「ねえ、キスしていい?」
私は思い切って彼に切り出してみた。
知り合ってまだ数日、ジャズ喫茶に勤めている私のお店に彼がやってきたのが出逢いだ。
今日の彼はライブが気に入ったらしく、厨房の中からでも上機嫌なのが見て取れた。
年齢不詳な顔の口元がにまっと笑っている。
その表情を見た時私は恋に落ちたのだ。
一目ぼれといっても良い。こんな経験は初めてだった。
スコッチとチーズを彼のテーブルに運んで行った時私は少し緊張していたのかもしれない、普段やらないようなミス、彼に盛大にチェイサーの水をぶちまけてしまったのだった。
けれど彼は私を責めなかった、むしろ私を労ってくれる言葉をくれた。
「いいよ、気にしなくて、だって水だろ?少しすれば乾くさ」
低く落ちついた声、いつまでも聞いていたくなる。ハンチングで半分顔を隠しているけれど、恐らく影になっている瞳は優しい光を放っていたと思う。
ライブが終わり閉店時間が迫った時、さっきのお詫びも兼ねてもう一度挨拶をしようと思い彼のテーブルに再び向かうと、さっきの言葉を吐いていた。しかも店内に居る全員に聞こえるような大きさの声で、だ。
一瞬、場の空気が冷たくなった。私は何を口走ってしまったのだろう、思考が上手く働かない、パニックになるってこういう事なのだろうな、と妙に客観的な視線で自分を振り返る。周囲からは私と彼に注目が集まっていて恥ずかしいことこの上ない。時間が異様に長く感じる。
やがて彼はゆっくりと私の方に向き直り立ちあがると耳元でこう囁いた。
「僕でよければ」
この時の気持ちは一生忘れない、店内に残っていたお客様、本日のライブメンバー、全ての人に私の顔がみるみる紅潮してゆくのを見られている。
恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
「でもまあ、僕は女の子からキスをされるより自分がする方が好みなので……」
一瞬の間の後突然彼は私の頬に口づけをした。
呆気にとられるとはこのような事を言うのだろう、固まっている私に彼は、
「それじゃ今日は帰るけれどまたね」
こう言い残して帰って行った。
私のエプロンのポケットに一枚の名刺を残して。
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