さとりが眉をひそめている。
さとりにとって、地霊殿にすまう動物の妖怪達は家族のようなモノだった。家族への侮辱は、許しがたいものがある。
文は次々と『地霊殿内に入れなかった時の代案』を考えているのだ。それも、酷いゴシップである。
他人から見ても、嘘八百が透けて写るようなネタばかり文はひたすらメモをとっていた。
他人ならば、冗談だと笑えって数日後には忘れうる話でも、その身内とあっては煮えくりかえる思いになる。
心が読める妖怪古明地さとり……その力のために地霊殿から外出を控え動物の妖怪ばかりを囲っているさとりに対して文なりの最大限の攻撃だった。
さとりの能力は、胸元についている第三の目の見える範囲を自動で読み取る。
見ないように遮断する事で、思考を読むのを防ぐことが出来るが、それはさとりの戦闘能力も遮断する事になる。
文は何がなんでも館内に入りたいのだ――わざわざ来たくない地下世界にきているのだから、成果がなければ帰れない。
その相手に対して、戦闘能力を失う事は危険だ。文のゴシップ宣言をひたすらに許容し、黙る他なかった。
さとりは、妹の事をふと思った。古明地こいしは心を読む力が、如何に嫌われる力であるのかを知って、心を読む第三の目を閉じてしまった。
閉じて以来、第三の目が再び開くことはなかった。
種族として絶対に開いている目を閉じた事によって、こいしは『無意識を操る程度の能力者』を持つようになった。
意識の範囲外を操る力を有すると同時に、自分自身も無意識に動くだけ。ひたすらに自分の気の向くままに動くだけの存在。
そこには責任も感慨もないのだろう。さとりにも唯一心を読めない無機な生物。
一瞬でも、そんな妹のことが羨ましくなった事をさとりは恥じた。
鳴り響いたのが机を叩く音だとわかったのは、二人が振り向いた先に人間体に戻ったおりんがいたからだ。
イスに座る文を見下ろしている。猫目と鳥目の睨み合いが始まった。
おりんは、ドスの聞いた声で言った。
「あたいにゃ、何を考えてるかわからないけどさ……お姉さん、喧嘩しに来たって事でいいのかな?」
「あやや、物騒な」
「取材拒否ったら取材拒否!怨霊になりたいってなら、私が相手になるよ」
やめなさい、と言ったさとりの声にも、おりんは振り向かない。
「ただただ拒否と言われても、私だってそうですかとはいえませんねー」
「ここまで通してやっただけでも、ありがたく思えって!」
「私は『この先』まで見れなければ、ありがたみは感じません」
「大体、お姉さんに最深部まで見せる必要はこっちにはないのさ。そもそも、あたい達に何もイイ事ないんだから」
文の目が輝くのをさとりは感じた。
「つまり、イイ条件があればいいのですね?」
「え」
「――おりんの言葉はそういう意味ではありません」
「交換条件や駆け引きがあれば、取材に応じるという意味、ですよね」
文は無理矢理に言い切った。続けて格別な笑顔をおりんの向ける。
「では、おりんさん。将棋盤を持ってきてください」
「あん?」
「このまま、口論したり黙っていても仕方がないですし、弾幕ごっこというには二体一では私に分がありません。ですから、一局打って決めるとしましょう」
「……お姉さん、暑さにやられちゃったのか」
「条件の提示です。私が勝ったら、その最深部まで案内してもらう。貴方方が勝ったら私は手帳とフィルムを置いて立ち去りましょう」
ね、簡単でしょう?とウィンクをしてみせる。呆れた執着心だ。しかし、さとりはそれ以上に
「さ、さとり様はそういうゲームは強いんだ!フィルムだけじゃなく、服まで剥いで帰すからな!!」
と、慌てふためきながら勝手に承諾したおりんに呆れた。
「――ただし、やるゲームはチェスです。山の妖怪が将棋ばっかりしているのは、知っていますよ」
「お、さとりさんもノってきましたね!」
自分の種族が鬼だったら、ぶん殴っていただろう。文以外の場にいる全員の意見が一致した瞬間である。
暑さにのって、苛立ちが倍増する。
「おりん、チェス盤を」
「はい、さとり様……うーん、もしかして私のせい?」
「そうです――けれども、貴方が今落ち込んでも仕方がないわ。私が勝てばそれでいいのですから」
おりんが涙目になりながらうなづく。立ち去ろうとする袖をつまんで、さとりは言った。
「ゼリーもお願い、今日はとっても暑くなりそうだから」
黒と白のチェックが、綺麗に見え始めた。
「それでは、ありがたーくいただきます!」
文の手に白いクイーンが握られた。おりんから見ても、さとりの敗北が迫っているのがわかった。
さとりのサードアイは、おりんの方を向けられている。文が「心を読むだなんてチート、認めません」と駄々をこねたので、おりんの心理を常に覗くようにさせられていた。
一人分の心理状況しか覗けない為、文が何を考えているのかわからない。
それでも、さとりは地下ではチェスで負けていないという自負があったが、そもそも地下の面々が勝負事に強くない事実をさとりは知らなかった。
文はチェスの経験はあまりなかったようだが、将棋の経験を活かして序盤から守りを固め、今は一気に攻めに転じてきている。
木製の盤面が木琴のように良い音を出す。文は随分上機嫌のようだ。
「いやぁ、それにしても暑いですね」
笑顔でシャツをパタパタとさせる。この場に男性がいたら、胸元から目が離れないだろう。
今はただの嫌味でしかない。
「暑さに降参なさってはどう?」
「あややや、いつの間にガマン比べになったのかしら」
さとりがポーンを進めると同時に、木琴の音が聞こえる。さとりが動かしたハズのポーンは、既に文の手から机の端に転がされていた。
「それにしても、この暑さどうした事か。地下っていうから涼しいと思っていました」
ベランダの暑さは最高潮に達していた。パラソルを用意してみたものの、日が指して暑いワケではないので、雰囲気だけにすぎなかった。
少し肌着にしめっぽさをさとりは感じていた。
おりんの心をさとりはずっと読んでいるが、段々と「――暑い」が増えている。
それでも、「――ガンバレさとり様!」や「――さとり様!そこにコマを進めて!」と言った役に立たないアドバイスでも無いよりありがたかった。
木琴の音が聞こえた。
「山の付近の方が、涼しいぐらいですね。あれは日光の仕業ですから、木陰は涼やかなものです」
「貴方お得意の風でも吹かせて欲しいのだけれど」
「そんな事したら、コマが飛んじゃいますよー」
力加減もできないのか――と、さとりが言う前におりんの心の声が聞こえた。さとりがルークを置いた場所が大分不味かったらしい。
「はい、チェックですよ。さとりさんこそ、諦めては如何でしょう?」
とうとうチェックがかかるようになってしまった。
「さて、何故暑いのでしょうか?」
文はどうやら、暑さの原因に勘づいているらしい。チェス勝負中に考えを整理しているようだ。
「この暑さ、管理しているのは何処なのでしょうね」
「……さぁ」
「おや、さとりさんなら知っていると思ったのですが」
白いルークが弾かれて、さとりの胸元に当たった。
「何処なのでしょうね?」
文は確信に至っている。証拠だけが欲しいのだ。
さとりは口元を手で隠す。深呼吸しようとして、少しむせた。うずくまって咳をしていると、背中をさすられる。
「大丈夫ですか、さとり様?」
おりんがガラスのコップを手に持たせた。良く冷えた氷水は、ガラスを超えて冷気を発しているようだ。
コップを受け取って、さとりの口に氷水が入っていく。両目を閉じた。サードアイだけが、大きく見開いている。
力の抜けるような、スーッとする何も無い感覚が満ちる。
ただ、何もない――しかし、そこには自分がいる。
文が机を鳴らす音も、おりんの心配している様子も、さとりには無としてすり抜けていった。
「ありがとう」
さとりは言いながら、コップを返した。
背筋を伸ばし、盤面をみる。ゆっくりと手がコマにかかり、前へ進む。
おりんが両手を組みながら、祈るようなポーズをとっている。さとりは、何も感じない。
「うーん、少し嫌な位置に置かれた気がします」
「少しじゃないわ」
「……そうですか?」
「大きく嫌になるハズよ」
「ハッタリですかね、この状況じゃあまり効果はありませんよ?」
文は大げさに、振りかぶるようにコマを起く。
「いいえ、ハッタリでもない」
さとりは、小さな人差し指をかけて、またポーンを前進させる。音はしない。
「ふん、いいですよ、今更言葉攻めなんてしたって私は動揺しません!」
「動揺してもしなくても、変わりはないのです。貴方の思考は関係がない」
さとりは、ひたすらにポーンを進める。文が何をしても関わりが無いかのように。
「貴方は、勝てない。私と貴方では、私の方が勝ちへの意識が強いわ」
「……?何を言っているんです?」
「貴方には負けない、そう言っているの」
文の叩きつけたナイトが飛び跳ねる。さとりがそっと置き直し、ポーンに手をかけた
「それはこちらのセリフですよ!チェックメイトです!!」
ひときわ大きい音が鳴り響く。
古明地さとりは、紅茶を飲む。音は鳴らない。
7月にさしかかろうとしている地霊殿の温度は地下にありながら真夏日である。
この暑さに用もなく長いする理由はないだろう。それは人でも妖怪でも同じである。
文は山へと帰った。何度も首を傾げながら、亀のようなだらしの無いスピードで飛んでいった。
さとりは手元のフィルムを人差し指に巻きつけると、文の飲むハズだったカップの中に弾き入れた。
チェスは終盤、文が決定的なミスをおかす。クイーンでチェックメイトをしたつもりだったようだが、そのクイーンはポーンの斜め前にあったのだ。
クイーンを失い、更にポーンが盤面の端まで到達し、どんな役にもなれる権利を獲得すると、成ったクイーンでそのまま勝ち進めた。
文は将棋なれした自分のミスだった、と悔しがっていたが――あんな位置にポーンがあったけ?と延々盤面の動きを思い返していた。
勝負事に負けた後は、非常に大人しいものだったが、「また来ますんで!」と再訪宣言だけはしっかりとしていた。
さとりは、文の無念そうな顔を思うかべるのをやめて、グラスに入った紅茶を飲みほした。
おりんがゼリーを、お盆に置いてやってくる。何度もおりんを往復させるのは忍びなかったが、さとりは動く気力はなかったのでありがたく手に取る。
おりんは、文が帰るのを失礼を顧みず、ジャンプを繰り返していた。ニャーニャーニャーニャー煩く鳴いていたが、興奮は冷めないようだ。
「さとり様、鮮やかでした!最後のポーンがクイーンにプロモーションしてからの逆転劇!!」
「それはどうも」
「さとり様、あんまり嬉しそうじゃないね?どうしたの?」
「心にはね、全てを反映しきれない事があるの。心を鏡で写しても、そのままは返ってこないわ。その事を改めて解らされたような気がする」
「うーんと」
「――つまり、貴方が感じているよりは、私も嬉しいのよ」
おりんは良くわからないという顔と鳴き声を発した後、猫型に戻って隣の膝に胡座をかいた。
「わからないからこそ、わかろうとするのかしら」
そうね、とさとりは呟く。
7月の暑さは、これからナリを静めるだろう。さとりは、今日中に灼熱地獄後地に行く予定をたてた。
予定時間までは、なるべく動きたくなかった。暑くてもゆったりと、くつろいでいたい。
ついでに、おくうの阿呆に多大な力を与えたという山の神に、責任を押し付けて涼しい風を地下におこしてもらいに行こうか。
風のない、ひたすらに暑いベランダでぼんやりとさとりは考えた。考えるためには気力を取り戻さねばならない。
目線を感じると、さとりは微笑み返す。
ゼリーがのった皿を、食べやすいように差し出してあげた。
古明地こいしはゼリーをすくう。音は鳴らない。
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人生初の二次創作小説である。ハズカチイ。