私は、眼前に広がる蒼月をただ見上げていた。
月の子
私はこの時代無職と称されてしまう物書きだ。物書きは定職とは認められないこの世の中だが、私はあえてこの職を選んだ。
自由気ままに時間に縛られることの無い生活と言うものを私は若いながらに望み、太陽が昇ったら起き、沈んだら眠るという老人のような生活に憧れていたのだろう。
だが、私はそんな憧れとは裏腹に昼夜逆転した生活を送っている。昼は寝て、夜に起きる。
こんな生活が身体に良いわけがないと私自身が自覚している。
なんとか最近は、新聞が来るころに寝て、太陽が一番輝く時までには起きあがれている。推測だが、このまま少しずつ寝入る時間をずらしていけば元の生活に戻れるだろ。
私は先ほど言ったとおり売れない物書きとして細々と自由気ままに毎日をつつがなく過ごしているわけだが、やはり締め切り前と言うものの辛さは計り知れない。
締め切りとは、物書きと編集者―担当との戦争とも言えるだろう。しがない物書きでしかない私は、情けない事にこの戦争に勝ったことが無い。
まぁなんだかな、こう物書きはやはり道楽で、どう考えても趣味の部類に入る職だが(職というのもおこがましいやもしれぬが)それを定職とした自分が可笑しいやら情けないやら。
なんだかんだ言いつつ苦笑を浮かべてみようとも、私がこの職を愛している事に代わりは無い。
私は決して豪華とはいえないが、程々に大きな親が残したこの屋敷の一番日当たりのいい部屋を陣 取っておきながら、太陽を拝むことなど殆どない。このぼろいくせに広いこの屋敷のほかの部屋は下宿として開放し、下宿人から少しの宿代を頂き、もし原稿料が入らなかった時のための頼みの綱としていた。
私は乱雑に伸ばしたい放題の髪だけをまとめ、いつもの甚平姿で珍しく太陽を拝む事にした。
久しぶりに障子を開け窓の外を見やる。この朝露に光る庭の木々やさんさんとふる太陽の光は、やはり眠気眼の私の目には少々刺激が強い。
大あくびをして、私は自室から顔を出す。
「山本~、畑川~」と、数回連呼してふと気付く。
今は高等学校は長期休みで、この広いおんぼろ屋敷に今は一人なのだと。下宿を始めてからついぞ 感じていなかった孤独と言うものが、ふと胸にこみ上げる。
大家というものを副業とし、自分のことを『私』などと言ってはいるが、私はまだ一応20代ではあるのだ。
ふと、私がこの屋敷の大家としてこの屋敷に帰ってきたときの事を思い出した。
大家である私が屋敷に着くよりも早く、父に仕えていたお手伝いのトメさんが、下宿人に部屋を割り振った後、暇をもらっていった。新しい大家に老人が来ると思っていたらしい下宿人どもは、今度来る大家にとプレゼントを用意していたのだ。それがまた、当時老人どもが大好きな何とかって言う誰かのレコードと、竹箒。
私がこの屋敷に訪れた当日、下宿人どもは私を見て絶句し、この2つを押し付け各部屋に篭城と決め込んだ。この時の彼らの顔は生涯忘れないだろう。
仕方が無いので、後日この2つを隣のウメばあさんに上げたことはよく覚えている。
私がこんなことを考えつつ、なぜ早く起きてしまったかなど誰も知る由もない。当たり前だ、私の朝なのだから。
覚えている限りでは、確か今日は子供たちに読み書きの講師に行く日だと思い出したからだ。一応大学まで卒業し、教員免許は取っていた事が、町役場の誰かにばれたらしい。
この町の知り合いの教師のよしみもあって、物書きなどをやっている私に最初は作文の添削が依頼され、足を運ぶようになった。この仕事は、ボランティアだ。
久しぶりに家から出るわけだし、服装くらいは整えないといけないだろう。とりあえず箪笥からカッターシャツを出し、押入れの肥やしになりかけていたスーツを着込む。ネクタイは…なくてもいいだろう。
そこら辺に投げ出したブラシで髪を梳き、フレームの無い眼鏡を掛ける。ぼわっとしていた風景が一瞬で引き締まった。
先月か何ヶ月前に行ったのかもう覚えていないが、その時に使ったであろう鞄が、荷物をそのままに棚に置かれている。
私は鞄を持ち、屋敷から外へ出た。
「………」
言葉を失うとはまさにこの事かと、私は自分でそれを体感した。
足元に銀色の塊。
ここで狼狽せずに、ただ絶句という手段だけですんだ私の心臓はそれなりに強いらしい。
小さな銀色の塊が私に向かって小さな手を差し出している。あぁ、銀色の塊と言ってしまうと誤解が生まれる。銀の髪と銀の瞳の小さな子供。
私は地面に蹲り、どこから来たのか分からないその子供を真正面に見据える。
まっすぐに私を見返す瞳が、あの蒼い月に似ていた。
結局、読み書きの講師に行くことなく、私の隣にはあの子供が座っている。
迷子かもしれないと交番に寄ろうと思った私の服の裾を引き、屋敷に連れ戻したせいだ。
「名前は?」
本日何回目かの質問をこの子供に投げかける。蒼い月の銀の子供は私の言葉を理解していないのか、耳が聞こえないのか、首を傾げるでも無く、ただ私を見ている。
見つめられる状況になんとなく居住まいが狭い私は、ただただため息をつき、子供を見る。
これ以上同じ質問を繰り返していても堂々巡りだろう。
私は仕方なく売れないながらも原稿に取り掛かる。
私の後ろでは、あの子供がずっと私を見つめている視線をずっと一日感じなければいけなかった。
「お坊ちゃん!そろそろ夕飯じゃありませんかね!?」
屋敷中に響く声。
時間を忘れて原稿に没頭していた私ははっとして顔を上げた。
この声は隣のウメばあさんの声だ。
「はーい!」
良く分からないおざなりな返事を返し、私は玄関の方へ顔を向け、ふと思い出した。
私の声にはまったく反応さえも示さなかったあの子供が、ウメばあさんの声に反応して同じように玄関に顔を向けている。
私はゆっくりと立ち上がり、ウメばあさんが作ってくれたであろうおかずを取りに自室の障子に手を掛けた。
「……?」
またも、子供が私の甚平の裾をつまんでいる。じっと睨みつけるように私を見上げて、また服の張りが強まる。
「勝手に上がりますよ!」
「あ、はいはい、ウメばあさん今行きますよ!」
部屋から顔を出して、玄関に向けて大声で答える。私は服から子供の手を解いて、部屋から出る。
「なんですかい坊ちゃん。居るなら早く出てくださいよ」
玄関から屋敷の台所に移動していたウメばあさんは、そのしわくちゃの顔でいぶかしげに私の後ろを見ているようだった。
「おや?坊ちゃん、その子は?」
私ははっと後ろを振り返り、視線を下に移動させる。
あの子供は私を一回見上げ、ウメばあさんに視線を移動させた。
「異人の子供さんかね。可愛いねぇ」
深く刻まれたしわで、いつも怒っているのか笑っているのか分からないウメばあさんの顔が、今日は本当に笑っていると見て分かった。
あの子供はウメばあさんに頭を撫でられ、嬉しそうに笑った。
今まで私には至って無表情だった子供が、無邪気に笑っている。この子が何処から来たのかも、親が誰かも分からないのに、なんだか、それだけで私はほっとしてしまった。
「月…だな」
「ん?どうしました?坊ちゃん」
ウメばあさんに問われ、私は顔を上げる。
「実はな、ウメばあさん」
これと言って特別でも得意なことでもなかったが、私は今朝あった出来事をウメばあさんに話して聞かせた。ウメばあさんは小さく唸ると、この子供を抱きしめ、また頭を撫でた。
「月ちゃん…ですか。よう似合っとりますよ。当分坊ちゃんがお世話してくれはるでしょう」
今までウメばあさんに撫でてもらって笑っていた月が今度はどこか泣き出しそうに見えたのは気のせいだろうか。
その後、そのままウメばあさんも含め、3人で夕食を平らげた。月は箸が使えなかった事が相当悔しかったらしくむきになって箸でさして食べていた。そんな光景がほほえましくて、私とウメばあさんは顔を見合わせて笑った。
今日は朝(と言ってももうお昼近かったが)から町中が騒々しく、夜分遅くに就寝した私もその騒動に目を覚ました。
「坊ちゃん!片倉の坊ちゃん!」
洗面所から肩にタオルをかけただけの格好で、私は玄関に顔を向けた。
「どうしたんですかぁ?」
半分眠っている私の口調はどこか間延びしていたが、次の一言で私は完全に覚醒した。
「隣の、ウメばあさんが死にました」
なん…だって……?
昨日の夜一緒に夕飯を食べたばかりだ。あんなに元気そうだったのに、どうして、そんな、いきなり。
言葉をなくして立ちすくむ私に、丸い帽子を胸に当てた青年が、つらつらと話し始める。
「今日、ホシばあさんが…ウメばあさんとお茶飲みの約束をしていたそうで、あまりに遅いので迎えに行ったら布団の中で冷たくなっていたそうです…」
ただただ放心して、青年の言葉を聴くだけの私に、状況とこれからの通夜・葬儀の話を形式的に告げる。私の覚えが確かならば、この青年はウメばあさんと親しかった現町会長の息子だ。そうとう辛かったのだろう。俯いてそう話す青年は、一度も顔を上げる事無くただ床だけを見つめていた。
「…分かりました。わざわざ、ありがとうござます」
深く頭をたれお辞儀をし、屋敷を去っていく青年の姿をただ見つめる。町会長の務めとして、町全体に通夜と葬儀の時間の連絡をして回るのだろう。ウメばあさんと親しかった彼にとってそうとう辛いはずだ。だが、それ以上にこれは自分がやるべき事だと決意している様が窺い知れた。
タタタタタ……
私ははっと顔を上げ、屋敷の中を振り返る。
月が、そっとこちらを見つめていた。
「今夜の通夜、月も行くかい?」
たった一夜、夕食を共に過ごしただけの関係。
それでも、月にとっては衝撃だったのか、その銀の瞳を大きく見開いていた。
駆け寄ってきた月は、私の服の裾をぐっと掴み首を振る。
「行かないのか?」
また首を振る。
「行くのかい?」
またも、首を振る。
私はしばし、思案を廻らし、こう問いかける。
「―行って欲しくないのかい?」
月は静かに頷いた。
私は月と同じ高さになるように膝を曲げ、
「ウメばあさんは、ずっと私に懇意にしてくれた人だ。その人が亡くなったのに、通夜にも葬儀にも出ないのは失礼というものだろう?」
諭すように告げた私に、月の顔は辛そうに歪んで、そのままぎゅっと私にしがみつく。
仕方なく月を抱きかかえ、私は今夜の通夜の為に、礼服を探す。帰郷したその日に掛けたままの状態でクローゼットの中にひっそりとあった。
片手でしがみつく月を抱え、片手でネクタイやら靴下やらを探す作業は骨が折れたが、思いのほか軽い月の体重に私はただ首をかしげた。
通夜は明日の5時か…
一通りの準備をし終えた私は、だんだんと騒がしくなる隣の音を静かに聞いていた。
ウメばあさんの息子や娘たちは皆上京している。
一番最初に帰ってきた長女がさっさと通夜と葬儀の日取りを勝手に決めた事に、兄弟たちが怒っているらしい。
誰も、ウメばあさんが死んだ事に悲しむ族(やから)は居ないのだろうか。
一日、隣から聞こえる喧騒に私は頭を苛まれながら、筆が進むはずもなく、私は知らずに眠りに就いていた。
『蒼い月を見たのかい?』
私は、顔を上げる。そこには、青く輝く銀色の長い髪を持ち、銀色の瞳を持った青年が足を組み、妖艶に微笑んで私を見下ろしていた。
背後には、蒼い…月。
『知っているか?“月”は死の象徴。死人が住む架空の都』
クックックと喉を鳴らして笑う。
『せいぜい死を弄ぶがいいさ』
この青年は、何を言っているのだろうか。
青年の言葉が理解できぬまま立ち尽くす私を尻目に、青年はあの蒼い月に溶け込むように消えてしまった。
「…っ!!?」
はっと目を開けた私の顔を、月が心配そうに覗き込んでいた。
汗でびっしょりとした身体を起こす。呼吸がやけに荒く、心臓が早鐘を打ち鳴らしていた。
「夢……?」
そっと布団の端に座り込み、私を見上げている月に、視線を向ける。
あの、青年と面影がだぶった。
「つ…き……」
そっと伸ばされた小さな手が私の左頬に触れ、初めて月が口を開いた。
通夜も葬儀も失礼だとは思いつつも、月は私から離れようとせず、屋敷から外に出ている間ずっと私の視界の半分を奪って動こうとしなかった。
私が月と現れた事に周りは一瞬騒然としたが、10年近くも町に帰らなかった私に、隠し子が押しかけてきたという結論で決着がついたらしい。
噂名話しや憶測など何もしなくとも、いつかは消え行く話し。いちいち反論するのも面倒くさい。
私はそうそうにお焼香を済まし、長女にウメばあさんにお世話になったことに対するお礼を述べ、屋敷へと逃げるように帰宅した。
ウメばあさんの葬儀から数日、まったく筆が進むこともなく、私は布団の虫とかしていた。まともな食事は久しくしていない。
小さな子供の月には流石に申し訳なく思い、冷蔵庫と棚をあさり簡単な食事を与えてやる。
そろそろ本格的に迷子や家出人として警察に届けなければいけないだろう。
「片倉!片倉 真尋!」
台所でお菓子をほお張る月を、微笑ましげに見ていた私に弾丸のような声が降りかかる。
あの声は、担当の根岸だ。
「原稿なら、出来てないぞ」
私は玄関へ赴きもせず、台所から叫ぶ。
「そんな事は何時もの事だ、分かっている!」
根岸も負けじと玄関から声を荒げているようだ。
「だが、俺は負けんぞ!原稿が終わるまで寝かさんからな!」
近所迷惑になる前にそろそろ止めて欲しい。
まて、今、原稿が終わるで寝かさないとか言わなかったか?
ずかずかとやけに足音を響かせて、根岸が屋敷に乗り込んできた。仄かに、そのまま気が付かず私の部屋へと赴き、台所を無視して行ってくれることを期待した。
「片倉~~!」
あ、ばれた。
背後から掛かる声に、私は振り返る事無く机に頬杖を付く。
変わりに、月が根岸を見上げた。
一瞬の沈黙の後、「隠し子か、片倉?」などと町人等と同じ反応に私はため息を隠せなかった。
「迷子だ」と、簡単に言葉を済ませ、最大の敵である根岸を視界に捕らえないようにしながら、私は自室へと足を向ける。
ここで目を合わせたら、死ぬまで書かされる……。
自室へと足を向けた私に、月は椅子から飛ぶように降りて、パタパタとその後を着いてきた。
「やっぱり、隠し子だろう…」
などの根岸の言葉をバックにして。
この根岸の襲来から48時間。私の自由は奪われた。その間、寝ろと言ったのに、月はずっとそばで座っていた。
筆を手に持ったまま抜け殻のようにフラフラしながら原稿を根岸に渡たす。
「確かに、受け取ったよ片倉」
手からポロリと筆が落ちる。口元が乾いた笑いを浮かべているのが分かった。私が48時間耐久レースに耐えていたのに、根岸ときたら憎たらしいくらいに肌艶がぴんぴんとしている。
ぽんと肩を叩かれて、私はやっと根岸に引きつった笑いを返した。
「あれ?片倉、お前――…」
根岸が口を開いた瞬間、月が私に覆いかぶさるようにしがみつく。
「月…前が見えない」
私の言葉にも月は動じる事無くしがみついたままだった。 根岸が笑ったような声が聞こえる。
「じゃあな片倉。来月も頼むよ」
根岸が居るであろうと思われる方向へ手を振って、私は引きっぱなしの布団へと倒れこむ。
そのまま泥へ落ちるように眠りにつき、夢を見ることは無かった。
うっすらと瞳を開けた時、部屋が真っ暗で今が夜なのだと分かった。障子の隙間から臨む月の光に、私はすっと瞳を細くする。
「月…?」
月の光が線となって差し込む障子に視線を向けると、月がじっと窓の外を見つめていた。
私は起き上がり、月の後ろへとゆっくりと歩くと、月が見つめている外へと視線を向けた。
「蒼い…月?」
心臓が、跳ねた。
月がゆっくりと振り返る。
―――その顔は、笑っていた。
唇が薄く開く。
「つきヲ、かえシテクレル?」
「帰りたければ、帰ればいいじゃないか」
見上げた月に、私は答える。
その答えに、月は複雑に歪んだ顔を見せた。
数日後、私は電報で根岸が死んだ事を知る。
なぜだ?
ウメばあさんに続いて、根岸まで…
ウメばあさんは大往生かもしれない…
でも、根岸は、根岸は……
憎まれ口を叩きながらも、彼はいい友人だった。
左目が熱い。
「つきヲ…」
月がそう呟きながら、私に手を伸ばす。
パンッ!
思わず手を振り払っていた。
月は弾かれた手を凝視して、そのまま固まっている。
「すまん……」
私は頭を抱えたままその場に蹲った。
こんなにも喪失感があるのに、こんなにも虚しいのに、不思議と涙は出なかった。
今度こそ完全に止まってしまった筆に、私は毎日をただ何をするでもなく過ごしていた。
「片倉さん」
魂の抜け殻のように縁側で日向ぼっこをしていた私に掛かる声。
視線を向けると、生垣を少し手で押させて軽く手を上げたのは、私に子供たちの読み書きの講師を頼んだ、あの教師だった。
「子供たちに片倉さんは来ないのかと、せっつかれましてね」
生垣から表門へ移動し、庭に入ってくると、帽子を取って軽く会釈する。
「いや、すいません。最近、いろいろな事が多すぎて…」
私は照れ隠しに頭をかいて、苦笑を浮かべる。
「たまには、気分転換がてら散歩でもいかがですか?」
教師の提案に乗り気ではなかったが、ここで断るとまた屋敷に来そうだと思い、返事を返そうと顔を上げると、また月にしがみつかれた。
教師はしがみついた月を見た瞬間、ぱっと顔を輝かせ、
「その子が、片倉さんの隠し子ですね!」
ウメばあさんの葬儀で広まった噂が消えるどころか定着しているらしい。しまった、否定すればよかった。
教師は何が嬉しいのかニコニコと笑って月を見ている。
「お名前は何ですか?」
私としがみついている月に近づいた教師は、月を見下ろして笑顔で問いかけている。問われた月本人は、そんな教師をじっと見つめているだけだった。
「月だ。言っておくが、私の子じゃない」
観念して、私が口を開く。
「おや、そうなんですか?でも、この懐きようには、誰だって実の子だと思いますよ」
私は長いため息を付いて、教師の言葉を一掃する。
「月くんも、片倉さんの読み書き教室に一度おいでなさいな、楽しいですよ」
「散歩に、行きますよ」
私は縁側から首に月をぶら下げて立ち上がる。そのまま自室へと戻り、軽めの外着に着替え、下駄を履いてぶらぶらと外へ出た。
案の定、月はその間中、私から降りることは無かった。
後日、教師に言われるままに久しぶりに、あの日、月と出会った日に着て行こうとしたスーツを羽織り、読み書きの講師に行こうと鞄を持つ。
本当に早朝に起きて家を出れば月を起こさずに済むと思ったのだが、私が起きた時に月はもう目を覚ましていた。
私は朝の清々しい間に、読み書きを教えている教室がある木造校舎に足を踏み入れた。振り返ることはしなかったが、月も私の後を小走りで追いかけて来ているようだった。
いつもなら私より早くこの校舎に来ている教師の姿が見えなかったが、私は何の気にもせず教室へ入った。人間遅刻することもあるだろう。
多分2ヶ月ぶりに入る教室。私はこの教室の一番後ろの開いた場所に、一つ椅子を置く。
「月」
誰もいない教室の入り口で立っていた月が顔を上げる。
私は椅子を指差し、月に向けて微笑む。
「ここが、月の席だ」
月は私が指差した椅子に歩み寄り、私を見上げる。
私は月を抱き上げ椅子に座らせると、にっこりと微笑んだ。
椅子に座らされた月は、一瞬困惑したように瞳を泳がせたが、腕を伸ばしいつも出かける時のようにしがみついてこようとしたが、今日だけはさっと避ける。
「今日は抱っこはダメだ。月はそこに居なさい」
月が顔をゆがめて椅子から立ち上がろうとした瞬間、教室に子供たちが次々と入ってきた。
「あ!片倉先生!」
元気な子供たちが叫んだ声でビックリしたのか、月は椅子から立ち上がるタイミングをなくし目を白黒とさせている。
「あー、この子が片倉先生の隠し子ねー!」
どこまでその噂広まってるんだ……
私はがっくりとうな垂れながら、乾いた笑いを子供たちに返す。女子たちの台詞は一点して「可愛い」の一言だった。
時間も8時半を過ぎ、子供たちが教室に揃う。
「今日は、山崎先生遅いね」
そう、遅くとも子供たちが揃うまでには校舎に来ているあの教師が今日は来ていない。
「まぁいいじゃん!片倉先生!今回は何するの」
教卓の前で、思案顔で口をゆがめ教室中を見回すと、子供たちのワクワク顔が私を見ていた。
「今日は山崎先生も居ないしな、言葉遊びでもしようか」
「えー、先生それ普通に授業だよー」
などと軽口の野次が飛ぶ中、それでも子供たちは楽しそうに私の言う事を聞いてくれた。
授業開始から20分ほどたった時、急に廊下に大きめな足音が響く。私は顔を上げると教室の扉の隙間から、他の教師が手招きしていた。
子供たちはそのままに廊下に出ると、
「片倉さん…、あの山崎先生が、お亡くなりになったそうです…」
「なんで…すって…?」
まただ、また、死ぬはずの無い、いや、突然に死にそうにない人が死んだ。
私は教室に向き直り、子供たちに今日はこれで終わりだと告げる。私は足早に屋敷に帰り、スーツを脱ぎ捨てた。
なぜだ。なぜなんだ。
なぜ、私の周りで人が死ぬ?
――まさか……
私がばっと振り返ると、月が部屋の入り口の前で、うっすらと微笑んでいた。
私はぞくっと背中に悪寒を感じて布団にもぐりこむ。
「つきヲ……」
「来るな!!」
月の足元が視界に入り、私は頭から布団を被った。
ドクドクと心臓が鳴る音で一向に眠りにつける気配は無い。
ただ気配だけで、月が私の布団のそばに居ることが感じられた。
怖い。
私は、今、初めてこの子供が怖いと思った。
月が来てから私の周りで人が死ぬようになった。それも、月とあったことがある人ばかり。
いや、正確には違うだろう。
月と出会ったウメばあさんの親族や、散歩中にすれ違った町人たちは死ななかった。
じゃあなぜだ? なぜなんだ?
月と――…
私の仮説が正しければ、数日以内にあの教室に居た子供たちは全て、死ぬ。
『“月”は死の象徴。死人が住む架空の都』
動悸が激しくなり、どっと汗が噴出した。
仮説どおり、風の噂で山崎先生の教室の子供たちが全員死んだ事を知る。
「なぜだなぜだなぜだ!!」
私は狂い掛けていた。月の肩を掴み、その小さな身体を揺さぶる。
「なぜ私の前に現れた!」
月が静かに笑っている。
「お前が…お前が現れたせいで…!」
最初は隣のウメばあさんだった。
次は、担当の根岸。
それから懇意にしている教師、そして読み書きを教えている子供たちが、全員死亡した。
私の仮説は真実になってしまった。その現実に、ただ泣き崩れて、蹲る。
「つきヲ、かえシテ」
無表情に、無感情にそう告げる月の唇。
薄笑いさえ浮かべているそれに、私は戦慄を覚え、気がつけば月の首を両手で締め上げていた。
「っ……」
ギリギリとしまっていく手に、酸欠を起こしているであろう月の顔は、やけに人間じみていた。
私の両手を必死にはがそうと添えた両手から、カクンと力が抜ける。
「っぐ!?」
その、瞬間だった。
苦しさに閉じられていた瞳がばっと開き、私は銀色の光に弾き飛ばされていた。
壁に背中から打ち付けられ、肺にうまく酸素が行き渡らず、私はその場に倒れる。
「つき……」
私の傍らに座り込んだ月の首筋には、指の後がくっきりと残っていた。
月が…こいつが来てから、私の周りで人が突然死ぬようになった。
こいつは、死神だ!
「つきヲ…」
口を開くようになってからずっと言い続けているその一言を呟きながら、月の手が私にのびる。
だんだんと指先が、眼前に迫る。
「…つ…き……!?」
声にならない悲鳴が屋敷中を満たす。
鉄の匂いが鼻腔をつく。
私は熱で麻痺した瞳を、そっと開けた。
――――懐かしいな蛍だ。
そう、青白い光がまるで蛍のようにふわふわと浮いてる。
私は、そっと半分の視界で月を見上げた。
「つきハ、かえシテもらッタヨ」
指先から滴る赤い雫。妖艶な微笑で、大事そうに何かを抱えている。
「あおイつきニみいラレタ、かわいソウナおとこ…」
眼前に迫る月の顔が泣き出しそうに歪んでいた。
私はゆっくりと瞳を閉じる。
これで、全てが終わるのだろう。
そう、魂を喰らっていたのは――――――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
19××年××月××日
片倉 真尋 28歳
死後1ヶ月たったと思われるが、遺体の損傷箇所、左眼球のみ、腐敗、腐臭、その他一切の損傷箇所なし。
――――死因、不明
ただ、血の涙を流し、ほのかに微笑むようにして死んでいた事が確認されている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私は、眼前に広がる蒼月をただ見上げていた。
Fin.
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昭和レトロな雰囲気。
私は、眼前に広がる蒼月をただ見上げていた。
書いたのは、だいたい2005年くらいだったような記憶。
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