さざめきが聞こえる。
目を開けば、僕は真っ白な通路にいた。
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立ち上がって辺りを見回す。壁も床も天井も真っ白だ。通路の幅は腕を広げたほどで、天井は軽く跳んだだけで頭をぶつけそうだ。閉塞した空間に、息が詰まりそうになる。
「なんだ、ここは」
呟いた言葉は響くことなく、四方の白に染み込む。
さざめきは止まない。単調な声、優しげな声、嘲るような声。様々な声が混ざっている。どれも聞き覚えのある声で、しばしば言葉の中に僕の名前が聞き取れる。これは僕が記憶している会話なのだろうか。僕の声とは違って、響きあい、互いにぼかしをかけている。ああ、うるさい。舌打ちを合図に、僕は歩き始めた。とにかくここを出なければ。
やがてT字路に遭遇したが、ひとまず僕は、真っ直ぐに伸びている通路を進むことにした。下手に曲がると道が分からなくなる。
長らく歩いた後、ぴたりと立ち止まる。行き止まりだ。先ほど曲がるのが正解だったのだろう。元の来た道をたどり、もう一方の通路へ進む。その通路も四方が白く、最初の道と瓜二つだ。
「どうして僕は、こんなところにいるんだ」
歩きながら、僕は考える。ここに来る直前に何をしていたのか、皆目思い出せない。日常生活を送っていた毎日が、つい昨日のようにも、遠い昔のようにも感じる。奇妙な感覚だ。
またT字路。僕は真っ直ぐ進んだが、久しくして戻ってくることになる。行き止まりだったのだ。
「分かれ道は、必ず曲がる?」
問いかけるも、誰からも答えはない。僕は構わず、通路を曲がって進んだ。そろそろ息が切れてきた。
次に突き当たった五叉路は、非常に難儀だった。どの通路も放射状に延びた通路を、一本一本歩かなければならなかったのだ。
自分が通ってきた以外の三本の通路を調べて、五叉路に戻ってきたとき、僕はため息をつかずにはいられなかった。一本一本の通路が長いせいで、足が重い。
気を取り直して、最後の通路を歩き出す。進むことができる四本の通路のうち、三本は行き止まりだったのだから、この通路は必ず開けているはずだ。これ以上歩ける自信がない。願わくは、この先にあるのは出口であってほしい。
歩みを止めた。通路の先にあったのは、分かれ道ではなく、淡く光る壁だった。出口だろうか。僕は期待を胸に、光る壁へ駆けていった。近くに来ると、光から微かな熱を感じる。隅々まで調べたが、扉の取っ手も装飾もなく、光る以外は今までの白い壁と変わりはない。光る壁へ、手を伸ばしてみる。すると僕の手は光る壁に触れることなく、壁の向こうの空間まで突き抜けた。出口だ! 僕は嬉しくなって、すぐさま光る壁に飛びこんだ。光が僕を包み、眩しさに思わず目をつぶる。
しかし、さざめきが止むことはなかった。光の熱が、徐々に僕から離れていく。着地したのは、踏み慣れた堅い床だ。何となく嫌な予感がして、僕はしばらくまぶたを閉じていた。
覚悟を決め、目を開く。そこにあったのは、クモの足のように枝分かれした、たくさんの通路だった。先ほどの五叉路よりも、通路の数は多い。
通路の白が眼球に突き刺さり、頭の中が白に侵食された。
「……嘘だ」
無意識の内に、口から言葉が零れていく。
「嘘だ嘘だっ!」
真っ白になった脳を抱え、僕は自棄になって走り出した。延々と続く、傷も汚れもない白い壁のせいで、自分が前に進んでいるのかすら分からなくなる。
一体どれほど経っただろう。僕は徐々に減速し、ついに止まった。僕の目前には、無機質な白い壁が立ちはだかっていた。光はない。
もう限界だ。僕はその場に崩れ落ち、肩で呼吸を繰り返した。一体いつになったら、僕はこの訳の分からない迷路から抜け出せるのだろう。先ほどの分かれ道を思い出し、僕はめまいがした。
さざめきは相変わらず止まない。耳を塞ぐ気力もなく、僕は響き合う声が脳内に侵入することを許した。
様々な声が聞こえる。この申し訳なさそうな声は、バイト先の店長だ。僕に謝っているらしい。性別の誤解など、今までに何度もあった。
様々な声が聞こえる。卑しい高笑い。僕をからかっていた連中だ。うるさい、黙れ。お前らに呼ばれる筋合いはない。
様々な声が聞こえる。学友が僕の名前を呼んでいる。親しみと信頼を込めて、僕の名前を口にする。そうか、こんな風に僕を呼んでくれる友達もいたんだなあ。
様々な声が聞こえる。たくさんの声に隠れて、歌を口ずさんでいるのは誰だ? 懐かしい。祖母の声だ。祖母の声を聞いたのは何年ぶりだろう。
僕は昔、自分の名前が元でいじめられていた。ある日のこと、僕は祖母の家へ行って、名付け親である彼女に自分の名前の由来を問うたことがあった。祖母は優しい声で、僕の名前の意味を聞かせてくれた。
温かな思い出に浸っていた僕だが、ふいにあることに気付き、思わず飛び起きた。今まで自分が歩いた通路を、頭の中でなぞっていく。T字路を左折、次のT字路を右折、五叉路、開けていたのは斜め左の通路。そしてたどり着いた、たくさんの分かれ道。
「これって」
いとも簡単な答えに、笑い出しそうになる。こんなにも近くに、さざめきの中に、答えは存在していた。ただ僕が、耳を貸さなかっただけの話なのだ。
立ち上がり、上がった息を整える。踵を返し、元の道を、確かな足取りで歩いて行く。どれほど時間が掛かろうとも、出口はもう、見えているも同然だ。
クモの足のような分かれ道も、その後に待ち構えていた五叉路も、長方形の回廊も、短い一本道も、全て把握しきっている。何度となく光る壁を通り抜け、時々休みながらも、僕は確実に出口へ向かっていった。
いじめられていた幼い頃は、大嫌いで仕方なかった。しかし、祖母に由来を聞いてからというもの、愛着を持つようになった、自分の名前。
最後の十字路にたどり着く。迷うこともなく、僕はそのうちの一本の通路に足を向ける。長い長い一本道の遥か先方に、今までと比べ物にならないほどの、まばゆい光が見える。光に向かって、僕は駆け出した。さざめきが大きくなり、明瞭になっていく。僕の足音が、こもった音から響く音へと変わっていく。
加速したまま、光の中に身を投じる。堅い床に着地することなく、僕は自分の意識の中を落ちていった。目覚まし時計の音が聞こえる。流れる景色が、白から徐々に色を取り戻していった。
矢橋 優希。汚れも傷もないその迷路の正体は、僕の名前だったのだ。
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目を覚ますと、白い迷路の中にいた。