それは、魏による三国鼎立が為されたことを祝うための、祝賀の席が設けられた日の夜だった。
「……ったく。こんな大事な日の大事な席から抜け出すなんて、あいつは一体何を考えているんだか」
世紀の偉業を成し遂げられた、我らが敬愛する主君である華琳さまを囲み、皆が大盛り上がりでいたその最中。わたしはふと、そのことに気がついた。普段なら、皆に囲まれて散々おもちゃにされているはずのあの男のその姿が、宴席のその何処にもいないことに。
「厠でも行ってるんでしょう。すぐに戻ってくるわよ」
その事をちらと口にした私に、華琳さまを始め、皆一様に同じことを返してきた。その私も、始めのうちは皆と同じく、すぐに何事も無かったように戻ってくると、そう思っていた。
けど。あいつはなかなか戻ってくる気配を見せなかった。華琳さまもさすがに気になったらしく、初めはご自分で探しに行くと言われたのだが、次々とやってくる呉や蜀の者達に、なかなか自由にしてもらうことが出来ず。最終的に私があいつを探しに行く羽目になった。
「ほんと、いつでも勝手すぎるんだから、あの精液男は。いつもいつもみんなに迷惑ばっかりかけて。ちょっとは反省するって事を、覚えて欲しいもんだわ」
ぶつぶつと。そいつに対する文句を一人呟きながら、私は始めに、厠のほうを覗いてみた。けど、そこには誰の姿も無く、今度は庭のほうに足を向けた。夜風に当たって、酔いでも覚ましているんだろう。そうあたりをつけたわけだ。
「……ここにも居ない、か。ほんと何処へ行ったのやら」
結局そこにも姿の無かった彼。もう戻ろうかと思って宴席場のほうへときびすを返した私だったけど、最後に近くをたまたま通りかかった兵士の一人に、あいつを見なかったかと尋ねてみた。
「……様でしたら、城の裏手にある森のほうへ歩かれるのを、先ほどお見受けしましたが」
「……裏の森?」
(何でまたそんなところに?……まさか、誰かとこっそり逢引なんて事……?!)
そんな予測が私の脳裏を横切った。魏の種馬と呼ばれたあの男なら、その可能性は十分過ぎるほどある。ましてや、それが華琳様以外の誰かであったなら、それをご報告すれば華琳さまは激怒されて、あの種馬を追放とかされるかもしれない。
「……これは好機!」
あいつさえいなくなれば、この私が華琳様の御寵愛を、この一身に受けることが出来るようになるはず!……そう考えて、私はその森の中へと一目散に駆け出した。
……この胸の中に湧き出し始めていた、とある“不安な考え”を、無意識のうちに封じ込めて。
彼はそこに居た。
真っ暗な森の中に流れる、小さな小川のほとり。そこに、たくさんの蛍の発する光に包まれて、ただ何をするでもなく、ぼ~っと、一人で突っ立っていた。
カサ。
「あ」
「ん?」
足元に落ちていた枯葉を踏んだ。そうして出た小さな音で、彼も私に気がついたようだった。
「……桂花か」
「桂花か、じゃないわよ。何やってんのよあんた、こんなところで」
「……いや、な。なんとなく、ここに来て見たかったんだ。……そう、それだけだよ」
憂い。いや、寂しげ、と言った方がいいか。私の言葉に、そんな表情を顔に浮かべ、そいつは私にくすり、と微笑んで見せた。
「……そ。まあいいわ。で?いい加減気が済んだ?だったらそろそろ」
「……なあ、桂花」
「?……何よ」
「……俺ってさ。幸せ者……だよな」
「はあ?」
どうしちゃったっての、この馬鹿は?突然変なこと言い出してさ。
「……んなもの、当然に決まってるでしょうが。なんて言ったって、あんたは曹孟徳様の大偉業に貢献した、魏の柱石と言ってもいい人間なんだから」
「……はは。まさか、桂花にそうまで言ってもらえる日が来るとはね。最初に会ったときには夢にも思って無かったよ」
「……か、勘違いしないでよね?!私はただ単に、事実を述べただけなんだから!今だって、あんたのことなんか、なんとも思っちゃ居ないんだからね?!」
「はいはい」
ははは、と。彼の言葉に慌ててそう返したこの私に、いつもの、皆を惹きつけて止まないその笑顔を見せ、笑って見せた彼。けど、それはどこか空ろな、無理をしている笑いに見えたのは、私の気のせいではなかった。
そう。
そうして笑っている彼の姿が、一瞬、透けて私には見えたから。その事に、私は気がついてしまったから。
「あんた……それ、何よ?なんで、体が透けて……」
「……始まっちまった、か」
「何、を……」
「因果応報……だってさ。歴史を変えてしまったという、大きな流れの変革の代償……らしいよ」
「因果応報?歴史を変えた、流れの変革への代償?一体何のこと……ハッ。まさ、か」
思い当たる節が、私の脳裏に出てきた。
春蘭と秋蘭を救ったこと。赤壁の戦い。そして、魏による三国鼎立。
それらを為した後の、彼の身に起きた不調。もしもそれが、本来あるべきだった結果を、強引に捻じ曲げたためだったとしたら?天の御遣いでもある彼は、先々に起こる事柄を時々予測し、結果、そのことごとくを防いできた。けど。
「……あんた、まさか」
「……本当はさ、誰にも気づかれずに、この世界から消えるつもりだったんだけど。まさか桂花が俺を探しに来るなんてさ。神様だってこんなこと予測できなかったろうな」
「……じゃないわよ」
「え?」
「ふざけるんじゃないわよって言ってるのよ!何勝手に一人で決めて一人で行こうとしてんのよ!あんたが居なくなったら!華琳さまも他の皆も泣いて悲しむことぐらい分かってるでしょうが!」
……思わず叫んでいた。なんだか目頭もとっても熱く感じる。多分そういう私も、、今、泣いているんだと思う。
「桂花……」
「だから消えるなんて事言うんじゃないわよ、この変態精液男!あ、あんたが居なくなったら、皆、みんな、みんな……!!」
感情が高ぶって声が出なくなるなんて、正直今まで経験したことの無いことだった。頭の中も完全に真っ白になっていって、何をしゃべっていいのか分からなくなってくる。そうしているこの間にも、彼の体はどんどん希薄になっていく。細かい光の粒子が彼の体から立ち上り始め、ゆっくりと天に向かって昇りだす。
「……もう、半分くらい見えなくなってきた……かな?……桂花」
「……え?」
そっ、と。私の体を、彼の腕が包み込んだ。半透明になって、半分消えかけたその腕が、私に彼のぬくもりを伝えてくる。
そんな彼の行動に、私は普段どおりに、彼のことを引っぱたいて、散々に……罵りだす。
……そうしようとしている。
している筈なのに。
どうして。
何で。
動かないの?
口を開けないの?
たった一言。
『離しなさいよこの変態!』
それだけ言えばいいだけなのに。
どうして?
なんで?
出てくるのは、これでもかってくらいの、こんな、涙だけなのよおっ!!
「北……郷……っ!!」
「せめて最後ぐらいは、一刀って、呼んで欲しかったけどな……」
「あ……!!」
さらに薄く。姿がぼやけていく北郷。もう、輪郭くらいしか、彼の体は見えなくなって、いた。
「……これが……最後……かな……?桂……花……」
「い……や……」
「さよなら……小さな名軍師……」
「あ、あ、あ……」
手が伸びる。
「さよなら……天邪鬼な……でも……それでいて……」
「い、や……いや、あ……!」
腕が、もがく。
「……とても……優しい……素敵な……女の……子……」
「いや!いや!いや!いや、いや、いや、いや、いや、いやあ!!」
駄々をこねる、幼子のように。
「……さよなら……桂花……」
「いや!おねっ、がっ……!い、逝かなっ……でっ……!!」
もう、掴むことのできない虚空に、必死に、伸ばす。
「……愛……してる……よ……けい……ふぁ……」
「いやああああああああああああああっっっっっっっっ!!!!!!!!!」
そして、腕は空を切った。
消えた。
消えた。
消えた。
消えて……しまった。
天へと昇る、その、まるで蛍の光のように、彼は、無数の光の粒になって。
私の前から、消えて、しまっ……た……。
目から溢れるは滝の如き涙。
その落ちる先には自分の手。
そして、あれほど無数にあった、彼の残滓の、最後のその一粒が、ゆっくりと、私の手を離れて舞い上がり、そして、虚空の闇へと、消え去っていった。
「……」
なにも、考えたくなかった。
今、何かを考えたら、何かを口にしたら。
ただの少女になって、“愛する人”の名を叫んでしまいたくなる、そんな、らしくない自分がそこに居たから。
そう。
今頃になって、私は思い知ってしまった。
愛する人。
私が、この世でもっとも嫌いだと、そう思っていたその人を。
本当は。
心の底から愛していたのだと。
彼が消えた今の今になって、私は、ようやくそれを、自覚出来た。
すべては、もう、手遅れなのに。
その人は、もう、ここに居ないのに。
「……か、ず、と……」
こえが、でた。
「かず、と……っ!」
でて、しまった。
「かず、とおぉぉぉぉっっっ……!!」
夜の森に、私の声がこだまする。もう、届くはずの無い、その、愛しい人の名前を呼ぶ、私の叫びと泣き声が、静かな夜の帳のその中に……。
いつまでも、いつまでも。
私がいつまでたっても戻ってこないことを心配し、探しに来た華琳様たちが、小川のほとりで泣き崩れている、私の姿を見つけるまで……。
あれからどれほど月日が経ったのだろう。
私は今、大陸の、とある場所に一人で居る。
……一刀が消えたあの日から、およそ三日ほど私は寝所にこもって泣き続けた。そんな私を気遣ってか、華琳さま始め魏の面々は、事あるごとに私を励ましにも来てくれた。
申し訳なかった。
そして、情けなかった。
天才の名を欲しいままにし、天下にその名を知られた荀文若ともあろうものが、たった一人の男に恋焦がれて泣き続けるなど。私にはもう、魏の軍師として働き続ける自信が無くなっていた。
出会ってからずっと、ただ嫌悪し続けた一人の男を、本当は深く愛していた事に、自分自身で気づけなかった、その事が、本当に情けなくて、許せなかった。
そうして、私は華琳様の下を辞し、一人あてど無く旅にでた。どこかでその内、適当にのたれ死んでもいいくらいの、そんな心積もりで。
それから、一年も過ぎた頃だったろうか。
……あの化け物からその事を教わったのは。
「……泰山に?」
「そうよん。頂上にある神殿に祭られている鏡、あれを新月の日に月に向かってかざせば、ご主・北郷くんの世界に行けるわよん?……ただし」
「……二度と帰って来れない?」
「……せーかい」
……即断だった。
彼に会いたい。彼の傍に居たい。今度こそ、一人の女の子として、彼にしっかりと甘えたい。その、優しい声に、名前を呼んでもらいたい。
華琳様たちに二度と会えなくなるのは辛いけど、それ以上に、私はもうこれ以上耐え切れなかった。
一刀の隣に居られるのなら、私はもうそれ以上は望まない。
だから、私は一人で泰山に登った。
そして、ちょうど新月の夜。月が頂点に達するその頃に、頂上の神殿に辿り着き、中に奉納されていた、その一枚の銅鏡をしっかりと掴み、新月にありったけの願いをこめて、鏡を、かざした。
新月の光が銅鏡に注がれ、そして、銅鏡からは逆に大量の光がこぼれ出す。
『光が鏡からこぼれ出したら、鏡を思い切り地面に叩きつけて割るの。そして強く願うの!貴女が一番会いたい人の傍に行けるように!強く!強く!』
願った。
そして、願いながら、願い続けながら、私は、鏡を地面に、叩きつけた。
世界が、真っ白になった。
私の意識も、そこで途切れようとした。
けど、何とかそれを堪えた。
そして、白い世界の中で、私は見た。
愛しい、夢にも見た、彼の顔と姿を。
そして。
「……一刀おおおーーーーーーーっっっ!!」
叫び、腕を伸ばした。
今度こそ、素直な自分で居続けるために。
今度こそ、貴方を手放さないために。
柔らかな春の日差しのような、貴方のその笑顔の傍に、今、行きます――――――――。
『また、会えたね』
『会いに来てやったわよ……馬鹿♪』
~fin~
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もはや何番煎じか分からない、魏√の個別ED。
僕なりに桂花で妄想してみました。
・・・もし、ちょっとでも感動したって言ってもらえたら、
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